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小栗の椿 会津の雪⑦

第2章 逃避行②
 
 
 もう二度と明けないのではないかと思われた長い夜は、うっすらと東の空から白みを帯びた。西へ逃げる一行は、太陽に追い立てられる様に足を早めた。一晩中、足元の悪い山道を交代で駕籠を担いだ男達にも疲れが見えている。明るくなると、疲れ以上に敵に見つかる心配をしなければならない。
 万騎峠を越え麓に近い廃寺に駕籠を下ろした。駕籠の中で身体を固くしていた母堂もよきも、外の空気を吸い、ほっとした表情を見せた。
「兼五郎さん。伝三郎さんはどちらに?」
 伝三郎の実家で拵えてくれた握り飯を頬張り、各々腰を下ろして休憩を取る男達の中に大柄な男の姿がなかった。
「この先の偵察に行ってもらっているんだ」
「偵察?」
「ああ。前に権田村を襲った暴徒達が、上州の各地に出没しているらしいし、薩長の息のかかった兵がいるかもしれん。それと、狩宿の関所を通る算段をつけているはずだ」
「関所は無事通れるのだろうか」
「考えがあるって言っていました。関所番人に知り合いもいるとかで。心配には及びません」
 心配そうな母堂に、兼五郎は笑みをつくる。
『入鉄砲に出女』と言われる決まりを作ったのは徳川だ。護衛の男達の多くは、布に包んでいるが銃を背負っている。それに、女は特別に厳しい取締りがあると聞く。
 狩宿の関所の辺りは、幕府領だったが、今はどうなっているのか。薩長から、逃亡を阻止する触れが出ていないか。母堂の心配ももっともな事だった。
 気が付くと、しくしくと啜り泣く声が聞こえる。さいの傍らに腰を下ろしていたよきは、手に持った握り飯を一口も食べようとしないまま、肩を震わせていた。
「よき様。食べませんと、力がでませんよ」
 さいはそう言いながら、そっとよきの肩に手を置いた。
 無理もない。養父は斬首され、許嫁の又一は囚われの身だ。
「……よき」
 母堂が静かに声をかけた。低く呼ばれた声に、よきの肩がビクッと震えた。
「いただきましょう。せっかく用意してくれたものです」
 母堂に促され、よきが涙を袖で拭った。
「さあ、伝三郎さんのおっ母さんの握り飯、美味しいですよ」
 さいは、にっこりと笑いかけた。
「この握り飯、塩が効いていて食欲がなくともペロリと食べられます。自家製の蕗味噌がぴりっと辛い中に、ほんのり甘くてとっても美味しいんです」
「本当かい? 俺のは梅干しだったけどなあ」
 富五郎が羨ましそうな声を出す。それを聞いて、よきの目尻が微かに下がった。
「さいちゃんは本当に美味そうに話すなあ。聞いていたら、もう一つ食いたくなったなあ」
「俺もだ」
 富五郎や卯吉が感心した様子で言う。
「まあ、その言い方だと、私の食い意地が張っているみたいじゃないですか」
「そうじゃあねえのかい?」
 光五郎に突っ込まれて、男達から笑いが起こる。気が付くと、よきが目を細くして握り飯を一口頬張った。
「本当、美味しい」
 つぶやいた頬に赤みが指す。少女のはかなげな笑顔に、無骨な男達の目も優しい色になる。
 そこに、伝三郎が帰って来た。
「おお、どうだった」
「へえ。偽の証文を手に入れました。高崎から善光寺参りに行く呉服屋の女将一行ということにしてあります。それから、知り合いの狩宿の関所番人の一場殿に話をつけました」
「その一場って番人は、信じていいのかい?」
 注意深く兼五郎の目が光る。
「あいつは面倒なことが嫌いでね。呉服屋の女将を通せばいいのだな、と念を押していましたよ。こっちは銃を持っている。押し切られるのも恐いのでしょう。二千人の暴徒を追い払ったことは、知られていますからね」
 伝三郎がニカッと笑う。大柄な男の自信を持った笑みに、母堂がほっと息を吐いた。
 狩宿関は拍子抜けするほどあっさりと通ることができた。
「高崎の呉服屋『つる屋』の女将ちせ一行」
 甲高いうわずった声が聞こえる。「面を上げよ」と声が聞こえ見上げると、痩せた生真面目そうな番人と目が合う。番人は懐紙で額の汗を拭いた。
「証文の通り善光寺詣でに間違いはないか」
「へえ。ご隠居の病気回復祈願に参るところでごせえやす」
 兼五郎がすかさず答えた。
「うむ。殊勝な心がけじゃ。怪しいところはないで通るがいい」
 証文を手早く畳みながら、番人は言った。
「へえ。ありがとうごぜえやす」
 兼五郎がそう言って頭を下げる。さいは、笠を目深にかぶり直し、ほっと息を吐いた。
「不審な輩があちこちで出没しておる。気を付けて善光寺まで参られよ」
 さいが顔を上げると、人のよさそうな番人の顔に、安堵の色が見えた。
 ここは元幕領。幕府の重鎮の家族が無事に逃げて欲しいという思いが最後の言葉に込められている気がした。
 関所の門を潜り街道に出ると、伝三郎が北の空を見上げた。
「奥方様は、和光原に着いたころかな」
 新緑の山に山吹の鮮やかな色が映える。キジが山の中を見下ろす様に、青い空に旋回していた。
 
                   ◆
 
 三左衛門に率いられた一行が、広池村の山本家に着いた頃には、日が高く上がっていた。
 夜のうちに山を越えるつもりだったが、身重の奥方様を背負い、足を滑らせぬよう注意を払う旅は、思った以上に時間がかかった。
 山本家で昼飯をもらい、馬を借りる。馬に奥方を乗せ、銀十郎は手綱を持ってゆっくりと進む。遅れを取り戻し、一里先の和光原までは、明るいうちに着きそうだった。
「まあ。きれいな花だこと」
 緑に映える山吹色の花を見て、奥方が息を吐いた。真っ暗な中、草刈籠の窮屈な中で息を詰めていた分、日の光も山里の風景も違ったものに見えているのだろう。
「山吹を一枝取ってきやしょうか?」
 銀十郎は、山肌の黄色い花を見て言った。
「そのままにしておきましょう。命あるものを手折ってしまっては、可哀想ですから」
 奥方は、静かな笑みを浮かべて遠くの山に目を移した。
 銀十郎は、口を噤んだ。無残に手折られてしまった最愛の人の死を、この人はどの様に受け止めているのだろうか。
「奥方様。あそこが、今日の宿でございます」
 太陽が西に少し傾きかけた頃、三左衛門が前方を指差した。曲がりくねった坂道の先に小さな集落が見えた。
 和光原は上州と越後の境にある秘境とも呼べる村で、村役人の田村家で、母堂一行を追いつくのを待つ算段になっていた。
「迷惑をかけ、本当に申し訳ありません。しばらく、世話になります」
 奥の間に通された奥方は、そう言って丁寧に頭を下げ、主を慌てさせた。
「お顔を上げてくだせえ。ここは、山深く薩長もうかうかと手は出せません。何もありやせんが、ゆっくりと旅の疲れをお取り下せえ」
「ありがとうございます。……みなも、本当にご苦労であった。あの山道で我を担ぐのは大層難儀であったであろう」
 奥方が、付き添った男達にも頭を下げた。
「田舎料理でお口に合うかわかりませんけれども、遠慮なく召し上がってくだせえ」
「急なことですのに、この様なもてなし、感謝いたします」
 奥方は、目の前に膳を置いた女将に丁寧に礼を言った。
 大人数の夕食に、女達が慌ただしく動いていた。
 家の者が閉め忘れているのだろう。銀十郎が、雨戸が開いたままの縁側に立つと、ぼんやりと明るい西の空が見える。夜の闇が辺りを包み込んでいく。敵から姿を隠してくれる暗闇は、胸の中の不安の色も濃くする。
    今、どこで夜露を凌いでいるのか。それとも、暗い街道を小さな物音にも怯えながら進んでいるのか。
 自分が安全な場所にいると、余計に不安が募る。
 一番星に願いを込めながら、銀十郎は雨戸を閉めた。
 
                   ◆
 
 一日遅れで母堂一行が和光原の『ヤマニ』に到着したのは、西の空が赤く色付き始めた頃だった。
「よく無事で……」
 奥方様が、母堂やよきと再会を喜び合う。
「さあ、お疲れでしょ。おきりこみ、たんと用意しているで、はよ上がってください」
 女将が母堂とよきを奥の畳の間に案内する。
「ひゃあ。うまそうだなあ。しばらく、握り飯ばかりだったもんなあ」
 男達が顔を綻ばせて板間に上がる。
 大きな鍋いっぱいに、太い麺を野菜と煮込んだおきりこみが、味噌の香ばしい匂いを漂わせている。二間続きの和室と囲炉裏のある板間を開け放してささやかな宴が始まった。
 二日ぶりに顔を合わせてほっとした一行は、それぞれの苦労を語り合った。ほんの束の間の安らぎ、和光原の滞在はそれから二日の予定だった。
 翌日、奥方や母堂のいる奥の間の襖を隔てた部屋から、三左衛門が、伝三郎達と今後の道筋を話し合う声が聞こえていた。
「人目を避けるなら、秋山郷から越後へ向かう道だけど、あそこは難所だで。奥方様を交代で担ぐにしても、人足は多い方がいい」
 地の利に詳しい弥平次の声が聞こえる。
「百曲りって言うて、曲がりくねった山道が延々続くんで足をやられちまう」
「さいを同行させるのは厳しいか」
「娘さんなど、とんでもねえ。女子の足では無理な話だ」
「……そうか」
 三左衛門の声に苦悩がにじむ。
「信濃周りの様子はどうだ」
「相変わらず、権田村を襲った暴徒の一部が、あちこちに出没しているという噂でさあ」
 三左衛門の問いに答えたのは、伝三郎らしかった。
「畜生!」
 突然大きな声が響いて、よきの肩がビクッと震える。奥方は、何も聞こえないかの様に黙々と木像を彫る小刀を動かしている。
「小栗様の謀反の疑いは、あいつらのせいだべ。そもそも、暴徒をけしかけたのも、薩長の仕業って話もあるじゃねえか!」
「富五郎。気持ちはわかるが、落ち着け」
 憤った声を諌めたのは、桂輔だった。
「善光寺詣でに扮したとしても、危険は付きまとう。富五郎の言う通り暴徒と薩長が通じているとしたら、ご家族を探してひと儲けしようと算段しているやもしれん」
 兼五郎が後半声を潜めて言った。
「そちらの護衛の人数を割くこともできんな」
 三左衛門が溜息の様に言葉を漏らした。
「秋山郷へ抜ける道ならば村の者が慣れておりやす。力のある者を選んで供につけましょう。もちろん、わしもご一緒します」
「すまぬが、頼む」
 弥平次の提案に、三左衛門が同意した。
「できれば、口の固い者を頼む。金ははずむ」
「へえ。それはわかっておりやす」
 ぼそぼそと急に小声になった言葉は、それでも襖一枚隔てた奥方達にも聞こえていた。
 よきが視線を奥方に向ける。奥方は、顔色一つ変えず黙々と木像に向かっている。ただの木片から頭と身体の姿を現し、涼やかな目元の像が出来上がろうとしている。
「奥方様。あまり根を詰めますと、御身体にも触ります。少し休まれては」
「ええ。ありがとう」
 茶を煎れて、奥方の横にそっと置くと、上州女のものとは違う鼻に抜ける優しい音で礼を言う。それでも、少しもさいの方に顔を向けることなく、手も休もうとはしない。
 取り乱すことなく、落ち着いている。それでも、一心に動く刃先に注がれている視線に、さいは不安を覚えた。
 
                   ◆
 
 夜、早めに布団に入った三人を起こさぬよう、さいはそっと部屋を抜け出し縁側に出た。
 和光原の空は狭い。高い杉の木に隠される空の星は、その分力強く瞬く。
縁側から外に出て、足音を忍ばせて砂利の上を歩き裏庭に回る。
 井戸端で桶に水を汲むと、澄みきった水の上に真っ白で丸い月が映った。乳を含ませた手拭い水に浸すと、まん丸の月が消えてなくなった。
「さいちゃん」
 後ろから小声で呼ぶ声が聞こえた。足音もなく近付いた男に、さいの心臓が飛び上がる。
「銀ちゃんか。驚かさないでよ」
 月明かりに見た散切りの男の顔を見て、さいは目を逸らした。
「一人でふらふらするなよ。危ねえだろう」
 低く不機嫌そうな声。
「うん。これ洗っちゃったら寝るから。銀ちゃんも休んで。明日は早いでしょう」
 さいは、手を動かしながら続けた。
「秋山郷の道のりは、かなりの難所だって聞いたわ。大丈夫?」
「おまえに心配される様じゃ俺もお終いだな」
 今笑ったと、さいは思った。顔を見たわけではないのに、苦笑した口元を容易に思い出すことができる。
 濯ぎ終った手拭いを素早く絞り、さいは顔を上げた。
 月が雲に覆われて翳る。ぼんやりと見えていた銀十郎の顔も足元も覚束なくなる。不安が言葉になって溢れた。
「奥方様が妙に落ち着いているのが、気になるの。ぎりぎりのところまで我慢をして、どこかでお心が壊れてしまわなければいいけど」
 本当は自分が付き添いたかった。しかし、女が通れる様な道ではないと断言された以上は、無理を言うこともできない。
「わかった。俺も気にかけておく」
 銀十郎がそう言って後ろを振り返る。
「早く寝ないと、明日が辛いぞ。行こう」
 銀十郎が手を出した気配がする。夜目の利かないさいを気遣ってのことだろう。
 素直に手を差し出すと、掴まれた力強い掌には、やはり覚えがあった。
「敵に見つかる可能性は、そっちの方が高い。他人の心配をしている暇はねえぞ。十分気をつけろよ。絶対に一人になるな」
 小言を言われながら、まっすぐ母屋の方向へ導かれる。
「伝三郎に頼んでおく。決して無茶すんじゃねえぞ」
「わかっている」
 答えた囁き声に、苦笑が混ざった。囮になって逃げたことを、銀十郎はしつこく気にしている。
 ご家族を守るために仲間は手一杯だ。それも事実だろう。
 だけど、女は足手まといだと銀十郎が正面から罵ったことで、他の仲間はそれ以上さいのことを悪く言えなくなった。
 幼い頃に一緒に遊んだ仲間が近くにいて、いつも心を配ってくれている。そのことで、どんなに助けられているかわからない。
「銀ちゃんも光ちゃんも、私のことを妹みたい心配してくれて、有難いって思っている」
 母堂や奥方のいる部屋の障子からは、柔らかな光が微かに揺らめいているのが見えた。よきが暗闇を恐がるので、贅沢なことだが行燈を灯したままにしていた。
「だけど、私、娘を亡くしてから、ずっと自分を責めていたの」
     暗がりに顔を見られることのない安心感に、誰にも打ち明けられなかった苦しい思いが、言葉になって溢れた。
 すっぽりとさいの手を包む掌の温もりが胸に染みる。
「どうして、代わりに自分が死ななかったんだろうって、生きていても仕方ないって、思っていた」
「……」
「でも、奥方様から声をかけられて、私はこの方のお腹の命を助けるために、生かされていたんだって、そう思うようになったの。だから、どうしても、私に出来なかった母になる夢を叶えていただきたいの……」
「わかっている。おまえがいて、助かっている」
 銀十郎がボソッと言った。掴んでいた掌がほんの少し緩まる。
 引っ込めようとした指を、銀十郎は再び強く握った。
「けどな、俺はおめえのことを、妹だと思ったことは一度だってねえから」
 低い声で銀十郎は言い放つ。手を放すとくるりと踵を返し、暗闇の中へ消えて行った。


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