スカー・レッド・エース プロローグ

あの日、私の全てが始まったんだ。

2012年5月ー

 ーまだ5月だというのに、各地で本格的な夏の暑さが到来ーという謳い文句が普通になってきた今日この頃、私が現在いる水戸市民球場は「天気の暑さ」と「人の熱さ」のふたつのねっきに包まれていた。

「ちーちゃん、暑いでしょう?お水とお茶どっちがいい?」

「ありがとうございます。お水いただきます。」

 お母さんから受け取った水はひんやりと気持ちが良かったが、私の手の熱で温くなってしまってはいけないと思い、座席に付属しているドリンクホルダーに置いた。

 暑いのは苦手なのだ。強い弱いの話ではない。寧ろ私は、暑いのには強い方である。

 思い出してしまうから。「あの日」起きたことを。当時小学2年生だった私は、ママに抱っこされて布団に入った。

 その日は久しぶりに仕事が休みになったパパと、ママと3人で、ピクニックに出かけた。

 私は、久しぶりに家族みんなでいられることが嬉しくって、ずっとずっとはしゃいでいた。

 今日も楽しかったな。そう思いながら、ウトウトと眠りにつく。大好きなママに抱っこされて、大好きなパパに頭を撫でられて。

なのにー

 いつもと違う、焦げ付く様な匂いで目を覚ました。
目を覚まして辺りを見渡すと、煙の様なものがたっているのに気がついた。すると、ドアがものすごい音を立てて、開いた。

「千聖!!」

「あ、ママ・・」

「大丈夫!?どこか怪我してない?」

「うん、大丈夫」

「すぐ安全なところに連れてくからね、ほらママに掴まって!!」

「ママあ・・パパは?パパはどこなの?」

「大丈夫・・パパも大丈夫だから・・」

「ちーちゃん?大丈夫?」

 肩に手を触れられて、我に返った。つい考え込んでしまっていた。その証拠に身体中にビッショリ汗をかいていた。

「暑いからねえ。お水しっかり飲みなさい?それともお父さんにお願いして、家まで送って貰おうか?」

「・・大丈夫です。少し考え事をしてました。」

「・・・そっか・・・。
 あ!ほら、ちーちゃん見てあれ!千尋が出てきたわよ!」

お母さんが指差したのは3塁ベンチ。今日は、弟の千尋の少年野球大会があり、私たちはその応援に来ていた。

本来、チームが3塁側ベンチであれば、応援する人たちも3塁側のスタンドに座るのが普通らしい。しかし、私が今回初めて千尋の試合を見るということで、お母さんと2人だけ、一塁側スタンドの千尋がよく見える席で観戦することになったのだ。

ベンチから出てきた千尋は周りの子達と比べても、ひとまわり身体が小さく見えた。

「千尋、小さいなあ・・」

「そうねえ、周りが6年生っていうのもあるけど、あの子は同級生と比べても身体が小さいからねえ」

私と千尋は同い年で、現在小学校4年生である。4年生と6年生では、身体付きの差があるのは当然だけど、それでも千尋は小さかった。身長順でクラスで真ん中くらいの私とも、比べる必要がないくらいに。

そんな弟が、周りの子達に囲まれているのに、なんとなく不安を覚えた。

「千尋、大丈夫かなあ」

「ねえ、母さんも野球はよくわからないから、詳しいことは言えないけど、今日はいつもより張り切ってるんじゃない?」

「そうなんですか?そういうの、わかるんですね・・・」

私と千尋は実の兄弟ではない。あの日以降、私は千尋とそのご両親に保護してもらい、一緒に暮らすことになったのだ。

「ほら!見てみて、ちーちゃん。あの子気合いある時とか、緊張してる時は、ああやって何度も帽子を上げて被ってを繰り返すのよ。ほら!また」

「確かに、あんなに周りの子達が大きかったら、緊張しちゃいますよね」

「・・違うと思うなあ」

「え?」

「あの子、ちーちゃんが見にきてくれてるから、だから張り切ってるんじゃないかしら」

「集合!!!」

主審の号令で、両チームがホームベースを跨いで整列した。球場中から拍手が起こり、私は少しだけびっくりした。

挨拶を終えたあと、3塁側の水戸南リトルリーグのメンバーは、主将らしい男の子の掛け声でそれぞれのポジションに掛けて行った。

つい先程まで、大人の人たちが丁寧に整備していたグラウンドに、選手たちが足跡を残していく。それは千尋も同じだった。

他の選手より一回り小さい千尋は、他の選手より少しだけ高い場所で大きく息を吸った。

千尋のマウンド姿は、素人の私が見ても様になっているなと感じるほど、落ち着きがある様に見えた。

そんな風に、彼に魅入っているとふと彼が一塁側スタンドへと目線を向けた。

一瞬だけ目があった様な気がしたが、千尋はすぐに投球練習を始めた。

「今あの子、こっち見てたわね。」

「そう・・ですね。」

7球の投球練習が終わり、一塁側ベンチ、対戦相手の石岡リトルリーグの1番バッターが左打席に入る。

「プレイボール!!」

主審を声を皮切りに、千尋が大きく振りかぶった。その大きく振りかぶった両腕を下げると同時に、右足を上がる。その姿勢は、彼の頭上から地面に向かって、まっすぐな一本の線が引いてある様だった。

しなやかに左腕を回し、千尋は初球を投げ込んだ。千尋が投げたボールは空を切る様な心地よい音を奏で、キャッチャーの乾いたミットへと吸い込まれて行った。

両チームの歓声よりも、スタンドの拍手よりも
大きく、大きく響いたその音は、私の心すら揺さぶった。

ミットの音の余韻に、球場全体が浸っているかの様に、一瞬の静寂が訪れた。

「ストライク!!」

主審のコールと同時に、球場から歓声が上がる。

千尋を讃える声、驚きの声、それらが球場を包み込んでいた。

「あらあ、今日はやっぱいつもより凄いかもねえ。ちーちゃん」

「・・・」

そこにいた男の子は、私の知っている千尋とは全くの別人だった。

あの球を投げれる様になるまで、どれほどの苦労をしたのだろう。あの球が投げられれば、どんなに楽しいだろう。

知りたかった。分かち合いたかった。
そうして私は、野球を始める決心を、水戸南リトルリーグに入る決心をした。

私は右利きだったけど、お母さんとお父さんに始めてのおねだりをした。

「絶対に左利きのグローブがいい!!」

あの日、あの時、あの場所で
私は、野球に魅せられていた。
私は、佐藤千尋に魅せられていた。

あのミットの音は今でも、
私の中で反芻し続けている。

そう、それは君もよく覚えているだろう。だってその日が、君の最後の投球日だったんだから。

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