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小栗の椿 会津の雪⑧


第二章      逃避行③
 
 
 翌朝、母堂とよき、そして、奥方に扮したさいを駕籠に乗せ、先発隊は出発した。
 銀十郎とは、あれきり目を合わせることはなかった。言い逃げだ。妹でなければ何だと言うのだ。妹の様に思っていると言ってくれれば、いざという時に銀十郎を頼ることができるのに。
 あんな風に思わせぶりな言葉を言われたら、これ以上銀十郎に甘えることなど出来そうにない。
 人目のある草津街道から信濃に入り、それから越後へ向かう道中、奥方の着物に袖を通し、駕籠に揺られながら、さいは腹立たしい気持ちが沸いてきた。
 男の人は何を考えているのかわからない。きちんと言葉をくれるわけではないのに、それでいて、別れ際に思わせぶりな態度を取ったりする。
「旦那様だって……」
 さいは、むしゃくしゃした気持ちで独り言を言った。
 別れ際に、あんなにもきつく抱きしめた。離れるのが心から辛いと言う様に。
 それまでは、壊れ物を扱う様にそっと触れていたのに。
『旦那様は、どこかお身体の具合でもお悪いのですか。それとも、どこかに好いた女の方でもいらっしゃるのですか』
 婚礼の日から十日ばかり過ぎた夜、寝室で夫と向き合ったさいは、業を煮やして言った。挑む様な口調だった。
 夫となった人は、いつも子供を宥める様に優しく触れるだけで、『痛くて痛くて死んじゃいそう』なことは起こらなかった。濤市は、家族にも使用人達にもすぐに受け入れられ、妹や弟は義理の兄にまとわりついて遊ぶ。幼い弟が高い高いをしてもらってはしゃいでいる様子を、さいは一人取り残された様な気持ちで眺めていた。
『……』
 夫は、一瞬目を見開いて驚いた顔をした。それから、ゆっくりと目尻を下げ、乾いた声を出して笑った。
『な、何が可笑しいのです!』
『あなたが、そんな風に思っているとは、思いませんでした』
 まだ笑いを含んだ声で夫に言われ、さいははっと我に返った。これではまるで、駄々をこねている子供と同じだ。目の下がかっと熱を帯びる。
『申し訳ありません。……さっき言ったことは、忘れて下さい』
 恥ずかしさで半べそをかきながら、さいは布団にもぐり込んだ。夫に背を向け、頭まで布団を被る。
 そっと夫が近付いてくる気配があった。
 こんな気まずい夜も、一緒に休まなければならないのかと、さいは口惜しく思った。身体を固くする。
『私には、想う方がおりました』
 布団に足を入れ、身体を起こしたままの姿勢で、濤市は言った。
    それなのに私と結婚したのか、と心の臓が凍った。
『もう十年以上前のことです』
 ふっと溜息の様な笑いが漏れた。
 さいは、恐る恐る濤市の顔を見た。
『……その方は、今は?』
『亡くなりました。婚礼前に、首を吊って……』
 穏やかに微笑みを浮かべている夫の目に暗い影が過る。
『旦那様との?』
『いいえ。……私達は、好き合っていましたが、相手の女は裕福な家の娘で、私の様な六男坊の継ぐ家もない男とは、縁組をすることが許されませんでした』
 濤市の実家は、富岡の商家だ。次男の佐藤藤七も養子として権田村に来た。小栗の殿様に気に入られて商いを大きくした藤七の弟なら間違いはないと、三左衛門が婿に決めたのだった。
『お相手は、私の友でした。大きな酒蔵を商う家の長男で、似合いの二人だと思い、身を引く決心をしたのです』
 濤市はそう言って、寂しそうに笑った。
『その方は、旦那様のことが本当にお好きだったのですね……』
 他の人との縁談を嫌って、命を絶つ。それほど激しく人を好きになることがあるのだろうか。羨ましくもあり、怖くもある。
 父に言われ、そうするものだと思って縁談を受け入れた。それしか方法はないと思っていた。
 さいの心が一瞬揺らいだ。
『本当に、馬鹿だったと思います。死ぬ前に、どうして私に告げてくれなかったのかと……、悔やみも、恨みもしました』
 濤市の拳が震えた。
『一緒に、死にたかったのですか』
 さいは思わず問いかけた。
 そう思わせるほど、濤市の気配が儚く消え入りそうに見えた。
『いいえ。……一緒に生きる方法もあった。私が村から姿を消す選択もできた。友の家は、私の家のすぐ近所だったので、彼女は余計に辛かったのでしょう』
 濤市は悔いている様に、さいは思った。
『もう私のせいで、不幸になる女を作りたくはないと、ずっと思っていました』
 だから、私を抱かないのですか。さいは、上目づかいで言葉にならない問いを問いかけた。
『そんな目で見つめないでください』
 腕を伸ばした濤市の乾いた掌が、さいの頬を包む。次の瞬間、唇が軽く触れた。咄嗟のことに、さいの身体が竦んだ。
『……もう休みましょう』
 濤市はすぐに身体を離した。
『折角ご縁があって夫婦になった。焦る必要はないと思ったのです。あなたを怖がらせて、傷付けたくはない』
 行燈の灯りを吹き消し、布団にもぐりこんだ。
 この人は、待っていてくれているのだ。初めての夜の、心臓が口から飛び出しそうなほどドキドキして、緊張していたことも、すべてお見通しなのだろう。
 この十日間で、この人の体温にも、声にも、匂いにも少しずつ慣らされていった。それは、この人なりの優しさだ。
『旦那様……』
 さいは、暗闇の中でそっと呼びかけた。
『眠れませんか?』
『旦那様、私は……』
 意を決して、さいは続けた。
『私は、旦那様の赤子が欲しいのです』
『……』
『旦那様と、きちんと家族になりたいのです』
 暗闇の中で、気持ちが言葉になって表れた。
 人として、好ましい方だと思っていた。過去の辛い出来事も内に秘めて、穏やかに寂しそうに微笑むこの人の孤独を少しでも慰められたら。
 胸のときめきも、激しい男女の情熱も、ないかもしれない。
 けれど、妹や弟が、この人とすんなり家族になれたのが羨ましかった。
 心の中にわだかまりがないと言えば嘘になる。すんなりと夫として受け入れることは出来そうにない。だから、もし子供ができて、母として、父としてなら、家族として繋がることができるのではないかと思ったのだ。
 夫が、息を吐いた気配がした。
 突拍子もないことを言うと、呆れられたかと不安になる。
 暗闇の中で、夫の指が頬に触れた。さっきよりも長く深い口づけを、さいは目を瞑って受け止めた。
『……覚悟もなしに、そんなことを言うものではありませんよ』
 抱きしめられて耳元に囁かれた吐息が熱かった。さいは微かに頷いた。
 覚悟なら、できている。
 この人の赤子が欲しい。母になって、この人と笑い合えばきっと、言葉もなく遠くに旅立った幼なじみのことを忘れられる。もし帰って来ても、笑顔で『おかえり』と言えるだろう。
 その晩、濤市はゆっくりと時間をかけて、優しくさいを抱いた。
 凍り付いた心を温める様に、寄り添った二人に漸く芽生えた小さな命は、儚く消えた。これから訪れる激動の時代に耐えられなかったかの様に。
 そして、帰って来た幼なじみの言葉の一つに、心揺るがされる自分がいる。
 カタンと駕籠が音を立て、さいは現実に戻された。
 慣れない駕籠に揺られていると、どうでもいいことを思い出してしまう。歩いて身体を動かしている時は、こんなことはないのに。
 もっと気を引きしめなければいけない。
 奥方の身体は心配だったが、銀十郎と道筋が分かれてほっとしていた。これ以上、気持ちを乱されたくはなかった。
「おおい。ここだ」
 しばらく順調に進んだ後、先に様子を見に行った伝三郎の声が聞こえた。
 さいは、はっとして前方に視線を移した。
「おう。どうだった?」
 笹薮をかき分けて姿を見せた大きな身体に、先頭を歩いていた兼五郎が尋ねた。足が止まり、長く伸びていた列が短くなる。
「草津には、ならず者達が大勢たむろしていやす。悪者退治の傷の治療だとか言って、銭を払わねえで、町の人は困っているらしい」
「悪者退治っていうのは、まさか、村を襲った時のことかい?」
 伝三郎の言葉に、富五郎が苛立つ。
「そうだろうな。薩長からしたら、殿は罪人。その罪人と戦ったって、調子にのっているんだ。一癖ありそうな輩がうろうろしていて、ご家族を引き渡して一儲けしようって思っていてもおかしくねえ。策を講じた方がいい」
 伝三郎は小声でそう言って、列の後方に目を向ける。
「策とは、何じゃ?」
 母堂が駕籠から降りた。
「母堂様やよき様にも、協力していただきたいのですが……」
 伝三郎は、厳つい顔でニヤリと笑った。
 草津の町を避けて脇道を進む。高い木々の茂る暗い山道から、少し開けた平らな場所になった。木々の隙間から、木漏れ日が揺れる。
「やはりこのあたりか」
 伝三郎のくぐもった声に、さいは目だけで様子を窺った。気配を感じたのか、仲間が背負っていた銃を手に持ちかえた。
 背の高いブナや杉の木の影に、不穏な気配を感じる。駕籠に乗るさいに、男達の舐める様な視線が向けられていた。
「十、……二十はいるか」
 何食わぬ顔をして、伝三郎がつぶやく。
 さいは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「心配すんな。銃の腕では銀十郎に負けるが、剣は俺の方が上だ」
「もちろん。頼りにしていますよ」
 耳元で囁く伝三郎に、さいは姿勢を正したまま答える。伝三郎が苦笑した気配がした。
 列の歩みがゆっくりとなる。前から男が五人歩み寄って来る。裾の破れた着流しに、月代からは毛が伸び、髷を落としている者もいる。手には、刀や槍。笑っているが、その目はぎらぎらと獲物を狙う狼の様に光る。
    槍が届かない程の間合いを取って、男達も足を止めた。
「先を急ぐ旅だ。そこを開けてもらえんか」
 先頭の兼五郎が声を張り上げた。
「ずい分いい身形の女を連れているな。そいつを置いていくなら、通してもいいぜ」
 一番大柄な男が、そう言って舌舐めずりした。
「うちの女将さんは、あんたらには用はねえよ。通してくんな」
 兼五郎が一歩も引かずに、前に出る。
 気配を感じて振り返ると、後ろからも林の中からも、取り囲む様に男達が近付いてくる。
「そういう訳にはいかねえな。罪人の身内を匿っているとしたら、ただじゃすまねえぜ!」
「罪人扱いたあ、捨てておけねえな。違っていたら、どう落とし前をつけるんだ?」 
「しゃらくせえ!」
 兼五郎の引かない態度に、業を煮やした男がいきなり斬りかかる。
「撃て!」
 伝三郎が鋭い声を発すると同時に、幾重もの銃声が山の中に響いた。
    米俵が転がる様な音がしたかと思うと、男が目を見開いたまま転がっていた。
 歩兵の訓練を受けた仲間の動きは素早く、銃の代わりに刀を抜くと、突然の銃撃に驚くならず者達に向かって切りつけた。
 方々で刀が交わる。弾を避け、林の中に逃げる者。それを追う者。叫び声と金属のぶつかり合う音、刀が風を切り開く音が入り乱れる。
「おまえら、一人残らずぶっ殺してやる!」
 そう叫んで敵に突っ込んで行く男がいた。
「おい! 無茶するな!」
 伝三郎の制止を無視して、富五郎が林に隠れようとする敵を追っていく。
「全く。素人が……」
 伝三郎の舌打ちが聞こえた。
 数人の男達がさいの乗った駕籠を囲む。敵の標的は自分だ。さいはいつでも逃げられるよう駕籠から降り、懐刀の刃を抜いた。
 代わる代わる切りつけてくる敵の刃を、伝三郎が軽々とかわしていく。
「おのれ。邪魔すんじゃねえ」
 叫び声をあげながら上段の構えで斬りかかって来る男の刃を、伝三郎が弾き返し、さらに見えない程素早い動きで斬りつけた。
「ぎゃああああ~!」
 男が二の腕を押さえて、地べたをのた打ち回る。さいの隣で手拭いをかぶり、身を縮めていた小柄な背中が震えた。足元に刀を持ったままの腕が転がっている。
「きゃっ!」
 思わずこぼれた悲鳴。敵の目が一斉にさいの隣に注がれた。男物の着物姿のよきが真っ青になって口元を押さえた。
 まずいと、咄嗟に身体が反応した。
「きゃあああ!」
 さいは、大声を出して駕籠から離れた。裾が乱れるのも気にする暇もなく走る。木々の隙間をぬい、敵のいない方へ。
「女が逃げたぞ。生け捕りにしろ!」
 案の定、敵の注意がさいに注がれた。足音や叫び声が後ろから聞こえて来る。
「何やってんだよ。全く……」
 光五郎が刀を手に隣を走る。さっきもさいの傍で守ってくれてはいたが、ただ震えているばかりで一度も刃を交えてはいなかった。
「光ちゃん、怪我しないようにね」
「さいちゃんに言われたかあねえよ」
 うんざりとした口調で光五郎は言った。
 銃声が響いて振り向くと、さいを追いかけていた敵を味方の銃が撃ちぬいていた。
 残る追手は二人。山道を全力で走るのは、さすがに息が切れる。途中から光五郎が手を引いてくれる。それでも湿った枯れ葉に足を滑らせ倒れ込んださいは、とうとう追いつかれてしまった。光五郎が、さいを背に敵に立ちはだかる。
「そんな構えで、人が切れるのかい? 怪我をしねえうちに、その女を寄越しな」
 敵の一人が嘲笑う様に言った。
「うるせえ!」
 そう叫んだ光五郎の刃先が震えている。
「それなら、遠慮なくあの世に行きな」
 黄ばんだ歯を見せて笑みを見せながら、男が上段の構えで刀を振り下ろそうとする。
 思わず目を瞑ったと同時に、近くで銃声がした。男がゆっくりと片膝をついた。太ももから血が噴き出している。
「さいちゃん。無事かい?」
 銃を手に走って来たのは富五郎だった。
「なんだあ。てめえ! 邪魔するな!」
 もう一人の男が富五郎に刃を向ける。銃を投げ捨て刀を抜いた富五郎は、合わせた刀で力任せに相手を吹き飛ばした。伝三郎の隙のない動きとは違う。それでも、富五郎は迷いなく、その刃を相手喉元に突き刺した。
「おのれ……」
 目の前で体勢を崩していた男が、顔を上げた。刀を杖にして、片足で立ち上がろうとする。顔を歪めながらも、怒りに燃える瞳。刺す様な殺気にゾクッとする。
 光五郎が震える手で刀を振り上げた。その時だった。
 小さな呻き声を上げて、男が目を見開いた。その胸が鮮血で赤く染まる。ゆっくりと男の身体が倒れ込んだ。
 その向こうに、息を切らした富五郎の姿があった。顔や首が、血に染まっている。
「さいちゃん。大丈夫かい?」
「ええ。ありがとう。怪我はしてない?」
「ああ。返り血を浴びただけだ」
 そう言って、富五郎は袖で顔をぬぐった。
「これを使って」
 さいは懐から手拭いを取って差し出した。「すまねえ」と礼を言い、手拭いで顔を拭いた富五郎は、強張っていた顔をふっと綻ばせた。
「なんだか、甘い匂いがする」
「あっ」
 何度か乳を吸わせた手拭いだったことに気が付いて、さいは慌てた。ちゃんと濯いだつもりだったけれども、乳臭い匂いが消えていなかっただろうか。
「よき様は、ご無事かな」 
 富五郎が首筋の返り血を拭きながら、来た道を戻ろうとする。
「富五郎さん!」
 光五郎が、富五郎の背中に声をかけた。
「ありがとう。本当に助かったよ」
 振り向いた富五郎の顔が泣きそうに歪んだ。
「おめえが、礼を言う必要はねえ。俺は、さいちゃんを助けるって決めていたんだ」
「でも、言わしてくれよ。俺、意気地がなくて、本当に嫌になる。富五郎さんはすげえよ」
「俺にとっちゃ、一人殺すのも十人殺すのも一緒だ」
 富五郎は自嘲気味に唇の端を歪め、目を逸らした。
 暴徒の襲来の際、村で顔見知りを殺してしまった。その現実からまだ逃れられないでいるに違いない。
「よき様達は、無事かな」
 ゆっくりと背中を向けて、富五郎は遠ざかって行く。
「すまねえな。役に立たなくて」
 光五郎は、無理やり笑みを見せた。
「ううん。光ちゃんがいてくれてよかったよ」
 剣の腕に自信がある伝三郎は、流れる様な刀さばきで敵を斬った。普段は気のいい仲間も『撃て』の号令でためらいなく引鉄を引く。
 頼もしいと思う反面、人の死に慣れていない光五郎にほっとすることも事実だった。
「さいちゃん。大丈夫かい?」
 駆けつけた桂輔が、二つの死骸に気が付いて足を止めた。
「ええ。母堂様は?」
「ああ。兼五郎さん達と、この先の炭小屋に避難してご無事だ。よき様は、……無事の様だな」
 桂輔が視線をさいの後ろに移した。振り返ると、駕籠に乗せたよきを守る様にして男達が歩いて来るのが見えた。怪我をしている者はなさそうで、さいはほっとした。
 先頭を歩いていた伝三郎が、駆け足で追いつく。
「大丈夫か。無茶なことしやがって、光五郎しか追いかけてねえんで、一瞬焦ったぜ」
「ごめんなさい。銀ちゃんには、内緒にしてくれる?」
 上目遣いで伝三郎に頼むと、鬼の様な形相の男の顔がふっと柔らかくなる。
「まあ、いい。それよか頼みがある。よき様が……」
「よき様が、どうかしたの? お怪我でも?」
「いや。そうじゃねえんだが……」
 伝三郎が駕籠の方を振り向く。そのいかつい眉が、珍しく下がっていた。


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