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共同体感覚について

政治思想史の授業の課題をしている時にルソーの「一般意志」という考え方が、アドラー心理学の「共同体感覚」に似てるなーと思い、また自分の生き方の軸として大切にしているものだと再度思ったので書き残してみます。

共同体感覚という言葉は僕の認識としては、
私たち自身が共同体に属していると認識し、その共同体に対して貢献することが自分自身の幸福と同じになるような感覚。自己の幸福が、相手と自分、家族と自分、地域と自分、国家と自分、人類と自分、生物全てと自分、宇宙と自分のように調和していく感覚だと捉えています。

僕自身としては、他者と自分の境目をなくすくらい一体化する感覚を持つことで、相手の幸福を自分の幸福として感じることができ、その分自分ごととして相手に関わることができるという考えています。なので、相手と話す場合も自分の固定観念だけでなるべく判断しないよう、その人が本当に言いたいことを背景まで理解できるように集中します。同じようにチームで活動する時も、できるだけ個人個人がどういうことを望んでいるのか、自分自身をどう認識しているのかを理解したいと考えています。そういう個人個人の意識からチーム全体の集合意識が作られていくと思っています。
なんで、こういう感覚を個人的には大事にしているかというと、多分自分個人としての人生は長くても100歳ちょっとだとしたら、相手の人生を自分の人生として応援したり共感できる方が生きている感覚が増えて、幸せな感覚をより味わえるという気持ちからだったと思います。同じように、自分の課題意識は世界や未来にあったりするのですが、そこまでの範囲を自分ごととして捉えることで自分の存在をより広く長く捉えたいという感覚だと思います。

個人的な考えとしては、一人一人の共同体の感覚を広がっていけば、自然と全体が幸福になる決断がされていく社会になると思います。その方法はとしては、お互いの共通点や差異を見つけることや、対話を通して自分の理解と共感の範囲を広げていくことかもしれません。また、「U理論」という手法の中のそれぞれの思い込みを手放し場から浮かび上がってくるものを受け入れるという段階も共同体感覚を持つことにつながると思います。

共同体という言葉にどこか洗脳チックなニュアンスが含まれるので、嫌煙される方も多いと思います。でも、今だけでなく未来、個だけでなく全体という視点を持つためには、共同体意識は必要なのではないかと思います。尊敬するあるファシリテーターの方が「社会は多様性と共通性を行ったり来たりしながらバランスを取っている」とおっしゃっていて、歴史的に考えてみても確かにと思いました。多様性の尊重だけでなく共同体感覚のような共通性も同じくらい大事なんだなと思っています。

追記:とは言いつつも、自分の共同体感覚の根本って、どこかの集団に居場所を見つけたいという種類の帰属意識かなーって書き終わった後に感じました。孤独感への解決策としてのコミュニティへの所属欲求だとなんか意味が変わってくるなーと。まぁ、模索中です。

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