ミシェル・フーコー

転回点としての戦争権力論 2010年3月30日

これまで五年にわたって精神鑑定に関する一連の研究、ディシプリン権力について考察を加えてきたフーコーが、この時点から戦争と権力、主権の理論、人種闘争から歴史主義を経由してバイオパワーの問題提起に至る。著作的には『監視と処罰ー監獄の誕生』から『性の歴史1巻知の意志』の間の時期にあたり、規律権力から生政治への過渡期としてこの講義はある。

新しい権力論をつくる、と冒頭で語られる。主権と抑圧の権力論からクラウゼッツを逆転させた『政治とは他の手段によって継続された戦争である』という視点から、社会防衛という恒常的戦争状態が描かれる。

哲学と弁論術の対立 2010年6月30日

はじめの章でカントの問題提起を扱う。主体が従属的になるのは主体を導こうとする教導者がいるからで、このパラドクスを解消するためにカントははじめはプロイセン国王、後にはフランス革命の醸し出した雰囲気に決定権を預けてしまう。
フーコーはこの問題を前回の主体の解釈学と同じく歴史的な問題構成としてあつかう。「パレーシア」(真理をいうこと)の概念を巡る歴史的な問題構成である。
パレーシアは真理を述べることとそれを述べた主体の引き受け方に関わる。
真なる言説なくして民主制はないが、民主制は真なる言説の存在を脅かす。
哲学的な真実の語りが、権力を行使する者に対して語りかける勇気を持っているということ。
他者を統治する君主の自己に対する関係において哲学が介入する。
パレ−シアというカテゴリーと追従というカテゴリーの対立は、古代ギリシア・ローマを通じての大きな二つの対立。
パレ−シアの機能の政治から哲学、哲学からキリスト教司牧への移転。

この死の前年の講義においてもデリダの批判するロゴス中心主義などというものは存在しないと何度も強調している。

超越論的ナルシシズムからの思考史の解放 2013年8月31日

現在この歴史記述の方法論を読むのは歴史認識とやらの問題に寄与できないかという下心からである。

フーコーの書物は先行するものを後続で常に位置付けているので、少なくとも狂気の歴史から性の歴史三巻までは読みとおさなければ意味がない。少なくとも言葉と物とこの知の考古学で計画が予定されている監獄の誕生と性の歴史一巻までは必須だろう。
いうまでもないが、先行する三著の歴史記述の方法論的位置づけが知の考古学だ。
対象、言表行為の態様、概念、理論的選択という4つの方法が語られ、対象は狂気の歴史、言表行為は臨床医学の誕生、概念は言葉と物がそれぞれ対応させられる。理論的対応をつけるということになっている。
言説の歴史なのだが、言説とは以上4つの戦略がみられるもの、言表とは言説を構成するものであり、言説とは言表からなるという循環論法になっている。

旧訳と比べると全体に読み通しやすくなっていて、旧訳はフレーズごとにたどたどしく解釈しなければならない感じがする。
旧訳と語彙が違っていたり、全く正反対のフレーズもあり、大枠として新訳に軍配があがるものの、2、3旧訳のほうが意味が通るのではないかという部分があった。
旧訳ではぶつ切りの解釈にしかならないので、はじめて全体がつかまえられるともいえるが、個別の単語でどうも違うのではないかというぶつかってくるところがあり、原書と英訳で付き合わせるしかない。我有化、連結解除、累積などだ。領有化や兼任などと訳せる。

現象学的歴史に対する反規定を事後的に分析される言説実践の種別的規則性という概念で打ち出している。
「考古学にとって問題は現象学の影響力から歴史を解き放つこと」p381
フーコーは主語述語文法から規定される西欧的主体からの解放を目指していると今になってはいえるだろう。
ただしこの禁欲的な書物、防御的な書物は過去の結果的分析に限定され、歴史学というジャンルの転移を述べている、歴史学からの主体の除去を述べているだけにすぎず、未来あるいは展望が、過去の歴史の言表分析に固定される。
しかしその目標が主体という等質的、連続的地盤からの解放である以上、過去の分析が未来に影響を及ぼす可能性をあえて禁句にしていると思える。吉本隆明がフーコーは怖くなったのではないか、という所以である。

告白については語られておらず結婚制度について語られている 2021年1月26日

ミシェル・フーコーの最後の著作「性の歴史Ⅳ肉の告白」対象は古代から中世のキリスト教で、最終的に結婚制度について語っているように見える。性の歴史Ⅱ快楽の活用Ⅲ自己への配慮からⅣ肉の告白まで著者没後35年である。快楽の活用、自己への配慮は昔読むには読んだが印象が薄い。自己の自己への関係という意味では節制のありようがギリシャから外的環境の変化によるストア派において変化があろうと大して変わりないように見える。ただキリスト教において近現代に繋がる複雑な内面化が構成されたのであろうと推測するのみである。
第一章第一節〈天地創造〉、子づくりを見ると、神の「増えよ」という命令とともに、神の似姿である人間が天地創造の模倣として子づくりをする、自然も神の命令であり、自然における反自然(生殖における)も人間に対する教訓である。そこでは子づくり以外の生殖は否定される。また来世において性差はない。
第二章処女性・童貞性の章において天地創造と子づくりのアナロジーが反転し、永遠の生と最後の審判において生殖という動物生の否認が主眼になっているように思われる。性器切除はそうした切望が抜けない証明でしかないと否定される。遺精(無意識の射精)それも性的形象を一切伴わない無駄な精子の生理的排出としてのそれが情欲への勝利とみなされる。婚姻は処女・童貞性の称揚と同じく情欲の「制限」として推奨される。そこには子づくりは問題になっていない。
最終章「結婚すること」に向けて道徳の問題から急速に欲望の問題に転回していくように見える。欲望の制限装置としての婚姻が問題になる。性の歴史第一巻「知の意志」におけるキリスト教会の告白制度が精神分析のカウンセリングに受け継がれているという印象とは違って、一夫一婦制の結婚、家族制度が焦点となっているように思われ、やはりそれがキリスト教の影響下にあるということのように思われる。しかし神への関係、最後の審判、原初の過ちの引き受けなどの主題は消えて、性欲=悪の引き受け直し、悪の善なる使用に関しての夫婦間の同意と不同意の相互性にすべてが置きなおされて、キリスト教と関係なく欲望の主体化の相互性に早急に位置づけられてしまっているようにみえる。2,3巻の主題系から1巻の近代的単婚小家族制への送り直しである。
個々のテーマをめぐる細かい形象は現在も性・性行為について問題にされるところではある。一つ一つ辿りなおして検討してみるしかない。

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