「勇者ヒンメルならそうした」とは何か ~葬送のフリーレンと道徳実践~
0.はじめに
初めて葬送のフリーレンで記事を書きます、そにっぴーと申します。長い間アイドルマスターにどっぷり浸かっていましたが、今年の4月頃に葬送のフリーレンのアニメを見たのが全ての終わり始まり。
食い入るように最後まで見てしまい、それから原作を全部揃え、フリーレン展に行き――と、転がり落ちるようにハマりました。アイマスの出費を抑えて貯金しようと思ってたところでしたが、葬送のフリーレン関係の出費が加速度的に増えつつあります。このままだと炭鉱300年コースです。助けてください。
さて、葬送のフリーレンといえばこの台詞を思い起こす方が多いのではないでしょうか。
「勇者ヒンメルならそうした」
このコマは第35話「旅立ちのきっかけ」にて、フリーレンがザインを旅に誘った理由を語った際のものです。また第2話「僧侶の嘘」で、ハイターが幼いフェルンを救ったきっかけとしても同じ台詞が語られています。今は亡きヒンメルの思想が、後世の人々の行動原理として生きている……という、葬送のフリーレンの物語全体を貫くテーマのひとつです。
私はこのことを考えていたときに、葬送のフリーレンの物語には道徳実践の側面があるなあ、というアイデアに思い至りました。本稿ではこのことについてまとめていきます。ヒンメルならそうすると思いますので。
※原作及びアニメのネタバレがありますので、未試聴の方はご注意ください。
1.道徳って何?
みなさんは小中学校の道徳の授業って好きでしたか? ちなみに私は嫌いでした。先生が指し示す方向に誘導されてる感が胡散臭かったので。同じく説教くさいから苦手という人もいれば、先生の言葉や教材の物語が深く心に残っているという人もいることでしょう。
葬送のフリーレンを読んでいても、ハイターやフェルンにお説教されているフリーレン、シュタルクのしょぼしょぼした姿を見ていると、なんともいたたまれない気持ちになります。私も褒められた人間ではないので……。タマネギ嫌いだし。
しかし、そもそも道徳(教育)とはどのようなもので、どのような目的で行われるものなのでしょうか。これについては一定の共感を得られるのではないかと思っていますので、簡単に触れてみます。
なお、手元にあった10年ほど前の資料を参照しています。もしかしたら内容がアップデートされているかもしれません。予めご了承ください。
まずはこちらをご覧ください。「道徳とは何か」について端的に説明されています。
ここで注目したいのは「自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く」という部分です。やっていいことと悪いことについて、「罰則があるから」「怒られるから」等という理由ではなく、自分の考えに基づいて判断する……その思考の仕組みが道徳というわけです。
そんな道徳を身に着けるためには、他の人の気持ちに対する共感、規則がある理由の理解、はたまた歴史や自然を大事にする気持ち等を育てていく必要がありますね。つまり道徳教育です。実際は細かく多岐にわたる教育目標が設定されていますが……。
それでは道徳教育とはどのようなものなのでしょうか。
要するに道徳教育によって
①よりよく生きる…自分自身について
↕
②かかわりを豊かにする…他者について
という2つの軸での成長が期待されています。
「他律→自律」とは、前に書いた「外面的ではなく内面的な原理で正しいことを成す」ことに対応しています。「結果重視→動機重視」も同様で、「結果(外面)が良ければいいじゃん」ではなく「どんか考えで(内面)そうしたか」を重要視するようになってほしい、と解釈できます。
2.対アウラ戦に見るフリーレンの変化
さて、今述べた「他律→自律」及び「結果重視→動機重視」について、葬送のフリーレンの物語中に分かりやすい例があります。対・断頭台のアウラ戦です。
そう、コイツです。まず不死の軍勢の倒し方に注目します。
アウラと2回戦ったフリーレンですが、勇者一行のパーティで戦った初回と、80年後の2回目とでは全く異なる戦い方をしています。
初回では、数で圧倒する不死の軍勢をパワーにものを言わせてぶっ飛ばしています。しかしそれは、元は人間であった死者に対する弔いの気持ちに欠けた行為であり、戦いの後にヒンメルに怒られています。
そんなことがあったからか、2回目では軍勢ひとりひとりにかけられたアウラの魔法を解除してまわるという戦法をとっています。相手を倒すという観点からは非効率極まりなく、当のアウラからもそれを指摘されていますが、死者を最大限尊重した戦い方です。結果的に「魔力を消耗させた」というアウラの誤認に繋がったので、ある意味効率の良い所作だったのかもしれませんが……。
ここでポイントとなるのが、あの名台詞です。
「ヒンメルはもういないじゃない」
アウラからしてみれば、「ヒンメルに叱られたのが理由で前みたいに派手に戦わないなんて、ヒンメルがいない今は意味ないじゃない」ということです。不死の軍勢をぶっ飛ばさない理由が「ヒンメルに叱られるから」だと解している「他律」であり、また相手を倒せさえすればそれでいいという「結果重視」です。
これに対してフリーレンは静かにブチ切れて、「容赦なく殺せる」と宣言します。フリーレンにとって、ヒンメルの考え方は今でも心の中に生き続けています。だからヒンメルが怒った理由を内心で理解し、それを自分の考えとして取り入れることができたのでしょう。戦いの後に死者に手を合わせるフリーレンの表情の真剣さからもそれが伝わってきます。つまり、きっかけは「ヒンメルに怒られたから」という「他律」かもしれませんが、それがやがて「自律」へと変化したのです。もちろん、戦果だけではなく「なぜそう戦ったか」に理由がある「動機重視」にもなっています。
そのように考えると、この戦いではフリーレンの道徳的な成長が描かれているとも言えるでしょう。
フランメ亡き後、長年を孤独に過ごしたフリーレン。「だらだら生きてきた」と語るフリーレンは、人の気持ちに対してドライ過ぎたという点では小さい子どものようなものです。しかしヒンメル達と出会ってからは、様々な経験を積んでいきます。やがてヒンメル亡き後、人間を知ろうとする中でフェルンやシュタルクと出会い、フリーレン自身がだんだんと変わっていきます。
前章で、道徳性の発達についてこのように引用しました。
フリーレンはヒンメル達、フェルン達といった人間関係の広がりをきっかけに、よりよく生きようと自分を変えていったわけです。フリーレンは、道徳的に発達している最中だと言えるでしょう。
3.ヒンメルならそうした、じゃあ自分はどうするか
今までの話を踏まえると、作中でフリーレンやハイターが発した「勇者ヒンメルならそうした」という台詞の意味が見えてきます。あくまでここでの私の考えですけどね……。
何か選択を迫られたときや、行動を起こさなければならないとき。フリーレンやハイターが思い浮かべたのは、大事な仲間のことでした。勇者ヒンメルならどうするか……と考えたわけです。
これだけだと過去の仲間の考えを真似しているだけにも受け取れます。しかし、そうではありません。
死の淵にいたフェルンに対して、ヒンメルから学んだものを無駄にしたくないと打ち明け、手を差し伸べたハイター。旅立ちをためらうザインに自分を重ね合わせ、自分がヒンメルからもらった勇気と楽しさをザインに伝えようと手を差し伸べたフリーレン。彼らは、行動しました。ヒンメルの考えを真似したところで、その後の責任やらなんやらを受け持つのは自分自身です。それでも、それを引き受ける覚悟で、彼らは自ら行動したのです。立派に成長したフェルンや、確かな歩みを進めるザインの存在そのものが、その覚悟の証拠です。
すなわち「勇者ヒンメルならそうした」とは、
・ヒンメルの考えを参照して
・それによって助けられた自分の想い出を振り返り
・「自分ならこうする」という行動に落とし込む
という、他律から自律への移行という道徳の実践だと言えるのではないでしょうか。
こうは言っても、フリーレンは未熟な部分が多々あります。ヒンメルの死によって急に聖人君子になったわけではありません。しかし、旅を続けて様々な場面に向き合い、不器用なりに相手のことを理解しようと試行錯誤していきます。少しずつ少しずつ、ヒンメルのことを思い出しながら。これが葬送のフリーレンという物語の魅力です。
少しずつしか成長できないのは、長命なエルフも、すぐ死んでしまう我々人間も同じです。それでも、迷ったり悩んだりしたときに、ちょっと子供っぽいけど優しくて熱い心を持った勇者のことを思い出して、自ら行動に移せたらよりよく生きることができる気がしますね。
今回参考にしたのは道徳(教育)のほんの限られた側面です。実際はもっと考えるべき視点(もしくは批判されるべき視点)があるはずです。教育の関係者には怒られてしまうかもしれません。
それでも本稿をきっかけに、「勇者ヒンメルならそうした」という言葉の魅力を振り返り、そしてあなたが小さなことからでもヒンメルに想いを馳せて道徳の実践をしてくれるのならば、ヒンメルも本望でしょう。