Il canto dell'allodola (ひばりの歌声)

※この記事はミュージカル ロミオ&ジュリエットのイタリア演出版「Romeo e Giulietta ama e cambia il mondo」のDVD全編和訳とその感想、公演の情報やセット・衣裳などについてまとめたマガジンの一部です。シーンごとに記事を分け、投稿が古い記事から順番になっています。
※イタリア語の歌詞、台詞は掲載しておりません。記事前半はシーンの日本語和訳、後半はシーンの感想、考察で構成しています。


Fa giorno 

〔乳母〕
行った 行った!
ジュリエッタ!

〔ジュリエッタ〕
ばあや!

〔乳母〕
お父様がお部屋にいらっしゃいます!
ご注意を!朝ですよ!

〔ジュリエッタ〕
ああバルコニーよ!
陽の光を入れて、命を送り出して!

〔ロメオ〕
さよならだ

〔ジュリエッタ〕
また会える?

〔ロメオ〕
勿論 また会えるよ。
その時には、この苦しみも全て、
君との甘い思い出になる。

♪Il canto dell'allodola (ひばりの歌声)

〔ロメオ〕
ジュリエッタ ジュリエッタ
もうヒバリが鳴いてる
夜明けがやって来たんだよ
僕は去らなくては

〔ジュリエッタ〕
ロメオ ロメオ
あれは ただのナイチンゲール
まだ空には月が出ているわ
ロメオ ここに留まって
愛しい人 狂いそうよ
あなたが いなくなるなんて

愛を 愛を
夜が明けるまでは
この肌の上
動き続けていて

〔ロメオ〕
愛を 愛を
もう一度だけ
人々の正義までの道のりは
こんなにも遠いままなのか
誰に判断できるだろう
愛は測れない

〔ジュリエッタ〕
太陽が昇ったら
あなたは行ってしまうのね

〔ロメオ、ジュリエッタ〕
愛を 愛を
夜が明けるまでは
この腕の中
もう一度 動かないでいて
この肌の上 動き続けていて
愛を

■シーンの感想と考察■

シーン冒頭で出てくるのは1幕でも出てきた仮面のダンサーたち。♪Il giorno del sì (涙の谷)の記事にも書いたのですが、これはやはり「噂」好きな世間の目を表すコロスの表現だと思います。乳母が「おしゃべり好き」な俗っぽい面のある人として描かれている(これはシェイクスピアの時点でそう)のと合わせて乳母を模した造形になっているのでしょう。

彼らが去ると追放の朝、ジュリエッタの寝室に乳母がやって来ますが歌唱パートまでの台詞のやり取りはほぼ原作通り。イタリア版、台詞箇所はだいたいシェイクスピアです。

さて歌パートですが、まず気になってしまうのはジュリエッタのスケスケ衣裳。日本でやったらまずデザイン画の段階で各方面からNGが出そうな衣裳です。ほぼ裸では…?
♪Oggi o mai(今日こそその日)の女性ダンサーたちも肌色の衣裳でしたが大きな劇場で見たらほぼ裸では…?
初演時ジュリア19歳というのもこう、日本人の感覚だとアウト感がすごいです。さすがイタリアというと語弊があるのですが、露出度で感じるイタリアです…。ロメオのマイク押さえてるベルト?は念力で消して見ます。
ちなみにこのシーンはダヴィデの次にロメオを演じたフェデリコの歌唱が大変セクシーですので気になる方は「Il canto dell'allodola Federico Marignetti」で検索してみてください。

そしてようやく歌詞ですが、ここでも強くイタリアを感じました。というか日本人(私)との感覚の違いを…。♪ama e cambia il mondo(エメ)でもそうなのですが、作中でのラブソングの愛の表現は「相手に求める」のが印象的です。
私は「相手に与える」表現の方が美しく感じてしまうので、サビの「ama ama」というのも美しいシーンの印象を壊さずに訳すのに苦心しました。英訳すると「Love me Love me」となる「愛して」という命令形なのですが、そんな直球で…?お強い…。と思ってしまいました。
日本版の歌詞は「あなたの腕の中で眠り あなたの鼓動が響いて目覚める」という歌詞で大変美しく詩的で私好み?です。
「Love me」の訳が自分なりに答えがハマってからは曲のイメージも掴みやすくなり、この詩の美しさが分かるようになりました。この身も心もさらけ出して裸になって「愛を(ちょうだい)」という素直でシンプルな表現でしか表せない2人の想いの飾り気のなさ、純粋な喜びと別れの悲しみがありますね。翻訳って責任重大だ。

「動き続けていて」「動かないでいて」という矛盾する表現も、別れを前にしての、お互いが相手と2人きりのこの時間を永遠に感じていたいという思いが現れていて大変良い歌詞だなと思います。

ジュリエッタのスケスケ衣裳もそうですし、歌詞に行為を思わせる表現が多いこと、それに♪Morte di Giulietta(ジュリエットの死)でも「もうあなたを この肌で感じられないのなら」とあることから、「肌を重ねる」ということに、作品としてかなり重きを置いているのだなとも思います。
これはお国柄なのかシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」という作品解釈としての表現なのか、両方なのかは分かりませんが、「ロミオとジュリエット」は若さゆえの燃えやすさ、肉体を伴う愛に縛られた2人の悲劇と考えられることもあります。2人にとってはお互いの身体に触れ、存在を確かめ合うことができる場所のみが世界であるから、追放は死刑と同じであり、愛する人が肉体を伴ってこの世にいないのであれば生きる意味はないということになるのです。

この見方を演出として採用しているかは分かりませんが、ロメオとジュリエッタの関係以外でもテバルドと母親や欲望の捌け口としての女たちの関係、パリデとの子作りを強調するカプレッティ夫妻や、そんな社会で肉欲の汚さを叫び、許されない想いを抱えるメルクーツィオといった作中での性の描き方からそんな説も思い出しました。




※注意事項(当note内共通)

・イタリア版ロミオ&ジュリエットのカンパニー、関係者の方々とは一切関係ありません。当noteの内容は1ファンによる訳であり、感想、スケッチですので公式の見解ではありません。

・私のイタリア語は超入門レベルです。1年半かけてなんとか訳しましたが、拙いものだと思います。間違いもあるかと思いますのでその点ご注意ください。

・当noteに掲載されたイタリア版のミュージカルナンバーの日本語訳のテキストや衣裳イラスト、平面図、3D画像などは筆者による訳でありイラスト作品ですので無断転載はご遠慮ください。

・それぞれの記事は公開後も随時内容を追加、修正などしていきます。ご了承ください。(テキストもイラストも時々修正・加筆されてる可能性があるので思い出したらまた見に来てくださると嬉しいです)

・記事中ではカンパニースタッフ、キャストの皆様のお名前を、イタリア語表記・カタカナ表記に関わらず敬称を略させていただいています。ご了承ください。

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