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きのことココダトレイル「3日目: 3日目に思ったこと」



(1) 人間を超越した人、西村幸吉さん

 高知連隊の一兵士である西村幸吉さん。戦時中に所属した小隊は自分以外全滅。しかしながら小隊の全ての方の戦死した場所、時刻は5分刻みのデータで書き残し、そして負傷の状態も具体的に記録。(祖父たちの戦争 高知新聞社 p47)この書き留めた情報は死の危機を何度も掻い潜り、ビルマに向かう自身の乗船する船が魚雷で転覆したのにも関わらず肌身離さず持ち続けられました。

戦後、戦時中の情報は処分するようにとの政府から通達にも従わず。生き残った者の責任として、残された家族にきちんと報告したいという強い決意。

戦後はエンジニアとして、自身も会社を経営されていましたが、日本の名だたる大企業の社長のアドバイザー的立場で日本の復興に貢献されています。解決できない技術的な問題は西村に聞けばよし、と言われた人物なのです。

退職後には家族の反対も制止し、妻とは別れ、戦友と約束したパプアニューギニアの地へ戻り、自費で遺骨収集、そして遺族へのお骨を渡すことに尽力された方。残りの人生を戦死した戦友達に寄り添い続け、パプアニューギニアの発展に私財を投じる。

選ばれて、生かされたとしか思えない人生です。

(2) 一本木と西村幸吉さんのたこつぼ(1人用の穴)


 Brigade Hillの戦場を下ったところに西村幸吉さんの存在を思い出すことのできる場所が数カ所あります。そのうちの一つは日本軍がニューギニア山中で豪州軍を待ち伏せした一本木と呼ぶ大木のあった場所の近くにあります。

ここで西村さんは肩を撃たれて大負傷しますが、無駄死にはできないと思った西村さん、撃った敵をおいかけ捕まえ、負傷した右手でなく、左手で帯剣を抜きオーストラリア兵の腹に突き立てる。その豪州兵は若く、10代の若者。何故私はこのような若い兵士を殺さねばならないのかと思ったという。(祖父たちの戦争 高知新聞社 p44)

この夜、数メートルも離れていない蛸壺に2人の負傷した兵士はなんとか身を隠しましたが、明け方にはこの豪州兵の呻き声は聞こえなくなったという話です。

その西村幸吉さんが隠れていた1人用の穴(たこつぼ)が今でも残されていると、説明がありました。

一本木と呼ばれる場所
次第にジャングルに変貌するココダトレイル

(3) エフォギ(Efogi1)村

村が見えてきました

 この夜の宿泊はエフォギ1村。
ここ一帯、激しい戦闘があった場所だそうです。

この村は現在かなり大きな村でした。
子供達も多く、お夕飯前、中央のグラウンドでは楽しそうにラグビーをしていました。

我々はこの夜、芝にテントを張るか、高床式の建物にテントを張るかの選択肢が与えられました。女子2人は悩んだ末にバルコニー付きの建物にテントを張ることにしました。少しでもテントを濡らさない為に。

優雅な?室内キャンプ

 男子は芝で寝る選択をしましたが、テントの配置が可笑しかったです。3人はかたまっていましたが、天パ坊やだけ遠い彼方にテントを張る。イビキ問題ですね〜。本人に自覚があったので、それはそれは申し訳なさそうに地の果てまで…離れていきました。

そうそうここにはシャワーもありました。
水シャワーで寒かったですが、じゃあ、川とどっちが良いかと言われたら……さぁて、分からないですね💦川で水浴びも慣れてきて楽しくなってきました。着てるものそのままドボンと入り洋服と体を丸ごと洗うという、、この日はシャワー。まだ日が出ているうちにサッと汗を流しました。

気持ちが良かった!

(4) 最後の晩餐…


そしてお夕飯の風景はこちら…プププ

 なぜか、一列に並んで頂くお夕飯。
あちら側にしか椅子(ベンチ)がなかったのです。

手前に見える大きなアボガド。一個はデンタルモデルと天パ坊やが手元にある調味料を使ってささっとグァカモレを作るという機転をきかせてくれたおかげで、素敵な前菜を頂く事ができました。彼らは料理上手な男子だというのが会話からよく伝わってきました。もう一つは明日のお昼にまたバージョンアップしたグァカモレを作ってくれることになりました。

そんな夜、皆だんだん疲れが溜まってきていました。
それが顔に出てきています。

お夕飯の後は日記を書き、、
今日も本当によく頑張ったなぁと思いながら、、
おやすみなさい。また明日。

(おしまい)
読んでくださってありがとうございました。


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