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美しい安全基地から悲しみにアドバイスし続けた代償

前回、出来事への悲しみという反応による身体反応が、Fの場合は食欲を一気に無くすということ、そして何らかのきっかけ(五感、脳、感情)でそれは雲散霧消になったように見えても、すでに存在している悲しみが消えてしまったわけではないことをお話しました。

今回は「じゃあ、悲しみを癒すために何か取り組みをしようじゃないか!!」という心が仕掛けてくるトリックについて書いてみようと思う。

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Fは心理学をかなり学んできたし、きちんと目の前の出来事から逃げていないという自負がありましたが、それは「思考」で解決していたということが最近ようやく腑に落ちました。

その思考による出来事への解決や、感情的な反応への解決とは

①相手の立場に立ってみる
②自分の言動行動を振り返って反省する
③誰かほかの人の意見を聞く、相談する
④自分が尊敬する人の意見を聞く
⑤ヒントとなり得るような本を読みあさる
⑥出来事へ何らかの意味を見出そうとする


などなど、他にはポジティブに解釈してみたり、「この程度ですんで良かった」と強がってみたり、まぁ、とにかくいろいろ、このモヤっとした心もとない気分を解消するためならどんなことでもしたったるで!!ってな気合で、それはそれは縦横無尽、右往左往、試行錯誤しながら時間をすごしていたわけです。もうやめられない、止まらないかっぱえびせん状態ww

でも最近ようやく気付いたんです。

それって刺激であり、麻酔であるということに。アルコールと同じということですね。

それをしている最中は、物事がどんどん解決の方向に向かっているような気がするし、自分の気持ちや気分も少しずつ晴れていくような気がする。そして実際に物事も解決して気分も晴れていくんですよね。

でも深い部分にある悲しみはなくなってないんです。

「いやいや、そんなことはなくて~、全部ではないけど、かなり悲しみへの理解が深まったし、次回からはその悲しみを刺激しないように言動行動も気をつけることが出来ると思うし~、悲しみ自体も理解されたことでかなり減少されたと思うよ?」ってつい最近までのFなら言っていたと思います。

でも今回、とある出来事に対して「あぁ、私は本当に寂しいし、悲しい」と心から感じたんです。悲しくて仕方がない。他人から見たらこんなにくだらない出来事なのに、私は悲しいんだ・・・ということに心から気づいたんです。

今までは、学んで調べて相談して、そんな悲しい心に対して「それは、こうこう、こういう仕組みになってるからだよ、良かったね!ようやくわかったね?腑に落ちたね!!」とやっていたんですね。

私は以前から、すでに感じてしまったこと、思ってしまったことに対して「解釈を変える(自分の人生を良くするために)」ということは危険だということをいろんなところで言ってきました。※今でもそう思っています。

でも解釈は変えずに、その出来事や心を分解して、理解して、共感しても、悲しみそのものに対してはダイブしてなかったんです。悲しみの周りをきれいなものや知識で固め、安全基地を創り上げてから、そこから悲しみを眺めて「こうだよ、ああだよ」って言ってたんです。

それって解釈を変えることと、ぶっちゃけ見え方が違うだけで同じってことなんですよね ♪~(´ε` )

エゴが美しい安全基地に行ってから、悲しみに対してあれこれアドバイスする様子


そうではなくて「悲しみ」に直接ダイブしていくこと。これをしないと、また別のタイミングで、しかももっと大きな問題となって悲しみを感じる出来事が起こってくるんですね。

感情そのものに直接ダイブする様子

とはいえ・・・

これすらも、つまり「今悲しみにダイブして、感情を感じ切る」ということも、「いずれ大きな問題に遭って、感情を感じざるを得なくなる」ということも、それぞれの肉体精神機構によって決まっているのです。

この文章を読んで、悲しみにダイブしてみるのであれば、それはその人のシナリオにあったということ。ピンと来ず、実際に大きな問題に遭遇して否応なしに悲しみを感じることになるのもその人のシナリオ、「いや、私の悲しみは深くないから俯瞰の理解だけで大丈夫」と思えば、それもその人のシナリオということです。実際、のらりくらりと身を交わしながら、苦しんでも麻酔をかけ続けて、肉体の終わりになる人がほとんどだと思います。

「じゃあ、悲しみを癒すために何か取り組みをしようじゃないか!!」ということも、それがエゴが仕掛けてくるトリックだ知ったとしても、その人に起こってくることならシナリオにあったってことじゃん!って思った方。

そうなんですよ、どこまでいってもその人に起こることは誰にもわからないし、コントロールできないんです。

ただ、悲しみへの知的な取り組み、それは苦しみにしか繋がらないよ?ということを、Fの経験から述べているということ。「いや、そんなことないでしょ」とFに対して思うのもその人のプログラミングによるし、「その通りだ!」とFに対して思うのもその人のプログラミングによる。

つまり、Fという肉体精神機構では「悲しみを癒す」ということが起こってきているし、意識の探究もどうしたって止められないし、何もコントロールできないということ。

よくスピリチュアルインフルエンサーの方が「私の言うことも信じなくていいんだよ~、ピンときたら採用すればいいんだよ~」というような趣旨のことを言うけど、正確に言うと「私の言ったことを信じるのも信じないのも、採用するのかしないのかも、それがあなたに起こるかどうかは誰にもわからない」ということなんですよね~。

「だったらどうとでも言えるじゃね~か?!」って思うんだけど、ほんとのところ実際そうなんです。ただ、言う側の補足説明が足りないのと、受け取り手の側の成熟度(未熟が悪いのではない、ただミスマッチングというだけ)がまだまだだと、そういう現象は起こりますよね~、至るところでって話。

そこをどんどん見抜いていって、この世(二元の幻想)の仕組みを知っていくということが今Fには起こっています。

他人の言動行動に慈悲が起こってくるというのが、今少しだけわかり始めてます。いつだったかどこかでFが言った「パラパラ漫画の中に一瞬『他人の言動行動への慈悲』というのが挟み込まれていた」という感じ。


だってもう何人たりとも、自分がしたくてやってるわけじゃないんだもの。上から目線でアドバイスなんてマジでできなくなりますね~。そのやり方はおかしいとか、直せとか、こうしろああしろって言えなくなりますね~。

言ってた自分が恥ずかしいです。まぁその時はFにもそうするしかなかったんですけどね。

2024年5月20日現在、Fがわかってること、感じてることはここ止まり。そしておそらく今後は「体感」がFにきてる感覚です、まぁわからんけどww

再度までお読みいただきありがとうございます。


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