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だいしゅきホールドを超えるアニメ・マンガ批評は存在するのか

アニメ批評と書いて想起するどのような物だろうか
まぁそれがどのようなものであってもいい。
とにかく俺は「だるい、めんどい、ウザい」の三拍子が浮かぶ。
そのイメージの源泉には、どうやらカオスラウンジがある。
彼らが何をしたのかほとんど覚えていない。
「ネットの画像はすべてフリー素材」みたいなイキり方をして自分たちの顔写真が素材にされて逃げた。
そんな物語は覚えているが、実際にどうだったかはわからない。
彼らは物語を批評したのか。それも定かではない。
現代アートの方から来たそうだ、そこで評価されるようなやり方でオタク文化に入っていこうとして拒絶されたのかもしれない。今考えた。
なにが彼らを拒絶したのか。引き裂かれた同人誌の、乱雑に散らばった様子だけがまなうらに浮かぶ。その簒奪者の振る舞いがオタクを発狂させた。
何をしたかったのか何ができたのか何が出来なかったのか、いずれも不明なままオタクは彼らを拒絶した。
俺は彼らを拒絶した。

アニメの正しい読み取り方という考え方がある。
根深く残る幻想である。誰も物語を正しく読むことなどできない全ては誤読である。
しかしオタクの中にはそれをこそ批評と考え、蟹の身をほじるようにして作品に関するあらゆる書物を抑え脚本を抱き込み絵コンテを凝視し製作者のインタビューを掘り起こす人がいる。
そのような人もある程度の経験を積むとその時が来る。
絵コンテ段階において無視される脚本やコンテの意図が反映されない崩れた原画にその場限りの思いつきのようなインタビュー
そんなものに直面したとき正しい読み取り方という幻想は消失する。
その時を超えて尚、作品の解像度を上げようと努力を続ける人たちはいる。尊いことだ。
俺は降りた。
参加すらしていなかったかもしれない。
初めから、意味のあることに思えなかったのかもしれない。


作品がある。
それに対する多様な解釈を、ひとまず批評と呼ぶ。
作品を、誰もが読めるように文脈を提示することもあるいは批評と呼ぶ。
あるいは作品生成の為のヒントとしての作品分析も批評と呼ぶのかもしれない。

しかしそのいずれよりも「だいしゅきホールド」という言葉のほうが批評的だと思ってしまう。
というより、一部の人が好んでいた描写に命名され、好事家がその名を認め演出として普遍化した「だいしゅきホールド」はそれらの究極では、と思っている。


小説家になろうの話がしたい。
なろうは物語に対しての応答が集積されていく場所だ。
物語の坩堝の中でトラックや転生などのお約束が固形化し、浮上する。
一度も読んだことのない人間でも「なろうといえば異世界転生」ぐらいのことは言えるし、その内の更に特殊個体は「現代の○○を象徴する云々」などとも言い出す。
無論、それらは批評ではない。他者をズリネタに精子で描かれる自画像だ。
ではなろうにおける批評とはなんだろうか。
俺は、なろうで綴られる物語がそのまま批評なのだ、と考える。

物語に対しての応答が集積されると書いた。
ある作品が作られるとき、その行為は既存の物語に不満があるということを含意する。
以前の物語とは違う部分を描くために人は筆を執る。
より尖ったキャラ、あるいは萌えキャラを描くために人は筆を執る。

劣ったと判断された描写は捨てられ、一方で優れたと判断された描写は使い込まれいつしかお約束になる。
なろうでは物語を綴ることは批評することでもあり語り手は題材選択からすでに批評の手腕を問われる。
限られた場所でしか生成し得ない奇特なサイクルかもしれないが、その体系が維持される限りそこでは日々新しい物語が展開する。
新しい物語が生成されるところに新しいお約束が生まれ魅力的なキャラクターが生まれる。


だいしゅきホールドの話に戻る。
だいしゅきホールドは特徴のある描写の、一つの解釈として名付けられた。
その解釈はとても優れていたので多くの人がそれを口にした。
種付プレスと同じレベルで異様な存在感をもつそれは、エロ漫画家が正常位を描くときに択を迫る。
一人のエロ漫画家がだいしゅきホールドを描くとき、読者はそこに含まれた意味を了解する。
種付プレスを知っている読者は「種付プレスではないだいしゅきホールド」としてそれを了解する。
だいしゅきホールドを描いた1ページはただの正常位セックスではなく、それを大きく超えた文脈をもって了解される。
そして描かれたひとつのだいしゅきホールドはまたべつのだいしゅきホールドを産むだろう。
それでは足りないのだと思った人の手によって。

読み手の認識を大きく書き換え、造り手に影響するレベルにまで拡大し、物語生成のサイクルに組み込まれたのがだいしゅきホールドという言葉だ。
この意味でだいしゅきホールドは批評の究極では、と書いた。

そうした言葉を超えるものが批評から出てくるのか。そういうことを考える。
出てくるとして、どのように?また、どこから?
そんなことよりだいしゅきホールドを超えようとする批評家はいるのだろうか。
いるのかもしれない。
俺が見ていないだけなのかもしれない。

知らなかった頃には戻れないような、それでいて造り手を動かすほどの熱量を持った批評を、俺は見ていない。

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