ハンドルネーム、掛け算とエロス

・よく、友人と10時から散歩に出かける。
散歩に行ったら、私たちはだいたい当たり障りないことを話す。
冬と夏はどっちが好きかとか、人と話す時なんて切り出して話しだすかとか、自分の行動の基本動機はなにかとか、そんなことだ。
友人と散歩に行く約束をしている日は、大体一日元気に生活できる。
元気とはいってもそれは字義的な元気というより観測的(他者から見て、という意味)な元気というのが正しい。実際には何日も連続してそういう日を送ったら疲れ果ててしわ寄せが来るからだ。
逆に一日何の予定も入れないと、一日中寝てしまう。
本を読むのも、勉強をするもの、動画を観るのも、大してできない。
それだけ寝たら字義的な意味で元気になれるかと聞かれると、そんなことはない。
だるくて、自分が泥にでもなったかのようにウンザリする。
夜も憂鬱で、お風呂に入るとか食事をするとかも億劫になる。
そうなのであれば、元気なフリを続けて、午前中毎日予定を入れた方が、精神の為の健康としては良いのではないのか。いやそんなことはできっこない、そんな自問自答を繰り返している。
 
光合成をしていない植物は、酸素を吸って、二酸化炭素を吐いて生きている。
ここで植物の存在価値が、酸素を作り出すという事だけだと仮定する。
その上で限定的に植物を見たら、夜の植物は存在価値が無いという事になる。滅茶苦茶な話だけれども。
私のハンドルネームはそこから来ている。
「夜の植物」はただ酸素を吸って二酸化炭素を出すだけの存在であるという自虐。
私が人間になるか、夜の植物になるかは毎日朝に決まっている。


・村田沙耶香さんの「となりの脳世界」を一日数ページずつ読んでいる。
この本の中でも何度も触れているのだが、村田さんは「性」を意識するのが、とても早かったらしい。
村田さんの「性への過敏な意識」を由来とした「女扱いへの嫌悪感」が綴られていた。
それで小学生の頃の話にしても、その文章は色気を纏っている。
小説を読んでいても、「村田さんの文章ってなんか独特なエッチなんだよな」と思っていた。
そのエッチさの中に、苦しみも垣間見えるとも思っていた。
この本を読み始めて、エッチさと苦しみ、その二つのエッセンスの源泉が分かったような気がした。
 
性への苦しみって、エッチさを生み出すと思う。
私は一時期、それも成人する前後2年間くらいの時期、自分の性欲と女性性に対してとてつもない嫌悪感があった。
その嫌悪感を消化するために官能小説を書いていた気がする。
これも感情と行動は矛盾しているのだけれども、事実そうなのだ。
村田さんも同じように、この二つに対してある程度嫌悪感があってのあの空気感の文章なのだと思う。
官能小説を書くという行為自体、マスターベーションみたいで自己嫌悪を感じていたが、村田さんの苦しみとエロスの根源を知って、私は自分勝手に共感して、少し救われた。
村田さんの脳世界は、そんなつもりは毛頭無くて、私も彼女も自己満足に近い結論なのだと思うけれども。

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