「第3章 義-武士道の礎石」について

今までは武士道というものについてのぼんやりした全体像にしか触れてきませんでしたが,ようやく武士道の各要素について書き始めていきます!!!
正直に言ってテンションが爆上がりしています!
まとめたり考えたりしていて楽しかったです!!!

ちなみに今回の記事も前回の記事同様に僕の解釈入りまくりな内容なので鵜呑みにしないことをおすすめします.

それではさっそく本文に入っていきます!(読んでる人が置いてけぼりなのは分かっていますが許してください.

義というものの位置づけ

「義」は武士の掟の中で,もっとも厳格な徳目である.
と新渡戸稲造は述べている.

また林子平はこれを「決断する力」と定義し,次のように語った.

義は自分の身の処し方を道理に従ってためらわずに決断する力である.
死すべきときには死に,討つべきときには討つことである.

また真木和泉守は節義を人の体でいうところの骨とし,
次のように語った.

骨がなければ首も正しく上に載っていない.手も動かず,足も立たない.
(中略)
節義さえあれば社交の才など取るに足らないものだ.

ここまで様々な偉人の言葉を述べれば義がどのようなものか理解できると思うが,最後に孟子の解釈を述べておく.

「義」とは,人が失われた楽園を取り戻すために通らねばならない,真っすぐな狭い道のことである.

ようは人間形成の基盤となる土台のようなものであり,人の道なのだ.

正義の道理

義からの派生語として義理という言葉がある.
これは「正義の道理」という意味である.

これは次第に
・世論が定めた果たすべき義務
・世論が期待する個人的義務感
を意味するようになった.

人々が親や目上の者,社会一般に負う義理について話すときは
義理は義務のこととなった.
なぜなら義務とは「正義の道理」が要求し命じる以外の何物でもないからだ.

義理とは行動の動機付けであり,義理から強いられる行動が義務である.
なぜ義理が義務に対する動機付けとなったのかを説明するために例を示す.

たとえば子が親に対して親孝行を行うのは義務であるとされた.
その動機は一般でいえば愛とされる.
しかし両者の関係に愛がない場合,なんらかの他の権威が必要とされる.
そこで人々はこの権威を義理とした.

新渡戸稲造は権威を義理としたことを「極めて正しかった.」と述べた.
その理由は愛が徳の行動(先ほどの例では親孝行)に結び付かない場合は
次に頼りとなるのは人の理性だからだと述べている.
その理性は直ちに人に正しく行動することを訴える.

たとえ義務が負担になった瞬間でも,
正義の道理」が人々に徳の行動を命令する.
つまり義理とは厳しい監督者となって鞭を手にし,
怠け者になすべきことを実行させる.

義理を権威とすることから感じる矛盾

前回の記事で「人々の本質的な精神の光は純粋である」
と述べた.

しかし,武士道では徳の行動の動機付けとして愛情ではなく義理を用いた.
また新渡戸稲造は義理とは理性とした.

人々の本質的な精神の光が本当に純粋であるならば
動機付けには本能的なものである愛を用いるべきではないのだろうか.
実際にキリスト教では愛の教えを動機づけとして用いており,
新渡戸稲造は動機づけの要因として,義理は愛の教えに劣ると書いている.

義理を動機づけとする武士道は本当は人々の心の本質的な光は純粋であるとは考えていないのだろうか.
それとも徳の行動の動機と人間の心の本質は別のものとしているのだろうか.

社会における義理の役割

矛盾に対する自分なりの答えは

義理とは社会を回すためのものであって
「人の本質的な心は純粋」という話とは別物である.

というものだ.

新渡戸稲造は義理が動機づけの要因として
キリスト教の愛の教えに劣る理由は

義理が人間社会がつくりあげた産物だから.

と述べた.また義理が置かれる社会条件として

自然な愛情が人間のつくった恣意的な習慣にしばしば屈服させられるような,そんな社会条件の中にある.

とも述べた.

武士道が生まれた社会というのは封建制の社会であり,
その階級社会のなかの最小の社会的単位である家族では
才能の優劣より年齢が重視される.

封建制という社会をうまくまわすためのものとして義理をとらえるなら
義理は現代においては法律である.
多くの人間が集団で生活するためには社会を円滑にまわすための
なんらかのルールが必要だ.
封建制の時代ではそれが義理として,
現代ではそれは法律ととして
定められているのではないだろうか.

まとめ

この記事の冒頭で述べたように本来「義」や「義理」とは孟子が述べたように人の道なのである.

しかし,封建制という社会において義理は従う必要のない,
間違った正義すらも取り込んでしまったように思える.

本来は正義の道理であるはずのものが時とともに堕落し
卑怯者の詭弁として用いられた.

英国の小説家であるスコットは愛国心について次のように述べた.

それはもっとも美しく,それゆえにもっとも疑わしい.
一方は他方の感情の仮面である.

これは義理についても同じである.
正義の道理から離れた義理は多くの偽善を隠し持ち,言葉の誤用を生んでいる.

しかし新渡戸稲造は武士道における義理はこのような卑怯者の詭弁にはなっていないと述べている.
それは武士道が明確な正しい勇気と,敢然と耐えうる精神力
を持っていたからだそうだ.
次の記事は勇気と忍耐である「勇」という徳目についての記事です.



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