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言葉とエネルギー

子供の頃、誰に見せるわけでもない自分だけの文章を、ただひたすら来る日も来る日もノートに綴っていた。
出来事を書いていたわけではないので日記とは少し違う。ただ思ったことを、感じたことを、書かずにはいられなかった。
今思うと、書くことでいろんなことを整理したり、受け止めたりしていたのだと思う。細かい字でびっしりと書いていたので自分は書くことが好きなのだとずっと思っていたけれど、学校の宿題の作文などは書き出しからしてまるで思いつかず、いつも途方に暮れていた。

言葉の扱いに慣れたことで、何かの説明を「わかりやすい」と人から言ってもらえたり、自分の感情をより細かいグラデーションで表現できるようになったことは、とても良かったと思う。
けれどその一方で、言葉が嘘をつくことや、自分の言葉が相手に上手く伝わらないこと、それなのに、言語外のコミュニケーションがとても上手く行く相手がいることもずっと引っかかっていた。

大人が嘘をついたり、なんとなくその場をやりすごそうと言葉を濁すことに対して、わたしはとても敏感だった。相手の感情やその場の空気が手に取るようにわかり、またそのほとんどはネガティブなもので、いつも胸が締め付けられるように痛かった。

長い時間をかけていわゆる「スピリチュアル」と呼ばれる世界に辿り着き、学んだことと自分の体験を照らし合わせる中でわかったことは、
わたしたちは言葉を交わしているようで、実のところ、やっていることはエネルギーの交換である、ということ。
言葉以外でも、あらゆるところでエネルギーの交換は行われている。お金を払ったり受け取ったり、誰かに直接触れることや、また、遠くの誰かを思うことも、すべてエネルギーの交換。
ただ感じ取ることに蓋をしているだけで。

わたしは漠然と、誰かに触れたり、あるいは自分が触れた物から、自分の頭の中が他人に伝わってしまうのではないかということを子供の時から恐れていた。
今になってわかるのは、わたしはたぶんもともとそういう能力を持っていたのだ。
嘘や建前が存在するこの世界で生きるにはそれはあまりにも不便で、だからここに来る時に封印したけれど、ほんの少し残っている。

実際、今わたしがその能力を使ってこの世界を生きようとしても、地球のほとんどの人はそれを受け取ってはくれず、それだとわたしはほとんどの人とコミュニケーションを取ることが出来なくなってしまう。
一方で、自分が言葉を尽くすことで、人に対して「伝わった」と感じる体験が、最近とみに増えている。
自分の言葉の中からノイズが減って、クリアになって来たからかもしれない。

もしかしたら必要なひとに届くかれないから、わたしが知っていることを、ここでシェアして行きたいと思います。

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