どうしようもなく病んでいる
※6月中旬の心の内
つらい、よくわからないけど、とりあえずつらい。
ただなんとなくわかるのは、今回は結構、重症かもしれないなという感覚。
病んで聴きたくなった曲
手紙 〜拝啓 十五の君へ〜 アンジェラ・アキ
もちろん、十五のとき、中学三年生の時の合唱コンクールで歌った曲。
十五のとき、何に悩んでいたか思い出せないし、別に悩んでいた記憶もない。至って特別なこともなければ苦しむようなこともない十五だったと思う。だけど、この曲に面と向き合ってもう早10年経つのか、と思うと感慨深くなって聴いてみたくなった。
やっぱり、歌詞に聞き耳を立てながら聴いてみるけど、あーわかる、この気持ち!となる前に、一曲があっという間に終わってしまい、手紙という曲で描かれる物語は終わってしまう。何度も何度も聴いてみるけど同じ結果。だけど、なぜだか涙が出てくるし、当時の合唱コンクールで感情的だった自分を思い出す。その時もわたし、泣いてた。その時の涙も理由なんていくらでもつけられるけど、はっきりとした理由はなくて、純粋に心から溢れたものだったことだけは覚えている。
わたしは、YouTubeのアンジェラ・アキさんの音楽チャンネルにある、『手紙 〜拝啓 十五の君へ〜 2014』のMVが好き。いろんな人が主役として出てくる映像で、みんなが自分のやっていることに誇りを持っているように映る。自分を信じてあげられているかのように。それを断片的に思い出して、この曲を聴きたくなったのかもしれない。
わたしは、今、軽く自分の中で考えたときにとても悲しくなってしまったことがある。
わたしはなんで働いているのだろう?
↓
ひとりで自立して生きていくために
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ひとりで自立してどうしていきたいの?何のために生きているの?
目的の通り、本当にあなたはひとりじゃない。
戸惑いもなく、心の汚さ、惨めさ、醜さ、をさらけだせる相手はいないじゃない。
人生を共有することができる相手もいない人生じゃない。
生真面目で殻を破りきれない人生じゃない。
ひとりで今日も充実してたなって自己満することしかない人生じゃない。
だけど、他人との交わりに余裕が持てるほどの器なんて持っていないじゃない。
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「わたし」の存在意義が発揮されている?
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そんな、「わたし」として求められる喜びのない人生に価値なんてあるのだろう?
わたしは、誰かからの「愛してる」の一言とその温もりが欲しいのかもしれない。
恐ろしいよね。求めよさらば与えられん。その言葉は、間違いでもなければ正解でもない。求められないことがこんなにも淋しくて、切なくて、心が苦しいものだなんて。自分の存在意義までも問うてしまうほどの魔力があるなんて。ただ、これをたまたま読んじゃった(読んでくださった)貴方へ、安心してください、自殺しようとかはこれっぽっちも思っていませんので、ご安心を。わたしは人の命の尊さを理解している人間です。
全ての歯車がちょうど1年前から狂ってしまったような気がする。どうすることもできない。ただただ、すり減って傷が深くなっていくだけ。
潔癖症は辛いわよ、人の間で生きていくのが
汚れたと感じた時にそれが初めてわかるわ
わたしの、オンナとして好きな赤木リツコ様の台詞。
わたしは、汚れてはいない、でも表面上は汚れてしまったのかもしれない。
現実、真実、を知ってしまったあの時から。実験台になることへの悲しみ。
何も傷付かずに人生を、お仕事を、楽しんでいるのが羨ましかったし、淋しかった。なんならちょっと妬ましささえも湧き出てきたかもしれない。思えば思うほど自分の存在意義がぼやけて、薄れて、消えてしまって、あたかも初めから存在していなかったみたいで。初めから、わたしに興味を持てなかったことが、わたしにも目に見える形で真実となってしまって。それが屈辱のような感覚だったのかもしれない。
今も、引きずっているわけじゃないの。ただ、それが、引き金となってしまって、あらゆることに敏感になってしまったり、慎重になっていってしまったの。これまで平気だったこと、我慢できていたことも今は大きな重荷に感じてしまうの。他人の顔色や反響が気になることが多くなって、その裏にあるかもしれない本質を変に探るようになってしまった。口から紡がれる言葉は本当に言葉の通りなのかな、とか。そんなこと、考えたり、探ったり、だなんて無駄なのはわかっている、今は。でも、無意識に受け身になってしまっていったんだよね、確実に。たまにそういう自分が見え隠れする。
ということを思い悩んでいるときにぶわーって書いてから全然編集が進まなくて、心の状態も時と共に変化してきたので、こういう状態もあったよというような備忘録としてこれをアップしたいと思います。6月中旬のオハナシです。
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