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小栗の椿 会津の雪⑪


第3章「三国峠」②
 
 
 閏四月二十四日、三国峠周辺は深い霧に包まれていた。
    胸壁に身を隠しながら、銀十郎は目を凝らして白い霧の向こうを探る。その先にある食い違いの柵も、山の木々も何も見えない。霧の中から、突然敵が現れる様な気がする。
 偵察によると、敵の数は千二百。急ぎ徴収した会津兵はせいぜい三百だ。
    しかし、細い山道では、多くの兵がいても列になって攻めるしかない。地形が有利な一面もあった。
 最前線に隊長自らが指揮を取り、鉄砲部隊が並ぶ。その中に、銀十郎達も混ざっていた。小規模な衝突から二日。町野は法師道での銀十郎の働きを認め、近くにおくようになった。法師道には新たな柵を設け、見張りを置いた。
 後ろに薙刀を携えた久吉が控えている。四、五人の若い藩士が共に薙刀や刀を手にして、その時を待っていた。
「うずうずするなあ。兄上が鳥羽伏見の戦の三番槍なら、拙者はこの戦の一番槍だ」
「我等も、久吉殿に遅れぬ様にせねばな」
「もちろん遅れなど取るものか。あわよくば、拙者が一番槍の名をいただこうぞ」
 久吉と若い藩士が話し合う声が聞こえる。道場破りに胸を躍らせる様な響きがあった。
「一番槍ってのは、そんなに大事なんですかねえ」
「さあな」
「でも、槍や刀の出番なんてあるのかなあ」
 卯吉のつぶやきに、銀十郎は返答をしなかった。
 湿気が肌にまとわりつく。銀十郎の笠から、雫がまたぽたりと落ちた。
 その時、銃声がした。味方が一斉に身体を固くし、胸壁へ頭を隠した。霧に乗じて思ったより近くに敵が来ている。
「鉄砲隊、用意!」
 町野の指示が飛んだ。土俵に銃身を固定し、霧の向こうを睨む。しかし、敵の姿は銀十郎の目にも捕えることが出来なかった。
「撃て!」
 号令の後、凄まじい銃声が鳴り響き、山々に跳ね返る。敵の見えない分、銀十郎は耳を澄ました。弾は敵陣に届いていない。
 相手の反撃に、微かな振動が伝わる。相手の弾は確実にこの陣地に到来していた。
「用意! 撃て!」
 町野隊長の太い声が響く。姿の見えない敵を相手に撃ち続けるしかなかった。
 動きのない状態に、若い久吉が痺れを切らした。
「兄上! 突撃の指示を! こうしていても埒があきませぬ」
「まだだ。久吉、持ち場に戻れ!」
 町野は首を横に振った。しぶしぶと持ち場に戻った久吉だったが、しばらくすると再び兄に進言に行く。
「兄上! 拙者を行かせて下され! 敵の大将の首を取ってごらんにいれまする」
「霧の晴れるのをもうしばらく待て!」
 退けられた久吉が、露骨に不満そうな顔をして引き下がる。
 すぐ近くで小さく「うっ」と呻く声がした。近くの木の幹に弾が突き刺さる。目を凝らしても姿は見えない。しかし、敵はじりじりと前進している。
 銃声があちこちから聞こえる。敵なのか、味方の木霊なのか、定かではない。しかし、轟音の中に、敵兵の呻き声が聞こえた気がした。
 朝日が昇り、霧がいくらか薄くなった。
「もう待ってはいられぬ。いくぞ、一番槍だ!」
 久吉が銀十郎の脇をすり抜け、胸壁を飛び越えた。そのまま霧の向こうに姿を消した。
「久吉殿に遅れをとるな」
 四人の若者が久吉の後に続いた。
「待て! 早まるな!」
 町野が叫ぶが、声は届かない。一瞬茫然として、味方の銃声が止む中、神経を刺す様な銃声が重なった。誰のものかわからない叫びが小さく、しかし、確かにに耳に届いた。
「久吉様達は、全滅だったんべか」
 誰かがつぶやいた。『全滅』という言葉に、初めて戦に出た農兵達は息を呑んだ。
「俺、様子を見てくる」
 そう言ったのは、浅貝村の吾作という若い人足だった。数人の人足と木々の隙間に消えて行った。
「こちらも負けてはいられぬ。用意!」
 町野は動揺する素振りも見せず、太い声で指示を続けた。
「撃て!」
 魂のこもった声に、反撃する農兵の顔つきが変わった。久吉達の命を無駄にしてなるものかという決意が伝わる。
 どれくらい続いただろうか。銃を撃ち慣れない農兵達が、腕の痺れを感じていた頃だった。
「大変です! 法師道から敵兵がやって来ます。このままでは、挟み撃ちになります!」
 駆け寄る伝令が、息も絶え絶えに伝えた。
「何! 杭を破られたか……。それで、数はどのくらいだ」
「わかりません。霧の中から突然現れて……」
 銀十郎は、思わず町野隊長の顔を見上げた。太い眉が動き、眉間に皺を寄せる。
「一旦浅貝まで引け。そこで、隊を立て直し、敵を迎え撃つ」
 町野の号令で隊は一斉に撤収を開始した。
 
                   ◆
 
 敵がいつ追いつくかわからない中、九十九折の坂道を駆け上がった。三国峠からの下りは、酷使した足をさらに痛めつける。農兵達は支給された銃も投げ出し、疲れ果てて命からがら逃げかえった。
 浅貝宿で、宿場の主人に水をもらい、配られた握り飯を腹に収める。
「ま、町野様!」
 兵で溢れ返る人ごみの中から、吾作の声が聞こえた気がして、光五郎は立ち上がった。銀十郎、卯吉と人ごみをかき分けた。
「小檜山! 古川! 生きておったのか!」
 町野の前に、もっこで担がれた若者が下ろされた。二人とも銃撃を受け重傷だった。
「よく、戻って来た!」
 町野は二人に労いの言葉をかけた。
「それで、久吉らはどうした」
「あっしらが駆け付けた時には久吉様の姿はなく、お二人は息がねえんで、残りのお二人だけは助けようと担いできたんで」
 年配の人足が痛ましそうに頭を下げた。
「先にいた二名は、銃に倒れ……。久吉殿は、さらに先を疾走し、敵陣に一人で……」
 負傷した若者は、言葉を詰まらせた。
「久吉様がどうなったかと、あっしは永井宿の知り合いに聞いてみたんでさ」
 吾作が、興奮した様子で前に進み出た。
「久吉様は、銃弾を避けながら敵陣に分け入り、数人を討ち取った後、敵将のあと一歩まで攻め入ったそうです。銃で撃たれ倒れた後も、首を切ろうと近付いた上州兵二、三人に槍を突き刺した後力尽き、立派なご最期だと宿場でも噂になっていやした」
 町野は、吾作の報告を聞き入った後、視線を三国峠の方に向けた。思いを断ち切る様に吾作に向き直った。
「その方等の働き、いたみいった。感謝する」
 懐から貨幣を取り出し、吾作に差し出した。
「少ないが受け取れ。みなでわけるがよい」
「へへえ。有難いことで」
 吾作が、両手で恭しく受けとった。
 負傷した二人に手当てをさせ、そのままモッコで送る様手配をした町野は、別人の様に険しい顔になり鋭い口調で指示を飛ばした。
「退却して、二居峠の頂上で敵陣を迎え撃つ。敵は間近まで迫っている。急いで、準備せよ!」
 浅貝宿は、三国峠と火打峠の間にある。農兵達は、さらなる撤退命令に明らかに疲れた顔をしながら立ち上がった。
「宿場に火を点けよ!」
 続けて町野の声が響いた。
 思いがけない内容に光五郎は、思わず銀十郎の顔を見た。卯吉は驚いた顔を隠さなかったが、銀十郎は右眉が少し揺れただけだった。
 会津兵がばらばらと走り出した。松明に火を灯し、油をまく。
「お、お待ち下せえ。何で火を点けるんですか。おら達は、会津様のために力を尽くしたっていうに……」
「うるさい!」
 町野に詰め寄ろうとした人足に、刀を抜いた会津兵が立ちはだかる。めらめらと炎があちこちの屋敷から上がり始めた。
「急げ!」
 町野は激を入れると、馬に乗り数人の侍と共に街道を火打峠の方へ向かう。呆然としていた農兵達は我に返って後に続く。
「お止め下せえ! どうして、こんな……」
 吾作が町野の後ろ姿を睨みながら、涙を流した。悔しそうに土塊を拳で叩く。
「行くぞ」
 迷いのない口調で、銀十郎が言った。
「でも、銀さん。何で火を点けるんですか」
「そうだよ。浅貝の人達は味方じゃなかったのかよ」
 銀十郎の背中に、卯吉と光五郎が言った。
「敵兵に、ここを陣屋にされないためだ」
「だって、あの人達は、危険を冒して会津のお侍さんを助けてくれたじゃねえか! 久吉殿の最期を教えてくれたじゃねえか」
 卯吉が泣きそうな声で詰め寄った。
「いいか、卯吉」
 銀十郎が、卯吉の胸ぐらを掴んだ。
「退却する時に、敵に陣を取られないように屋敷や食料を焼く。戦場では常識だ。俺らは、会津と共に戦う兵だ。隊長に歯向かう様なことを無闇に言うんじゃねえ。わかったか」
 取り乱すことのない、それでも、銀十郎の有無を言わさぬ声に、卯吉の炎に照らされた横顔が微かに頷いた。
「……でもな。俺と二人の時なら、思ったことを言ってもいい。いいな」
 銀十郎は少し口調を和らげた。
 江戸で歩兵の訓練を受けた仲間は、誰も驚く素振りも見せずに、銀十郎の後に続いて撤退する。一度に大勢の兵が逃げ帰ったせいで、街道脇の畑が踏み荒らされているのを見て、光五郎は目を逸らした。
 火打峠を下り二居宿に来ると、会津の兵はここでも宿場を焼き払った後、小豆峠へと隊を進めた。一行はここで陣を張るつもりだったが断念した。敵兵の追いつくのが予想以上に早かったことと、宿場を焼き払ったことで、地元の協力が得られなかったからだ。
 町野は三俣宿の先、芝原峠での一戦を計画して三度目の撤退を開始した。
 息も絶え絶えの兵が三俣宿に辿り着くと、無人の村に白装束を着こんだ宿場陣屋の主二人が土下座をして待ち構えていた。
「宿場を焼くことだけはご勘弁願います。どうしても火を点けるというのでしたら、まずこの首を打ち落としてからにしてくだせえ」
 二人を見下ろしながら、町野が馬を止めた。
「申し上げます!」
 そこに伝令が飛び込んで来た。後ろからではなく、前方から。
    文を読んだ町野の表情が険しいものとなる。
「……わかった。三俣の焼き討ちは中止する。水とあるだけの食糧を急ぎ出してもらおう」
 白装束の主達は頭を下げ、衣装についた土を払う間もなく、旅籠に入り甕桶ごと戸口に出した。喉を潤すために兵達が群がる。
「町野様。何かあったのですか」
 ただならぬ気配に、銀十郎が尋ねた。
「敵が六日町に侵攻した。信濃からの軍と、上州からの軍……、我らは二方から挟まれるやもしれぬ」
 町野の側に控えていた側近と、銀十郎が目を見開いた。奥方は十日町、母堂は堀之内にいる。六日町はどちらも目と鼻の先だ。
「急ぎ、小出島陣屋まで参る」
 町野隊長の指示に多くの者が驚きと疲労を隠せなかった。
 二つの宿場を焼き払った会津兵は、この日の内に三国三宿を撤退した。兵達が小出島に辿り着いたのは、深夜になってからだった。


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