「理不尽の蛸壺」
世の中には何一つ科学的でも論理的でも合理的でもない理不尽な不文律(慣習)や規則(縛り)を持つ共同体(会社や任意団体など)が沢山あり、しかも、その構成メンバーは、過去であれ現在であれ、大変だ(った)とかいいながらも、まるでメンバーである(あった)ことを誇りにしているかのような物言いをしたり、その理不尽さを後輩や友人に求めてしまうような人が沢山います。その人にとっての「あるべきあらねば」のマイルールになっているのでしょうが、それを他者に要求するのはお門違いというものです。
「営業は夜討ち朝駆けは当たり前で若い頃は不眠不休で働いた」
「一人でも練習に脱落をしたら連帯責任で全員が五厘刈りにされた」
「いかなる理由であっても途中棄権はペナルティを課せられるので死にそうだったけど我慢してプレイを続けた。熱中症で亡くなった人もいる」
「シングルになりたければトラック一杯のボールを打て」
「そんな恰好、霞が関ならプレイできない」
「ゴルフはスコアが全てだ」
「水も飲まずに我慢した。昔から夏は暑かった」
思い出話しだろうと、自分はそう生きてきたことや、理不尽に耐えたことに誇りを持つのは勝手ですが、決して、共感はもちろんその理不尽を求めるものではないし、求めてもいない他人にとっては、何一つ価値のないどころか迷惑でしかないということを知った方がいいでしょう。
大人なら、冗談でもやめた方がいい。
理不尽の蛸壺
では、一体なぜ、お互いに理不尽を求めあい、それを人間の価値や関係の証としてしまい、その関係に入らない人たちを見下すようなメンタリティ(心のありよう)を持つようになる、いわば理不尽の蛸壺の世界に陥ってしまうのでしょう?
私は、その非日常的とも言える特殊性が共同体内の強い共感を生み、その理不尽さを誇りにすらしてしまうからではないかと考えています。それが高じると純化方向に動き、価値観や行動規範が強化されて、さらなる理不尽さで縛っていくという、完全なる理不尽の蛸壺、まるで、総括という名の集団リンチで何人もの仲間を殺害した日本赤軍との同質性を感じてしまうわけです。
蛸壺から抜け出す
理不尽の蛸壺に嵌った人は、自らを解放できるのか?
簡単かどうかはわかりませんが、
理不尽の蛸壺に嵌っていることを自覚する。
特定の共同体メンバーの自己満足でしかないことを理解する。
自分自身の新たな誇りを見つける。
そして、できれば、共同体にある理不尽の壁(排他性)を点検し、是正できるといいですね!
理不尽さを相互助長するような共同体の行く末は決して明るくなく、自滅の道を辿ることが多いからです。
蛸壺に嵌らないようにする
理不尽の蛸壺は、理不尽の相互助長による結束の強い人間関係や共感への依存、そして共同体への所属意識や、出て行った人への見下ろし感などが共同体としてのエネルギーになります。
決して質の良いメンタリティではないので、そもそも嵌らないようにするのが重要だと思います。
嵌らないようにするためには、様々な依存を一つ一つ点検し、できるだけ依存を少なくする、つまり自立性を高めていくことです。
嵌る兆しを感じやすくなるという点でも有効です。
依存については、以下の記事で少し詳しく記載しているので、読んでみてください。
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