宗教と日焼け止めと環境ともっと深い何か

「完全教祖マニュアル」を読んでいて思ったことをつらつらと。

宗教に依存させるには不安が必要と言われています。ただ不安を与えるだけでなくそれを解決して「救う」ことが宗教の構造と言えます。
例を挙げましょう。キリスト教には「原罪」という概念があります。アダムとエバが知恵の実を食べ、エデンの園を追放されるというのが旧約聖書のストーリーです。そしてキリスト教には、我々はアダムとエバの子孫であり、その罪を背負い続けているという考えがあります。
その罪をイエスが磔にされ死んだことで「贖われた」というのがキリスト教の構造です。

信者からしてみると、
①キリスト教の「原罪」を知って不安になる
②イエスが全人類の罪を贖い、それによって我々は死後救われるという確信を得る
という2ステップかあります。
これはマッチポンプでは無いでしょうか?
つまり、「原罪」を知らなければ日常的に自分が死後救われるかどうか不安に陥ることがなくなる、ということです。
別にそれが悪いと言っている訳ではなくて、こういう構造が宗教にはあるよーという分析をしただけです。結果として信者が幸せならそれでいいと思います。


さて、この例をもっと一般化してみましょう。

例えば私は日焼け止めを使うことがあります。日焼け止めは、言わずもがな日差しから肌を守り、日焼けしないようにする働きがあります。
これも宗教と同じで、「普通に生きてるだけ(日差しにあたるだけで)」我々の肌はダメージを受けているということ、そしてそれを解決するために日焼け止めという「救い」を与えること。
この構造は、宗教と同じじゃないでしょうか?

或いは「環境問題」もそうかもしれません。我々は「普通に生きてるだけで」環境にダメージを与え、そしてそれは未来の人類の生存に関わるという不安、それを解決するために環境に優しいエネルギーやモノを使いましょうという「救い」
やはりこの構造も宗教と共通しています。

なんかもう少し掘り下げられそ〜〜
モヤモヤする〜

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