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第1話[1]~[5]まとめ/小説「やくみん! お役所民族誌」

第1話「香守茂乃は詐欺に遭い、香守みなもは卒論の題材を決める」

[1]みなもと秀一、アパートの朝

 ぎゅっと背後から体に腕を回し、首筋に当てた鼻から、すうっ、と息を吸い込む。嗅ぎ慣れた恋人の体臭は鼻腔から脳に染み渡り、心地よく力が抜けていく。
「みなちゃん、もぎゅられるとネクタイ結べないんだけど」
「んー、あとひと吸いだけ補給ー」
 すうっ。じわじわっ。
 朝。二人が半同棲生活を送るアパートの洋間。そろそろ時間だと、分かっている。
 香守(かがみ)みなもは秋宮秀一の体から腕を解き、少し身を離した。秀一がホッとして再びネクタイを結び始めると、またみなもの鼻は彼の首筋に吸い寄せられる。でも今度は腕は回さない。着替えの邪魔はしない、匂いだけ、匂いだけ。
 テレビのローカルニュースが次の話題に移った。生中継で、県立運動公園に最近整備されたスケートボード練習場を紹介するという。
「あ、始まった」
 秀一は背広をハンガーから外して腕に抱えたまま、椅子に腰を下ろして机上のテレビを見据えた。PCディスプレイ兼用の18.5インチ、4年前のモデルだがフルHDなのでテレビは鮮明に映る。みなもはピンク色のパジャマのまま、秀一の背後に立った。
「こないだ秀くんが下見に行ったとこ?」
「うん」
 長袖の青いポロシャツを着た三十半ばの男性アナウンサーが、現地リポーターを務めていた。公園の管理課長がインタビューに応えて施設の特徴を紹介し、利用者の練習風景を映し出す。
 リポーターが「今朝はなんと、話題のあの人気キャラクターも練習に来てくれました」と告げると、画面の奥、すり鉢のようなコースの向こう端に、薄茶色の影が現れた。
 ズームアップ。
 犬──の着ぐるみだ。デフォルメされた頭部と、ゆったりしたつなぎの胴体。手足は肉球を模している。ちょろりとはみ出した舌、短い股下とおしりに申し訳程度についている尻尾が、なんとも愛らしい。
 すまいぬ、ここ澄舞(すまい)県のマスコットキャラクターだ。県の公式行事をはじめ、観光・まちづくり・子育てイベントなど、いろいろなところに出没している。地道な活動が功を奏し多くの県民に受け入れられているが、特に小さなおともだちとその保護者、あとは──ある理由から──一部の大きなおともだちに大人気だ。
 すまいぬは今、片足をスケートボードに載せて立っていた。愛嬌のある造形なのに、佇まいは凛々しい。その背後、少し離れてテレビクルーがカメラを構えている。
「すまいぬ、こっちこーい!」とリポーターが叫んだ。すまいぬの垂れ目が鋭く光ったように、みなもには見えた。
 すっ、と両腕を軽く広げ、前傾する。
 カメラがすまいぬの背後に切り替わった。後足が地面を蹴る。それは軽い動きに見えたが、スケートボードに乗ったすまいぬはスタート地点のランプを落下するように駆け下り、一瞬、画角とコース形状によりその姿が消えた。
 ごうっ。ホイールとコンクリートの擦過音が唸り、姿を現したすまいぬは鋭い加速でコース中盤に設えられたハーフパイプ左側面に突っ込んでゆく。その円弧に導かれ、直進運動は上昇運動へと一気にベクトルを変えた。重力の軛を逃れたように宙を舞いながら全身を一回転させ、そのまま上部のプラットホームに着地。
「バックフリップ! すまいぬ、驚異の運動能力です、すごいぞーっ!!」
 リポーターの歓声とともに、すまいぬの目の横に仕掛けられたミニカメラの映像がリプレイされる。飛び去る地面。激突するかのように接近するスロープ。反転する景色。着地、そして減速。一連の流れは、ジンバルで制御したかのようにスムースな映像だった。すまいぬの体幹そして頭部が、激しい運動の中で極めて安定していることを示していた。
 カメラは再びリポーター側に変わり、ハーフパイプを下りて滑り近づくすまいぬを正面から映し出した。すまいぬは、リポーターの横で軽やかにボードを跳ね上げ、地面に降り立つ。首に巻いた縦ストライプのスカーフが少しだけそよぎ、そして静止した。
「お疲れ様でした! いやー、素晴らしい走りでしたね」
 ボードを脇に抱えたまま、頭を搔いてもじもじ照れるすまいぬ。声はない。しかしその動きだけで、すまいぬの可愛らしい気持ちが手にとるように分かる。
「どうですか、このコースを滑ってみた感想は」
 リポーターがすまいぬにマイクを向ける。その様子を見て秀一が眉をひそめた。
「うああ、すまいぬには喋らせないって打ち合わせたのに。柳楽(なぎら)さん、また確信犯だな」
 柳楽修は地方局「すまテレ」こと澄舞テレビに所属するアナウンサー、今まさにすまいぬにマイクを向けている男の名だ。
 秀一は澄舞県庁政策部広報課に勤める公務員だ。今年4月に新卒で県庁に採用され、半年あまりが経過していた。
 多くの役場がそうであるように、澄舞県庁も事務分掌制により職員一人一人が独自の業務を割り振られている。新人とて例外ではない。
 秀一が担当するいくつかの業務のひとつが「すまいぬ番」だ。
 十年ほど前のゆるキャラブームの最中、澄舞県はマスコットキャラクターの公募を行なった。プロを含む数百の応募の中から採用されたのは、小学三年生の女の子が描いた一枚のイラストだった。二本足でヌッと立っている犬。決して達者とは言えない描線ながら、見ているうちに頬が緩む愛嬌があった。「澄舞の犬だから、すまいぬ」と可愛らしい文字が添えられていた。当時のおじいちゃん知事がいたく気に入り、事務方の思惑を超えて選考委員会の流れを決定付けた。
 このイラストを原型としてプロがリデザインしたものが、現在のすまいぬだ。さまざまなポーズのキャラクターカットが作られて県の広報媒体を飾り、やがて着ぐるみも製作された。
 さまざまなイベントに花を添える「すまいぬ着ぐるみ」の行動管理が、広報課すまいぬ番の仕事だ。今朝のこの放送は、県立運動公園の施設をテレビ取材してもらえるということで、教育庁スポーツ課の依頼ですまいぬの出演が決まった。秀一は、県広報誌『ビジュアルすまい』の取材を兼ねて、事前に現地で柳楽と打ち合わせをしていた。
 今後すまいぬは喋らない。以前のようにすまいぬにマイクを向けてはならない。そんな新たな県の運用方針を、秀一は柳楽アナに念押しした筈だった。撮影の流れもひととおり打ち合わせ、問題ないことを確認していた。それが今、生放送という制止の効かない状況で、反故にされようとしていた。
 ──一瞬の間を置いて、すまいぬは腕と頭を動かしながらマイクに向かって何かを喋るような仕草を示した。仕草のみで、声はない。うまい、と秀一は思った。このキャラクターは声を出さずにコミュニケーションするということを、視聴者に自然に伝えていたからだ。放送をグダグダにしないために、レポーターが流れを引き取らねばならない。無理矢理渡されようとしたボールを打ち返した形だ。
 柳楽アナはすまいぬの音なき声に耳を傾けるようにして、幾度か頷いた。そしてカメラを振り返り
「新しいコースで思い切り走れて超楽しい、だそうです!」
と言った。中堅アナウンサーの力量だろう、ライナーを自然な流れでキャッチした。この瞬間密かにトラブルがあったと気付く視聴者はいないだろう。
 なんとか乗り切ったな、と修一が体の力を抜いたのも束の間、柳楽アナの続く言葉が再び修一を硬直させた。
「そろそろ終わりの時間です。すまいぬ、最後に視聴者のみなさんに向けて、あの決め台詞をお願いします!」
 柳楽はあの言葉を言わせようとしている。一月前に「彼女」がぽろりと口にして、すまいぬが大きなおともだちから一気に注目されたあの言葉を。
 しかしすまいぬは、チチチ、と指を立てて(実際には肉球だが)左右に振り、お口にチャック、のアクションをした。そしてスケートボードに軽やかに飛び乗り、コース中央のミニランプで華麗にジャンプを決めると、そのまま走り去っていった。
「……台詞の代わりにキメのアクション、いただきました! 以上、現地から柳楽がお届けしました」
 番組は天気予報に変わった。
(心臓に悪かったあ。出勤したら課長に報告してすまテレに抗議してもらわなきゃ)
 秀一の内心の冷や汗には気付かず、みなもは画面に向かって拍手した。
「すまいぬ、久しぶりに見掛けたけど、すっごいねえ、着ぐるみ着たままあんなに動けるなんて。中の人って何者?」
 秀一は、チチチ、と指を立てて左右に振り、お口にチャック、のアクションをしながら口をもごもご動かす。
「中の人なんて、いないのだー。あれは澄舞にだけ生息するかわいい生物なのだー」
「お役人の棒読み、じょうずー」
 みなもは口調を真似て言いながら、今朝二回目のもぎゅっ。秀一は笑いながら身を捩る。
「もう仕事に行かなきゃ。また夜にゆっくり、ね」
「あ、今夜は私、家に帰るよ。明日来ていくスーツ取りに行かないと」
「そっか、分かった」
 秀一の表情が途端に寂しそうになり、みなもはキュン死しそうだ。でも、もぎゅるのは、がまん。
「明日は家から直接県庁に行くから。お昼、一緒に食べる?」
「いや、やめとく。県職員一年生が県庁にインターンシップに来た女子大生に手を出した、なんて噂になりかねないから」
「あはは。大学三年生が新入生に手を出したくせに」
 あれから二年。秀一は卒業して県職員になり、みなもは当時の秀一と同じ三年生になった。
「それはよくある話でしょう」
「うん、よくある話」
 みなもは秀一の唇にキスをした。これ以上は、がまん。
「行ってらっしゃい。私は2コマ目からだから、9時くらいに出るよ」

[2]澄舞大学文化人類学ゼミの人々

 大学教員には研究個室が与えられている。そのひとつひとつがいわば独立した宇宙であり、部屋自体は画一的な作りでも、蔵書や教材、調度備品など教員の個性が色濃く反映された空間になる。

 石川耕一郎准教授の研究室の前に立ち、みなもはしばしドアを眺めていた。国立民族学博物館の黒を基調とした企画展ポスター。灰色の学生レポート提出ボックス。鮮やかな朱色の鳥居が多数並んだ写真は、澄舞県西端の稲荷神社のそれだ。石川研究室入り口のポスターや写真は、月一くらいのペースで貼り変わる。
 ノックをすると、「はあい、どうぞ」と返事があった。ゆっくりドアを押し開け、「香守(かがみ)です」と声を掛けて中に入る。目隠しになるよう置かれた書架を回り込むと、明るい窓に面した机に向かう男の背中が見えた。
 男がゆっくりと振り返った。その顔には、彫りの深い怪物の仮面が装着されていた。緑・黄・赤の彩りが、逆光に縁取られて怪しい空気を漂わせていた。
 互いに見つめ合い、2秒、沈黙。
「おはようございます」とみなも。
 3秒、沈黙。
「あまり驚かないねえ、つまんない」
 そういって怪鳥ガルーダの仮面を外すと、石川の眠そうな顔が現れた。睡眠不足ではない、元々がそういう顔なのだ。
「ごめんなさい、やり直しましょうか……わっ、びっくりした!」
「香守さんのそういう性格、大好き」
 石川の懐こい笑顔には、人を和ませる魅力があった。さらっと今のような発言をしても、セクハラには感じさせない。
 石川は澄舞大学法文学部の文化人類学者で、みなもの主指導教官だ。現在、つまり三年生の秋は、来年取り組む卒業論文のテーマ設定が指導の中心となる。
「検討は、進んでる?」
「あー、来週の構想発表会までにはなんとか……」
「まずは、気楽にアイディア出ししてくれればいいからね。それを揉み込むのがゼミの役割。今日の四年生の報告もいい刺激になると思うよ。なかなか面白いものになってきたから」
 石川はそう明るく言ってから、独り言のようにぽつりと呟いた。
「入華(いりはな)先生は厳しく見てるみたいだけどね」
 はは、とみなもは力なく笑った。
「今日のゼミ資料、その山の上の奴だから……うん、そうそれ。持っていってくれる?」
 みなもがゼミ開始前に石川研究室に来たのは、今日の当番だったからだ。指示されたA3判型のゼミ資料は、別の資料の「山」の上に斜めに置かれていた。応接テーブルの上は雑多な書類の山だらけで、石川が指し示さなければすぐにはわからなかったろう。
「お預かりします」
「うん、よろしくー。あ、この仮面のことはみんなには内緒ね。研究室に来た学生さんの反応を観察したいから」
「もしかして私、一番最初でした?」
「昨日早瀬君に見せたねえ。きみは二番目」
「早瀬さん、どんな反応でした?」
「ふふーん、それもね、な・い・しょ。みんなの反応確認したら、次の『すま大エスノ』にエッセイ書くよ。上手くするといずれ論文になるかもね」
 仮面を見た時の学生の反応が、論文になり得る。文化人類学講座に入ってまだ半年のみなもには、その論文のイメージが湧かない。ただ、石川先生ならマジックのような論文を書くんだろうな、とは素直に思えた。

        *

 澄舞大学文化人類学講座には、二人の教官がいる。入華陽染(いりはな・ひそむ)教授と、石川耕一郎准教授。この二人は、見た目も性格も対照的だ。
 入華教授は61歳。細身で休日に履くジーンズがよく似合う。白髪混じりのボリューミィな髪の毛は無造作に切られ、理髪店ではなく奥様に切ってもらっているのかはたまた自分で、というのが学生の噂話だ。学会では理論派で知られ、副学長として大学行政でも重要な役割を果たしている。一言で言えば「切れ者」、学生に対する指導も学問の厳しさを仕込むようなところがあった。
 石川准教授は42歳。どちらかといえばふくよか寄りの姿形で、短髪が顔の大きさを際立たせる。民俗学の領域にも身を置き、元々の専門であるインド地域の調査の他に、院生と共に澄舞県内の民話の聞き取りを行ってきた。日頃からフィールドワークジャケットを羽織り、あれはいつ如何なる時でも現場に出る体勢なのだというのが、これも学生の噂だ。柔らかな印象が学生に信頼感を与えるのだろう、研究活動だけでなく生活上の相談なども寄せられて、その都度親身に応じていた。
 文化人類学講座に所属する学生は、ふたりのどちらかを主指導教官として、卒業論文なり修士論文なりを書き上げることが卒業要件だった。

        *

 この日のゼミは、講座内の卒論中間報告会を兼ねていた。学部4年生4名がそれぞれ持ち時間20分を与えられる。基本的には最初の10分で卒論の骨子を報告し、更に10分間は他の学生からの質疑応答に応じることになる。そのやりとりが活発であれば、日頃マンツーマンで指導している教官は口を出さない。しかし、時間が保たず沈黙が続くなら、代わって教官から報告者に向けて鋭い質疑が浴びせられることになる。
 そして──入華の表現を借りれば「残念ながら」──この日の学生間の質疑も活発とは言い難く、教官の発言を要することとなった。入華の指摘は、太刀のように鋭く論理の不整合を暴く。石川の指摘は、事例の隙間に真綿を押し込むように、観察の不足を気付かせる。中間報告会が「人間サンドバッグ」と学生たちに恐れられる所以だ。その様子を、みなもたち3年生は「来年(あす)は我が身」として震えながら聴いていた。
 脳の痺れるような濃密な90分が過ぎ、残り10分間の〆は入華の総評から始まった。
「まずは4年生のみなさん、お疲れ様でした。個別の指摘は既に行いましたので、以下、総評として少しお話をします。
「あらためてみなさんには、文化人類学という学問の技術を意識してもらいたいと思います。観察と、思考。このふたつを、特に4年生は残された時間の中で、可能な限り追い込んでほしい。
「当たり前のこととしてさらっと見過ごしていた物事が、精緻な観察によって、全く違う様子を見せる。それがある特定の個人や社会集団の視野や思考方法そして行動に、どのように結びついているのか。別の個人や集団、別の思考方法、異なる行動原理と比較した時に、どのような特徴が指摘できるのか。そこにはどのような『人のふるまいの力学』が働いているのか。みなさん一人一人のオリジナルなモチーフを通して、人類の営みの普遍性とその集団の固有性を明らかにするのが、文化人類学の論文です。
「みなさんは3年生の前期からここまで一年以上、自分自身のフィールドの観察と思考を重ね、ようやく論文執筆に着手した時期と思います。年明けの提出期限まであと3ヶ月を切りました。この時間を精一杯使って、観て聴いて感じて考えたことを、自分の言葉で彫り上げてください。
「その過程で、初めて気付くことがある筈です。「これはこういうことだったのか」「自分の中にこんな考えがあったのか」と驚くことがある筈です。それを見つけることが、学部生として論文を書く経験の一番の財産です。それは今後社会に出た後も必ずみなさんの底力として役に立ちます。どうか論文執筆を、楽しく苦しんでください」
 まるで練り上げた文章のような整った言葉を、入華は学生たちの顔を見渡しながら、一度も詰まることなく述べた。学生たちが密かに「ボイリハナ(ボイスロイド入華の略)」と呼ぶ、入華独特のトークだ。それは、日頃の知識の蓄積、咄嗟の頭の回転、そして滑舌、いずれを欠いても成立しない。40年にわたる人類学者としての学問への情熱が、その言葉に更に熱を帯びさせる。
 それだけに、若い学生にとっては受けとめるのに難儀な重量があるのも確かだ。入華の言葉の意味を正確に理解しようと、特に4年生たちは真剣な眼差しを彼に向けていた。
「石川先生からも、どうぞ」
 入華に促され、石川が軽く咳払いをして、そのまま咳き込んだ。学生たちから少しだけ笑いが起こる。緊張が急速に緩和される時に、人は笑う。
「ああ、失礼。ええと、みんなお疲れ様! それぞれ自分自身の問題意識をもってユニークな取り組みをしていて、指導教官の立場を離れて素直にわくわく報告を聴いていました。
「学問的な話は入華先生がしてくださったので、僕からは不真面目というか、ちょっと別の視点からアドバイスをしますね。
「学問って、端から見ると『なんであんな小難しい、面倒くさいことを』と思うのだけれど、やってる当人は楽しいんです。心の底から楽しんでる。そうじゃないと続かないし、そうだから調査して考え抜いて長文を書くなんて苦行が、苦痛でなくなる。
 さっき入華先生が『楽しく苦しんでください』って言ったのは、僕ら学者はみんなそういうわくわくした気持ちを抱えて研究してきたのだし、そういうわくわくを、学生の皆さんに伝えたいと思ってるからなんです。ですよね、先生?」
 石川のフリに、入華は我が意を得たりという笑顔で大きく頷いた。
 石川が続ける。
「執筆は苦しい作業です。でも、つらいなと思ったら、思い出してください。その論文は、みなさんが見つけたわくわくを、他の人に伝えるものなんです。オタクの人って、自分の推すアニメのどこがどう面白いのか、一時間でも二時間でも一所懸命に語るでしょう。SNSになっが~い評論をいくらでも書くでしょう。わくわくを誰かに伝えることって、喜びなんです。エネルギーがいくらでも湧いてくる。
 みなさんも、論文を書く間は、オタクになってください。みなさんのわくわくを僕たちに論文を通じて教えてください。僕たちは期待して待ってます。以上!」
 4年生が一斉に咲(わら)い、拍手が起きた。中間報告会は、学生たちの胸に勇気を与えて、終わった。

        *

 みなもがホワイトボードの板書を消している間に、早瀬が欠席者のゼミ資料をまとめて持ってきてくれた。
「ありがとうございます」と言ってから、教室の中を見渡す。他の学生は近くにいない。みなもは小さな声で囁いた。
「早瀬さん、石川先生の仮面、見ました?」
「うん、ガルーダね。香守さんも見た?」
 みなもは小さく頷いて、唇に人差し指を立てて当てた。早瀬も同じ仕草で応えた。
 早瀬泰彦は修士課程1年の院生だ。行政法専攻、つまり法律・経済コースの学生で、文化人類学の社会文化コースとは異なる。別コースでも卒業必要単位の一部に組み入れることができることから、早瀬は「趣味」でこのゼミに参加していた。
「アッキーは元気にしてる?」
 早瀬の言葉にみなもはもう一度頷いて、隠す必要もない話題なので普通の声量で答えた。
「はい。随分忙しい部署みたいですけど、天職みたいに面白い仕事だって言ってます」
 アッキー、すなわちみなもの彼氏である秋宮秀一と早瀬は、学部時代に同じ行政法ゼミに所属していた友人だ。だからみなもも一年生の時から「早瀬先輩」の事はよく知っていた。秀一は卒業して県庁に入り、早瀬は修士課程に進んだ。今も仲は良いのだが、秀一とみなもが半同棲状態になってからは、遠慮をして部屋に遊びに来なくなった。
「また県庁の話聞きたいから、余裕のある時に一緒に呑もうって、伝えといて。って、LINEで書きゃいいのか」
「いいですよ、伝えます。私もご一緒してもいいですか?」
「もちろん。もう成人でしょ? 大歓迎。ホントは俺も彼女連れて来てダブルデートになるといいんだけど」
「え、彼女できたんですか!?」
「『いいんだけど』という言葉の含みを読み取って欲しいなあ」
「なーんだ」みなもはくすくすと笑った。
 澄舞大学は「日本一同棲率の高い大学」としてネットで有名になったことがある。ど田舎なのでセックスしかやることがない、という説明付きだ。もちろん比較可能な実証データがあるわけではなく、すま大生の誰かが自虐ネタとして流布したものだろう。実際、早瀬を含め、見た目も性格も悪くないのにパートナーに恵まれないまま卒業していく学生も決して少なくない。とはいえみなもは、我が身を振り返ればこの話題にあまり触れられないなあ、と思っていた。
 余った資料は講座院生室のボックスに置いておくと、欠席者が後で取りに来るシステムだ。みなもと早瀬は雑談しながら院生室に足を向けた。
 廊下の少し先で、ゼミ生の吉本範香が石川研究室のドアをノックするのが見えた。小柄なので、レポートボックスの上辺が彼女の目の高さより上になる。彼女はゼミで唯一の2年生だ。ゼミに正式に参加できるのは3年生になってからだが、たまに彼女のように熱心な学生が教官の了解を取ってフライング参加することがある。単位にはならないのに、講座で学ぶこと自体が楽しくて仕方のない様子が、みなもには眩しく映っていた。今日も何か質問しに来たのだろう。
「はあい、どうぞ」
 奥から石川の声が聞こえた。範香が部屋に入るのを、みなもと早瀬は息をひそめて眺めていた。2秒後に「きゃっ」と可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「石川先生、この反応を待ってたんでしょうね」
 みなもはそう言って、早瀬と顔を見合わせ、笑った。

[3]みなもと秀一の馴れ初め

 全国47都道府県の全てに、少なくともひとつは、国立大学が存在している。それは、終戦後に新たな教育制度を構築する際、教育の機会均等を実現する目的でそのような方針が立てられたからだ。国立大学は、それぞれの地域で低廉な学費により優秀な人材を育成し、戦後日本の経済復興に大きな役割を果たした。

 過疎県・澄舞にも国立の総合大学が設置されているのは、そういうわけだ。おかげでみなもは、家計負担の小さい地元進学をすることができた。
 人口規模に相応して、澄舞大学は全国の国立総合大学の中では小規模校だ。それでも二つのキャンパスに六学部五千人あまり、大学院生を入れれば六千人を超える学生と八百名近くの教員を擁する高等教育機関の存在は、この地域の貴重な知的資源として機能している。
 そうした事実の一方で、医学部を除いて入試偏差値は50前後と、決して高くない。その現実が、県内高校生の進学時の県外流出と、逆に県外からの流入に繋がっている。今や学生の実に7割以上が県外出身者だ。
 秋宮秀一もまた県外組で、偏差値と学費と実家からの距離を総合的に考えた結果、地元・丘尼(おかあま)市から特急で2時間40分、山地と県境ふたつを越えた先の澄舞大学に進学した。
 こうして、澄舞大学で出会う運命が、二人の前に用意された。

        *

 親元から離れて独り暮らしを始めるこの年頃は、間違いなく恋の季節だ。恋愛は出会いとコミュニケーションのふたつの要素から生まれる化学反応、ホルモンスイッチが連動するかどうかで成否が分かれる。
 スマートに異性を誘える性格の者は、早くからパートナーを見つけ、青春を謳歌する。そうでない者にも、青年期社会集団で生活をしていれば、出会いは幾度だって訪れる。後はコミュニケーションを重ねた先に、二人のスイッチが入るかどうかだ。
 秋宮秀一は、誠実で人当たりの良い青年だ。しかし恋愛に関しては、決してスマートな性格とは言えなかった。異性に対して、友人としてならともかく性的パートナーとして付き合うのにどんなふうに誘えば良いのか、見当もつかなかった。入学して最初の二年間、出会いらしきものは幾度か彼の前に出来したが、戸惑ううちに次々と通り過ぎて行った。「幸運の女神には前髪しかない」という古代ギリシアの箴言を実感する二年間だった。その分、勉強とサークル活動に打ち込んだ。
 大学生のうちに彼女を作る事は無理かもしれない、と半ば諦めの境地にあった3年生の春、年下の女神が現れた。
 入学式当日からしばらくは、学生サークルによる新入生争奪戦が繰り広げられる。秀一たち総合文芸研究会の企画する新歓イベントを訪れた十数人の新入生の中に、香守みなもがいた。素直に(可愛らしい娘だな)と思った。「可愛らしい」とは、見た目だけの話ではない。会話の内容、佇まい、ふるまい。どれもが明るく人懐こく、周囲をリラックスさせるものだった。秀一の目には、新入生たちの中でみなもはひときわ輝いて見えた。人間としても、異性としても。
 もちろん、そこまでだ。2個上の先輩として、秀一は分け隔てなく新入生たちと接した。特定の相手にセクハラになりかねないアクションなぞ起こせる筈もない。
 一ヶ月後、会に残った新入生は6名。その中にみなもが含まれていた。

        *

 みなもが大学に入るまで文化人類学の名前を意識したことは、たった一度しかない。
 16歳の夏に高校の図書室で、ふと上橋菜穂子『精霊の守り人』を借りた。軽い興奮状態で読み終え、奥付を確認した。著者の肩書きが文化人類学者とある。初めて目にした言葉だったので、wikipediaで調べた。「民族・社会間の文化や社会構造の比較研究」、ふーん、なるほど。実際には何もわかってはいなかったのだけれど、作品のイメージに似合っている気がした。そのままこの学問の名前は記憶の底に沈んだ。守り人シリーズの続刊も読む機会のないまま日々が過ぎていった。
 志望校は経済的に地元の澄舞大学ほぼ一択だったが、学部学科は消去法で選んだ。理系は勘弁、教育は柄じゃない、法律や経済は堅苦しそう。そうして残ったのが法文学部社会文化学科だった。
 受験偏差値52.5。成績的に平均あたりをうろうろするみなもには、必ずしも楽観できない状況だった。みなもは友人たちに「やる時はやる女」と呼ばれていた。小学生時代からそれを裏付けるエピソードには事欠かない。受験も同じで、秋から始めた数ヶ月の猛勉強で現役合格を果たした。
 大学では何かの学生サークルに入ろうと心に決めていた。高校時代は、入学当初にピンと来る部活動がなく、そのままずるずる帰宅部で過ごしたことが密かな悔いとして残っていた。
 澄舞大学の学生サークルは、高校のそれよりバラエティ豊かに思えた。いくつかの面白そうなサークルの新歓企画に参加した中で、最初はあまり気のなかった総合文芸研究会が結果的に肌が合い、入会した。そこに居たのが、二年先輩の秋宮秀一だった。
 好きな小説って何、という定番の部室雑談の中で、みなもがいくつかの作品と共に『精霊の守り人』の名を挙げた時、秀一が反応した。
「守り人シリーズ、いいよねえ。全部読んだ?」
「いえ、精霊だけです」
「もったいない、シリーズ全部持ってるから貸すよ?  お勧め。あとね、ラジオドラマは録音してるし、アニメとテレビドラマも録画してるから。それぞれの監督が原作のどこに注目しどこを捨てて自分自身の表現に組み直したか、比較すると面白いよ」
 サークルとは「好き者」の集まりだ。総合文芸研究会もまた、会員それぞれに偏愛作品を持ち、それを他人に薦める情熱に溢れた、良い意味でオタクの集まりだった。秀一も間違いなくその一員だ。
 みなもは気圧されつつも、秀一がこの作品群を心底好きなんだということを、好感を持って受け止めた。
「じゃあ、まず精霊の続き、貸してください。少しずつ読んでみます」
 彼女はすぐにハマり、それがやがて文化人類学を専攻に選ぶことに繋がったのだから、人生は分からないものだ。

        *

 二人の仲が恋人に発展したのは、出会いから三ヶ月余り経過した7月のことだ。
 秀一のアパートでは「映画鑑賞会」が頻繁に開かれ、サークル仲間たちがよく出入りしていた。みなもはほぼ皆勤賞で参加し、二人きりになることも増えてきた。
 いつしか自然と、互いに異性として意識するようになっていた。それでいて、互いになかなかアプローチできない。それもまた、若さのひとつの形だ。
 最初に勇気を振り絞ったのは秀一の方、なのだろう。
 その日、みなもは秀一の部屋でクッションにもたれて、秀一と映画を見ていた。意識の三分の二は映画に集中していたが、残りは秀一を意識していた。
 少し離れて床に腰を下ろしていた秀一が、立ち上がって冷蔵庫から缶ジュースを取り出し、「どうぞ」とみなもの体越しにテーブルの上に置いた。そのまま、さっきよりずっと近くに留まっている。
「ありがとうございます」
 言いながら、みなもの手は缶に伸びない。意識の四分の三が、すぐ背後の秀一の気配に向けられていた。
「クッション、半分ちょうだい」
 そう言って、秀一がみなもの背後から同じクッションに体を預けてきた。軽く身体が接触することになる。こんな風にしても嫌じゃない、嫌がられない、という信頼が既に出来ていた。
「面白い?」
 耳元で秀一が言った。
「うーん」
 とだけ、みなもは応えた。秀一に十分の十。映画のことなんか、もうどうでもいい。
 秀一の腕がみなもの腕の上に被さった。手が手を握る。みなもは少し体を硬くして、ゆっくり振り向いた。秀一の顔がすぐ側にあった。
「先輩?」
「俺、香守さんのこと、好きだよ」
 間近で秀一の頬が二度痙攣した。緊張している先輩は可愛いな、とみなもは思った。
「知ってました」
 みなもは秀一の頬に軽くキスをした。互いの体臭を感じる距離。秀一はみなもに覆い被さり、首筋にキスを返した。
 そこで、動きが止まった。
「……言いにくいけど、俺、初めてなんだよ」
「ふふ、私もですよ……私、友達からなんて呼ばれてると思います?」
 みなもは、女の子の顔をしていた。ドキドキしながら、秀一は答えようがなく、こう応えた。
「なんて呼ばれてるの?」
「やる時は、やる女」
 みなもは下から秀一を抱き寄せ、唇を重ねて舌を絡めた。2秒。3秒。4秒。5秒。もっと。互いの鼻息が頬に当たる。脳の血流がくるくると舞う。全身で相手の存在を感じる。体臭はもう媚薬だ。性器が甘く溶け始める。
 二人のスイッチが、完全に連動した。
 みなもは体を入れ替えて上になり、秀一の耳元でささやいた。
「私に任せて」
 後になってこの時のことを思い返すと、
(あれ、手を出したのって、もしかして私の方?)
と思わないでもない。でもまあ、最初にくっついてきたのは秀くんの方、ということで。

        *

 付き合い始めると、いつも一緒にいたくなるものだ。
 秀一は自宅から遠く離れてのアパート住まいだから、特段の支障はない。しかし市内の実家から通っているみなもは「口実」を必要とした。
 最初は「課題を一緒にするから、友人の家に泊まるね」と言っていたが、それが週に二度となり三度となって、やがて滞在時間が逆転すると、隠し通すのは難しくなる。
 母親に「彼氏ができた」と打ち明けると、母は
「わお」
と顔を輝かせた。「根掘り葉掘りは聴かないけど、どういう人?」と根掘り葉掘り聴かれた。話しだすと、それまで隠していたのがバカらしくなるくらい、自然にいろんなことを話せた。そうだよ、別に隠す話じゃあ、ないんだ。
 翌朝には父親にも伝わっていた。母と父の間ではなんでも筒抜け、それは分かっていた。
 父親は娘に男が付き纏うのを嫌がる、というのが古典的な物語パターンだし、現実の世の中でも一般的かもしれない。でも香守家ではそうではない。
「にゃも、おはよう。ウェルカム・トゥ・ザ・大人の世界!」
 開口一番そういった父の満面の笑みに何の屈託もなく、みなもの肩の力が一気に抜けた。とりあえず「なんで『大人の世界』だけ日本語なん」と突っ込んだ。
 翌年、二人は決断を迫られることになる。秀一が四年生となり、卒業後の進路を決めなければならない。秀一は元々、出身地の丘尼に帰るつもりだった。しかしそれは、遠距離恋愛になることを意味する。または別れるか、だ。
 二人とも、別れるなんて、考えられなかった。遠距離恋愛も、できれば避けたかった。将来は結婚するのだろうとなんとなく思っていたが、まだまだ先の話だ。
 結論を先延ばしにして大学院に進学することも一度は考えた。そうすればみなもの卒業まで大学に残ることができる。しかし、同じ行政法学ゼミに、早くから院進を公言していた友人・早瀬泰彦がいた。彼の能力・資質に、自分は及ぶべくもない。秀一はそう痛感していた。
 秀一は、澄舞県庁と丘尼県庁、それから国家二種を受験し、全てに合格した。ギリギリまで悩んだ末に、澄舞県庁に就職を決めた。
 さすがに澄舞に残るには両親の了解を得なければならず、秀一はみなもを連れて丘尼の実家に戻った。両親からはかなり厳しい意見も向けられたが、みなも自身は温かく歓迎され、最後には澄舞県庁への就職を認めてもらうことができた。
 次に問題となるのがアパートだ。就職をすると衣類などどうしても物が増え、今の6畳1Kでは手狭だ。もう少し広いアパートなら、みなもと一緒に暮らすこともできる。通学に一時間かかるみなもにとっても、大学近くに拠点を持つことはメリットが大きかった。
 今のアパートからさほど離れていない場所に、すぐに入れる6畳+4畳半の物件が見つかった。大学まで徒歩数分、澄舞県庁にも自転車で20分見ておけば余裕だ。築年数が古く初任給の手取りでどうにか賄えそうな家賃ではあったけれど、少なくとも学生である残り半年は、実家に支援してもらわなければならない。もしかすると、その後もしばらく。
「うちは構わないけど、まだ学生なのに同棲なんて、みなもさんのご両親が許さないんじゃないの? 特にお父様は」
 秀一の母親の心配は、一般的な「娘の親」について妥当だ。しかし香守家に対しては杞憂だった。週の半分以上を秀一の新しいアパートで暮らすようにしたい、そうみなもが切り出した時、父は手を叩いてこう言ったのだ。
「よーし、我々に孫ができるのが早いか、にゃもに新しい弟か妹ができるのが早いか、競争だあ!」
 それを聴いた母は背中を丸めて茶をすすり、「はあ?」と耳に手をやった。
 そう、香守家の父と母は、少し変わっていた。

[4]香守家の人々

 みなもの実家は、平成半ばに造成された比嘉今(ひがいま)町の新興住宅地にある。市町村合併によって県庁所在地・松映(まつばえ)市に組み込まれたものの、市中心部にある澄舞大学への通学には、徒歩と電車とバスで一時間あまりかかる。車で直行すれば15分ほどだが、免許を持たないみなもは公共交通機関に頼るほかない。秀一のアパートで親公認の半同棲を始めたことで、通学の不便は大きく解消したことになる。

 その日の夕方、みなもは比嘉今に戻った。碁盤状を意識しながらもメリハリをつけた街区には、同じような築年数の戸建てやアパートが立ち並ぶ。しかしそのひとつひとつには、それぞれの住人の個性を反映して、異なる趣があった。
 香守家の敷地は道路面から1メートルほど嵩上げされ、駐車場の端からスロープが玄関に続いている。みなもはスロープをゆっくりと上りながら、五日ぶりの我が家を見上げた。赤みがかった明るい土色のサイディング、黒の瓦屋根の2階建て、45坪。
 父がこの家を建てたのは、みなもが5歳の時だ。その前は澄舞東端に位置する八杉(やすぎ)のおばあちゃんちに皆で暮らしていた。更地に基礎が立ち上がり、棟上げされ、外装そして内装が少しずつ整う過程を、みなもは父に連れられて何度も見に来ていた。それから16年が経ち、新築時の輝きは失われていたが、この家で家族と共に成長してきた記憶は、みなもにとって他の何にも代え難い宝物だ。
 玄関の引き戸を開けて靴を脱ぎ、右手のリビングに入ると、みなもの両親がくっついていた。正確にいえば、炊事中の母・和水(かずみ)の胴を背後から父・朗(あきら)が抱きしめ、幸せそうに目を細めて首筋の匂いを嗅いでいた。
「にゃもちゃん、おかえり」と和水がそのまま笑顔を向け、みなもは「ただいま」と応える。
 朗も和水をもぎゅったまま、子供のように顔を輝かせて言った。
「にゃも、大変だ、母しゃんが磁石になっちゃった!」
 んなわけないでしょ。
「そんでな、父しゃん鉄だから、くっついちゃった!」
 二度目の、んなわけないでしょ。
 そんな言葉は胸にとどめて口にはしない。香守家のいつもの風景、突っ込んだら負けだ。
「鉄じゃなくて、ケツアタック!」
 いいながら和水がお尻で朗をポンと押しやると、朗は「うわああああ」といいながらくるくる回転して離れ、再び和水に吸い寄せられるようにくっついた。移動に合わせて声にドップラー効果らしきものを効かせているあたり、無駄に芸が細かい。
「ええい、料理の邪魔」
「邪魔じゃないよ。お手伝いだよ。父しゃんがくっつくと、母しゃん元気になるよ。ほら、旦那にこんなに愛されて、母しゃん幸せでしょ? 幸せでしょ? すーっ、はふう」最後のは愛妻の首の匂いを吸い込んでオキシトシンだだ漏れの呼吸音。
 みなもは思う。父しゃんは犬タイプだ。飼い主が大好きでちぎれんばかりに尻尾を振って顔をなめ回す犬のように、いつも母しゃんにまとわりついている。母しゃんは猫タイプだ。父しゃんのじゃれつきを時には軽くあしらい、時には撃退して、気の向いた時には自分からじゃれついていく。
 結婚して24年、どんだけ仲いいんだか。
 その時、二階から下の弟の歩(あゆむ)が下りてきた。
「にゃもちゃん、おかえり」
「あー、あゆたん、久しぶりー」
 みなもは相好を崩した。
 中学三年生、締まった細身の体つきは、この夏の大会で引退するまで陸上部で汗を流してきた賜物だ。背丈はもうみなもを越したが、顔立ちにはまだ多分に幼さが残っている。
「大きくなったねえ、先週より背が伸びた?」
「んなわけないでしょ」
 しまった、私が突っ込まれてしまった。
 6歳下の弟は可愛くて仕方ない。家族で立ち会い出産だったので、生まれた直後に抱っこさせてもらえた。大きくなるまで何度もおむつを替えた。だから気持ちはほとんど保護者だ。
 昔のように抱きしめて頬ずりしたいところだが、今やあゆたんも思春期男子、がまんがまん。
 でも父しゃんは少しもがまんせずに母しゃんにくっついて、邪険に扱われて悦んでいる。あんな風に「大好き」を素直に――素直すぎるくらいに言葉と態度で表わせたら、幸せなんだろうな。

        *

 香守家には独特の家族間呼称ルールがある。
 父・朗は「父しゃん」、母・和水は「母しゃん」。長女のみなもは「にゃも」または「にゃもちゃん」と呼ばれる。末っ子の歩(あゆむ)は「あゆたん」。みなもの二歳下の弟で、東京に進学して家を離れた充だけは、そのまま「みちる」だ。
 これらの呼称は、どれも幼い頃のみなもの言い方だった。「おかあさん」とうまく発音できなくて「かーしゃん」という具合に。もちろん、両親がそれを面白がって一人称にまで採用したから、家庭内で二人称・三人称としても固定し、二十年近く経った今もその習慣が続いているのだけれど。
 みなも自身の呼称「にゃも」もそうだ。
「小さい時は、みーちゃん、て呼んでたんだよ」
 そう朗から聞かされたのは、中学二年生の時だ。みなもの部屋。みなもは椅子に腰を下ろして、口をへの字に結んでいる。涙はもう乾きかけていた。朗は床に胡座をかいて、娘を見上げていた。
「でも三歳になる前くらいだったかなあ、自分のホントの名前がみなもだって、意識したんだろうね。父しゃんが「みーちゃん」て呼んだら怒って「みーちゃんじゃにゃいの、み・にゃ・も!」って言うんだ。もうねえ、舌が回ってないのが可愛くてねえ、たまらんかったよ」
 遠い記憶を語る朗の眼差しは、深い愛情を湛えて、真っ直ぐに思春期のみなもに向けられていた。
「「えー、みにゃもなの?」「そ!」「父しゃんは、みーちゃんって呼びたいなあ」「だめ!」「じゃあ、にゃもちゃんて呼んでいい?」「それにゃらいいよ!」と何故か許可してくれてね。以来、にゃもになったわけだ」
 そこまでいうと、朗は感極まり「はうあっ、かわええーっ」と奇声を発して床に転がり、想像上の幼い者を抱きしめた。ムスッと聴いていたみなもも、思わず苦笑を漏らしてしまう。本当は今の自分を抱きしめたいのだろう、でもそれは御免だし、父しゃんもそこは弁えている。だからこそ編み出された「エアにゃも」だ。
 父しゃんのだらしないところが嫌いで、意識的に会話を避けていた思春期だった。でも、父しゃん母しゃんの愛情が自分に――自分を含む三人の子供たちにたっぷり注がれていることは、一度も疑ったことがない。

        *

 食事までまだ少し間があるので、先に自室で明日の準備をしておくことにした。
 1階北側の8畳洋間。作り付けのクローゼットから、衣類一式を取り出して点検する。スーツは入学式前に購入して以来数回しか袖を通す機会がなかった。ドレスコードのない大学生としては自然なことだ。しかし、明日から三日間は慣れないスーツで過ごすことになる。せめてもう一着あれば毎日着替えることができたけれど、ないものは仕方がない。ブラウスで変化を付けよう。
 澄舞大学では、官公庁や民間企業のインターンシップ(職場体験)に参加した場合は一単位、卒業単位数に算定することができる。もちろん、事前の学内レクへの参加や事後のレポート提出を含めてのことだ。三年生にとって、卒業後の将来をリアルに受け止める機会でもある。
 過疎県・澄舞では「就職するなら役所か銀行」と言われる。もちろん単純化した物言いであって条件が良く安定した就職先は他にもあるのだが、新卒採用数と若者人口とのバランスは十分と言い難く、進学を第一の、就職を第二の機会として若者が県外流出しているのが、澄舞の現実だ。逆に秀一のように、県外から澄舞に進学してそのまま就職するケースもあるが、少数にとどまる。
 みなもにはまだ、就きたい職業が定まっていない。公務員も選択肢のひとつではあったけれど、澄舞県庁の例で言えば行政職採用試験の倍率は年により3~10倍。秀一のように行政法を専攻しているわけでもなく、昨年すま大から国・県・市町村の公務員試験を受験した者の少なからぬ数が落ちた状況を知っているだけに、腰が引ける。
 それでも、秀くんがどんな職場で働いているのか、という好奇心はあった。それが澄舞県庁のインターンシップに応募した最大の理由だった。
 澄舞県庁は本庁だけでも10部局67課の大きな組織だ。国の場合は、教育なら文部科学省、道路なら国土交通省など、それぞれが個別の法人である省庁ごとに担当する行政分野が異なる。対して自治体は、ひとつの法人組織で全ての行政分野を担う総合行政を特色とする。そのため部局のバラエティは豊かだ。
 しかしインターンシップは基本的に特定の課、または同じ部局の2~3課で数日間を過ごすことになるため、学生の志望と組織の受入体制とのマッチングが必要になる。
 エントリーシートの「希望部課または分野」を書く際、みなもは少しだけ頭を悩ませた。福祉保健、教育、農林水産、県土整備……部局を見比べても、これだ、というものが思いつかない。本音では、政策局広報課なら秀くんがいるので心強いし、秀くんの様子を見ていると仕事も面白そうだ。その一方で、さすがに彼氏のいる部署を希望するのは公私混同に過ぎるかも、という冷静な判断もあった。それでも、何かをPRする広報的な仕事に関心があるのは、嘘ではない。なので素直にそう書いて、具体的な部課は書かなかった。県庁側で広報課をあてがわれたらそれはそれでラッキー、と微かに期待もしながら。
 後日、県庁からの決定通知に記されていたのは、広報課ではなかった。
「生活環境部生活環境総務課(消費生活安全室)」
 軽い落胆の一瞬が過ぎると、戸惑いがさざ波のように広がった。まず、長い。漢字ばっかりで間違い探しのように目がチカチカする。生活環境。消費生活。うーん? 環境という言葉は、ゴミ処理や地球温暖化対策などを想像させる。でも、生活と消費は、言葉の意味は簡単でも行政が担う仕事がすぐにはイメージできなかった。
「消費者からいろんなトラブルの相談を受けたり、違法な業者の取り締まりをするところだね」
 秀一に尋ねると、そんな答えが返ってきた。
 県庁一年生の秀一が巨大組織の一部署についてサラッと答えることができるのは、彼が広報課職員だからだ。政策局広報課は、県庁が対外的に発信する情報の集約点、いわゆる情報ハブだ。職員は自然と県庁全体の組織構成や最新動向を知ることになる。とはいえ、詳しく業務内容を説明できるだけの知識があるわけでもない。
 澄舞県庁のホームページには、全ての部署のページが用意されている。みなもは消費生活安全室のページを確認した。文字だらけでずらずら縦に長い構成にうんざりし、法律とか条例とか補助金とかの固い説明も眠たくなるばかりだったけれど、なんとなく対象とする領域が分かった気がした。
「気がした」だけかもしれない。いやむしろそうに違いない。明日からのインターンシップを考えると、みなもは不安と期待が入り混じった気持ちになる。
「にゃもちゃん、ご飯できたよー」
 部屋の外で歩の声がして、はーい、と答える。
「まあ、やるしかないっしょ」
 みなもは自分に言い聞かせるように呟いて、クローゼットの扉を閉めた。

[5]いちゃつく両親、吠える消費生活センター

        *

 食事を終えた休息の時間。和水はラタンの椅子に腰を下ろしている。碧がかったガラスの湯飲みでジャスミンティーをすすり、ほう、と溜め息をつく。
 テーブルの向こう端にテレビのリモコンがあった。少し身体を伸ばせば届く位置だ。
 でも。
 和水はトイレから戻ってきた朗を見上げ、にやりと笑った。 
「オッケー父しゃん、テレビ点けて」
「えー、父しゃんはグーグル先生じゃないよ?」
 朗は笑って愛妻を見下ろす。
「オッケー父しゃん。あれ、反応しないな。じゃあ、ヘイ尻!」
 iOSに呼びかけるみたいにいいながら和水は夫のお尻を右手で撫でた。朗はお尻を左右に振りながら難しい顔をして腕組みをし「これは母しゃんの手が父しゃんのお尻を撫でているのか、それとも父しゃんのお尻が母しゃんの手を撫でているのか」と呟いた。
「禅問答?」
 思わずみなもがツッコミを入れると、朗は満足そうに笑った。それから振り返り
「母しゃん、自分で手が届くでしょ」
「とどかなーい。母しゃんちっちゃいから。だから音声認識リモコン使うよ。オッケー父しゃん、テレビ点けてー」
 朗は何かうまいこと言い返そうと2秒考え、何も思いつかず諦めてリモコンに手を伸ばし、テレビを点けた。チャンネルはすまテレ、ローカルニュースの合間のCMが流れていた。
「父しゃん便利ー」
「便利? やったあ、じゃあご褒美ご褒美」
 朗は背後から和水に抱きつき、首に鼻を押し当てて匂いを嗅ぎ始めた。そんな夫を、和水は後頭部をぐりぐりと押しつけて排除する。
「リモコンはご褒美なんか欲しがりません」
「えー、じゃあおっP」
 朗が言い終えるより速く
「おう、一丁揉んでやろう」
と和水は胸元に伸びてきた腕を払いのけ、逆に両手で朗の胸を揉みしだいた。ぎゃはははは、と朗は笑って身を捩った。
 みなもと歩は、そんな両親のじゃれ合いを眺めながら、堪え切れずに口元を緩ませていた。
「今日も我が家は平和だねえ」と、みなも。
「二人とも、普通にバブみ入ってるよね」と、歩。
 みなもが物心ついた頃には、もう両親はこんなだった気がする。幼いみなもが思いっきり父しゃん母しゃんに抱きついて温もりと匂いと幸せを感じたように、父しゃん母しゃんも互いにそうしていた。充が生まれ、あゆたんが生まれてからも、それは変わらなかった。ただ、同居していたおばあちゃんの前では、二人は居住まいを正していたように記憶している。この家に越してきた後も、おばあちゃんが遊びに来る時だけは、二人とも大人しい。
 どこの家でもお父さんお母さんはそういうものなのだ、と思っていた。でも、テレビドラマで出てくる夫婦の様子は、どうも我が家とは違う。小学校5年生の頃、何かの拍子に友人たちにその話をすると、「えー、みなちゃんち、おかしいよ。うちのお父さんとお母さんは、子供の前でくっついたりしないよ?」と驚かれた。翌日には「みなちゃんちのお父さんとお母さんは人前でイヤラシイことをしている」とニュアンスの異なる話がクラスに広まり、みなもはとても嫌な気持ちにさせられた。
 思春期の入口の時期。父しゃん母しゃんのせいで恥ずかしい思いをした、という意識が、しばらくの間、みなもを頑なにした。ただ、文句をいっても二人のいちゃこらがなくなるわけではなかったし、それに──二人は間違いなく幸せそうに見えた。
 他の家のお父さんお母さんと比べて、うちの父しゃん母しゃんは、変わっているのかも知れない。でも、家の中でいちゃついている分には、誰に迷惑をかけるわけでもないじゃないか。高校に入る頃にはそう思えるようになって、夫婦のコミュニケーションは放っておくことにした。ただ、当時中学生の充は、この春に家を離れる間際まで、ずっと嫌がっていた。末っ子のあゆたんは、自分が溺愛されているせいか、何も気にならない風だった。
「おっぱい揉むの!」
 49歳児の朗が駄々をこねると、 4歳下の和水は「はい、どうぞ!」といって、朗の両手を掴み朗自身の胸に押し当てた。
「ちがーう、母しゃんのおっぱい!」
「あなたのお母さんは八杉にいるじゃない」
 うっ、と朗は一瞬たじろいだ。
「……あっちは、お母さん。こっちは、母しゃん」
「そうだね」
「母親のおっぱいは大きくなれば卒業するけど、奥さんのおっP」
「うりゃあ!」
「ぎゃはははははっ」
 ネタがループしてる。

        *

 ニュース再開の冒頭、「澄舞県消費生活センター」の単語がみなもの意識を捉えた。振り向くと、県が通販業者に行政処分を行った旨のテロップが表示されていた。背景は灰色をしたガラス張りのビル。センターは県庁本庁舎ではなく、近隣のビルを間借りしていると秀一から聞いていた。
「ここだよ、にゃもが明日から行くところ」
 先ほど食卓で県庁インターンシップを話題にしたばかりだったが、具体的な所属までは伝えていなかった。
 みなもはテレビ正面のソファに移動した。ダイニングチェアと同じ地元家具工房のラタン製。この家を建てた時に購入したもので、年月を重ねた深緑のクッションはすっかりへたっていたけれど、テレビを見るには特等席だ。朗と和水はみなもを挟んで腰を下ろし、あぶれた歩はソファ前の畳に座った。
 カメラが「澄舞県消費生活センター」の看板が掲げられた入口からオフィスへ入っていく。
「父しゃん、たまにここ行くよ」
「え、なんで?」
「営業。県庁はお得意様だからね、印刷発注のある部署は定期的に回るんだ」
 朗は松映(まつばえ)市街に本社を置く黒帖(こくじょう)印刷の営業課長だ。家庭で仕事の話はしないので、みなもは父のサラリーマンとしての姿をほとんど知らない。
 画面に行政処分を担当した女性職員が登場し、会議テーブル越しにインタビューに応えていた。三十代半ばくらいだろうか、細く整った眉、綺麗な目、長い髪は耳元から軽くウェーブし、薄紺の明るいスーツの肩にかかっている。女優みたいに美形のお姉さんだな、とみなもは思った。テロップには「二階堂麻美主任」とある。
 彼女は、落ち着いた語り口で、今回の行政処分の対象となった違法行為を説明していた。
「8千円の健康食品を今なら8割引のお試し価格1600円で販売する、というネット広告でした。これを見た県民の方がお試しならと申し込んだところ、実は最低6回の定期購入契約になっていて、8割引は最初の1回だけ。つまり、総額4万1600円の支払を求められたんです」
 解説画面に変わり、アナウンサーがイラストを用いて手口の解説を始めた。安い価格を派手な文字で表示し、定期購入契約であることは画面をずっとスクロールした下の方に小さな文字で書かれている。気付かずに「承諾します」のチェックボックスを入れて申し込んだ消費者は、最初の荷物に同梱された書類で、初めて契約内容と総額を知る事になる。
 驚いた消費者が解約したいと電話をしても、回線が1本しか用意されておらず、なかなか繋がらない。やっと繋がったと思ったら、女性オペレーターから男性社員に代わり「身勝手な人だなあ、6回まで途中解約できないことは、承諾して注文した筈でしょう!? 期限内に支払がなければ裁判を起こすからね、東京の裁判所まで来てもらうよ」と威圧される。
 4万円あまりの価格設定は、絶妙だ。少なからぬ人が、これくらいなら払ってしまって面倒を避けたいと思い、泣き寝入りする。
 実際のところ、通信販売にはクーリング・オフ(消費者側からの無条件解約)の制度がなく、今回のように広告表示の違法性に対する行政処分はできても、契約した消費者が払わずに済むような民事救済はかなり難しい。弁護士費用を払ってまで戦う甲斐のある額でもない。
「でも、そこで諦めちゃダメ!」
 突然二階堂麻美の顔がアップで映し出された。会議テーブルから身を乗り出し、強い視線がカメラから画面のこちら側まで射通していた。
「法律の隙間を縫ってずるい商売をする連中はたくさんいる。間違いは、間違いだ。事業者の不公正は、苦情を言って改めさせなきゃいけない。今の法律で被害者を救えないなら、法律を変えればいい。皆さんの小さな声が集まれば、社会を改善する力、法律を変える大きな力になるんです。黙って泣き寝入りはやめよう。消費生活センターは正義の味方、困った時は電話番号188、『だまされるのは「いやや」』まで!」
 一気に吠えると、彼女は大きく肩で息をついた。
 画面がスタジオに変わった。
「いやあ、熱いメッセージでしたね。みなさんに届きましたでしょうか」
と冷静な男性アナ。続いて女性アナが
「一番のトラブル予防として、契約はくれぐれも慎重に、とのことです」
とこれまた冷静に締めくくり、次の話題へと移っていった。
 香守家の4人が同時に溜め息を漏らした。
「なんか最後、凄かったね。役所の人じゃないみたい」と歩。
「一回印刷物の打ち合わせをしたことあるけど、あんな情熱タイプとは知らなかったなあ」と朗。
「でもひどい話だよねえ。総額を隠して部分的な値段を目立たせるなんて、誤解させる気満々じゃない。私も気をつけなきゃ」と和水。
「……」みなも、無言。
 あれ、という顔でみんながみなもを見つめた。
「……かっこいい」
 ?
「かあっこいいいいっ! なに今のお姉さん、正義の味方! 女優、まじ主演女優!! うわあ、明日会えるかなあ。なんか俄然楽しみになってきた!」
「あー、にゃもー、おちつけー」
 朗が引き気味にそういうと、みなもは反射的に「ぺったん、ぺったん」と餅搗きの動作をする。
「よし、餅搗いたな」
「もちついた」
 誰かがハイになった時にクールダウンするための、香守家の儀式だ。 
 ついさっきまで、明日からのインターンシップは期待と不安が半々だった。それは、行き先の仕事のイメージが掴めず、どんな人がいるのかも想像できなかったからだ。でも、今のニュースでその両方が一端でも窺えたような気がした。5分ほどの放送で流れたのは、消費生活センターの仕事のごく一部分なのだろう。それでも、普通に生活する中では知る事のできない「社会の裏」に迫る、とても魅力的な職場だと予感できた。
 よし。どんな経験ができるのか、存分に味わおうじゃないの。

        *

 その時、「八杉、おばあちゃんち。八杉、おばあちゃんち」と電話が鳴った。小学生時代の充が吹き込んだ、おばあちゃんちからの電話に固有の呼び出し音だ。
 部屋に戻りかけていた歩が、近くの受話器を取った。
「もしもし、おばあちゃん? ちがうよ、歩だよ。うん、うん。中学3年。そうだね、うん。ちょっと待って、スピーカーホンにするね。スピーカーホン。スピーカー! スピー……みんなで話ができるようにするから」
 歩は受話器のボタンを押してモードを変え、ソファ前のテーブル中央に置いた。
「もしもし?」
 おばあちゃん──朗の母・香守茂乃(しげの)の老いた声がリビングに響いた。
「はい、こんばんは」と朗が応えた。
 しばらく他愛ない近況交換が続く間、歩は小さな声でみなもに「おばあちゃん、俺の学年すぐ忘れるんだ。毎回小学6年生だと思ってたっていわれる」とぼやいた。「おばあちゃん80だから仕方ないよ。あゆたんはいつまでも子供のイメージなんだよ、きっと」とみなもは応えた。
「そーで、老人ホームの手配したのは朗かや」
「老人ホームて、何のこと」
「なんだい今日の郵便で来ちょったで。ちょっと待ちないよ、えーと……松映、シニア、レジデンス。松映に新しく老人ホームが出来ーけん、入居者募集ててパンフレットが」
「あだん、知らんでえ?」
 父しゃんはおばあちゃんと話す時は素の澄舞弁になる。母しゃんが他所の出身なので、香守家の中ではみんな標準語だ。大学も他県出身者が多いから、みなもが澄舞弁を聴く機会はほとんどない。
「そげかや。朗が私に送ってごいたかと思ったあもん、違あだな。じゃあ捨ててもえだね?」
「知らんけん、いいだないの」
「じゃあ、そげすーわ。私はもう長いこと独りで暮らいちょって、独りが気楽でいいだ。それを覚えちょいてよ。余計なことはせんでいいけんね」
「うん、前から聴いちょーけん。分かっちょーけん」
 朗の口調はどこか突っ慳貪だ。それから二言三言を交わして、朗は電話を切った。
「そういえば、しばらくお母さんに会ってないね」と和水がいう。「用事がなくても、たまにみんなで八杉に顔を出した方がいいんじゃない?」
「まあねえ、また考えるよ」
 朗は気が進まない風だ。
 茂乃は八杉で独り暮らしをしている。自宅で書道教室を主宰し、週に二回は生徒に教えているから、誰も知らないうちに独りで衰弱するような心配はあまりしていない。それでも年齢を考えれば、いつまでもこのままというわけには行かないだろう。
 その時、みなもの掌でスマホが震えた。発信者表示は──。
「あれ、おばあちゃんからだ」
 みなもは受信ボタンを押してスマホを耳に当てた。
「もしもし、おばあちゃん?」
「ああ、和水さんかい?」
「ちがうよ、みなもだよ」
「ああ、みなもちゃん」
「うん」
「久しぶりに声聞いたねえ、お母さんにそっくり」
「うん」
「今、何年生だっけ。待ってよ、いわんでよ。えーと、中学3年?」
「ちがうよ、それはあゆたん。みなもは大学3年生」
「あだん、もうそげに大っけになったかね。そーすーと、えーと、21歳?」
「そうだね」
「まだ子供のような気がしちょったわ」
「うん」
 さっきのあゆたんとおばあちゃんの会話は、こんなだったんだろうな。
「あ、そーで、お父さんに聴いてごしないね。今日ね、お父さんから老人ホームのパンフレットが届いてね」
 あれ? 
「おばあちゃん、それさっき、お父さんと話してたパンフレットのこと?」
「ん、お父さんと話してた?」
「そう、さっき」
「私が電話した?」
「そうだよ。松映シニアレジデンスだっけ」
「ああ、それのこと。あだん、思い出いた、さっきお父さんと話いたわ。歳取るとすぐ忘れえだ。パンフレットはお父さんのじゃないってことだったが」
「そうだね、捨てていいよって」
「あー、安心したわ。お父さんにいっちょいて。私はもう長いこと独りで暮らいちょって、独りが気楽でいいだ。余計なことはせんでいいけんねって」
「うん、分かったよ。伝える」
 それさっきもいってた、とは口にしなかった。
 電話を切って顔を上げると、みんながみなもを見つめていた。みなもの発言から、大体のことは分かったようだ。
「……老人ホームのパンフレット。お父さんにしてたのと同じ話」
「そっかあ」朗は頭を抱えた。「本格的に認知症の始まりかもしれないなあ。よし、週末に様子を見に行ってくるか」
「おばあちゃん、心配だね」と歩がいった。みなもは小さく頷いた。
 今の電話は不穏だった。けれども、しっかり者のおばあちゃんのことだ。きっと大したことはない。そう思いたかった。

【続く】


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