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吃音者は「話すのが苦手」かどうか〜小1娘と徹底討論

娘小1は吃音があり、母親の私も吃音があります。
吃音者がそのままの話し方でいられるために、社会に吃音の正しい知識を広めたいと思っています。

本日は、吃音者は「話すのが苦手」と説明されることについて、娘と会話しました。

※今回は、【吃音者ご自身が「自分は話すの苦手なんだよね」と表現することについて】ではなく、【吃音とはどのようなものなのかを「広く発信する場合」について】書いています。

そういう考えの親子もいるんだね、と一例として温かな目でお読みいただけたら、と思います。


小1娘に単刀直入に聞いてみました。(娘の呼び名をここでは娘ちゃんとします)

私:ねぇ娘ちゃん、吃音の人って話すの苦手だと思う?

娘:そんなの関係ないと思うよ。だってさ、私は話すの好きだもん。得意とか苦手とか、そういうことじゃないと思う。

私:『吃音の人は、話すのが苦手です』っていう吃音の説明があったらどう思う?

娘:疑いたい…。私は話すのが好きなんですけど!!って怒鳴りたい!
ハァ?!って説明している人に怒りたい!
吃音は、しゃべるのが苦手とか好きとかも関係なく、『言葉の喋り方』が変わるだけなの。そのことを説明してる人に教えたい。

私:じゃあ、『吃音のあるあなたは話すことが得意なんですか?』って聞かれたらどう?

娘:得意かどうかは知らない。わからない。得意って上手ってことでしょ?
上手っていうのは、吃音の人でも言えるんじゃない?絶対言えるよ!!
「吃音が出て詰まるっていうことだけで、話すのが上手じゃない」という考えは、間違いだと思う



ということでした。

娘は、自身の吃音をしっかり理解しています。
幼稚園の頃から周りの人、一人一人に吃音について知ってもらうために行動してきました。小1になった今「これが私の話し方」と胸を張って立っています。
だからこそ、「吃音者は話すのが苦手」と説明されることに対して、憤りを感じるのだと思うのです。

では、なぜ、「吃音者は話すのが苦手」という説明が当たり前にされているのか。


理由の一つは、その説明をする人自身の吃音感や価値観が強く影響されていることだ思うのです。
吃音をマイナスなもの、劣るもの」と無意識に感じているのではないでしょうか。だから「苦手なもの」と表現することに違和感がないのだと私は思います。

もう一つには、すでに吃音について、からかわれるなどの辛い体験が多く積み重なり、話すことを苦手とご自身で感じている吃音者に寄り添うために、「あえて苦手」と表現している、という場合もあるかもしれません。

しかし、スラスラ話せない人は、「話すのが苦手」という事になるのでしょうか?
話すという行為は、スラスラだけで成り立っているのではありません。スラスラは、話すという行為の中の「たくさんの要素の中の一つ」に過ぎないのです。その一つの要素だけをクローズアップして、話すこと全体を苦手としてしまうのは、あまりに勿体無いと思うのです。

「話す」という行為の中に、どのような要素があるか考えてみると…

伝えたい内容がある・伝えたい人がいる・適切な音量・抑揚・適切な語を使う・豊富な語彙がある・聞き手の様子を見ながら伝わっているか気持ちを想像しながら進める・適度なジェスチャー・内容に合った表情・聞き手への思いやり、などなど

  パッと思い浮かべるだけでも、これだけありました。


吃音者の話を聞く時は、話し方ではなく、話の内容に耳を傾けてください」とよく言われています。私も全く同感です。
話す」ということには、「話し方」と「話す内容」の少なくとも両面があるんだよ、というメッセージが強く感じ取れます。
しかし、「吃音者は話すことが苦手」とする表現は、「話す内容」でなく、「話し方」にだけ注目していることになりませんか?

冒頭の娘との会話を思い出して頂きたいのですが、娘が言おうとしていることは、まさにこのことだと思うのです。話すということには、スラスラだけじゃない多様な面があるんだよ、という事を娘は感じて、伝えようとしているのだと思うのです。

話したい、伝えたい内容がある吃音者をまとめて、「吃音者は話すのが苦手なんです」と説明してしまうことは、伝えたい気持ち(発話意欲)を踏みにじってしまうことになると思います。冒頭の娘との会話で、娘が怒りを感じているのは、この部分に対してではないかと思います。
それを、吃音を発信する側の人が無意識にやってしまうのは、勿体無いと思うのです。


今、社会に吃音を知ってもらおうとする動きが広がっています。素晴らしいことだと思います。私も吃音の正しい知識や理解が広がることを願っている1人です。

いつか「全ての吃音者が胸を張って生きられる社会」、「全ての吃音者がそのままの話し方で生きられる社会」になる日が来る事を信じて、トライアンドエラーを繰り返しながらも、私も常に模索していきたいと思います。



娘とこんな話もしました。

私:前に行った「注文に時間がかかるカフェで会ったお兄さん」も、吃音だったでしょ?あのお兄さんは話すの苦手に見えた?

娘:うーん。わかんない。私はあのお兄さんと話せて嬉しかった。人を嬉しい気持ちにできるってことは、話すの苦手じゃないって思うな。

私:そうだね。あのお兄さんの優しい気持ち、すごく伝わったもんね。伝えたいと思ってくれる気持ちが、嬉しかったよね。

娘:また行きたい!

私:そうだね!



吃音に関することは、様々な考え方があると思います。私たちの考えも「様々な考え方」の一つでしかありません。
皆さんに、このように考えている親子がいるということを、知っていただけたら、嬉しく思います。


お読みくださりありがとうございました。



※今回の話題は、「吃音について説明する側の人の発信についての考え」です。吃音のある人が自分自身のことを「私(俺)は話すの苦手なんだよね。」という場合は、それはその人自身の気持ちと感覚だと思うので、今回の話題の限りではありません。
でももし可能であれば、その場合に、聞き手が「話すの苦手なら話しかけないほうがいいかな?」と思う場合が想定されるので、「スラスラ話すのは苦手だけど、お話しするのは大好きなんだ😊」などと付け加えると、聞き手も安心かと私は思います。
(自分自身についての発信の場合も、「話す事」の中の「どの要素が苦手」で、「他の要素に対してはどうか」、という事を考えてみると自分を知る手掛かりになるのでは、と思います。)

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

なかまち

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