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創作檄文

旧作


 今は昔、36℃ごときの平熱を帯びた程度で、その輪郭があやふやになってしまうような、その未成熟な一個小隊は、マスメディアの名のもとに集約され、その誉れを逸した。尖った趣向由来の個性や毒性は有機溶剤で揮発せしめられ、青いお空に露と消えた。もう充分に平坦な表層はさらに何度も踏み固められ、再現可能で復元不可能な形に整形されていったのだ。

 芸術に傾倒し、信仰に近い形式を好む私は、予定調和な一体性に嫌悪感を覚えるが、彼らはその芸術を冒涜するに飽きたらず、普遍的とおぼしき曖昧模糊な価値観と即物的な商人たちとの思惑を合成した、「共感」なるウルトラCの永久反復を芸術家に強要し、以外は評価に値せぬと言い放ったのである。そしてそれに屈したのが、創作檄文以前の芸術家である。

 マスメディアは、あたかもそれが現実に顕在する現象であるかのようにマッチポンプし、一過性のムーブメントを定期的にでっちあげた。彼らはその加担者であった。私にとって、無価値で低廉と思われるその作品群は、労働の対価足り得るのだそうだ。それらは実際、思考停止の人々のタイムスケジュールをびっしりと埋めたのである。メディアは集約と偽装と拡散の洗脳装置であり、20世紀以降の芸術家はおやつをねだるただの豚に成り下がった。

 倫理的逸脱や非道徳的であることは検閲されたのち徹底的に焚書された。どの界隈も中間業者が我が物顔で跋扈し、畑違いであるはずの土壌を根絶やしにした。極端に露悪的な作品にも、その背景には結局容易い綺麗事が潜んでいるのであり、毒々しくも生々しい、ギラギラとした命がけの成果を表現するものは需要の二文字に膝を折ることになる。絶対遵守の規律を無意識下に焼印された自覚なきノンポリのお客様は、マスメディアの提示する価値観に無意識下での絶対忠誠を誓い、誠にめでたき教えを後世へと継承する選民となったのだ。

 その選民たる彼らは、実社会においても無難になんでもそつなくこなし、決して間違いを犯すことがない。修正ペンを持ち歩き、修正ペンを持ち歩く。言わぬが人であり、造花も花である。確固たる一個であることを拒み、意の無き塵やほこりの類いであることを望んでいるようにも思える。空気清浄機を通過しない規格外はキチガイで、非日本人的であり、無事通過したものは晴れて無国籍となるのである。存在しないジャパンはさぞクールであろう。口を開けば否定、否定否定に次ぐ否定であるのは、彼らがその帰属先を持たぬからである。

 流行りの服とイントネーションでベタり、決して逸脱せぬよう細心の注意を払いながら皆が生きている。そんな日常に違和感を覚えるが、ただ安寧で優しい世界を望む大多数に異を唱えられるほどに強くはない。あえてそうしたところで、無視されるか最悪リンチに合うだけである。だから彼らは薄ぼんやりと社会に参画する幽霊として終生非干渉を貫き、この退屈を抱きながら死ぬのである。なんのために生きているのかわからないが、どうせなんのためにも生きられないのであるから考えるまでもないのだろう。

 大概の人間は、目や耳で感じぬ限り己が欲求や趣向性に気付くことがない。このように生きる幽霊たちは、何か強烈なきっかけを与えれば、その選民思想から脱する可能性を秘めている。それはおそらく救済か破戒の体を成すだろう。芸術か宗教、そのどちらかである。創作檄文に賛同する大多数は、その強烈なきっかけを無意識下で私に求めている。なぜなら、あなたがその幽霊なのであるから。

 私の強烈な非日常性に惹かれ、その大それた企みの成就を渇望しているのだ。あなたはそれほどに、日常に飽いている。それではまるで私が開祖のようであるが、否定はしない。この運動は啓蒙的要素を孕んでいる。創作檄文とは20世紀後半から21世紀初頭にかけての日本芸術文化の流れを真っ向から否定し、それら一切と袂を分かつものである。私はこんな芸術文化の在り方など認めない。全創作界隈の有り様を再構築し、力関係を正常化するのが目的である。それが創作檄文であるとここに宣言する。

 創作を志すものは、己の感性と美学に殉ずる気概を持つべきである。普遍的な価値観や倫理観に囚われず、一切の要請を断固拒否し、私が思う芸術をただ展開すれば良いのである。私は、不特定多数の人間の本来性を露にし、よくも綺麗に磨かれた心を霞取って汚してしまうような表現を好む。それは純然たる悪意に満ちている。鑑賞者に死生観を刷り込み、終生に渡るトラウマを植え付ける。それが私の表現である。芸術史上主義者たる私は、作中において殺人もすればドラッグもキメる。生々しくも救い難い、愚かな母親が娘を売るストーリーを仕立て、それを礼賛するような視点からも描く。私は言い値のつかない表現を恐れないし、私が私であることにとやかく口出しするものは、作中において死刑に処す。私は表現の自由からも自由で、どこまでも自由そのものなのである。

 だがあなたは、長い間マスメディアと選民の板挟みにされ、本性を圧し殺して生きてきた。ネットでリンチされることを恐れ、そのめでたき毒性と変態性とをひた隠しにし、己をも欺いてきたのだ。でなければ作品を世に放つチャンスを逸するからである。だからあなたの作品はそんなにも凡庸でつまらぬのだ。それはあなたでなくても良いのである。あなたである必要性がないのだ。

 意見の相違や対立こそが好ましきことではないのか。我々の熱量はその摩擦によって生じるのであるから。差別や偏見から新たな可能性が芽吹くこともある。それは人類の歴史を振り返れば明らかだ。私は正誤で判断することを嫌う。なぜならそれは、片一方を絶やすことが目的となるからだ。我々に完全一致などあり得ない。であるから、一切を尊重すべきである。これは殺人衝動をも肯定するに繋がる危険な考え方であるが、逆の立場に立てば善として殺人を行うに至るのである。十字軍然り、文化大革命然り。どの立場を取ってもその問題は生じうるのであり、人間はこの問題から決して逃れられないのだ。なぜならそれは人を人足らしめんとする性なのであるから。であるならば、常に無限のバリエーションを生かす選択をせよ。我々芸術家にとって、多様な価値観は潤いとなるであろう。

 我々が芸術家としての覚悟を決めぬ限り、鑑賞者はその悪い夢から醒めることはない。私は彼らを選民と呼ぶが、決して見下してはいるのではない。彼らは単に、芸術を知らぬのである。マスメディアはもはやかつてのように機能しない。集約された個は返上され、今やその主従関係は逆転した。だが、その命の根底に流れる普遍的とおぼしきその何かは未だ彼らの行動規範として生きている。テレビの6チャンネルが、ただ数千万に分散したというだけの話である。

 テクノロジーの進歩や環境の変化により、作り手の母数は膨れ上がり、認知されることなく淘汰されるのが当たり前となった。1日は今も昔もこの先もずっと変わらず24時間なのである。大量のコンテンツが溢れかえっているという認識だけでは足りない。1時間に詰め込める情報量が爆発的に増えたのである。例えば、今はゲームをしながら映画も観られるし、同時にスマホでSNSしながらタブレットで株価もチェックできるのだ。一切のコンテンツが速読されていく。同時進行するそのタスクの数に応じて、各々は希釈され透明に近づいていくのだ。いくらディテールにこだわっても、同時再生される郵便ポストの赤に負ける。太郎と次郎の違いはもはや重要ではなく、ストーリーの大筋さえ追えればそれで良いのである。これは生活様式の明確な変化であり、21世紀よりずっと続いていく、芸術家のジレンマとなるはずである。

 そんな時代における芸術家は、余程ぶっ飛んだ持論でも展開しない限り生き残れはしないだろう。創作檄文の対象を作り手に限るとした理由がそれである。芸術家として自立するよう啓蒙することが一つ、そしてそれだけでは到底足りないと警笛を鳴らすのが一つである。これからの時代はそう容易くはない。ある分野はいずれ自動生成されるものに取って変わられるのは明白であるし、新型コロナの影響で喪失される文化もあろう。

 例えばそれは空間である。私たちの神社仏閣であるその空間の喪失は、それイコール死を意味する。多くのアーティスト生命を奪うだけではない。先人が命がけで連綿と紡いできたそのストーリーは、演者全員の突然死という形で唐突に幕を閉じるのである。この記事を書いているのは2021年9月19日である。杞憂に終わるということはおそらくないであろう。遅きに逸した。間に合わなかった。今後、配信という形がスタンダードとなるであろうが、そんなものは代替にはならない。低音が臓器を揺らすあの感覚は、フロアを全員で創作するあの感覚はもう得られないのである。

 一つの時代の幕が閉じる。次の新たな時代を作るのは私ではないし、あなたでもないだろう。だが、私はそれでかまわない。私はただ、芸術に殉じて潔く美しく散りたいのである。それは抑えきれぬ衝動で、ただただ美しいのである。それは私を闇の中に引きずり込むのかもしれないが、そんな闇があるのならば、この目で見てみたい。そして地の底で汚れ、常軌を逸したひとつの作品となって私は死にたいのである。

 「札幌の風雲児が今急を告げる」。

 最後に、創作檄文への参加方法とその狙いを綴って締めようと思う。

 ・参加方法は創作檄文の公式Twitterアカウントをフォローし、公式がフォロー中のアカウントを全フォローする。ただそれだけである。その狙いは、Twitter文化の破壊と賛同者のリスト化である。フォロワー数など、頭を下げた回数に過ぎず、何の価値もない。自力で一生懸命やるのは良いが、それが作品の評価に繋がるわけではない。時間の無駄である。そんなものは他力でショートカットすればよい。次にリスト化だが、創作檄文の名の下に集まれば、この運動に興味を抱いた人間はあなたにたどり着けるようにはなる。大きな運動になれば、そのリストからめぼしいアーティストをメディアが取り上げるようになるだろう。

 ・SNSの台頭により、マスメディアが衰退したことで、我々は個を奪還した。今ある仕組みを正しく利用すれば、その価値観を維持したまま再集約可能である。かつてのラジオやテレビが担っていた機能を創作檄文が果たすのである。私が声を上げたのは、商業主義に再び組み込まれるという二の轍を踏まぬよう、芸術家が呼び掛けて芸術家が応じるという形式を取る必要性があったからである。

 ・創作檄文という装置は、今後一切の芸術の源泉となるだろう。ただし、我々は完全実力主義者であろう。再生数の確保や特定のアーティストをみんなでスターダムに押し上げようという動きは違う。もしその動きが出たら、容赦なくブロック対象とする。

 ・創作檄文それ自体の活動は、公式YouTubeチャンネルにてプレイリストを作る程度に留める。条件は、動画の冒頭に創作檄文のロゴか文字を差し込む。ただそれだけである。手数料は取らない。我々はどこまでも非営利を貫く。

 ・創作檄文から派生する運動を大いに推奨する。アイデアはあるが同意を得られないのであれば、創作檄文の名を借りればよい。我々はできる限りのサポートをするつもりである。

 ・創作檄文はTwitter発の運動であるが、議論は公式Discordにて行う。単にTwitterは議論に不向きであるからだ。この運動の門戸は常に開かれている。入るも抜けるも自由にやればよい。

 2021年9月19日F-MAD

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