見出し画像

0410:インフルエンザ予防接種

 先日秋に二回新型コロナウイルスのワクチン接種をしたと思ったら、もうインフルエンザ予防接種の時期が来た。今日は下2人の子供と一緒にかかりつけ医で接種。1人4000円なので3人で12,000円、年収激減の身には、痛いなあ。

 今回のコロナ問題で特に目立つようになったが、もともとワクチンを忌避する市民運動は以前から根強く存在した。そういう人から見れば、我が家のように子供も大人も律儀に予防接種する家なぞ狂気の沙汰にしか思えないだろうね。

 インフルエンザだって怖い病気だ。重症化すれば死ぬ。「高い費用を払って」「毎年」「家族全員が」予防接種を受けるかどうかは、リスクとコストとベネフィットの総合判断による。これまで長年我が家はコストを掛けてベネフィット(と考えるもの)を得ていたわけだが、それはインフルエンザ罹患のリスクを一定程度には大きく見積もると同時に、ワクチンのリスクを相当に小さく評価していることによる。

「コロナは存在しない、権力者の茶番だ」「ワクチンの普及は人口抑制目的で、接種した人が近くにいるだけで健康を害する」という陰謀論では、コロナのリスクを無視できるものとみなし、ワクチンのリスクを極めて高いものと評価する。彼らもまたリスク評価をしているわけだ。

 問題は、リスク評価が科学的に正当かどうか。もちろん陰謀論者は科学を否定するから、それを問題とは言わない。問題点の共有がそもそも図れないことが根深い問題といえるだろう。

 ジェンナーの時代には「牛痘を接種したら牛になる」なんて話もあった。もちろん科学的な根拠はないし、今の人が聞けば笑い話でしかない。けれども、当時の人たちがそれを本気で信じ脅えたこと自体は、事実なのだ。コロナ否定もワクチン陰謀論も、外からどれだけ荒唐無稽な話に見えても、当事者自身は本気でそう思っている。

 科学は「確実にいえることは何か」の探求だ。科学者は物事を観察し、推論を重ね、物事の原因と結果の関係について仮説を立てる。その仮説は多くの他の科学者によって検証され、時には否定されたり、一部を改善したりして、より確実な仮説へと磨き上げられる。それが一定の蓋然性を獲得した時、それは事実と認められ、何らかの結果を求めるために原因と条件をコントロールする工学の営みに結びつく。産業革命以降、私たちの社会は間違いなく科学の大いなる恩恵を被っている。

 ただし、科学が全てを明らかにしているわけではないということは、確かだ。「確実にいえることは何か」の外には、広大な「確実にいえるとはいえないこと」が広がっている。

 ワクチンの効果は、個人の生体免疫と同時に、その輻湊的効果としての社会的免疫に負うところが大きい。パンデミックを防ぐためには(結果・目的)、社会の一定以上の人がワクチン接種をする必要がある(原因・政策)。

 ならば国民全員に接種を強制できるか? 無理だ、日本では個人の人権の問題として自由意志に委ねられる。

 ではワクチンに反対する人に科学的根拠を示して説得できるか? 無理だ。彼らは科学という知性を拒否し、情動こそ真実とみなして動いているのだから。

 目を転じよう。科学を信じワクチンを疑わない人は情動に左右されない理性的人間か。違う。科学を受け入れるということ自体が強い情動の上にあることは、『チ。―地球の運動について―』が示すとおりだ。

 誰もが情動の世界を生きている。そこに理性の光が当たることで、人は科学を受け入れる。理性の声に従うことを情動が選ぶのだ。

 近年世界的に反知性主義に注目が集まっていたが、コロナ禍は更にそれを浮き彫りにした。そこにあるのは、情動的存在である人間にとっての理性の問題。まったく面白い時代を生きているものだな。

 ちなみに。小説『やくみん! お役所民族誌』で、主人公のみなもはやがて消費者教育担当者となり、上記の困難に直面することになる。

--------(以下noteの平常日記要素)

■本日の司法書士試験勉強ラーニングログ
【累積148h38m/合格目安3,000時間まであと2,852時間】
 溜まっていたドリルを片付けたら正味30分。動画視聴に復帰したかったが手が回らなかった。


■本日摂取したオタク成分(オタキングログ)
『交響詩篇エウレカセブンAO』第3話、ああ、エウレカの息子なのか。世界は地続きなんだなあ。『無職転生』第15話、ケモナー村(そんな名前じゃない)編終了か。けもみみかわいい。『海賊王女』第4話、仲間たちがみんな魅力的。『最果てのパラディン』第2話、主人公は成長したけど、育て手たちとの心の繋がりの深さは変わらず。何かが隠されている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?