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小栗の椿 会津の雪①


序章  初雪
 
 文久三年正月。上州権田村。一面の雪野原を朝日が照らしている。
 十二歳のさいは、草鞋の下にカンジキを履き、真新しい銀世界に一歩を踏み出した。ずぼっ、ずぼっ、と雪を踏む感触が心地いい。
「さいちゃん!」
 ひとつ年上の光五郎が手を振りながら走ってくる。その後ろに銀十郎の姿があった。
「またやっているのか。よく飽きないな」
 銀十郎はそう言って、唇の端を歪めて笑う。銀十郎は三つ年上で、近所に住む光五郎の親戚だった。正月で泊りにきているのだろう。
「いいでしょ。楽しいんだもの」
「それより、かまくら作ろうぜ。こんだけ降れば、でっけえのが作れそうだ」
 頬を膨らましたさいに、光五郎が提案した。チャンバラや雪合戦といった激しい遊びが好きな銀十郎とは反対に、光五郎は女の子とも遊んでくれる優しい幼なじみだった。
 もっともさいは、やんちゃな男の子とチャンバラをするのも、十分楽しかったけれど。
「しょうがねえなあ。手伝ってやるよ」
 口は悪いけれど面倒見のいい銀十郎は、ニカッと笑って、手に持っていたお手製の雪かきを振り上げた。
 三人は、それぞれに雪玉を転がす。大きくなった雪玉を集め、その上に雪かきで雪をのせる。さいは、かじかんだ手を時々息で温めながら雪山を固めた。手は冷たいけれど、動いていると体は温かい。それに……。
 さいは、夢中になって雪山を大きくしようとしている二人の顔を盗み見た。
 冬は好きだ。雪の降った日は特に。
 幼い時はいつも近所の光五郎達と遊んでいた。銀十郎はしばしば光五郎の家に来ていて一緒に遊んだものだ。
 農作業の忙しい時期は、二人はもうさいと遊んではくれない。一家の大事な働き手だ。
 さいも、料理や裁縫など花嫁修業に忙しい。幼い頃の様に一緒に夢中で遊ぶことができるのは、こんな雪の日だけだ。
 清流烏川に冷たい風の吹き抜ける凍てつく冬の寒さも、二人と一緒にいられる楽しさに比べれば何でもなかった。
 三人が余裕で入れるくらいのかまくらが完成した時には、日が高く上り、額には汗がにじんでいた。
「さいちゃん!」
 家の方から声がして振り返ると、華やかな晴れ着姿のかよが手を振っている。
「わあ! すごい。かまくら!」
 ひとつ年下のかよは、顔をぱっと輝かせた。
「入っていいでしょう?」
 返事をする前に、かよは小柄な体でかまくらの中に滑り込む。
「かよちゃん。着物汚さないようにね」
 さいは、慌てて注意する。
「大丈夫。今、あんころ餅もらってきたの。さいちゃん達が、ここで遊んでいるだろうから持っていけって」
「あんころ餅!」
 かよが広げた風呂敷に、みんな目を輝かせた。四人入ったらぎゅうぎゅうの穴の中で、体を寄せ合い、まだ温かい餅にかぶりつく。
「うめえ」
 甘いものに目がない光五郎が、ぺろりと食べ舌なめずりした。
「さいちゃんのおっ母さんが嘆いていたわよ。お客様の相手をしないで、外でお転婆ばかりするって」
「いつも遊びまわっているわけじゃないのよ。今日は、たまたま雪が降ったから……」
 かよの言葉に、さいは慌てて言い訳した。ちらりと銀十郎の横顔に視線を送る。遊んでばかりいると思われたらたまらない。普段は、村役人の娘としての務めをきちんと果たしているのだ。たぶん、それなりに……。
「それに、お客様っていったって、かよちゃんのお兄さんくらいでしょう」
 さいの父と、かよの年の離れた兄民吉は、飲み友達でしょっちゅう家に来ている。わざわざ改まって挨拶をする仲ではないだろうに。
「大井磯十郎様がいたわよ」
「磯十郎さんが? 帰って来ているのか?」
 かよの口から出た名前に、興味を示したのは銀十郎だった。
「ええ。正月はお暇をもらって、こっちでゆっくり過ごすんですって」
「……そうか」
 銀十郎は、目を輝かせて餅を飲み込んだ。
 大井磯十郎は権田村の生まれだが、江戸駿河台の屋敷に住んでいる。権田村は、旗本小栗上野介の治める知行地だ。若い頃から勉学を好み、身体も大きかった磯十郎は、小栗の殿様に気に入られて家来となった。この村一番の出世頭だ。
「小栗様は、昨年歩兵奉行に就任されたんだ。新しく歩兵を集める必要があって、村の若い者中から、歩兵として召し抱えて家来にしてくれるって、噂で聞いたんだ」
 銀十郎は熱く語った。
「ホヘイ?」
「御公儀を守る軍隊の一員ってことさ」
 誇らしいものを語る様に、銀十郎が答える。
 黒船が遠い異国から日本に来たことは、山間のこの村にも聞こえてきていた。尊王や攘夷を唱える者達が、外国人を襲うなど過激な行動に度々でていることも。幕府はそれらの対応に頭を悩ませ、フランス式の軍隊を作るらしい。武士だけでなく、広く農民からも兵を雇うという。
「磯十郎さん、まだいるかな」
「もうすぐ帰るって言っていたけど……」
 かよの言葉を聞き終わる前に、銀十郎は脱兎の如く駆け出した。雪野原をさいの家に向かって走っていく。
「ちょっと、待ってよ」
 さいも銀十郎の背中を追いかける。雪の上は走りづらく、後ろ姿がどんどん小さくなる。銀十郎の足跡にさいのそれが重なった。
「磯十郎さん!」
 門から出ていこうとする磯十郎を、銀十郎が呼び止めた。
「おお。おまえは……?」
「銀十郎です。小栗様が歩兵を集めているって、本当ですか?」
「歩兵になりたいのか?」
「はい! 小栗様の家来になって、お役に立って、磯十郎さんみたいに出世したいです!」
 銀十郎の言葉に、大柄な厳つい顔の男の目元が和らいだ。
「年はいくつだ」
「十五になりました」
 磯十郎は、雪に埋れた街道を、遠い目をして眺めた。ちょうど江戸の方向に。
「あと、一、二年したら、江戸に来るがいい。それまでは親孝行しておくんだぞ」
「はい!」
 銀十郎が姿勢を正して、磯十郎を見つめる。
「それじゃ、またな」
 背を向けて街道を行く磯十郎を、「はい!」と気持ちのいい返事をして、銀十郎が見送る。
「銀ちゃん……」
 追いついて、やりとりを見ていたさいは、背中にそっと声をかけた。
「……江戸に行くつもりなの?」
「ああ。磯十郎さんみたいに出世して、侍になりてえんだ」
 振り返り当たり前の様に答える銀十郎に、さいはほんの少し動揺した。鼓動が早くなる。引きつる頬を見られないよう視線を落とした。
「そう……」
「小栗様は、御公儀の要職を歴任している偉いお侍様なんだ。俺は、一生懸命お役に立てるように頑張るつもりだ……」
 小栗上野守がどんなにすごい役職について、何をしているかを、銀十郎は夢中で話している。
 でも、さいは頭の中が真っ白になって何も聞こえてこなかった。
 遠くに行ってしまう。もう雪が降っても一緒に遊ぶこともできなくなる。
 寂しい気持ちが溢れてくる。
 それでも、楽しそうに夢を語る銀十郎にその気持ちを悟られてはいけないと唇を噛み締めた。
「もう磯十郎さんは、帰っちゃったか?」
 かよの晴れ着が濡れないように、手を引いて歩いてきてくれた光五郎が、やっと追いついて声をかけた。
「うん。……光ちゃんも江戸に行くの?」
「まさか。歩兵って、戦に出るんだろう。俺は畑を耕すのが性に合ってらあ」
 光五郎は、のんびりとした口調で言った。
「おまえは、そうだろうな」
 銀十郎がそう言って笑う。
 小栗上野介の求めにより、毎年数人の若者が江戸に向かうことになった。条件は、長男でないこと、健康であること、力が強いこと。
 銀十郎が、江戸に向かうことになったのは、それから二年後のことだった。
 
                 ◆ 
 
 慶応二年の正月も雪が降った。
 十六歳になったさいは、もう雪遊びをすることはなく、正月の挨拶に来るお客のもてなしに忙しく動いていた。
 江戸に発った銀十郎は、去年も今年も正月なのに帰って来ない。
『小栗様はすげえんだ。横須賀に軍艦を作る工場を作ったんだぜ。西洋風の屋敷に住んでいて、フランスとも仲がいいんだ』
 村を出る前に、光五郎の家族に挨拶に来た銀十郎は、ついでにさいの家にも立ち寄って、興奮した様に熱く語った。
 とうとう遠くに行ってしまう。もう暫くは会うこともない。
 さいは、旅立ちの前に涙を見せてはならないと目を伏せた。
『俺さ、頑張って強くなって、お役に立って、出世する。そうしたら……』
 夢中で話していた銀十郎の言葉が途切れた。
 沈黙に耐えかねて、さいは顔を上げた。恐らく涙目だったのだと思う。銀十郎は一瞬驚いた風に口を開けて、それからゆっくりと口元に笑みを浮かべた。
『ばかだな。達者でいろよ』
 そう言って、銀十郎はさいの頭を撫でた。
 それっきり、権田村に一度も帰ってこない。余程江戸の暮らしが楽しいのか。江戸にはきれいな女の人がたくさんいるのかもしれない。
 そう思って、さいは溜息をついた。
「さい。藤七様のところに挨拶に行くから、供をするように」
 台所でぼうっとしていると、父の三左衛門から声をかけられた。
「はい」
 返事をしたものの、不思議に思った。
 佐藤藤七は、権田村の名主だ。村役人の三左衛門が挨拶に行くのはわかるが、今まで供をしたことなどなかった。
 真新しい晴れ着に袖をとおし、刺しなれないぴらぴらした簪などを頭に刺すよう言われた時に、嫌な予感はした。
 先客があるからと、別室で父と二人で待たされた。待ちくたびれたさいは立ち上がって、珍しい硝子の置物を眺めた。
「これ、洋行帰りのお土産かしら?」
 見たこともない透きとおった置物は、何かの動物らしかった。
 名主佐藤藤七は、殿様からの信頼篤く、使節団として小栗が海を渡った時に随行した。農民として正式に渡航した初めての人だ。
 さいは海を見たこともない。まして海を渡ってよその国に行くなんて、信じられないことだ。銀十郎が小栗の殿様を褒め称える気持ちがほんの少しわかる。
「少しは落ち着いて座っていられぬのか」
 三左衛門は、なぜか緊張した面持ちで小言を言った。
「だって。ただ座っているだけではつまらないんだもの……」
 軽く口答えをして、視線を向けた先には球状の置物があった。初めて見る物だった。記号みたいな文字が書かれている。一か所だけ、後から朱色の炭で小さく印がつけられている。
 さいは、球の部分に目を凝らした。
「それは、地球儀です」
 いつ入ってきたのか、後ろから父とは違う男の声が聞こえた。
「この赤く塗られているところが日本」
 細く長い指が、朱色の印を指す。
「これが、日本? こんなに小さいのですか?」
「信じられないでしょう。これが、アメリカ。この辺りが、ヨーロッパでここがフランス」
 アメリカは大きな国で、藤七が渡った場所だと聞いたことがあった。銀十郎から聞いたフランスは、日本と同じく地球儀の中ではとても小さい。
「信じられません。こんな狭いところに、私達が住んでいるんですか?」
 さいは思わず振り返って尋ねた。
 すぐ近くにいる男と目が合った。藤七の息子とも違う。背が高く細い。優し気な瞳の知らない男の人。
「きちんと挨拶をせんか」
 三左衛門が咳ばらいをして注意した。
 さいははっとしてその場で正座をし、三つ指をついて頭を下げた。
「はじめまして。さいと申します」
 まじまじと男の顔を凝視した無礼を恥じる。
「この通り娘は十六になるというのに、まだ幼いところがありまして……」
 三左衛門が苦笑いをする。
「いえ。可愛らしい娘さんですね」
 男は気を悪くする風もなく、そう答えた。顔を上げて覗き見ると、男は静かな笑みを浮かべている。優しく、それでいて、寂し気に笑う人だった。
 晴れ着も、ひらひらとした簪も、この人に会うために用意されたものだったのかと、他人事の様に頭に浮かんだ。
「婿をとることにした。藤七殿の年の離れた弟だ」
 予想通り、家に帰ってから三左衛門が告げた。
「婿って、……私のですか?」
「他に誰がいるのだ」
 一応確かめるさいに、三左衛門が呆れた顔をした。
「だって、跡は喜平が継ぐものかと……」
 弟の喜平は少し体が弱かったが、利発な子だ。家の跡取りになるとばかり思っていた。
 だから、いつか。いつになるかわからないけれど、想いを重ねる人の元に嫁にいくのだと、そんな淡い夢を見ていなかったといえば嘘になる。
 今すぐ婿を取るなどという話は、ピンとこなかった。
「喜平は、まだ幼い。一刻も早くわしも安心したいのだ」
 髪に白いものが混ざるようになった父の顔が険しくなった。
「……お父っあん?」
 三左衛門は何かに焦っている様に見えた。一体、何をそんなに焦る必要があるのか。さいには、わからなかった。
「それとも誰か約束した男でもいるのか?」
 幾分声を潜めて、三左衛門が問うた。
 一瞬、銀十郎の顔を思い出した。
『俺さ、頑張って強くなって、お役に立って、出世する。そうしたら……』
 別れ際に言った言葉。『そうしたら……』の続きは何だったのだろうと考えたことはあった。それでも、約束を交わしたことはない。もう二年も、手紙もなく、帰っても来ない。
「……いいえ」
 答える声が掠れた。
「そうだろう。おまえも、いつまでも子供でいるわけではない。村役人の娘ともあれば、家柄のこともある。そう簡単に、決められるものではないぞ……」
 珍しく歯切れの悪い三左衛門の小言は、意味がわからず耳から耳へ通り抜けていった。
「それでは、進めるぞ」
 咳ばらいをして、三左衛門は立ち上がった。
 夫となった濤市は、出会った時の印象の通り穏やかな人だった。年は二十も上だったが、珍しいことではない。
 家では、小作人を雇い、米や野菜を作るだけではなく、酒蔵も営んでいた。最初は照れていた『若旦那』という呼び名もすぐに慣れ、さいの家族にも親切に接してくれる。
 ままごとの様な結婚生活にも漸く慣れた頃、さいは女の子を産んだ。
 慶応四年正月。京都の鳥羽や伏見で大きな戦があった。その数か月前、十五代将軍徳川慶喜が大政奉還を行った。政権を幕府から天皇に返したのだ。それがどういうことを意味するのか、さいには計り知れぬことだった。
 世の中が大いに荒れて、先行きが見えない不安の最中、さいは生まれて間もない娘を亡くした。

          


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