「第2章 武士道の源はどこにあるか」について

前回の記事では武士道とはなんぞやという話でした.
今回はその武士道はどうやって生まれたのかという記事になります.
前回は「武士道」の内容をほぼそのまま書きましたが
今回は逆にほとんどが僕の解釈です.
勘違いしてるところも多々あると思うので鵜呑みにしないでください
あと詳しい人は色々教えてください.

3つの源泉

武士道の源泉は大きく分けて3つあると考えている.それは
  ・ 仏教
  ・ 神道
  ・ 孔子の教え
の3つだ.

仏教が与えたもの

まずは仏教から.仏教は武士道に対して
常に心を平静に保ち,生に執着せず,死と親しむ心を与えた.
と新渡戸稲造は述べている.

一流の剣術の師匠である柳生但馬守宗矩(徳川将軍家の兵法指南役)は
剣の極意を会得した弟子に対して
「私が教えれるのはここまで,これより先は禅の教えに譲らねばならない」
と告げたそうだ.

「武士道」によると禅とは

言語による表現範囲を超えた思想の領域へ,瞑想をもって到達しようとする人間の努力を意味する

ということらしい.武士道とは関係のない話かもしれないが,これの面白いところはある状態に到達することではなく,人間の努力自体を禅と述べていることだ.

ここから考えられることは,そもそもその領域には到達することは不可能であり,重要なものは過程とそこで得られる何かなのだということだ.
キリスト教の「Love」という概念にも同じところがある.(気になる人は伊藤整の「近代日本人の発想の諸形式」を読むと何を言っているか分かると思います.)

新渡戸稲造は禅の目的を
全ての現象の根底にある絶対そのものを悟り,絶対と自分を調和させること
と述べている.

仏教が武士道に与えたものの1つである「生に執着せず,死と親しむ」は
禅の「絶対と自分を調和させる」という発想からきていると思う.
死は絶対の1つの要素であり死を含む絶対と自身を調和させれば死を恐れる必要はない.
生も死も絶対のなかにあり,絶対と調和すればどちらの状態も恐れるに足りないからだ.

もう1つの「心を平静に保つ」というのは
瞑想によって与えられたものであり
死と親しむために必要不可欠だったものだ.

禅では絶対と自分を調和させるための手段として座禅と瞑想があり
それが心を平静に保つということだと考える.

これが武士道にとってなぜ必要なのかということは今は後述するため
今は書かないが一言でいうと生きるときに生き,死すべきときに死ぬ
ということにつながる.

神道が与えたもの

神道の教義は侍たちに
「主君に対する忠誠,祖先に対する尊敬,親に対する孝心などの考え方」
を与えた.
これによって侍たちの傲慢な性質に忍耐心や謙譲心が植え付けられた.

神社には鏡がおいてある.これは心が完全に平静に澄んでいれば
そこに神の姿を見ることができると神道では考えるからだ.
人間の魂の生来の善良さ,神にも似た純粋さを信じているからである.

この「完全に平静に澄んだ心」というのが
忍耐心として武士道に表れたのではないだろうか.
仏教でも同じようなことが書かれていたが違いは分からない.

謙譲心については正直よくわかっていない.
新潮現代国語辞典第ニ版にて「謙譲」の意味を調べると

相手を敬って,自らを卑下すること

とある.
いかにも日本人らしい心だ.

分からないなりに考えてみるが
この謙譲心とは他者に対して尊敬の念があることが第一であり
自らを卑下するというのはその表現方法でしかないと思う.

何がどうなって卑下するという表現方法に至ったかは分からないが
他者を尊敬するというのは武士道において忠誠心と愛国心なのではないだろうか.

武士たちの尊敬する他者とは自身の主君,故郷(国土)だと思う.
謙譲心は主君への忠誠と愛国心となって武士に植え付けられたのだと思う.

色々と考えて書いてみたが結局は神道のなにがどう繋がって
忍耐心や謙譲心,忠誠心に愛国心となったのかはよく分からない.

原因は神道を何一つ学んでいないからだと思うので
神道について調べたら新しい記事でも書こうと思う.
神道について詳しい人はおススメの本とか教えてください.

孔子の教えが与えたもの

武士道の道徳的教義に関しては孔子の教えが最も豊かな源泉となったと
「武士道」では書かれている.
武士道の道徳的教義がどのようなものかは後の記事で書くため
ここでは書かない.

孔子や孟子の教えは若者にとっては重要な教科書に
大人にとっては議論のときの最高の権威となった.

しかしただこの本の知識を有しているだけでは嘲笑の対象にしかならなかった.

三浦梅園は学問を青臭い野菜にたとえ

青菜はその青臭さを取り除くために何度も茹でなければならない.
少ししか読書をしない者は少し学者くさく,
大いに読書をしている者はさらに学者くさく,
どちらも同じように困りものである.

といったという.

これは知識はただ知るのでは意味がなく,その人の行動や品性に表れて初めて真の知識となるということだそうだ.

武士道は知識を重んじるものではない.重んずるものは行動である.
と新渡戸稲造は述べている.

中国の思想家である王陽明の言葉に知行合一というものがある.
これは知識と行動を一致させるという意味の言葉だ.

武士道におけるあらゆる知識は,人生における具体的な日々の行動と合致しなければならないものと考えられたのである.

まとめ

武士道が源泉から吸収し,わがものとした本質的原理は単純で決して多いものではない.だがこれは不安定な時代の危険な日々にあっても十分な精神的な糧となった.武士はこれらから新しい型の人間形成をなし得たのである.

フランスの学者である,ド・ラ・マズリエールは16世紀の日本の印象をこう述べた.

16世紀の半ばの日本では,政治も社会も宗教も,すべてが混乱していた.
だが,あまたの内乱で作法が野蛮時代へと戻るや,
それぞれが独力で正義を遂行する必要性が出てくると,
テーヌ(フランスの哲学者)が
「精神的な主導力,素早い決断力,大いなる実行力と忍耐力」
と褒め称えた16世紀のイタリア人に勝るとも劣らない人々が,日本でも生まれたのである.

今日の日本も新型コロナウィルスの影響から
混乱していると言っても良いと思う.
混乱という視点のみからだと,16世紀半ばの日本も現在の日本もそう変わらないのではないだろうか.

偉そうなことを言うようで恐縮だが
ただ訳の分からんウィルスにおびえて過ごすだけでなく
この時代における
「精神的な主導力,素早い決断力,大いなる実行力と忍耐力」を持った人間
になれる絶好の機会だととらえたほうが楽しいと思う.

別に混乱していることが嬉しいわけではない.(飲みに行けないからむしろ腹立たしい)
起こったことはどうしようもないから楽しんだ方が幸せな気がするだけだ.

武士道に関係がないですが,なんとなく書いてるうちに思ったので書かせてもらいました.
次はいよいよ武士道の中身に入っていきます.最初は「義」です.

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