見出し画像

【教育】私が女子大に行っていたなら

受験指導をする際、避けて通れない志望校の話。
共学の四年制大学を卒業した私が、葛藤している話を言語化してみようと思う。

生徒との面談において志望校や目標偏差値の設定をする際、学力・希望分野などを考慮して話を進めていく。
さらには、大学の特性や雰囲気、立地や条件なども踏まえる。
さらにさらに、各生徒の性格や人間性にも目を向ける。
具体的には、この子は自律しているから都内のマンモス総合私立大でも問題ないだろう、とか、甘えん坊で面倒見がよい環境の方が向いているから地方の国公立大の方がベターだろう、とか。

学部学科のミスマッチに気をつけるという点は生徒自身も意識しているところだけど、気質やパーソナリティに合わせて大学選びをするという視点は、こちらサイドが持っておかなければいけない部分だと私は心得ている。
なんせ私自身にミスマッチが起きた経験があるから。

高3でそこまで考えながら大学を選べる受験生は、ある一定の水準を超えた学力偏差値のある学校に籍を置いているはず。
私の勤務校のような、お尻を叩いて頑張って勉強させるタイプの生徒が多い場合は、その辺りも含めて受験指導なのである。

さて、何を葛藤しているかというと、
「生徒の志望校に、女子大を勧めることを躊躇してしまう」
ということ。

話は約20年前に遡る。

当時、高3の私。
夏の三者面談にて、担任から目指すべき志望校を提示された。
見せられた書類には、誰もが知っている有名私立女子大が2つ。
国立大学志望の私にとっては、併願校としての提示だった。

今考えると、第一志望の国立大学の偏差値や、自分の学力を考えれば妥当な路線だとは思う。
私立の本命はさらに上の大学を考えていたし、仮に学力が伸びず、本命私立がダメだったとして、その次点としてはネームバリュー的にも歴史的にも世間的にも申し分ない女子大だったと思う。
現に、その女子大から多くの著名人が卒業している。

ただ、その女子大を提示されたとき、生意気だった小娘の私は
「はぁ!?なんで女子大に行かなくちゃいけないんですか!」
と、鼻息荒く担任へ反抗したのだった。
隣に座る母親は、苦笑いしながら黙っている。

担任も、
「えー、でもここ行ったらいいと思って〜」
と、呑気に返答してきた。
ぶっきらぼうで口数の少ない担任だったが、理系でデータ分析に長けている人だったから、見せられた書類にはこれまでの私の模試の成績推移に関する数字がズラーっと並んでいた。
客観的指標としては十分な量だったと思う。

でも私はそういうところは全く見ず、「女子大」というだけで一蹴した。
女子大に対する偏見があったのだ。

帰路を母と共にしながら、
「なんで私が女子大なんだよ」
「そうね、○○(私)は女子大には向いてないんじゃない」
などと会話を交わした。

母も同時に女子大に偏見があるようだった。
または、憤慨する娘の意見に合わせてくれたのかもしれない。

私の態度を見て、担任はそれ以降、女子大を勧めてくることはなかった。
そんなこんなで、私は1校も女子大を受験しなかった。
そしてそれは、「間違いではなかった」と思ってここまで生きてきた。
というか正確に言うと、正解だったか間違いだったかという視点を持ったことすらなかった。

それくらい、自分の中で女子大を選択するというカードは持っていなかったのだ。





大人になって仕事を始めたり子どもをもったりした今、私の中で、社会的役割の性差やジェンダーギャップについて考えることのウェイトが大きくなっていることを実感している。
これは、自分が生きていく中で、不自由や不都合を感じる場面に出会していることが要因だと考察してる。

たとえば、キャリアの側面。
たとえば、子育ての側面。
たとえば、夫婦関係の側面。
たとえば、地域特有の家父長制の側面。
たとえば、男女の考え方の相違の側面。

男性に負けたくないっていう気持ちがあるわけではない。
けれど、女性の方が劣っているよねっていう風潮は、さすがにもう消滅して欲しいと思っている。
男女で認識の差があるのはしょうがないないけれど、優勢劣勢の議論は時世的にかなりの錯誤。
できるだけ公正な形で捉えられるジェンダーの在り方を望んでいるのだ。

このように考えるようになって気づいたことがある。
18歳だった私が持っていた思いは、実は大人になった今の私の思いの源泉ではないのかってことだ。

当時の私は、「女子だからこうだよね」とか「女子がこうするべき」みたいな発言や考え方に違和感を覚えていたと記憶している。
これは生い立ちにも関係しているようだ。
そもそも自分が長女で、家父長制強めの地域に過ごす家庭よろしく、親戚から弟への期待を含む見方や、後継ぎや社会的役割の観点からコミュニティに蔓延る男性優位の風潮に、思春期の私はクエスチョンマークを常に浮かばせていた。

だから、そういうのを払拭したかった。
だから、共学で男女共存を主体的に選択したのだ。
高校だって、私立の女子校を敢えて選んだクラスメイトもいたけれど、正直、自ら負けを認めにその道に飛び込んでいる気がして、気の毒にさえ感じた。

そういう経緯もあって、当時はジェンダーなんて言葉は社会的には存在しなかったけれど(当然、受験勉強で“gender“の英単語を暗記したけれど、そんな社会的背景は含まない)、潜在的に自分が抱えた若くて未熟な思想を守るために、大学も敢えて共学を選んだのだ。

そして、時が経った。
私は今、当時の選択が正解だったのかどうかについて、改めて考え直している。

女子大の役割の希少性に気づいたのだ。
書籍や音声メディアなどから得た情報を土台に、各有名女子大のアドミッションポリシーや教育理念、各大学の学長の思いや教育方針を読んでみた。
そこで私が考えたこと。

女性の社会進出や活躍、リーダーシップを後押しするために、女子大が存在し得ること。
男女共学であれば、無意識的に男女の社会的役割を感じ取りながら大学生活を送ってしまう可能性があるということ。
そもそも大学に男子が存在しなければ、女子は物理的に性差なく役割分担を決定する環境に身を置くことができること。
結果的にそのような学生生活で培ったマインドが、社会に出てからの女性活躍やリーダーシップを育てる一助になるということ。

目から鱗だった。
自分の思いを守るために主体的に選択した道が、実は思いとは逆行していたのかもしれないと当時の若かりし自分を振り返り、なんとも言えない感情に駆られている。

もし、私があの面談で、女子大のことをもっと真剣に知ろうとしていたら。
女子大の社会ロールや、学生に対する教育理念などにも目を向けていたら。
パラレルワールドに思考を飛ばすことはなるべくしない主義だけど、これには結構まいった。
4年間、女子大という環境に身を置いていたら、アラフォーの今の私はどんな大人になっていたのだろうか。



目の前に座る女子生徒を前に、
「○○女子大どう?いいよ!」
と、素直に提案できない自分がいる。

今では、女子大の社会的位置付けを十分に理解している、と自分に対しては思うけれど、18やそこらの女子たちに、将来的なことを踏まえて女子大で過ごす意義を伝えるだけの力を、情けないが今の自分は持ち合わせていないのだ。

「先生も女子大行きませんでしたよね」
って言われたら。
その時は私も気づかなかったんだよ、ってレスポンスではさすがに軽率ではないだろうか。

だったら、自分が女子大に行っておけば。
とさえ、思う。

しかしながら、自分が共学に行ったことで得たことも大いにあるわけだ。
女子大に進んでいたら、この葛藤さえ味わうことができなかったかもしれない。
気づきがあることは、思考の解像度があがる好機だとも思う。
偏見や固定観念の間違いを悟ることができただけでも、十分尊い。

生徒に勧めたい女子大が複数ある。
そして、20年前に私が勧められた女子大は、その筆頭だ。
もう少し、自分の考えを整理しよう。
そして、情報収集をしよう。
しっかり伝えられるだけの土台を私自身が持とう。

あの子には、社会を引っ張っていける資質がある。
あの子にも、今ある統率力をもっと伸ばして欲しい。
そんな思いがある生徒へ、志望校の1つの案としてぜひ推したい。

ただし、死守したいことがある。
選ぶのは生徒たち。
決めるのは生徒たち。
私が決めるわけではない。

共学の大学にだって、もちろん良さはたくさんある。
共学と女子大を比較するものでもない。
どちらにも、そして大学個々に特性があって持ち味があって、それら全てをしっかり目利きして、同じ熱量で見て欲しい。
「女子大だから」という特別なフィルターをかけるべきではない。
けれども、「女子大だから」持っている利点があるということは知っていて欲しい。

さて、教師の腕の見せどころ。
私はどんな言葉を使う?

津田梅子先生、我に力をお与えください。

週末です。
一週間お疲れ様でした。
では、また!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?