見出し画像

岡村篝火祭縁起

 本作品は「岡村巨像合戦」として、以前に冒頭部分のみ発表したものを発展、改題したものです。また、本作品は暴力・残虐描写を含みます。予めご了承下さい。

第一幕(長月)

 とととん(いいよ)
 ぽん(わかった)

 この手のことは何度も経験済みだけど、いつも手と腋が汗でぐちゃぐちゃになって臭くなるし、ふくらはぎに何かが這い回るたびに、思わず息を飲んでしまう。まだ残暑も厳しく、たとえ夜でも丘に棲む蛇やら虫やらは大人しくならない。ひいっ、いまなにか、さあっと硬い毛のハケで撫でるように何かが通っていった。足首のあたりだ。

 ムカデだったらどうしよう。足の多いやつはもう勘弁してほしい。虫刺されなんてのはよくあることで、気にしても仕方がないとはおもう。蚊だって血を吸わないとやっていけないのだ、少しくらいならくれてやろうとは思う。ブヨとかアブも我慢できる。ハチだって経験済みだ。

 でも、こんな真っ暗闇の夜に、足の多いやつが服の中に入ったときの恐ろしさは別だ。くるぶしかな、ふくらはぎかなとか思ってるうちに、もっと上のほうへとやってくる。あの時は冷や汗ダラダラになっていたところを、アヤメちゃんが素手で虫を取ってくれたのだった。

とんとん(平気?)

 あばらを叩かれて我に返った。虫の感触はもうない。慌てて九寸五分を引っ張り出そうとすると、アヤメちゃんが私の手を抑えた。どうしたのかなと暗闇で表情を伺おうとすると、手をゆっくりと、まるで流れる雲の速さとおなじくらいに動かした。鞘走る音を聞かれないようにしてと、いうことだ。

 稜線の見張りは二人。星明りだけを頼りに狙いをつけると、ウチらは笹薮から跳ね起きた。刀身の回転を計算しつつ、腕を木弓のようにしならせて墨で黒くした得物を投げる。気付いたときにはもう手遅れ。

 見張りの体には鋼が吸い込まれている。アヤメちゃんは一人仕留めた。
 ウチはしくじったらしい。もう一人が腰を押さえてよろめいている。
「く、くせも…」
 半矢の鴨みたいになった敵が、丘の上の巨像に体を預けて、声を上げようとする。騒がれるとまずい。麓まで声が届くかも知れない。でも他に武器がない。どうしよう。

 ウチが迷っていると、アヤメちゃんが飛び出した。
 南斜面から稜線へと身を低くしたまま、まばらな竹や木のあいだを駆けぬけて、敵が抜こうとした短めの脇差を奪い取る。敵の口を塞ぎながら肋の隙間から刀身を差し入れ、ウチの短刀で止めの一撃。ほんの一息のあいだのことだった。

 ザリッ!
 アヤメちゃんの手腕に見とれていて、足元がお留守になっていた。夜露に濡れた斜面で枯れ笹を踏んづけてしまい、草履がすごい勢いで滑った。星空が急に動き始める。

「だいじょうぶ?お蝶ちゃん」

 ウチの鼻が地面と「こんばんは」せずにすんだのは、アヤメちゃんのおかげだ。うっかり足を滑らせた私の腕を掴んでくれた手は、汗臭くないどころか何にも濡れてなかった。さっき、どう見ても柄まで短刀を突きこんでいたはずなのだけど、返り血を浴びたようにはみえないし、鉄臭い匂いもしない。

「うん、ありがとう」
「よかった。合図をお願い」
「わかった」

 アヤメちゃんの黒玉みたいな瞳に星が映っている。ウチらが二人とも乳母(というのはウチから見たときの話)の懐に抱かれていたときから全然変わらない、きらきらした瞳だ。

 背負ってきた松明を外してもらうと、ウチは火口と火打ち石を取り出した。カチッ。一回で火がついた。ここで手間取ったら、帰ったあとでお兄ちゃんに大目玉を食らってしまう。そっと息を吹きかけて火を大きくしていく。

「もういいんじゃない」
「そうだね」

 赤と黄色の炎をいい具合に上げている火口を、ササラみたいに割れている松明の先に突っ込んで、手をさっとひく。途端に火は大きくなり、松脂の燃える匂いがあたりに立ち込めた。お兄ちゃんは鞍の上でしびれを切らして待っているはず。はやく成功の合図を送らないと。

「ここならだいじょうぶ」
「ありがとう」

 滑りにくくて平らな場所をアヤメちゃんが見つけてくれた。両足でしっかりと大地を踏みしめて、ウチは松明の灯で「へ」の字を三回、宙に描いて首尾を知らせた。地面に擦り付けて松明をしっかりと消す。冬はまだ先だけど火の用心は大切。

「ねえ、アヤメちゃん」
「なに?」
「北側、見てみよっか?」
「わかった。ついてきて」

 もう遅い時間だし、帰ったほうがお肌にもいいのだけど、怖いもの見たさが勝った。素直に家に帰ろうとせず、夏の虫みたいに戦に吸い寄せられてしまうのは、やはり同じ両親から生まれた兄妹ゆえだろうか。

 アヤメちゃんは猫みたいにひょいひょいと軽い足取りで稜線へ向かう。ウチも急いであとを追いかける。跳ねてきた細い枝が目に刺さりそうになったり、マムシが見えた気がしたりして、ひやっとした。

 稜線を越えると、もう火の手が上がっていた。お兄ちゃんの言う「祭り」だ。

***

「鹿太郎や、この文書は我が紅葉家の宝なんだよ」
「字がきたなくてよめないよ。なんて書いてあるの?」
「だいたいこんなところだ。『冬至の日、お天道様が出てから沈むまでの間、丘の上にある巨像様が影を投げかけている岡北の土地は、われわれ紅葉家のものだから誰も…』」

 お父さんは、お話よりあたまのほうがおもしろい。去年、お母さんが死んだあと、何も言わずにいきなり髪の毛をそって、灯りがうつるくらいにピカピカになったからだ。

 まわりの大人は、お父さんがシュッケしたといった。ぼくは違うとおもう。シュッケした人はお寺にいったり旅にでたりするけど、お父さんはずっと家にいるからだ。

「ねえお父さん、お天道様もお月さまもが出ない夜は、誰のものなの?」
「コラァッ、鹿太郎!人の話を遮るんじゃないっ!」
「わあっ、ごめんなさい」
「うむ、わかればよろしい」
 逆さハの字になっていたお父さんのまゆげが元どおりになった。

「この文書はな、大変ありがたいものなんだぞ」
「なんで?」
 お父さんは大きくうなずくと、紙にかいてあるラクガキをゆびさした。
「よく見なさい」

 ツルベから蛇がのたくってでてきたような絵だ。
「このラクガキがどうしたの?」
「コラァッ!何てことを言うかァッ!」
 すごい大声だ。舌がとびでて障子を突きぬけるんじゃないかとおもった。いったいぼくは何をまちがえたのだろう。

「この花押はな、相模国は鎌倉で、先の征夷大将軍殿から直々に頂いたものだ」
「ふーん」
「この文書が、紅葉家の岡北の所領を安堵してくださるのは、ひとえにこの花押が、先代の鎌倉殿が直々に書いた花押があるからだ。ただ文字を書き連ねただけでは、それこそ落書きだよ」

 カオウよりも、ぼくが土にかく絵のほうがきれいだとおもうけど、お父さんがいいたいことは絵の上手い下手ではないらしい。
「わかりやすくいうと、巨像様と、この文書を大事にしていれば、お父さんもお前もずっと幸せに暮らせるんだよ」
 お父さんが念を入れてきたので、ぼくも返事をした。
「はい。わかりました」
「よし」

 ぼくには、もうひとつ気になることがあった。
「お父さん、トウジってなに?」
「冬至というのはなァ、そうさな、影が一番長くなる日だ。いまは長月の晦日だから、しばらく先の話だな」
「うん、それは知ってる。なんで長くなるの?」
「それはな、お天道様が、こう、低いところにいるからだよ」

「なんで低いところにいるの?」
「あー、えーと、まあ、それはだな、陰陽師じゃないと分からん。お父さんは坊さんだからな」
「ふーん」

 ぼくがくちびるをとんがらせていると、お父さんがまた話しかけてきた。
「さあ、寝る前に、父さんがさっき何を話したのか、いってみなさい」
「えっと、巨像様がアンタイなら紅葉家も安心。あってる?」
「偉いぞォ!鹿太郎。正解だ。安泰なんて難しい言葉、よく覚えたなあ。うん、偉いぞォ、さすがは父さんの子じゃァ!一人息子が立派に育ったとしったら、極楽浄土にいるお母さんも喜ぶぞォ」
 さっきまでは困ったような顔をしていたのに、こんどはとびっきりの笑い顔になった。

「うん、旅のお坊さんにおしえてもらった」
「そうかそうか、お前は人見知りをしないんだなァ」
 ニコニコしたまま頬ずりまでしてくる。おなじピカピカあたまでも、お父さんと旅のお坊さんでは知ってることがぜんぜん違うと、いうのはやめておいた。また怒られるといやだから。

 あたまはおもしろいけど、近づかれるとクサくていやだ。がんばってお父さんからはなれようと首をまげると、表に光がみえた。
「あ、火矢だ」
「火矢とな?お前は弓馬の道の言葉もわかるのか、ああ、危ない目には合わせたくない、合わせたくないが、物知りに育ってくれるのは嬉しいぞォ」
「じゃなくて、ほら、あそこ」
 とおくに見えるお百姓のお家のかやぶき屋根に、蛇の舌みたいに赤い炎がくっついていた。お馬さんたちの蹄の音もきこえてきた。

「ヌウゥゥ。岡南の青二才めがアァ。成敗してくれる!」
 お父さんは大なぎなたをつかんで飛びだすと、夜討ちだと子分の人たちに大声で知らせてまわった。

***

 頭上から蹄の音が響いてきた。肩を預けていた支柱にも振動が伝わって、おれの背骨に薄ら寒くなるような震えが入り込んできた。坑道の天井からは、ホコリがおちてきて、くしゃみを必死で堪えた。

「幸兵衛、おいらたちは生き埋めになっちまうのか?」
 乙次郎が手を休め、ふるえ声で問いかけてきた。明かりを何も持ち込んでないから暗闇で見えないが、音からして持ってきた支柱材を慌てて天井に突っ張ろうとしているようだ。きっと顔色も悪いに違いない。冬になると必ず風邪を引く乙次郎に堀子の仕事は酷だと思うが、地突の計における輪番制の掟は絶対だ。

「いま考えるのは一つだ」
「何だ?」
「丘の上の巨像さ」
「はあ」
「あいつをひっくり返すことだけ考えてろ」
「でもよお…」

 乙次郎は不安そうに口ごたえをする。
「何が心配なんだ」
「掘り出した土饅頭をみたら、あの入道が感づくんじゃねえか?」
「安心しろ。正太郎さんがな『入道様のご注文通り、お宅に立派な築山をこしらえられるよう、地面の下から、わたくしどもの汗だの馬糞だのに汚れていない土を掘り出しています』って、うまいこと丸め込んだからな」
「本当か?」
「本当だとも。おれは説明の場にいたんだ」
「でもよお…」

 なおも乙次郎は食い下がる。手を休めずに掘り続けているおれは、段々と腹が立ってきた。
「今度は何だ?」
「善兵衛も良右衛門も死んじまったじゃねえか」
「あいつらは熱出して死んだんだ」
「そうだ、ちゃんと念仏唱えながら掘ってたのに、肘擦りむいて熱出したんだ」
「仏に頼ってるからだ」
「仏を頼るなってのが無茶な話だ」
「だからって地面の下で仏さんに祈ることはないだろう。縁起でもない」
「でもよお…」

 仏の顔も三度まで。おれは音が出るのもかまわずに、ノミを強く目の前の壁に打ち込んだ。力を込めたせいで、膝当てごしに石が食い込む。当て布はどれも磨り減って薄くなっている。木や竹の根でぎちぎちに固まった土塊が少しだけ崩れた。仕事もせずに文句ばかり言ってるやつの相手をしているくらいなら、さっさと仕事を終えてしまうに限る。
 とはいうものの、乙次郎の手がないと、掘りぬいた土を後ろに運び出せない。

「なあ、乙次郎」
「なんだ、幸兵衛」
「おまえのばあさまが言ってただろう。あと一年待てば願いが叶うって」
「そうだな」
「そうだ。おまえのばあさまの予言が外れたことがあったか?」

『癸亥の年、巨像は没落し、郷を分かつものも崩れ去った』
 おれたち岡北で一番の年寄りである乙次郎のばあさんが、すでにおきた出来事であるかのように話したのは今月のことだ。いまは壬戌だから、癸亥は来年だ。

「いや、なかった。ばあさまはなんでもお見通しだ」
「だろう。あとは分かるな」
「おう、がんばるよ」
「よし。その意気だ。来年には、あの忌々しい巨像も、おむすびころりんよ」

 暗闇でも相手が笑顔になったのが分かった。乙次郎は竹で編んだ箕をつかって土をすくい取り、後ろへと運んでいった。ふたたびおれたちの頭上から蹄の音が響いて支柱が震え、ホコリが坑道に降ってきた。

***

 お父さんが飛びだしていったあと、外に出るかどうか少しだけ迷った。きっとお父さんは、ぼくに家の中にいてほしいと思っている。でも、ぼくは外にでた。生まれてはじめてのカッセンだ。おとなしく寝ているなんてもったいない。おにわの松の木にのぼって、なにがおこっているのか見ることにした。

 家がもえているからよく見える。お天道様が沈むほうから、十人くらいやってきた。田んぼに入って、お米ドロボーをしているみたいだ。イネをばさばさと刈り取りながら、どんどんこっちにやってくる。馬にのっているのは三人だけで、大きな弓や長い棒をふりまわしている。よろいかぶとをつけているのは一人だけ。お百姓たちは、もう逃げだしている。

「やあやあ、近くのやつは目ン玉見開いてよく見てろ。遠くのやつは耳の穴かっぽじってしかと聞け。俺様は東山道一番の弓取り、岡郷岡南の牡丹太郎梅助!岡北の松鶴入道、お前の所領は今日から俺様がいただく。分かったか!」

 きれいなよろいをきて馬にのった人が、よくわからないけどエラそうなことを叫んでいるうちに、お父さんが十人くらいの子分たちと一緒にかけつけた。なぎなた、弓、くまで、刀、みんないろいろなものをもっている。

「牡丹家の悪党めェ!わしらには鎌倉殿の文書がついていることを知らんのかァ」
 お父さんも同じくらい大きな声で叫びかえす。ガンバレ!
「それなら知ってらあ。巨像の影が落ちてるとこがお前の土地だってんだろう?」
 ぼくも知ってる。

「ではなぜ、わしらの土地を荒らすッ!?」
「見て分からねえか」
 梅助さんは弓をふりあげた。
「いまは夜、そして新月。どこに巨像の影がある」
 お天道様が出ない夜の岡北は誰のものって考えるのは、ぼくだけじゃなかったんだ。同じことをぼくがきいたとき、お父さんは怒ったけど、ぼくのほうが正しかったんだ。

「ええい、小賢しい。先の征夷大将軍殿の花押がおわします文書を一体なんと心得ておるのかアァ!」
 またカオウだ。
「花押?文書?関係ねえ。書いてあるとおりにしようって奴がいなけりゃ便所紙と同じさ」
 そうそう。きたなくて読めない文字だったもんなあ。

「野郎ども、やっちまえ」
 梅助さんは、ピューって音のなる矢をはなった。いつかぼくもやってみたいやつだ。
 つづけて岡南の人たちが矢の雨をふらせた。炎の明かりが矢のさきっぽをキラキラさせている。お父さんの子分たちはあわてて物陰にかくれる。立っているのはお父さんだけだ。あぶない!

「カアァーッ!」
 お父さんはなぎなたを水車みたいにぐるぐるまわした。ふってきた矢は、みんなどこかへ飛んでいった。だれもケガしてないみたいだ。すっごいなあ。

「ハッハァ。おぬしらは弓矢しかつかえない腰抜けかァ?」
「腰抜けたあお前の子分のことよ。隠れてるだけだろう」
「夜討ちだけが能の腑抜けにはちょうどいいわい」
「んだとこのタコ!やっちまえ、野郎ども!」
 梅助さんがさけぶけど、だれもうごかない。つまんない。

「ほら、どうした、おぬしら。ここまで来てみろ」
 お父さんがなぎなたをふって呼びかけると、梅助さんのそばで馬に乗っている人がふたり進みでた。
「俺はウグイスの丈太郎、隣のこいつはメジロの円白。岡北の入道め、貴様の素っ首もらいうけるぞ」
 ふたりとも刀を抜いて振りかぶった。ひとりはヒゲモジャで、もう一人はお父さんみたいにツルツル頭だ。シュッケしているのに家にいる人なのかな?

「ふん、聞いたこともない名前よ。前口上を垂れ流してる暇があるなら、さっさと来んか。ほれ、ほれほれ」
 なぎなたを振りながら、お父さんは一歩二歩とさがる。
「なんじゃ、比叡山できたえたわしの薙刀術がこわいか、ほれほれ、ほれ」
 三歩、四歩。お父さんが下がっていく。子分の人たちはかくれたままだ。

「なめやがって!」
 鳥みたいな名前の人たちが馬をはしらせた。ぼくだったらその道は通らないなあとおもったけど、おもしろいからいいや。
 ズザッ!

 道にはってある綱に、お馬さんたちがつまづいた。乗っていた人たちは、いきおいあまってまえのほうに飛んでいく。
 ドッボーン。
 落ちたのは肥溜め。あーあ。

「ワァッハッハッハ!岡南の鳥あたまどもめ。まんまとかかりおったわ」
 かくれていた子分の人たちも、ぞろぞろとやってきて、わあわあと悪口をいったり笑ったりしている。くさい穴のなかでばたばたしている人たち目がけて、石を投げつけたり、棒で突っついたり、おまつりみたいで楽しそうだ。

 遠くから見ていても、梅助さんがくやしそうにしているのがよくわかった。
「おいテメエら!ずらかるぞ。今夜はツキが無かった、それだけのことよ。ツル入道め、覚えてやがれ!」
 うん。お月さまは出てない。お米ドロボーをしていた人たちも、盗んだイネを投げすてて逃げだした。

「ハハハァッ。おぬしらみたいな青二才、何度来たところで同じことよ。青いケツにアザを増やしたかったら、いつでも来るがいいわ」
 お父さんの子分たちはヒューヒュー音をたてる矢をはなって、岡南の人たちをおいはらった。勝ったぞヤッター。

***

 ウチらは斜面にたって岡北を見下ろした。火の手がさほど広がってないところを見ると、苦労した甲斐はなかったようだ。岡北の当主が出家して、せっかく攻守逆転したのに、お兄ちゃんは攻め上手ではないようだ。
 思い通りにいかなくて、お兄ちゃんが子分たちに怒鳴り散らしているさまは、いとも簡単に思い浮かべられた。

「バカなお兄ちゃん」
「先代の頃から『俺様の代になったらデカイことをやる』って言ってたね」
「所詮は同じ郷のなかの争いなのに」
「井の中の蛙大海を知らず」

 ウチらのため息に返事をしたのは、気の早い秋の虫たちだけだった。

***

第二幕第一場(神無月)

 あれから数日たった夜、丘は赤く燃えていた。岡北の入道が焚かせている篝火のせいだ。今日みたいな曇りの晩や新月で、月明かりによる影ができない夜には、いつも大きな灯りがつくようになった。見張りも増やされていることだろう。
 もうやることもないし、さっさと寝てしまうのが一番だ。

「おい、お蝶」
 何の前触れもなしに女部屋の襖が開いた。ウチもアヤメちゃんも、見られて困る格好ではなくてよかった。いつものことだから仕方がないと、諦めるしかないのだけれども、一声かけてほしいとは思う。

「なあに」
 歓迎しているわけではないけど、歯向かっているわけでもないくらいを目指した声音で返事をした。隣りにいるアヤメちゃんは溜息が出るくらい完璧に、礼儀作法通りの構えをしている。

「夜討ちだ」
「えっ、今日?」
 相手は篝火を焚いているから、丘を迂回する道はともかく、藪をこいで近づくのは厳しい。なにかとっておきがあるのだろうか。

「驚いたろう」
「うん」
「だからだよ」
「どういうこと?」

「バカだな。お蝶」
 きっとウチは、きょとんとした顔だったのだろう。アヤメちゃんは表情一つ変えずに聞いているはずだ。
「ごめん、教えて」
 必要もないのに謝る自分がいやだ。

「不意打ちさ。このあいだの夜討ちは確かに失敗した。いまは篝火もあるから近づきにくい。だからこそ、岡北の連中は気が緩んでるはずだ。夜討ちがあるなんて思うまい」
 期待したウチは、やっぱりバカだった。
「要するに、ウチらが一番危ない橋を渡るわけじゃん」

「色仕掛けでなんとかしろ」
 いやらしい手振りを交えながら、お兄ちゃんは腰をくねらせた。
「お前だけならアレだけど、アヤメがいれば、ほれ、なんとかなるだろ」
 思わず納得しそうになった。横目で見てもわかるくらいに、アヤメちゃんは体つきがいい。一体全体、どうしてあんなに静かに藪こぎができるのか不思議になるくらい、起伏のある体の線をしている。

「それじゃ準備してくるぜ」
「お待ち下さいませ。御館様」
 アヤメちゃんがお兄ちゃんを呼び止めた。
「なんだ、面を上げろ」
「あと三日、いただきたく存じます」

 アヤメちゃんはウチの手を握りしめ、お兄ちゃんの目を見据えて訴えた。
「わけを言え」
「投石機を使いたく存じます」
「なんだ、それは?」

 初めて聞く言葉だ。
 アヤメちゃんが手短に説明してくれた。石つぶてを投げるための道具で、長い紐と少しの布だけで出来るという。いざというときまで九寸五分を温存できるうえに、弾は簡単に調達できて、矢よりも安上がり。確実を期すため練習に三日欲しい。献策は以上だった。

「よし、三日後の晩だ」
 宣言するなり、お兄ちゃんは背中を見せて去っていった。

***

 翌日は、薄曇りで暑いのか寒いのかはっきりしない天気だった。
 アヤメちゃんは、あっという間に針仕事をすませて投石機を作り上げた。ありあわせの紐と布で作った品だけど立派な物に見えた。
「ねえ、教えて」
「なに?」

「投石機なんて、どこで知ったの?」
「考えたの」
 ごくありふれた調子の返事だった。
「うそ、すごい」
「ありがとう。でも、褒め言葉は三日後までとっておいて」
 おしゃべりは、お兄ちゃんが来る前に切り上げて、練習のため河原に来た。弾になる石をあつめながら適当な場所を探す。

「ここにしよう、的はあの木」
 アヤメちゃんは、対岸にそびえる木を指差すと川のなかに入っていった。
「え、どうしたの?」
「印、つけてくる」
 すいすいと川を渡って木に登り、幹に短刀で四角い枠を刻みこんだ。大人の男の腰から胸骨の間くらいをかたどったもので、思ったより高いところにある。

「本番の的は稜線にいるから、わたしたちは投げ上げる練習」
「どうすればいいの?」
 ウチは手に提げている投石機を見つめた。
「ちょっとやってみる。危ないから物陰にいて」

 ウチは適当な大岩を見つけて、マムシの留守を確かめてからしゃがみこんだ。
 少しすると、風を切る音がして、一瞬だけ鋭い音がしたかとおもうと、藪の揺れる音がした。驚いた鳥たちが飛び立つ。

「どう?」
 ウチは岩陰から首を出して聞いてみた。
「うん、前には飛ばせる。次、見ててもらっていいかな」
「分かった」
 アヤメちゃんは、弓みたいに体をのけぞらせた。回転する投石機が頭の上に描く円は、地面に対して幾らか角度がついている。何回転かしたところで、石が放たれた。

 高すぎる。的よりも上、少し右に逸れたところに当たって跳ねて、再び藪の中の鳥を驚かせた。
「次もいいかな」
「うん」
 ぱっと見では、前と同じようにして腕を前に振り出すと、こんどは的に当たった。

「やったね」
「ありがとう。次、お蝶ちゃんね」
 ウチはといえば、川面に石をぶつけてしまうやら、横に飛ばしてアヤメちゃんの隠れている大岩にぶつけてしまうやら、散々な結果だった。怪我人が出ずに済んで本当に良かった。
 夕方近くになってやっと、十回に三回あたるようになった。アヤメちゃんはウチの倍の成績だった。

 二日目は、昨日よりも天気が悪くなっていた。ウチの成績は悪いままで気が重かったが、何度も練習しているうちに十回に七回は当たるようになり、体も温まって気分は良くなってきた。アヤメちゃんは、十回のうち九回は当てるようになって、お昼すぎには飛びたつ寸前のカラスを落としてみせた。

 練習三日目も曇天だったが、ウチの気分は晴れやかだった。アヤメちゃんと同じように、十回投げれば九回は当てられるようになったし、十五回続けて命中させることも出来た。飛ぶ鳥を落とすことこそ叶わなかったが、ひょいと顔を出した狸を仕留めた。おかずに肉をだせばお兄ちゃんも上機嫌になってくれるだろう。

「一番使いやすい石を選んでね。二回目を投げる余裕はないはずだから」
 アヤメちゃんのいうとおり、ウチはお気に入りにした灰色の石だけを巾着にしまった。練習は好調とはいえ、灯りの下でやる夜討ちのことを思うと気が重かった。投石機を扱う姿勢の都合で、短刀のとき以上に相手に姿を晒すことになるからだ。

 弾を込めたり振り回す時間を考えると、石で仕留められるのは最初の二人だけだ。きっと増えているはずの見張りのうち更に二人を短刀で、あとはその場でなんとかするしかない。
 袋の上から握りしめた石が、幸運のお守りに思えてくる。
「大丈夫。うまくいく」
 アヤメちゃんが手を重ねてくれた。

 夕暮れになっても曇天は続き、月明かりはすっかり隠されていた。本番の始まりを告げるかのように、篝火が丘の上の巨像を照らし出した。
 ウチらが見張りを仕留めたあとで、丘の陰に隠れているお兄ちゃんたちが西の道から岡北に攻め込む。前と同じ手はずだ。

「先いってて。すぐ追いつく」
 丘へ向かう時、アヤメちゃんは道端にしゃがみこんで止まった。弾にする石をしまっている巾着袋と短刀を取り出して、なにか始めたようだ。
「大丈夫?」
「うん」
 詮索はせずにウチは先を急いだ。

 長月も終わりだというのに、丘の生き物たちはまだ元気だった。気味の悪い虫は大人しくなって、残るは足音を誤魔化してくれる鈴虫やコオロギくらいかと思いきや、相変わらず服のなかに何かが入りこんできた。

 相手は油断していると、いうお兄ちゃんの考えは意外と正しかったらしい。藪こぎをしながら稜線に近づいていくと、下手な歌声が聞こえてきた。音が立つような速さで進んでも大丈夫そうに思えたけれど、先導のアヤメちゃんは前と同じ慎重な足取りだ。

「入道様にどやされるぜ」
 どこか気の抜けた声が、歌を遮った。
「へいへい」
 答える声も同じようなものだった。

 篝火のおかげで、相手の様子がはっきり見える。灯の右に三人、左の二人は先ほどの会話の連中だ。妙な得物は提げていない。しばらく観察していたが、稜線の向こうに隠れていない限り、敵は五人だけだ。
 少しすると、また歌がはじまった。

「五人か。どうしよう」
 ウチはささやき声でアヤメちゃんに相談した。
「四人片付けたら、わたしが引きつける」
「わかった」

 あれだけ練習したのだ。二人がかりで五人目にかかれるはずだ。歌の続いているうちに、投石機の間合いでかつ、振り回せるだけの広さがあるところについた。アヤメちゃんは後ろ手でウチの膝を小突くと、やや右へ進んでいった。

 ウチは投石機に石つぶてを仕込んで紐を握りしめる。呼吸を整えながら相手の動きを観察する。藪が擦れる音がしてアヤメちゃんが立ち上がった。ウチも起き上がり、腕を振り回す。
 見張りの歌がやんだ後、驚きの声が上がるよりも先に、ウチは腕を前に振りだしていた。

 一番左の男が下腹を押さえて倒れた。地面に当ててしまうかと思ったけど大丈夫だった。右のほうからも、くぐもったうめき声と、人の倒れる音がした。残る三人のうち二人が、慌てて稜線を降りてきた。投石機を捨てて短刀を投げる。鋼が急所に埋まった。
 まだ尾根に一人とどまっている。篝火の炎が男の頬にある刀傷を露わにした。

 五人目は、ウチらが丸腰であることに気づいたらしい。脇差を引き抜きながら、灯りの右脇から離れて斜面を降りてくる。もう恐れることはないといいたげな足どりだ。口元を釣り上げたかもしれないが、逆光で表情は読めない。

 アヤメちゃんが、わざと大きな音を立てながら、右前方へ一直線に駆け上った。向こうからすれば九寸五分の回収に見える。釣られるようにして相手が走り始めた隙に、ウチは自分の得物を回収して稜線に上った。早く駆けつけないと。

 男はひと足早く、もう一つの短刀が植わった死体にたどり着いて、アヤメちゃんを見下ろした。
「こんな物騒なの、お嬢ちゃんには似合わないぜ」
 敵は脇差を構えたまま、亡骸に刺さった短刀を引き抜いた。こんな奴の手にアヤメちゃんの愛刀が握られるなんて。
「上のやつ、俺はコイツらみたいな間抜けじゃないぜ」

 ウチのことを忘れてはくれてはいなかった。走り込んで相手の背中を一突きするのは難そうだ。いまや二刀流になった相手は、体を斜にしながら木の幹の向こう側にいき、急所をすべて隠した。短刀も左逆手に持ち替えて、いつでも後ろに突き出せる構えだ。

「かんざしなんてどうだい」
 男が二歩すすんだ。アヤメちゃんは怯えたように一歩さがる。
「俺んちにこいよ。可愛がってやるぜ」
 悪党がにじり寄る。

「その前に…」
 相手が振り向いた。
「お邪魔虫を始末しないとな」
 癪に障る言い回しだけど、ねめつけるような目線がアヤメちゃんから外れてくれたのはいいことだ。

「得物を捨てな」
 聞き流して間合いを図る。時間はウチらの敵だ。グズグズしてると、石つぶてを食らわせた奴らが起きてくる。
「悪いようにはしないさ」
 相手がにじり寄ってきたとき、物音がした。男は振り返った。

「…っ!」
 悪党が目をかばった。
 アヤメちゃんが巾着袋から砂をまいて、目潰しをかけたのだ。
 おかげで敵の左脇腹に隙が出来た。好機を逃さず刃を叩き込んで手首を捻る。おしまいに腰を蹴りつけて引き抜いた。仕留めたかどうかの確認は後回しにして、ウチらは稜線へと駆け上った。

 残っているのは、石つぶてを食らって倒れた男二人だけだ。湿った地面の上に転がって、下腹を押さえながら悶えている。
 相手の動きに用心しながら止めを刺して、北側に蹴り落とした。笹藪の中に重いものが転がり込む音がする。離れたところでも同じような音がした。情け無用が掟だ。仕方がない。

 刀傷の男も事切れていた。
 ほっと一息つくと、ウチは積んである薪に篝火を移して斜面を下りる。アヤメちゃんが今回も乾いたままの手で、松明を持っている。無事に点火して成功の合図を送った。任務完了だ。

「さっきはごめん?」
「ん、どうしたの?」
「砂、目に入らなかった?」
「大丈夫だよ」
「アヤメちゃんこそ、その…」
 頬が赤くなるのを感じながら、はだけている胸元を手で示す。

「平気。あれだけ暴れれば、こうなっちゃうよ」
「よかった」
「大丈夫。お蝶ちゃんこそ…」
 アヤメちゃんの体が近づいてくる。

「だめ。汚れちゃう」
「いいの」
 返り血を吸い取るかのようにウチを抱きしめてくれた。
「帰って二度風呂しよう。お蝶ちゃん、牡丹の花みたいになってる」

 お兄ちゃんが不満顔で帰って「酒!」と怒鳴りつけてきたのは、お風呂から上がって浴衣に着替えたときだった。

***

 きょうはお父さんのひざの上で、読み書きのおべんきょうだ。遊びにいきたい天気なのに、つまらない。
「これから鎌倉の御方々にあてて手紙を書く。お前もよく見て覚えて、恥ずかしくないものを書けるようにしなさい」
「はい」
「素直でよろしい」

 きちんと返事をしたごほうびに、お父さんはぼくに墨をすらせてくれた。すずりにすりすりしたら、ふしぎな形の青い水さしから、ぽたぽたとしずくをたらす。すりすり、ぽたぼた。すりすり、ぽたぽた。すりすり、ぽたぽた。墨のいい匂いがする。
「それくらいにしておきなさい。もったいないよ」
「はい」

 お父さんは筆に墨をふくませると、くねくねした文字をさらさらと書きはじめた。
「なんて書いてるの?」
 手を動かしながら答えてくれる。
「『拙僧の愚問を都の陰陽師になにとぞ取り次いで頂きたく』といったところだ」

「なんで都に質問するのに、鎌倉にお手紙をだすの?」
「お叱りを受けるんだ。鎌倉の人たちに黙って京にお手紙を出すとね。殺されるかもしれないんだよ」
 お父さんはまじめなかおだ。
「ふーん」
 郷の外にでたことがないぼくには、京も鎌倉もリュウグウジョウみたいに思える。

「何をきくの?」
「次の日蝕と月蝕がいつか、お伺いするんだよ」
「どういうこと?」
「お天道様やお月さまがお隠れになる日はいつかと、質問するんだ」

「どっちも毎日隠れてるよ。地面の下に」
「いやいや、お空に出ているのに隠れてしまうときがあるんだよ」
 首をひねってお父さんの顔を見上げる。きっと本当のことなんだろうけど、うそみたいな話だ。
「長く生きてるとね、不思議なことをいろいろ見るのさ」
 左手でぼくの頭をなでてくる。

「ぼくも見れる?」
「見れるといいねェ」
「あといくつ寝ると見れる?」
 なんども質問すると、お父さんは笑った顔で、困っているような声を出した。
「次の日蝕と月蝕がいつか、分からないからお尋ねするんだよ」
 そうだった。

「可愛い息子や、なんで質問するのか、分かるかい?」
「分かるよ。どんなときでも、おむすびさまの影があるようにしたいから、お天道様がいなくなる日を教えてもらって、カガリビを焚くんでしょ」
「おお、さすがわしと母さんの子だァ。賢いなアァ。巨像様を『おむすび』呼ばわりしたのも許してやろう」

「でも、みんな『おむすびさま』って呼んでるよ」
 米俵みたい、おおきなおおきなおむすびだ。
「みんなじゃないよ。お前は地頭の子なんだから、百姓なんかの子の真似をしちゃいけない。だから読み書きも教えてるんだよ。だいたいこのあいだなんて、百姓の子らといっしょに何をやっていたかと思えば、マムシとにらめっこだなんて、噛まれたらどうするんだい」

 お父さんはわかってない。
「『噛まれないようにするためだ』って、タッちゃんは教えてくれたよ」
「またあの小僧だね。いったいどうすれば、噛まれずに済むっていうんだい?」
「タッちゃんはね『向こうのことを考えずにふみこむと、マムシはかんでくる。でも、向こうをよく見れば、どこまで近づいていいのかわかる。相手をよく見ればいいんだ』って、言ってたよ」

 いつものようにお父さんは首をふった。
「いいかい、お前は地頭の子なんだ。マムシなんて、さっさと雁又の矢で射殺してしまえばいい。百姓の理屈なんて聞いてちゃいけない」
「じゃあ弓矢となぎなたをおしえて。お馬さんの乗り方も教えて」
 お父さんは泣きそうな顔をした。
「そんなことを教えて、お前にもしものことがあったらどうするんだい?」
「お父さんにもしものことがあったらどうするの?きのうはカガリビがあったのに、岡南の人が来たよね。ぼくも早くたたかいたい」

 こんどは困ったかおになって、うーんといって、うごかなくなった。
「可愛い息子や、お前は死んだ母さんにそっくりだ。だから父さんは、お前のそばをはなれたくないんだよ」
 ぼくはしめたと思った。

「じゃあ、なぎなたを教えてよ。そうすれば、岡南の人が来たとき、ぼくはお父さんの背中をまもれるよ」
 お父さんはもう一回、うーんといった。
「きのうの戦、すごかったよ。なぎなたはつむじ風みたいだったし、相手の足を射抜いたら動けなくなってた。どうしたらあんなに強い弓がひけるようになるの?」
 
 しまったと、思ったときにはもうおそい。

「コラアァッ!あれほど外に出ちゃいかんと言っただろうッ!」
 ツバの雨がまざった大あらしだ。
「わあっ!ごめんなさーい」

***

「これ、もってくかい」
 正兵衛を寝付かせてから土間に降りると、かかあのささやき声がした。手にしているのは、竹の皮に包んだ握り飯だ。たった一つしかないが、男の手で握ったみたいな大ぶりだ。
「夜中の穴掘りはお腹が減るだろう」
「ありがとう、いま食べるよ」

 礼を言いおわらないうちに、手は握り飯に向かって伸びている。がつがつと貪り食って腹に詰め込んだ。塩がついているのかどうかもわからないの薄味だ。なんとなく茶色っぽいのは麦と稗だが、おこげも混ざっていた。ありがたい。
「夕飯足りなかったかい?」
 なんだか泣き出しそうな顔をして、かかあがこっちを見てくる。

「いや、そんなことはない」
 おれはなるべく表情をかえないようにして答えた。腹いっぱい食えたことなんてないからだ。
「それじゃどうして?」
「何も見えない穴の中だとな、何食っても味がしないんだ」

 かかあの目に光るものが浮かんだ。
「なに、気にするな。昔ちょっと、穴の中でどんぐりを食ったことがあってな。昼間に食うよりも美味くてな、おかげで気づいたんだ。まずいものは暗いとこで食えばいいってな」

 ハハハと笑ったのは、おれだけだった。
「しいっ。正兵衛が起きちまうよ」
「おっと、すまんすまん」
 かかあの涙は引っ込んだようだが、代わりにトゲのある口調になった。
「じゃあ、次からは握り飯やめて、全部夕飯に出すよ。今日は半月の明りしかない、暗い夜じゃないか」

「すまん。握り飯がまずいといったわけじゃないんだよ」
「はいはい。分かってるよ」
 笑ってため息をついて、かかあは言葉を続けた。
「私が代わってやれたらいいんだけど」

「今日はお前の番じゃない。輪番制の掟は絶対だよ。正太郎さんが、地突の計をたてたとき、みんなで従うことにした掟だ」
「そんなことは分かってるよ。告げ口して助かろうって腰抜けがでないように、みんなして危ない橋を渡るわけだろう」
「そのとおりさ」

「でも、女と子どもは昼間に畑仕事か築山づくりのどっちかをするだけなのに、男は昼に畑仕事か穴掘りをして、夜になったらまた穴掘り。男だけが寝る間を惜しんで働くってのはねえ」
 不満そうな溜息をつくと、かかあは右腕をぐいと曲げて、どてらの上からでも分かるような力こぶを作ってみせた。
「なに、もうしばらくの辛抱さ」
 おれも力こぶを作って答えると、子どもを起こさないようにそっと家を出た。

***

 入道のために作っていると、いうことになっている築山から、いくぶん離れたところに、坑道の出入り口がある。下り坂を作るように掘り下げて崖みたいにしたところから、横穴を伸ばすという寸法だ。最初は東の方に向けている横穴は、外からは光の届かなくなる辺りで、南へ、つまり丘の方へ曲げてある。

 はじめのうちは、月明かりだけを頼りに出入り口まで行くのはおっかなく感じた。うっかり足を滑らせて坂道を転げ落ちるのではと思ったものだ。いまでは目印の土饅頭も大きくなったし、堀子の仕事にも慣れてきたから、足を滑らせるなんて余計な心配はせずにすんでいる。

「幸兵衛、きょうはちと遅くないか?乙次郎の奴はもう来たぞ」
 坂道の手前まで行くと、丁兵衛と乙三郎が、交代のために上がってきていた。
「すまん、いろいろとあってな」
 手先の仕草で、二人は察してくれた。離れたところにいる乙次郎だけが、分かったような分かってないような顔をしている。

「早く入ろう。表に出てると、どうも落ち着かねえ」
 いつものことだが、乙次郎が道具をいじりながら、不安そうにこぼす。
「バカいえ、おれたちは入道様のための立派な仕事をやってるんだ。だろ、みんな?」
「おう、そうとも」
「胸を張れ、胸を」

 わざとまわりに聞こえるような調子で話していると、乙三郎がおれの首筋を三回叩いてきた。「空気穴を用意したから安心して掘り進め」の合図だ。
 いまはせいぜい丘の麓までしか坑道が伸びてないから、白昼堂々と空気穴の竹筒を埋められる。巨像に近づくようになったら、夜陰に紛れて丘に上り、空気穴を用意することになるだろう。

「幸兵衛、早く行こう。入道んとこの子どもが面白がって近づいてきたらあぶねえ。怪我でもされたら、おいらたちが打ち首だ」
「わかったわかった。そればっかりは間違いない」
 自分の足元だけでなく、ガキの足元まで心配しなくてはならんとは、厄介なことだ。

 おれたちは坂道を下り、モグラみたいにして坑道に潜り込んでいった。ありがたいことに、討ち入りのない静かな夜だった。上が静かだと、穴が崩れるとかなんとか、乙次郎の心配につきあわされずにすむ。

 ずるずると這っていくうちに、ひざや肘をこするのが土や石ばかりではないと気づいた。なにか紐のようでいてなんとはなく湿っているものがある。ミミズにしては硬い手触りだ。なんとはなく好奇心にかられて、ひとつつまんでみる。
「木の根だ」

「入道に感づかれるといけないから、根っこは穴の中に残せって言われたよ」
「なるべく近場で掘ってる体にするわけか」
 しばらくして、新しい空気穴のところまでたどり着いた。石の槌を振って、ノミを土に打ち込む。丘の下に入ったせいか、木や竹の根で土は固くしまっている。

 繰り返せばいつかはうまくいく、いつかは終わる、そうおもってひたすら掘っていく。後ろでは乙次郎が土をかき集める音がする。しばらくすると、乙次郎が入口の方へ遠ざかっていく音が聞こえる。
 おれは、ただただ掘っていく。

「おい、幸兵衛、いま思ったんだが、竹筒のせいで隧道がバレちまうんじゃねえか?」
 空気穴にしている竹のところで休んでいる乙次郎が、また心配を始めた。
「なに、丘にやってくるのは同じ百姓か、遊ぶことしか考えてないガキくらいさ」
「本当か?」
「いいから仕事しろ」
 おれは構わずに、ギチギチに固まった土にノミを打ち込んだ。

***

 神無月も今日で終わりだ。
 アヤメちゃんとウチは、北のほうを眺めていた。ぼんやりと景色を眺めているうちに、丘の上の篝火が新しい星のように思えてきた。山の端に現れた大きな赤い星だ。赤々と燃えているのは、昔からいる星たちに立ち向かおうと、いう意気込みのようにも見えた。

 少し離れたところでは、お兄ちゃんも炎を睨みつけていた。二度も岡北に負かされたのだ。稜線上の炎が岡北からの挑戦状であるかのように見えているに違いない。視線をそらさずにじっと相手を見据えている。
 ウチからすれば決して心休まる光景ではなかった。

 翌日、築山を作れという命令が、お百姓たちに下った。きっと昨晩に考えついたに違いない。
 いったいどんな事をしているのかと現場を見物に行ってみた。じろじろ見て恨まれるといやだから、ちらとしか見ていないけれど、だいぶ深いところの土を山の材料としているようだった。

 家に戻って、お兄ちゃんに工事のことを聞いてみた。「俺様の築山に馬糞とかが混ざるのは嫌だ」と、いうのが深く掘らせる理由だった。せっかくお兄ちゃんが上機嫌でいるのだ、余計な詮索はしないにかぎる。

「お兄ちゃん、一体どれくらいの土饅頭を作るつもりなんだろう」
 お風呂でアヤメちゃんに聞いてみた。
「岡北の見張りが驚くくらいの大きさ、かな」
 大きな目がちょっと動いた。

「そりゃそうだろうけど。どれくらいになったら、お兄ちゃんは満足するんだろう」
「たぶん、昔のお墓くらいのやつ。唐の国からお寺がやってくるより前のお墓」
「旅のお坊さんが話してくれたやつ?」
「そうそう」
「ウチらの屋敷と同じくらいかな」
「もっと大きいみたい」
「京の都とどっちが大きいの」
「都じゃない?」
「そうだよねえ」

 ウチはざぶんと湯船に頭を沈めた。

***

第二幕第二場(霜月)

 築山づくりが下命されてひと月ほど経った。屋敷のそばには、それなりの大きさの土饅頭が出来上がっている。
 お百姓たちは相変わらず深いところから土を掘り出している。ちらと覗きにいったところ、いまや縦に掘り下げた穴から横穴を伸ばしていた。横穴の入り口にはお百姓が一人いて、板切れを扇ぐことで中に空気を送っているようだ。

 ウチとちがって、お兄ちゃんは馬に乗って堂々と現場に行き、いつも何か大声を張り上げている。やれ石が混じってるだの、木の根が混じってるだのと、大きな子どもみたいに文句をつけているようだ。怒られたお百姓が低頭して傾聴していると、手を休めるなといってまた怒り出す。

 このあいだは、お兄ちゃんがあるお百姓を折檻した。積み上げたばかりの土に、お兄ちゃんの乗馬が落とし物をした。それを見てお百姓が笑ったのが、お兄ちゃんの癪に障ったらしい。勘気を被ったお百姓は、しばらくのあいだ両目に青あざをこさえていたし、引きちぎられた袖はずっとそのままだった。

 はじめの命令は、昼は畑仕事をして、穴掘りと山の造成は夜にやれというものだった。寝ないでやれというわけだ。お百姓ではなく領主の妹のウチでも、昼夜続けて働くことの辛さくらいは想像できる。夜討ち明けの朝のしんどさと同じか、もしかしたらもっとかもしれない。

 不眠不休で働かされるお百姓たちが、お兄ちゃんに請願を出すまでにさほどの時間はかからなかった。願いは、どちらの仕事も昼間のうちにやらせて欲しいというものだ。お兄ちゃんの性格からすれば無理もないが、すぐに却下された。

 お百姓たちは、すぐさま妥協案を出した。穴掘りは夜にもやるが、築山づくりは昼間にさせてほしいという案だ。昼間のほうが石ころや木の根っこの選別が捗ると、いう理由だ。第一の案を断られるのを見越していたのかも知れない。
 お兄ちゃんは、第二の案を認めた。
 築山は、ゆっくりながらも、着実に高く大きくなっているが、まだまだお兄ちゃんは満足しない。

***

「お蝶、酒を出せ」
 そんなある日のこと、現場の視察から戻ってきたお兄ちゃんは、いつものように酒を出させて、子分たちと一緒に博打をはじめた。浪費のせいでウチの台所は火の車だ。小間使を少なくしてから、ウチもアヤメちゃんも忙しい。お兄ちゃんは「男子厨房に入らず」とか都合よく唐の国の言葉を引用して、全部ウチらに任せきりにする。

「御館は金離れが良くて、あっしらは助かりやす」
「うるせえ。吠え面かかせてやる」
 札や骰子が動き、徳利が転がる。何度目かのお代わりを運んだときには、みな酔いが回っているか賭けに夢中になっているかで、ウチが来たことにも気づかない有様だった。

 気配を消しつつ、そっと襖を閉めると、お兄ちゃんの十八番がはじまった。ごそごそと衣擦れの音がする。
「この刺青を見ろ。いつ入れたと思う。七つのときだ」
 芝居がかった口上に、同じく芝居がかった驚きの声が上がる。
「さっすが御館」
「大輪の花でございやす」
「こいつを見たら岡北の入道も震え上がりますよ」
 子分たちは太鼓持ち同然で、誰も放蕩ぶりを諌めたりしない。

 愚痴をきいてもらおうにも、アヤメちゃんは木の実と山菜採りで晩秋の丘にいる。酒浸りのお兄ちゃんがいても台所がなんとかやっていけるのは、立派な乳母子がいるおかげだ。
 まだアヤメちゃんは帰ってこない。一度引き上げて荷物を降ろしてすぐ出たのだろうか、足をくじきでもしたのだろうか、猪、それとも熊にやられたのだろうか、まさかマムシに噛まれたのだろうか。いや、ウチならともかく、アヤメちゃんに限って。

「お蝶、酒だ」
 物思いを、酒やけしたどら声が破った。
「酒だよ、聞いてんのか」
 襖が開く。酒くさい息が漏れてくる。子分たちは酔いつぶれて昼寝してるのもいるが、起きているのもいる。

「お蝶ちゃーん、酒だよぉ」
「おーい。酒くれー」
 調子に乗った子分たちも騒ぎ出す。酒、酒、また酒だ。まだ飲み続ける気だ。もしかして、討ち入りの前にも飲んでいるんじゃないか。
 ウチらが見張りと、ヘビと、虫とに用心して、いろいろなことを耐え忍びながら藪こぎをしているあいだ、丘の下でお兄ちゃんたちは酒盛りでもしていたんじゃないのか。
 夜闇よりも暗いものが胸に湧き上がり、噴き出した。

「ウチだったら、入道の首を取れたよ」
 子分の前だが、構うものか。
 もしもアヤメちゃんが隣りにいたら、ウチが口を開く前に背中を叩いたりして、止めてくれたはずだ。でも、今はいない。
「ア?」

「入道の首を取れるといったのさ」
「もう一度言ってみろ」
 何度でも言ってやる。
「たかが一つの郷の揉め事だってのに、大げさに名乗りを上げて、挙句の果てに負けて帰ってくる奴らなんか、穀潰しだ」

 お兄ちゃんは右腕をわなわなと震わせている。子分たちは成り行きを面白がっているようだ。
「バカにしてんのか」
「してるよ。いくらウチらが見張りを始末しても、下にいるのが愚図の呑兵衛どもじゃ、負けて当然さ」

 拳が飛んできて、口の中に血の味がした。
「うるせえ。お前ら女は刺客と隠密をやってりゃいいんだ。討ち入りは、男の仕事だ」
「その刺客が、首をとってやると言ったんだ」
 言い返したら、また殴られた。

「いいか、入道は俺様の獲物だ。腕に自身があるならクソ忌々しい岡北の罠の場所でも探ってこい?アア?」
 馬乗りにされて、右手首を鷲掴みにされる。
「やってやるさ」
 体重差で負けてるだけだ。すぐに投げ飛ばしてやる…。

「おやめください」
 静かだが凛とした声がした。アヤメちゃんだ。いつの間に帰ってきたのだろうか。手にした盆を傍らに置きながら膝をつく。湯気の立つ徳利を持ってきたのだ。
 お兄ちゃんが鼻を鳴らしてウチから離れると、子分たちは興が冷めたかのようになって、博打にもどった。

「お蝶ちゃん、御館様に謝って、ほら」
 ウチの体をおこして、普段のあぐらじゃなくて、正座にさせる。アヤメちゃんも正座してくれている。片方の手で血を拭ってくれて、もう片方の手で背中をさすってくれたおかげで、ようやく頭も冷めてきた。
 ウチとアヤメちゃんは、二人揃って額を床にこすりつけた。

「いいもん持ってきたじゃねえか」
 お兄ちゃんが、アヤメちゃんの持ってきた徳利を手にとった。
「バカな妹と同じ乳で育ったとは思えねえ」
「恐れ入ります」
 表情一つ変えず、母親への侮辱など聞かなかったような声音だ。

 お兄ちゃんは徳利から直に飲むと、ウチの考えを見透かすように顔を向けてきた。
「俺様がいくら呑もうと俺様の勝手だ」
 二口目を飲んで、言葉を続ける。
「罠の場所、探してくれるんだよな。今度じゃないぞ、今日だぞ」
 酔っ払いのくせに物覚えがいい。丘の中ならともかく、岡北潜入だなんて出来るだだろうか。ウチもカッとなってバカだった。

「承知しました。御館様」
 アヤメちゃんが代わりに答えて、そっと脇腹を小突いてきた。ふれたかどうかもわからないくらいの感触だ。
 ウチも仕方なく返事をする。
「はい。承知、しました」
 お兄ちゃんは、してやったりという笑顔を浮かべる。
「酒が旨くなるような話を待ってるからな」

***

「巻き込んでごめん」
 女部屋に戻ったウチの第一声は、詫びの言葉だった。
「お蝶ちゃんは悪くない」
 悪いのは誰か分かってるはずと、いわんばかりだ。
「でも…」

「いいから、準備が先。今日中に出発しないと」
「わかった」
 いつまでもグズグズしてるほど、ウチはバカじゃないつもりだ。岡北に忍び込む案を考えなくてはいけない。

「顔、割れてるかな」
「うん」
「だよね、父さんが生きてたときは、昼間のうちに岡北が攻めてきて、ウチらも応戦したから」

「でも、お百姓は知らないはず。知ってても噂だけ。入道も子分も、いちいちお百姓の顔は見ないから大丈夫」
「お百姓の変装?でも服は…」
「作っておいた」
 アヤメちゃんは、ボロを継ぎ合わせてつくった野良着とほっかむりを二着、どこにしまったかと迷うことなく取り出した。まるで変装する日がくると、知っていたかのようだ。

「ごめん、かえって目立たないかな、これ」
 出てきたのは、灰色と濃い灰色と、うんと濃い灰色の布地を継ぎ接ぎして作った、灰づくしの衣装だった。形は普通の野良着だし、臭いもしないが、お百姓でももう少しは良いものを着ている気がする。
「仕方ないよ、お百姓だって布地は使うから。雑巾寸前か、雑巾だったやつしか譲ってもらえなかった」
「そっか」
 霜月に着るには寒そうな服だが、贅沢はいってられないし、早く出発しないとまたお兄ちゃんに怒られる。

 急いで着替えようとすると、アヤメちゃんがウチの手を止めた。
「大丈夫、急がなくていいよ」
「え、でも」
「お酒に薬草を入れたから」

「ええっ?」
 流石に身内殺しは言い訳ができないんじゃと、思ったら、安心させるような笑顔が返ってきた。
「ちょっと眠くなるだけ。丘からとってきたの」

「どうして?」
「御館様と子分が眠っちゃえば、お蝶ちゃんも楽でしょ」
「そっか、ありがとう」
「ううん、ごめんなさい。わたしがお酒の細工でもたもたしてたから…」
 黒い瞳が、いつも以上に潤みを帯びている。

「いいよ。いいんだよ」
 ウチは笑顔を返した。
「ありがとう。でも…」
 アヤメちゃんが、腫れ上がったウチの頬に手をそえた。
「眠ったままになる草も採ってこれるよ。覚えておいて」
 ウチの返事は聞かずに、アヤメちゃんは他の変装道具を取りに行った。

 結局、ウチらは柴刈りにでた岡北のお百姓に扮した。例のボロ服を土で汚して、下は裸足だ。短刀のかわりにナタを持ち、邪魔にならない程度に柴の束を背負う。丘の上の巨像からは離れて東に行ったところで稜線を越えて、仕事帰りのお百姓の体で岡北に忍び込むという算段だ。

 出発は夕方近く。帰り道で夜陰に紛れられるようにだ。月の出方からすると今夜は篝火もないだろうし、かといって満月ほど明るくもない、隠密には丁度いい夜のはずだ。

***

 夕暮れ時の丘の北側というのは、なんとはなく薄気味が悪い。ばあさまの小屋まで届け物にいった帰りとあってはなおさらだ。先々の天気がわかる賢い年寄に対して失礼なのは承知しているが、あの煎じ薬の色を思い出すと、ついつい悪く考えてしまう。

「このあいだ聞いたんだけどよ、幸兵衛、知ってるか?」
 おれが斜面を降りていると、乙次郎が話しかけてきた。
「知ってるかって、いったい何の話だ」
 行きは米やらなにやらで一杯だったが、いまは二人とも空荷で歩くのも楽だ。まだ足元が怪しくなるほどの暗さではないし、気を紛らわすために話すのも悪くない。

「ばあさまは、目が見えるらしいんで」
 気を紛らわすどころか、気の散るような話だった。
「慣れた家の中で、物を置く場所を決めてるから、見えないなりにうまくやってるんだろう。はじめて使いに行った若いやつが、大げさに話しただけさ」
「違うんだよ、幸兵衛。小屋の外、だいぶ離れたところで、竹刈ったりキノコとったりしてたって話だ」

「誰だ、そんな話してたのは?」
「タっちゃん坊やだ」
「辰太郎か。あのガ…若様と一緒になって遊んでる」
 暇を持て余した入道の子分が狩りにこないとも限らない。口の利き方には気をつけておくほうがいいだろう。

「そうだ。若様が入道に見張られて丘に遊びに行けないとき、代わりに辰太郎が登っていって、いろいろと見てくるらしい」
「なんだ、随分と詳しいじゃないか」
「おいらのとこには、なにかと子どもが寄ってくるのさ。子ども同士じゃ、地頭も百姓も関係なく仲良くやってるぜ」
 乙次郎は、あっけらかんとした調子で語ってみせる。

「おれのところには、どっちの子も来ないぞ」
「そりゃ、おめえの顔が怖いからよ」
「相変わらず口が達者だ。足動かせ足」

***

 日差しがだいぶ赤くなってきたころ、下の方から人の気配がした。
 弓弭が笹薮から突き出している。
「猪……ねえ…な」
「精のつく……くい……」
 男の声がした。少なくとも二人だ。

 姿勢を低くして、見つからないようにする。アヤメちゃんを先導にして、なるべく早くかつ音は立てずに進んでいく。坂道で足を滑らせないようにと思うと、あまり早くは動けない。まるで寒い日の蛇のようだ。

 連中から遠ざかろうとすると、北東の方角に下っていくことになった。入道の屋敷からは遠ざかることになるが仕方がない。代わりというわけでないが、ある程度先にいったところに、丸っこくて小ぢんまりとした、掘っ立て小屋が見える。旅の炭焼きが建てたのだろうか。中に誘い込んで弓の戦いが出来ないようにすれば、奴らに気づかれても勝算はある。

 狩りに来た奴らから、少しだけ低い位置についたところで、弓弦の唸る音がした。
 矢が音を立てて、頭上をかすめる。熊の心臓さえ抉れそうな、大振りな鏃だ。
 ウチらはあえて動かずに、耳だけを働かせた。

「やったか?」
 期待の混じった声がする。
「バカいえ。いるわけないだろ」
「お前こそバカだ。いないなら、なんで撃った」
 内輪もめがはじまった隙に、ウチらは距離を稼いだ。裸足に小石が食い込んで痛いけど、我慢して先を急ぐ。

「脅かせばなんか出てくるだろ?」
「でも出なかった」
 じきに矢の回収のため、近づいてくるに違いない。
「もう冬だ。仕方ねえ」
「百姓でも狩るか」
「やめとけやめとけ、入道様がうるさいぜ」

 ゲラゲラという笑い声が上がった頃には、ウチらは炭焼き小屋の陰に隠れていた。ナタ一本分の間を空けて、アヤメちゃんといっしょに壁に張り付く。
 小屋から煙は出ていない。まだ仕事にかかっていないのだろうか。なんとはない生活臭が漏れ出しているのに人の気配はない。随分と古びた雰囲気で、壁はところどころ朽ちて穴が開いている。解体しないまま炭焼きが去ったのだろうか。それとも…。

 がさごそと藪を漕ぐ音が近づいてくる。矢を探しにきたのだろう。
「早いとこ、見つけろよ」
「お前も探せ」
 近づいてくるのは一人だけのようだ。二人いっぺんに来てくれればよかったのに。ウチの表情を読んだのか、アヤメちゃんも苦笑する。もし近づいてきた一人に叫ばれて、もう一人が逃げて岡北に知らせたら厄介だ。

 いまや二人は怒鳴りあっている。
「探すならお前だけでやれ」
「何だとこの野郎」
「それはこっちのセリフよ。撃つ前によく考えやがれ」
「なんだ、何が言いてえんだ」
「お前が射掛けたのは、ババアの小屋の方角よ」
「ちっ、それを先に言いやがれ」
「言う前に撃ったんだろうが」

 近づいてきた男は遠ざかっていき、足音も微かなものになった。諦めてくれたようだ。
「べっぴんさんが二人。追っ手が二人」
 ほっと胸をなでおろしたのと、小屋のなかからしわがれ声が聞こえるのは同時だった。アヤメちゃんも驚いたらしい。ナタに手をかけるのも忘れて、目を大きく見開いている。

 ウチが小屋の壁沿いに左を伺い、アヤメちゃんは右を覗く。当たりを引いたのはウチだった。どんな女の手よりも細くて鳥の足さながらの手が、小屋のなかから手招きしている。体の他の部分は見えない。

「昔に戻るよ。三姉妹だよ」
 まるでうわ言だ。手招きも続いている。
「ねえ、こっちきて」
 事情を察したアヤメちゃんが、素早く近づいてきた。
「どうする」
 相変わらず手招きが続いている。元気には見えない肌をしていて、手は震えている。顔は出てこない。

「入ろう」
 ウチは声を絞り出した。
「わかった」
 ウチらが動くと、手は家の中に引っ込んだ。数歩のうちに、すだれのかかった戸口のそばについた。こわごわと中をのぞく。
 総白髪の人物がひとり、灰の中から炭火を掘り起こしていた。暗くて顔は見えないが、体つきからして女の人だ。囲炉裏には鉄鍋がかかっており、奥には整然と積まれた俵がいる。物がありながらも散らかっている様子はない。

「入ったよ。姉さんたちが戻るよ」
 お婆さんは話しながら、土がむき出しの床を火箸で示した。
 ウチは素直に従った。アヤメちゃんも一度後ろを振り返ってから、入ってきた。申し訳ないけど、中は何日も風呂に入っていない人間の臭いがした。隙間風でほっとしたのは、これが初めてだ。

 目の前にいる人物は、岡北で、いや岡郷で一番の年寄に違いない。ほのかに赤い炭火がお婆さんの顔を照らすと、瞼は目脂でぴったり閉じられているかのようだったが、動きに迷いがない。関節をかばってはいるものの、どこに何があるかは完全に把握している動きだ。

 お婆さんは、カゴから熊笹の葉っぱと何かキノコのようなものを掴み取ると、一切れも落とすこと無く鍋に入れた。煎じ薬を作っているのかもしれない。虫の足みたいに見えたのは、小枝だろうか、本当の虫だろうか。

「あの、さっきはありがとうございます」
「アタシは予言した。人助けじゃないよ」
 普通なら、名乗ったりするのだろうが、どうしていいのか分からず黙っていた。アヤメちゃんも無言だ。

 三人とも無言でいるうちに、鉄鍋から嗅いだことのないにおいが立ち上ってきた。
 お婆さんは、蜘蛛の巣がかかったつづらから湯呑を三つとりだして、煮出した汁を柄杓で注いだ。ウチらは二人とも、出されたものを飲む度胸はなかった。薄暗いせいで、どこからが汁の色で、どこからが湯呑の汚れなのか見分けがつかないだけに、よりいっそう気が進まなかった。

 お婆さんは、何度か息を吹きかけて冷ますと、一息に飲み干した。残っている二杯も同じようにして空にした。
 助かった。ウチが安堵の息をもらすと、お婆さんは急に元気になったかのように立ち上がり、狭い小屋の中をいったりきたりしはじめた。ウチらは固まったままだ。

「来年が見えた。見えたよ」
 お婆さんが急に立ち止まり、大声をあげる。外で鳥が飛び立つ音がした。
「入道も御館も、木の中には入らなかった」
 言葉の意味を問う暇もなく語り続けた。

「さあ、帰ったよ。丘を越えなかったから、三姉妹がみんな川を渡ったよ」
 お婆さんが唐突に右手を振り上げた。左手で火箸を使い炭を灰のなかへ手早く埋め、鍋を火からおろしたかと思うと、火箸をウチらに突きつけた。実戦なら致命傷に間違いない動きだったが、殺気は感じられなかった。
 小屋の外に飛び出たときには、ほとんど日が暮れていた。
 ウチらは失敗の言い訳を真剣に考えた。

***

「首尾は?」
 一眠りしたら、酔いもさめたらしい。お兄ちゃんは淡々と尋ねた。
 手はず通り、ウチは沈黙を守り、アヤメちゃんが答えた。
「申し訳ございません。失敗です」

 ウチら土下座した。
 お兄ちゃんは自分のほうが上だと感じれば気が済む人で、便利な刺客二人を殺すほどバカではないと、いうアヤメちゃんの考えは正しいはずだ。歯を食いしばって、許しが出るまで、じっと頭を下げる。いまお兄ちゃんはどんな顔をしているのだろう。笑って見下ろしているのだろうか、それとも怒っているのだろうか。だとしたら、ウチらに、それとも入道に?

「失敗か」
「左様でございます」
 低頭したまま、アヤメちゃんが答えた。
「顔、上げろ」

 見え上げた顔には、はっきりとした苛立ちが出ているが、手は震えていなかった。
「なあ、ひとつくらい、あるだろ。だいたいお前ら、どうやって岡北に入った」
「東の稜線を越えました」

「見張りは?」
「いいえ。篝火についている者たちだけです」
「道は険しいか」
「馬でも登れますが、目立ちます」
 お兄ちゃんはうなずいた。自分たちは迂回して夜討ち、女達は見張りの始末と、いうやり方を続けられると知って、安心したのかも知れない。

「他には?」
「岡北側の斜面で老婆に出会いました」
「誰だそりゃ?」
 アヤメちゃんは、手短に経緯を話した。

「ババアがどうかしたのか?」
「来年、御館様は木の中に入らないという旨のことを申しておりました」
「要は、棺桶には入らねえってことだろ。当たりめえよ」
 不服そうに鼻を鳴らして、質問を続ける。
「他には?」

「入道の子分たちは、老婆を恐れているようでした」
「ヘッ、岡北の連中は腰抜けだからな。俺様ならババアの身ぐるみ剥いでるさ。いやそれよりもだ、俺様が知りたいのは、罠とか鳴子とか、その手の仕掛けのことだ。ひとつも見てねえのか?」
 アヤメちゃんとウチの顔を交互に見る、いや、睨みつける。

「竹筒がありました、岡南の斜面です」
 アヤメちゃんが答えたのは、ただこれだけだ。
「竹筒?」
 お兄ちゃんはピクリと眉を吊り上げた。
「左様でございます」

「どこにあった?」
 アヤメちゃんは要点を捉えた説明を返したが、質問は続いた。
「何本あった?」
「管見では一本だけです」
「何のための物だ?」
「分かりません。申し訳ございません」
 アヤメちゃんが低頭する。ウチも慌てて従った。

「アヤメ、百姓頭を呼んでこい」
 横柄な口調で命令する。
「なんでアヤメちゃんが」
 自制を忘れて口を挟んだ。
「たかが百姓呼びつけるのに、当主の妹が行くことはねえ」
「でも…」
「いいんだよ。女を使ったほうが向こうも油断して、あれこれ喋るに違いない」

 アヤメちゃんは何も言わずに出ていった。正座をしていたせいでよろけているが、なるべく早く戻ると言いたげな背中だった。
 残されたのはウチとお兄ちゃん、二人きりだ。怖いわけじゃないと、思いたいけれど、どうしても目は合わせられない。早く戻ってこないかなと、後ろを振り向くことも出来ない。二人とも終始無言だった。
 ただフクロウが静かに鳴いていた。

 しばらくすると、門が軋む音がして木戸の動く音が聞こえた。足音に続いてウチの後ろで襖が開く。
 連れられてきたのは小さな目をして腰の曲がった人だった。
「丙三郎と申します」
 蚊の鳴くような声で名乗る。

「アア?聞こえねえよ。こっちこい」
 呼ばれた相手は、正座したまま敷居に目をやって動こうとしない。
「いいから、こい」
 お兄ちゃんが腹立たしそうに手招きすると、慌てて立ち上がり、敷居をまたごうとしてつまづいた。転びそうになったところをアヤメちゃんが支えた。

 ウチの隣にアヤメちゃんが座り、その隣に百姓頭が腰を下ろした。ウチらのほうを見たかと思えば、お兄ちゃんのほうを見たりと落ち着きがない。
「竹筒の件、話してもらおうか」
「ハイッ」
 百姓頭は身震いをした。

「なんのために、竹筒なんか植えた?」
「それは、その…」
 さっきまではキョロキョロしていたのが、今はじっとうつむいて、目も開けているのか閉じているのか分からないありさまだ。
 お兄ちゃんは、いらいらしたように畳を指で叩き始める。お坊さんの木魚と違って、叩くのは同じだけど、全然気持ちが落ち着かない音だ。

「アヤメ、なんか聞き出したか?」
「はい」
「言え」
「百姓たちは、目印として竹筒を植えたとのことです」
 咎めるでもなくかばうでもない、平坦な口調だった。

「何の目印だ?」
「タケノコ、キノコ、山菜、なかでもとびきり上等なものが取れたところの目印とのことです」
 聞いたことを伝えているだけと、いう口ぶりだ。
「よし、わかった」

 お兄ちゃんは、すっくと立ち上がり百姓頭のもとへ詰め寄り、見下ろした。刀に手をかけている。
 アヤメちゃんは動かない。だから、ウチも動かなかった。
「ヒィッ!」
 お兄ちゃんが畳に切っ先を突き立てると、丙三郎さんが悲鳴を上げた。

「いいか、お前ら百姓に告げる。これからはタケノコとシイタケは全部献上しろ。ほかのクズは譲ってやる」
 丘のものは全部俺様のものだといいたげな口調だ。
「ははぁ」
 百姓頭は土下座して、合図をされるまで頭をあげなかった。畳は涙で濡れていた。

***

第二幕第三場(師走)

 きょうの読み書きのお勉強はすぐにおわった。鎌倉にだすお手紙よりうんと短いものだったからだ。
「なんて書いたの」
「岡南の御館に書いたんだよ」

 お父さんは半紙じゃなくて、障子のほうを見つめている。
「だれに出すお手紙かはわかるよ」
「そうかそうか、鹿太郎は賢いなァ」
 頬ずりをしてくるけど、そんなのはいらない。

「なんて書いたのって、きいたんだよ」
「まあ、その、岡南の人が、悪党だってことは分かるだろう」
「うん」 
「だからね、無礼なお前たちを懲らしめてやるからこっちに来いって、お手紙書いたんだよ」
 障子のほうを見つめたままだ。

「うそつきはドロボーの始まりなんでしょ」
「まいった、いつのまに文字が読めるようになったんだい?」
「聞いているのはぼくだよ」
「ああ、すまない。そうだったね」
 お父さんは、ようやく半紙を見て、ゆび差しながらおしえてくれた。

「簡単にいうとだな『もう今年も終わりだから、一緒にご馳走でも食べませんか』と、岡南の人をお招きするんだよ」
「ごちそう、ヤッター」
 ぼくがバンザイすると、お父さんはこわいかおでにらみつけてきた。

「危ないからお前は、お父さんたちとは別の部屋でご飯を食べなさい」
「えー」
「ちゃんとご馳走は運ばせるから」
「やだ、それじゃお腹いっぱいにならない。ご馳走をたべるのが、どうして危ないの?」

 お父さんは、うーんと唸ったきり黙ってしまった。ぼくのかおを見つめたり、半紙を見つめたり、あちこち見ている。
「わかった。一緒に食べていい」
「やったー」

 バンザイした手を、お父さんがつかまえた。
「その代わり、ちゃんとお父さんのそばにいるんだよ」
「はい」
「危ないからね。離れちゃ駄目だよ」
「はい」
「わかればよろしい」

 お父さんが手を叩くと、足音がきこえてきて障子がひらいた。
「はい。何の御用でしょう」
 子分の人がやってきた。
「これを、岡南の御館のところへ」

***

「おい、お蝶」
 相変わらず予告なしに襖が開かれる。
「いま行く。短刀は持っていっても良い?」
 言われなくても持っていくつもりだけど、つい聞いてしまう。

「当たり前だ。露払いを頼むぜ」
 お兄ちゃんは太刀の鍔をいじりながら、言葉を継いだ。
「入道は俺様の獲物だからな」
 岡北からの招待状が来てから、毎日毎日、嫌になるくらい聞かされてきた言葉だ。
「かしこまりました、御館様」
 ウチは黙って頷くけど、アヤメちゃんは律儀に返事をする。
 庭に出ると、西の空には場違いなくらいにきれいな夕焼けがでていた。

 招待の本当の狙いは、岡南の当主を酔わせて謀殺することだ。お兄ちゃんも分かってる。
 その証拠に、出席の返事を書き上げるとすぐ、太刀を研ぎ始めた。文字通りの宴会ではないと察した証拠である。お兄ちゃんは戦下手なだけど、一対一の剣術はなかなか達者なほうだと思うし、研ぎ方も堂に入っている。邪魔さえ入らなければ入道を討ち取れるかも知れない。

 でも、お互いの子分を引き連れた宴会で、一騎打ちなんて出来るだろうか。
 ウチは、お兄ちゃんの勝利を望んでいるのだろうか。

 庭には既に七人の子分が並んでいる。お兄ちゃんは行列の先頭までいき、用意してある馬に乗った。腰には太刀を提げている。子分たちも何人かは脇差を提げている。一見すると手ぶらに見える子分は、普段は薪割りの斧やナタを使っている連中だ。今日はサラシを巻いた包丁を、懐に隠し持っているにちがいない。
 ウチらはといえば、まだ手放していない着物のなかでも上等なものを選んで、いつもの九寸五分を中に隠してある。

「やっぱりやるんですよね」
「飯の前ですか、後ですか」
「帰ったら祝い酒ですね」
 だれも年の瀬の宴会だと思っていない。

 お兄ちゃんは、張り切る子分たちを止めたりしなかった。ただ一度だけ振り返るとニヤッと笑い、馬をゆっくりと進めた。

 殿を務めると、いうよりも後回しにされただけのウチらは、用心しながら進んでいった。西の道は丘を迂回して岡北と岡南を結ぶ。伏兵の気配はない。前をゆくお兄ちゃんたちみたいに、岡北に入ったあとのことを考えながら歩いても、別に大丈夫なのかもしれない。あるいは素直に、西の空に沈む夕日と、紅く染まった冬の丘を愉しめばいいのかもしれない。

「景色、見ててもいいよ」
 ウチの気持ちを見透かしたみたいに、アヤメちゃんがささやきかけてきた。声の調子は夜討ちのときほど張り詰めてはいない。

「やめとく、なんか、落ち着かなくて」
 前を行くお兄ちゃんたちは、ご馳走にあずかることと、露骨には口にしないけど、手柄を上げようという話題で盛り上がっている。疎ましいなあとも、羨ましいなあとも思う。

「いいよ、それで」
 アヤメちゃんは、それっきり何も言わなかった。しばらくして道は雑木林に入る。木々の影で作られた縞模様の道が不気味に感じられる。遠くでは冬鳥がつがいを求めてさえずっている。

 ほんの一瞬、鳥みたいにどこかへ飛んでいけたらと思ったけど、生計の当てがないことに思い至る。ときどき道端で凍えて死んでいる雀みたいに、冬を越せずに野垂れ死ぬ覚悟はない。
 行き詰まった状況が、今日の「宴席」で変わるのかもしれないし、変わらないのかもしれない。変わるとしても、どう変わるのか。
 このあいだは入り込めなかった岡北が、いまや目と鼻の先だ。

 考え事をしているうちに、雑木林を抜けて岡北にでた。岡南と同じで水田は麦畑に代わっている。夕日が麦の若葉を輝かせている。ところどころに、仕事をしているお百姓の姿も見える。このあと待ち受けているはずの、冷たい鉄の応酬が心配なウチには、なんだか馴染めない景色だった。

 遠くに、岡北の入道の騎馬姿が見えた。あくまでも文字通りの出迎えであって、仕掛ける気はないようだ。子分を横一列に並べているのに、誰一人として弓矢を持っていない。向こうの子分は、見えている限りで十二人だ。

 驚いたことに、入道が単騎で近づいてきた。止まれと、いうように手を大きく振っている。
 両家の当主は、儀礼的な挨拶をかわして話を続けた。
「恐れ入りますが、ここから先は、拙僧のあとについてきてください。理由は申し上げられませんが…」
 入道が客たちの顔を見渡す。噂に聞いている岡北の悪辣な罠に、客がひっかからないようにという気配り、正確に言えば、罠に引っかかったことを口実に暴れられては困ると、いう心配なのだろう。
 岡南の男たちは忌々しそうに顔をそむけた。

「お前ら、言われたとおりにしておけ」
 お兄ちゃんが苦虫を噛み潰したような顔で命令を出すと、みんな黙って従った。
 入道は何の気兼ねもなしに、背中を岡南勢にさらして歩き始めた。後ろから斬りつけるなんてことは出来ない、お兄ちゃんの性格を見抜いているのだ。
 いまから通る道が、いつまで安全なのか分からないとはいえ、ウチはどこを通ったか懸命に覚えようとした。アヤメちゃんも同じようにしているはずだ。

 岡北の道は、椛の木みたいにうねうねと曲がって、あちこちで枝分かれしている。田畑を突っ切るなら話は別だが、ちゃんと道を通って屋敷まで向かおうとすると、何回も角を曲がらないといけない。いかにも通りたくなるような、幅の広い通りに差し掛かったときには「この道の真ん中には肥溜めが作ってありますから、別の道を通りましょう」と、入道はわざとらしい笑顔で伝えてきた。

 正しい角で曲がればいいのかというと、必ずしもそうではないらしい。歩いている途中で「右に寄って」とか「真ん中を通るように」とか、先頭をゆく入道が伝えてきたことが何度かある。指示が飛んできた道には、菱実の殻や輪縄が仕込んであった。

 どれも注意深く歩けば見つかるようなものだ。ぼんやりとしていたり、あるいは目の前に武器を構えた敵がいたら見落としてしまうかもしれないが、用心している限りは平気そうだった。
 もしかすると、本当に危険な罠は見えないように仕掛けてあるのかも知れないが、入道の言いなりに歩くしかない岡南一行には、真相を知るすべがない。

 入道の屋敷の前に来たが、一行は門を素通りした。向かったのはやや離れたところにある土饅頭だ。ははあ、と思わず手を打ちそうになった。男たちも同じような反応だ。
「どうです岡南の御館。あなたがたの築山の話は子分たちから聞いていますよ。うちのもなかなか立派でしょう」

 見たところ、岡南の土饅頭よりも少し大きい。入道もまた妙なところで見栄っ張りのようだ。
「ははは、これは岡北の大将、なかなかですな。良い土を使っているとみえる」
 寒い風が吹いてきたおかげで、バカげたやり取りは早めに終わってくれた。

 屋敷の門前に戻ってきたところで、また入道が口を開いた。
「すみませんが、女の方々は一番百姓の家に席を用意しています」
 味方から切り離されるとは思ってもいなかった。二人だけで行動するのは、夜討ちのおかげで慣れているが、隠れるところも少ない敵地で二人きりというのは、また別の話だ。

「あの、御館様…」
 思わずお兄ちゃんに訴えるが、駄目だった。
「お蝶、アヤメ、言われたとおりにしろ。紅葉家の大将は、儒教というものが分かってらっしゃる。『男女七歳にして席を同じゅうせず』というやつだ」

 入道は驚いたような顔だ。年下の男が唐の国の言葉を知っていたことへの驚きなのか、護衛を減らす選択をやすやすと受け入れたことへの驚きなのか、どちらなのかは分からない。
「さすが牡丹家の御館様です。文武両道とはあなたのためのお言葉です」
「いやなに、大したことじゃありませんよ」

 もうお芝居を笑っている余裕はない。アヤメちゃんが、うちの左後にさりげなく回ってくれたのがありがたい。
「お嬢さんがた、一番百姓の家には、こちらの者が案内をします」
 入道がよこした子分は、一見すると何の武器も持っていないが、男の得物について羽織が雄弁に物語っていた。手裏剣柄に染め抜いた羽織だ。
「なに、ちゃんとしつけている子分ですから、ご安心ください」
 入道が作り笑顔を向けてきた。本命はお兄ちゃんじゃなくて、ウチらなのかもしれないと思ったが、もう遅い。

「あっしの五歩後ろをついてきてください」
 案内人は、他には何も言わない。他の者たちはまだ入道の屋敷に入っていないから、ウチらとしては言われたとおり、間合いを取るしかない。短刀投げならなんてことない距離だが、まわりが敵だらけの場所でたった一本の武器を投げるのは嫌だ。

「お前らも楽しんでこいよ」
 お兄ちゃんが無責任に呼びかけてきた。歩き始めると、入道の屋敷の門が開く音がして、もうしばらく歩いたところで、門が閉じる音がした。何か仕掛けられたら麦畑に飛び込めばなんとかなるだろうか、それとも捨て身で懐に飛び込むべきか。いや、そもそも刺客はこの男一人なのか。

「こちらです」
 嫌な汗をかきながら、ウチらは一番百姓の家に連れてこられた。
 他のお百姓の家よりも大きく、壁板も朽ちていない。大小の庭木があって、蔦を絡ませた矢来までめぐらせてある。窓からは煮炊きの煙と美味しそうな炊きたてご飯の匂いが漏れ出していた。

「では、あっしはここで」
 案内人は去っていったが、隠れ場所に移るだけに違いない。

 家の主人は、正太郎さんといった。子どもの姿は見当たらない。
「これはこれは、お蝶さんとアヤメさんですね。わざわざこんな荒屋にお越しいただきありがとうございます」
 挨拶の動きで、関節とくに膝が悪いのが分かった。
「岡北の牡丹家のお蝶です」
「乳母子のアヤメです」
 挨拶を返すと、かまどのほうから若い女の人がお櫃を抱えてやってきた。

「娘さんですか?」
「ははは、家内です。見た目通り、若いんです」
「すみません」
「なに、よく間違われるんです」
 奥さんは恥ずかしそうにうつむいて、かまどの方へ戻っていった。

「大したもてなしは出来ませんが、まあ、庭の牡丹でも見てやってください。といっても、花はまだ先ですが」
 正太郎さんも奥さんも、なんとはなく察している目つきだ。どことなく怯えているようにもみえる。いざというときの人質にされるんじゃないかと、心配しているようだ。お百姓を人質をとったくらいで、岡北の刺客が引き下がるとは思えないけれど。

 正太郎さんは、提灯を持って庭に降りた。
「入道様のお屋敷からしたら月とスッポンですが、良い庭でしょう」
 すっかり葉を落としている牡丹は素通りして、丁寧に刈り込んだ背の高いツゲや、なにか別の生き物みたいな樹皮をしているサルスベリの巨木に明りを近づけている。
 周りを確かめる意味でアヤメちゃんといっしょに庭を見物させてもらうことにした。

「せっかくですから奥さんも、ええっと、お名前は?」
 配膳は終わったようなのだが、まだ囲炉裏のそばに出てこない。
「家内は恥ずかしがり屋で、知らない人の前では話さないんですよ。名前も、本人が名乗らないのですから、そっとしておいて下さい」
 正太郎さんが説明してくれた。
「すみません」

「安心して下さい。料理の味はとびきりですからね。京の都で宮仕えだってできるに違いありません。それにね、二人きりのときは、庭に出て月を見たり星を見たりしてるんですよ。そうそう、このあいだは篝火をさして新しい星ができた、なんて言い出しましてね。星をお作りになるなんて、まことに入道様の徳は高いものだと存じますよ」
 用心深くも遠慮のないノロケを聞きながら、ウチらは周囲のようすを確かめた。刺客の姿は見当たらず、どうやら敷地の外に隠れているらしい。

 家の中に戻ると、ウチらは囲炉裏のそばかつ窓からは狙いにくい位置に腰を下ろした。正太郎さんは客座や横座ということを口にしたが、結局はウチらの好きにさせてくれた。
 食事をいただこうとすると、ずっと黙っていたアヤメちゃんが口を開いた。
「すみません、お水を一杯頂けますか。柄杓で結構です」
「あ、はい。承知しました」
 正太郎さんが膝を庇いながら立ち上がる。

 ウチは黙って玄関や窓の警戒を続けた。
「お待たせいたしました」
 正太郎さんが差し出す柄杓を、アヤメちゃんは両手で受け取って飲み始める。
「あの、もう師走なのに冷水を飲んで、お体に障りありませんか」
 心配そうに尋ねる正太郎さんをよそに、アヤメちゃんは最後まで水を飲み干した。

 ぽろっ。
 空になった柄杓が囲炉裏に落ちた。灰まみれだ。
「申し訳ありません」
「いえいえ、もう一本ありますから、そのままで結構ですよ」
 正太郎さんは軽く笑って応じる。
「すまないが、代わりの柄杓は、あっちだったかい?」

 別に冷水に当てられたわけではない。敵に踏み込まれたら、柄杓でもって囲炉裏の火と灰をお見舞いしてやるため、一席ぶったのだ。
 アヤメちゃんは、見ていると力強くなる微笑みを向けてきた。今日が命を売る日なら、なるべく高く売りつけてやるまでだ。

***

 日がくれた。ごちそうもなくなった。お父さんのひざのうえから手がとどくところだけじゃなくて、おざしき全部でごちそうがなくなった。ぼくの大好きな芋粥は、二回しかおかわりできなかった。
 のこっているのはお酒だけ。まずいからぼくは嫌いだ。

「岡北の大将、お招きいただいたお礼に、太刀の舞をお見せしたいが、よろしいですか?」
 ちかくで見るのは初めての梅助さんが、面白そうなことをいい出した。おかおはあまり赤くない。
「そんな、お礼だなんて結構ですよ」
 お父さんは、おちょこをおいた。さっきからなめるだけで、ぜんぜんのんでない。

「いえいえ、遠慮なさらず」
「では、拙僧も薙刀の舞でお答えさせてはもらえませんか?舞には舞を、おあいこです」
「いいでしょう」
「ぜひ、よろしくおねがいします」
 梅助さんはうれしそうだ。

「お前達、舞の邪魔にならないよう下がってろ。分かるな」
 梅助さんが怖いかおで言った。
「お前たちもだよ。薙刀は長いからね、ちゃんと、下がってなさい。鹿太郎、お前も下がって、子分たちと一緒にいるんだよ。いいね」
 ぼくも、お父さんのだっこで障子のそばまでうごかされた。

 岡南の人も、岡北の人も、おざしきの片側に下がった。みんなおどりを楽しみにしているような、そうでもないような感じだ。
 お膳がさげられて、行灯がたくさんならべられた。うすぐらいけれども、おどりは見えるくらいの明るさだ。
 カタナをぬいた梅助さんと、なぎなたを持ったお父さんが向かい合う。
 ふたりとも、にらみ合ったままでちっとも踊らない。

 ときどき、武器を前に出したり後ろに引いたりするけど、ゆっくり動かすだけで、ぶつかりあったりしない。水車みたいにぐるぐるまわしたり、おおきく振りかぶったりもしない。
 ぼくがあくびをしていると、行灯が一つ消えた。

 やっと、カタナとなぎなたがぶつかりあった。火花が三回くらい見えた気がする。ぼくは子分の人たちといっしょになって、じっとみつめていた。足が床をこする音がしたり、また火花が見えたりする。
 けれども、だんだん眠くなってきた。いつになってもおどりが終わらなくて、同じような動きばかりでつまらない。突きばかりであきてくる。お外でやってくれたらなとおもうけど、そうしたらさむい中で見なくちゃいけないからお外もいやだ。

 火花がおさまった。梅助さんとお父さんはだまって向かいあっている。
「親分、中休みにしませんか」
「御館様、こっちも水入りといきましょう」
 子分の人たちもつまらないとおもってたのか、とっくりやおちょこをお父さんたちのほうに突き出して、おねがいをはじめた。
 
「どうです、岡北の大将。ちょっとくらい飲んでも平気でしょう」
 梅助さんが笑って言った。
「平気ですとも、御館もどうぞ一杯」
 お父さんも笑った。
「ええ、飲んでみせましょう」
 二人も武器をしまって、お酒を飲みはじめた。一杯と、いっていたのに、一杯では終わらない。子分の人たちも、もう一杯、もう一杯と、二人をはやしたてている。

 ぼくはそっと、お外へ抜け出した。

***

「音を聞きつけられやしねえか」
 おれが月明かりだけを頼りに縦穴を掘っていると、乙次郎がいつもの心配を始めた。竹の節を抜く音を気にしているらしい。
「安心しろ。お前もあの行列、見ただろう。今日は入道様も子分たちも宴会だ。気づかないさ」
「だといいけどなあ」
 心配そうに呟きながら、音がくぐもるように藪の中で、乙次郎は作業を続ける。

 今日は、丘の斜面に空気穴を仕込む絶好の機会だった。いつも通り正太郎さんが計画を立てて、巨像と月と星を目安にしてどこを掘ればいいか教えてくれた。おれたち以外にも、斜面のより下のほうで作業している組がいる。

 じきにおれは縦穴を掘り終えた。正太郎さんから指示された場所だ。月も星も巨像も、教わった通りの位置に見える。
「できたぞ」
「おう、こっちもだ」
 乙次郎が竹をもって、筒の中に土が入り込まないように、そっと縦穴にさしいれる。筒の外側は、土をぎっちりと固めて竹がぶれないようにした。竹筒が地面に突き出ているところは、かるく笹っ葉をかぶせて自然に見えるようにする。

 これで空気穴の下準備は完成だ。将来必要になるだけの本数が、丘に仕込まれたはずだ。あとは、計画通り横穴を掘って、竹筒の真下へ行き着くようにすればいい。

「さあ、帰るぞ」
「帰り道に入道の子分に出くわすんじゃねえか」
 まだ乙次郎の心配は続いていた。
「安心しろ。夜に丘に入ることを禁ず、なんて法度はないんだからな」
「でもよお…」
「わかったわかった、かかあと喧嘩したとでもいえばいいさ」

***

 入道の屋敷では何を肴に飲んでいるのか知らないが、正太郎さんのところではお百姓の家なりのご馳走が出た。お酒はなかったけど、出ても断るつもりだった。ウチらはいつもより時間をかけてご飯をたべたが、とうとうお膳の上にはなにも残らなくなって、箸を置くことになった。

 木戸の開く音がしたのはその時だった。
 ウチらは勢いよく立ち上がって戸口のほうに飛び出そうとした。
「ごめんくださーい」
 飛んできたのは手裏剣でも竹矢でも針でもなく、子どもの声だった。

 子ども?
 とてとてとて、と軽い足音でやってきたのは、どうみても刺客ではない、あどけない男の子だ。ウチより一回りは年下に違いない。
 アヤメちゃんとウチは、思いもよらない客に固まった。

「これはこれは、若様。一体こんな夜更けにどうなさいました?」
 正太郎さんが泡を食っている。
「つまんないからこっちきた。お父さんが『女の人はこっち』って言ってた」

「あの、どなたも若様をお止めにならなかったので?」
「止められたよ。でも、『いい』って言われたといったら、通してくれた」
「左様でございますか」
 正太郎さんはひとまずは安心したようだが、顔には複雑な表情が浮かんでいる。

 どうやらこの子は、入道の息子らしい。ウチの方へまっすぐ来る。囲炉裏の火に目が輝いている。子どもの目線に合わせて膝をつくと、ムギュッと抱きつかれた。まるで母親に抱きつくような格好だ。
 いつの間にか動けるようになったアヤメちゃんは、そっと位置を変えて子どもと戸口の間にはいった。

 きっと人質にするつもりなんだろうなと、頭の半分は冷静に現状を見ているのだけど、もう半分は全然落ち着いていられなかった。しがみつかれていると、ここが岡北で、まわりは敵だらけということを忘れてしまいそうだった。


「ぼく、名前は?」
「鹿太郎。お姉ちゃんは?」
 お姉ちゃん。お姉ちゃん。これが年上というものか。頭にぶわーっと熱いものが上がってくる。
「お蝶。隣りにいるのはアヤメちゃん」
 一瞬だけアヤメちゃんも振り返って会釈をした。
「ふーん」
 鹿太郎は、首だけ動かしてアヤメちゃんのほうを見たが、すぐにウチに向き直った。

 半分の冷静さが、そのまた半分になる。冷静さが消えないうちに聞かなきゃいけないことがある。
「ねえ」
「なに、お姉ちゃん?」
「止めたのって、手裏剣の服の人?」
「うん」
 鹿太郎には申し訳ないけど、明日の朝まで人質扱いを楽しんでもらおう。

「若様はお蝶さんを気に入ったようですよ」
 正太郎さんが、目を細めて笑っている。
「外に出るわけにはいかないでしょうが、どうですか、炉端でお話でもされては?」

 正太郎さんの好意に甘えて、お話させてもらうことにした。なぜこんなに懐かれるのか分からないけど、鹿太郎はウチにひっついたままだ。
 アヤメちゃんは気を遣ったのか、すこし離れたところに移った。

 ウチと鹿太郎はすぐに意気投合した。いちばん盛り上がったのは身内の悪口だった。息子に武術を教えしぶる入道と、剣術はできても戦は下手なお兄ちゃん、どっちのほうがイヤか、大いに盛り上がった。あまりの騒ぎぶりに冷や汗をかいた正太郎さんが、止めに入ったほどだ。

 勉強の話も出た。鹿太郎は読み書きを習うのが退屈らしい。気持ちはわからないでもない。下手に勉強すると、お兄ちゃんみたいに嫌な奴になるのかも知れないとも思う。亡くなったアヤメちゃんのお父さんが、ウチとアヤメちゃんに読み書きを教えてくれたが、ウチはお世辞にもできの良い生徒ではなかった。

 とはいえ、男のほうが読み書きの機会は多いはずで、どうやれば勉強の大切さを納得してもらえるか、悩ましい問題だった。
「自分で読み書きできないと困るよ」
 助け舟を出してくれたのはアヤメちゃんだ。
「鹿太郎くんも、いつか鎌倉にお手紙をだすようになる。だから、読み書きは大切。ほかの人に書いてもらうと、酷い目に遭うことがある。たとえば、岡北の土地を騙し取られて、追い出されるとか」

 言われてみれば、随分と昔に、旅のお坊さんから代理人に口述筆記をさせたばかりに土地を騙し取られた男の話を聞いた覚えがある。
 アヤメちゃんの言葉に、鹿太郎は不満顔だ。もしやと思って、こう言ってみる。
「ウチも、このお姉ちゃんが言うとおりだと思う」
「わかった」
 即答だ。顔をウチの胸に押し付けるようにして頷いた。鼻を胸板に当てて傷めなければいいけれど。

「せっかくだから、アヤメちゃんにもくっついたら?」
「やだ」
 可哀想になるくらいの即答だ。
「どうして?」
 笑いを噛み殺しながらきいてみた。

「お母さんは、あんなお化けみたいな体じゃなかった」
 鹿太郎が指差したのは、アヤメちゃんの豊かな胸だった。ウチの体つきは隠密の役にしか立たないと思っていたけれど、まさかこんなところで報われるとは思わなかった。
 思わず噴き出すと、アヤメちゃんは頬を膨らませる。
「あ、ほっぺたもお化けになった」
 アヤメちゃんも噴き出して、声を上げて笑い始めた。つられてウチも笑う。鹿太郎も膝にのったまま、楽しそうにしている。

「ご歓談中に申し訳ないのですが、もう夜も遅いですから…」
 正太郎さんが、おずおずと声をかけてきた。
「若様を屋敷に返して、お休みいただくのが宜しいのではないかと存じます。子どもの夜ふかしは、体によくありませんから」

 入道を恐れての厄介払いであると同時に、鹿太郎のことを思いやっての言葉だと、視線の動きで分かった。
 鹿太郎の目は、どこかとろんとしていて、なんとなく力が抜けてきているようにみえる。子どもは気楽だなと思うが、恨むのは筋違いというものだ。
 岡南が岡北の跡継ぎをさらったと、いう攻撃の口実を与えるわけにもいかない。

「分かりました」
 先にウチが返事をした。もしアヤメちゃんが答えていたら、鹿太郎は帰りたくないといいだすに違いない。
「鹿太郎、そろそろ、一緒にお父さんのところに帰ろう」
 膝の上に座ったまま、ウチの顔を見上げている鹿太郎にそっとささやく。
「うん」
 予想通りの反応だ。アヤメちゃんも頷く。お兄ちゃんたちと合流したほうが生き延びる見込みは高い。

「ごちそうさまでした。ウチら二人が鹿太郎を送っていきます。築山づくりの穴に忍び込んだりしたら、入道様がお怒りになるでしょうから」
 ウチの言葉に、正太郎さんは苦笑する。
「おっしゃるとおりです」
 人質扱いして申し訳ないけれど、鹿太郎を手元におくことが、ウチらの身の安全につながるはずだ。隠れているはずの手裏剣使いも、親分の息子を巻き添えにする危険は避けるはずだ。

「それでは表までお送りしましょう」
 正太郎さんが、膝を庇いながら立ち上がろうとすると、アヤメちゃんが口を挟んだ。
「すみませんが、お見送りは屋敷まで、お願いできますか?ご婦人もです」
「あなたは怖い人だ」
 苦笑いする老人に、アヤメちゃんは笑顔を向けてみせた。
 きょとんとしているウチに、アヤメちゃんがそっと耳打ちをする。
「肉の盾」
 表に出る前に、誰がどこに立つか、ウチの口を通してアヤメちゃんが指示を出した。鹿太郎をぐずらせないためには、ウチに話させたほうがいいと思ったようだ。

「道案内、お願いできるかな」
「うん」
 ウチが一声かけると、鹿太郎は屋敷の方角へ歩き始めた。足の悪い正太郎さんに遠慮する素振りはないが、正太郎さんは懸命についてきている。わざと遅れてウチらを陥れようという素振りはない。もしかすると、見送りを怠ったと咎められるのを恐れているのかもしれないが、いずれにせよウチらにとっては好都合だ。

「ご見送り、ありがとうございました」
 入道の屋敷の門前で、正太郎さんたちに頭を下げる。ウチが挨拶をしているあいだも、アヤメちゃんは暗闇に油断なく目を凝らしていて、鹿太郎はあくびをしていた。
「おんぶしてあげる」
「ありがとう」

 眠そうな声で答える鹿太郎を背中に持ち上げた。首筋まで頭が持ち上がったのを確認してから動き始める。役得といえば役得だけど、背中から一撃されないための保険でもある。庭を横切って玄関へと向かう。

「わたしが先に入る」
「わかった」
 アヤメちゃんは木戸の脇に身を潜めたかと思うと、音を立てないようにそっと木戸を動かしていく。代わりにウチが見張りをする。いま敵に来られたらと思うと、気が気じゃない。
「大丈夫」
「ありがとう」
 様子見が終わり、ウチらは入道の屋敷に上がった。ふたたび、中と外に用心しながら木戸をそっと閉める。

 背負ったままの鹿太郎に案内されて、入道とお兄ちゃんがいるという座敷にたどり着いた。障子は行灯の仄かな明かりに照らされているが、話し声は聞こえない。代わりに、大いびきの合唱が聞こえてくる。
 まさかと思って開けてみるとそのまさか。全員が酔いつぶれて眠っていた。お兄ちゃんも、入道もだ。

 鹿太郎があくびをしたのだろう、首筋に湿った息がふりかかった。
「どうする?」
 アヤメちゃんが懐に手をいれながら聞く。目線は酔いつぶれているお兄ちゃんたちにむいている。
「駄目。鹿太郎の前では、絶対に」
「わかった。先に寝かせて、お蝶ちゃんが見張り」
「うん」

 ウチが鹿太郎を余っている座布団の上に寝かしつけると、アヤメちゃんは立ったまま柱に持たれて目をつぶった。
 座っていると寝てしまいそうなので、ウチも立ったままでいることにした。立ち位置は、鹿太郎まで一歩の位置だ。もしも岡北の連中が目覚めて敵意を見せたら、鹿太郎を人質に取れる位置だし、可愛い寝顔を眺めるにも絶好の位置だ。
 屋敷にいる理由を入道に誰何されたら、ありのままを答えれば大丈夫だろう。

 いびきと酒臭さと、酸っぱい臭いに囲まれた見張りはうんざりする仕事だった。岡北の子分がやっている、夜の稜線で敵を見張る仕事に比べれば、全然恐ろしくない簡単な仕事かも知れない。でも、ウチは冬の丘の清々しい空気が恋しかった。お座敷の行灯のなかには消えたのもあるが、ほのかな灯りを残しているのもある。

 居眠りの心配は、気のもみ過ぎだったかとも思う。お座敷はきっちりした作りをしているらしく、意外と温かい代わりに、隙間風が通り抜けてくれない。アヤメちゃんは柱に寄りかかったまま身じろぎ一つしない。眠っているはずだけど油断している様子はない。

 ぐちゃぐちゃな寝相をしている酔っ払いどものなかで、お兄ちゃんと入道の顔が仄暗い灯りで照らされている。鹿太郎の幸せそうな寝顔もまた同じだ。座敷は臭くてうるさいのに、よく眠っている。目を覚ましている男がいないかと部屋を見回すと、太刀や脇差が転がっているのが目についた。ご馳走の乗っていた大皿もある。重そうな代物だ。

「お…ん、…して」
 鹿太郎が寝返りをうちながら寝言を言った。ウチの視線が鹿太郎の口元に惹きつけられる。笑顔だ。楽しい夢でも見ているのだろうか。ふたたびウチは酔っ払いどものほうを眺める。次に、休んでいるアヤメちゃん、鹿太郎の寝顔を見て、また男連中に戻る。視線を定められないでいるうちに、夜は更けていった。

 やがてアヤメちゃんが目を開けた。体のこわばりをほぐすように、そっと動きながらウチに声をかけてくる。
「交代、いいかな?」
「うん、立ったまま寝るって、どうやればいいの?」
 アヤメちゃんは少し首を傾げた。
「横になっていいよ」
 わざわざ、きれいな座布団を差し出してくれた。
「でも…」
「大丈夫、安心して」
 安心という言葉の意味を確かめることは出来なかった。
「わかった、ありがとう」
 本当は寝ている場合ではないのかもしれないけど、一度横になると眠くなるのはあっという間だった。

***

「鹿太郎、おい、鹿太郎」
 お父さんのこえで目がさめた。おざしきは変なニオイでいっぱいだ。お蝶さんをさがすけど、どこにもいない。いるのはお父さんだけだ。
「ほら、表にでて挨拶なさい」
 なんだかよくわからないまま、お庭までつれだされる。ねぼけてるってこういうことなんだろうなと思うけど、お父さんも同じようなかんじで、元気がない。

 お外はすごく寒いのに、お父さんの子分たちと、岡南の人たちがずらっとならんで、向かい合っていた。みんな元気がなさそうな顔をしている。
 だいじょうぶそうなのは、列の端っこにいるお蝶さんと、お化けの人だけだ。手をふろうかなと思ったら、お父さんがぼくの頭をぐいと押して腰を曲げさせた。
「寒い中おまたせしてすみません。岡南のみなさま。うちの鹿太郎がようやく起きてくれました。昨日は岡南のお嬢さんたちのお世話になったそうで、誠に恐縮の限りです」
 お父さんはあやまりながら笑っている。息がまっしろだ。

 こんどはあたりをぐるっと見回して、つつじの茂みにむかってさけんだ。
「ほら、そこのお前も、出てきなさい。挨拶の時間ですよ」
 出てきたのは、シュリケンの人だった。はな水をぶらぶらたらしていて、くちびるはむらさきいろだ。
「すまなかったね、夜回りをありがとう」
 お父さんは、男の人の肩をぽんとたたいて列にならばせた。
「あい」
 おとこの人は、はなごえだ。

「さて、これで岡南と岡北、全員揃いました。飲みすぎ、食あたり、そんな不幸な事件もなく、無事にみなが夜を明かせました。大変めでたいことです。ではみなさん、ちょっと早いですが…」
 よいおとしを!
 みんながいっせいに大声をだすと、どこかいたそうな、しかめっ面になった。

***

 岡南に戻ってからも、ウチは鹿太郎が忘れられなかった。あと何回か寝ないとお正月は来ないというのに、裾にすがりついてくる愛くるしい姿をもう一度、いやなんども見つめたかった。
 丘が二人のあいだを隔てている。巨像のことが、壁を越えようとする者に対する見張りのように思えた。

 家の中は静かだ。お兄ちゃんは二日酔いでぶっ倒れているだろう。ウチも畳に寝そべって天井の杉板をじっとみつめていた。隣ではアヤメちゃんが得物を研ぎ終えて、繕い物をしている。
「何考えてるのか、当ててみようか」
「言ってみて」
「駆け落ち」

「ごめん。そこまで考えてなかった」
「じゃあ考えて」
 覆いかぶさるかのように、ぐいと身を乗り出してきた。
「いったいどうやって生計立てるのさ。平家の落人の里でも見つけて乗っ取る?」
 笑い飛ばすと、アヤメちゃんは黙って首を振った。
 黒玉のように澄んだ瞳が、じっと見つめてくる。

「三途の川を越えてもらうの。ふたりに」
 ウチが声を上げるよりも、アヤメちゃんの手が口をふさぐほうが早かった。安心させるかのようにそっと、もう片方の手が胸の上におかれた。
「あっちの子分の脇差で『うの字』を消す。敵討ちとして『ツル』を消す。残るは男ひとり、女ひとり」

「消すって、誰が?」
「わたしが」
「危ないよ。もしバレたら」
「大丈夫。わたしの腕前、知ってるでしょ」
「でも」
「『女は刺客と隠密』だから、ね」
 いたずらっぽい笑みを浮かべると、アヤメちゃんは座ったまま、宙に向かって突きや払いを演じてみせた。もし立った男が相手だったとしても、互角にやりあえそうな動きだ。下手な奴とか酔っ払いが相手なら返り討ちにできそうだ。

「もし鎌倉殿のお怒りを受けたら」
「わたしが勝手にやったと、いうことにする。噂では鎌倉もいろいろバタついてるらしいし、こんな田舎までちょっかいは出さないはず」
 淡々とした、まるで畳んだ服をどこにおいたかを伝えるような口調だ。駆け落ちとかお家騒動というのは、もっと重々しい雰囲気で語るものだと思っていたが、全然違ってた。

「ちょっと考えさせて」
 晴れているけど隙間風は冷たい。お百姓のあげる葬式の音が、風にのって聞こえてきた。

***

 年の瀬が迫る、ある日のことだ。
「おい、お蝶」
 そろそろ夕飯かというときに、予告なしに女部屋の襖が開いた。
「岡北の罠を探れ」
 ウチに選択肢はない。どうせ年末だから向こうの警戒も緩むと考えたに決まっている。子分どころかお百姓にまで顔バレしたことも、気にしないのだろう。

 黙って頷くと、お兄ちゃんは部屋を見渡した。
「アヤメはどうした?」
「台所、たぶん」
「そうか」
 ほかには何も言わずに、お兄ちゃんは出ていった。
 ウチも部屋を出た。前にアヤメちゃんが用意したボロボロの野良着を二着かかえてだ。

 台所にいくと、かまどの前でアヤメちゃんが咳き込んでいた。
「大丈夫?」
「うん、けむり吸っただけだから」
 答えるとまた咳き込んだ。煙はあまり出ていないようだけれど、土埃でも吸ったのだろうか。

 アヤメちゃんの視線は、はやくも野良着のほうに向いていた。
「もうすぐ炊けるから。待ってて」
「前と同じ要領?」
「うん。おむすび、持ってくよ」
「ありがとう」

 ボロ服に素足というなりでは、部屋の中にいてさえ裸でいるようなものだった。手先足先が凍えて感覚が無くなりそうになるたびに、こすり合わせて息を吐きかけて温める。背負った柴の束が当たる場所と、服の擦り切れた場所が同じで痛い。

 待っている間に、ふと「駆け落ち」のことを思い出した。岡北に入り込むのだから、帰りが遅くなっても別に怪しまれない。子分を一人始末して脇差を取ってくるくらい、ウチとアヤメちゃんなら何とかなるだろう。でも、同じ腹から生まれたお兄ちゃんを殺していいのだろうか。

 答えが出せないでいるうちにアヤメちゃんが来た。渡してくれたおむすびは、竹の皮に包んでいてなお、炊きたてのように熱い。
「手、やけどしなかった?」
「平気平気。慣れてるから」
 アヤメちゃんの手をちらっと見ようとしたが、相手に隙は無かった。

「温かいうちに食べて。わたしは歩きながら食べる」
 野良着に着替えつつ、アヤメちゃんが話す。
「それじゃ悪いよ」
「このあいだは、夕食が遅くなったでしょ」
「でも…」
「遠慮しないで、腹が減っては…」
「戦はできぬ、でしょ」

 いつも通りの麦ごはんだけど、おにぎりにすると美味しくなった気がする。

***

 前と違って、岡北潜入はうまくいきそうだった。巨像のそばにいる見張りは二人だけで呑気に歌っていたから、前ほど東に逸れずに稜線を越えられた。北側斜面を登ってくる者もいなかった。得体のしれない煎じ薬を飲むお婆さんの小屋に近づく必要も無さそうだ。

 年の瀬に野山で働くものは、岡郷ではウチらだけなのかもしれない。
「岡北の子分、来ないね」
 アヤメちゃんが呟いた。期待が外れて残念だというような響きだ。
「うん」
 ウチはあいまいな返事をした。

「悪いけど、お蝶ちゃん」
 アヤメちゃんがこっちを見てくる。
「なに?」
「ここからはお蝶ちゃんが先導して。『どこに』行くかはお蝶ちゃんが決めるのが筋だと思うから」
「わかった」
「でも…」
「でも?」
「決めるだけでいいから、動くのはわたし。覚えておいて」
 目をそらしたくても逸らせない。ウチはまだ迷っているし、手足の感覚がなくなるくらいに寒い山の中で決断するなんて無茶だとも思う。

「とりあえず、下ろう。止まってたら凍えちゃう」
「わかった」
 下りはじめてすぐ、見晴らしのいい場所にでた。木々の切れ間から、夕暮れ時の岡北を一望できる。正太郎さんの家や、入道の屋敷、土饅頭まではっきりと見下ろせた。
 ちょうどお百姓が畑仕事と、築山づくりを切り上げて家に帰る時間だった。じっと人の流れを観察していると、夕暮れの日差しでも多くのことがわかった。
 お百姓も入道の子分も、決して通らない道というのがあるのだ。

 いやらしいことに、暗いときに使いたくなる道こそ、決して人が通らない道になっている。
「これでお兄ちゃんも納得するよ」
「わかった。帰りはわたしが先導する」

 もう日も暮れかけている。稜線の見張りの目をごまかすのは簡単だったが、南側斜面にはいると、急に天気が悪くなり雨が降った。アヤメちゃんが咳をした。

***

 翌日。大晦日の夜、雨上がりで、月はない。お兄ちゃんは今年最後の夜討ちと大張り切りだった。

 ウチらの役割は変わらない。稜線に篝火があるが、見張りは二人だけだ。酒を飲んでいるのか、ふらついていて狙いにくい。夜寒で酔いを冷ます気配もなく体を揺らし続けているので、ウチらは投石機をやめて使い慣れた九寸五分でいくことにした。いっそ、うんと近づいて刺してしまおうかとも思う。いずれにせよ、ウチらのやることは変わらない。

 ただひとつ違っているのは、アヤメちゃんが竹筒を持っていることだ。なにそれと、聞こうとしたとき、答えが分かった。
 こほ。
 アヤメちゃんが竹筒に口を当てて咳をしたのだ。静まり返った場所で咳をすると、意外と遠くまで聞こえるものだけど、竹筒にむけての咳は、近くにいるウチでさえやっと聞こえるくらいに小さくくぐもった音だった。

 近寄ろうとしたウチを、アヤメちゃんが手で制して、尾根のほうを指した。
 ウチは無言でうなずいて、藪こぎをつづけた。手足が凍えて上手く動かないせいで、音を立ててしまうことが何度かあったけど、見張りは気づかずにいてくれた。

 とととん(いいよ)
 ぽん(わかった)

 追いついてきたアヤメちゃんから合図を受けた。跳び上がって得物を投げる。わずかに回転しながら、二本の短刀が巨像の両脇に立つ見張り目掛けて飛んでいく。
 一本は喉元に突き立ち、相手は何も言わずに倒れた。もう一本は、柄を先にして口元に当たった。しくじったのは、アヤメちゃんのほうだった。

「ぢ、ぢぐしょー」
 逆上したような叫び声がした。脇差を振りかぶった男が、一直線に稜線をかけおりて、アヤメちゃんのもとへ飛び込んでいく。ウチは二人の間に割り込むように駆けていった。アヤメちゃんは避けようとするけれど、一歩、いや三歩は出遅れている。
 片方がしくじったときは、短刀の回収を先にするのが定石なのだけど、日々の稽古で染み付いた習慣をねじ伏せてしまうような、直感が両足を動かしていた。

 駆け下りてきた男は、ウチに気づくと向きを変えて、体の外側へと大きく脇差を薙いだ。ウチは地面に転がってかわす。大ぶりのせいで、男の体の危うい均衡が崩れた。わけのわからない悲鳴を上げながら、それでも脇差は握りしめてはなさず、顔から転んだ。
 アヤメちゃんが斜面を駆け上がっていく。

 膝と両手で相手の腕を押さえるけど、酔っ払いのくせに大力でいつまで持つかわからない。相手が足をじたばたさせるたびに、脇腹と肋に蹴りが入る。アヤメちゃんが走っていった向きが、ウチが仕留めた相手ではなく、仕留めそこねた奴が立っていた方向なのが気がかりだった。

「ウチの使って!…ッ」
 聞こえたのかは分からない。肋を蹴られて息が抜ける。首を絞められてもないのに苦しい。必死で息をついで男の両手を封じ続ける。
 もう四回くらい蹴られたあとになって、アヤメちゃんが駆けつけて片を付けてくれた。敵に刺さっているのはウチの短刀だ。

「はあ、ありがとう」
 感謝の言葉より先に溜息がでた。しばらくは打ち身で苦しみそうだ。
「ごめん。骨、折れてる?」
 アヤメちゃんが勢い込んで聞いてきて、ウチが蹴られたところに手を伸ばしたかと思ったら、慌てて手を引っ込めた。

「ほんとにごめん。酔っぱらい二人だって油断してたみたい。投石機と短刀で二段構えにしておけば上手くいったはず。短刀も、投げる前にちゃんと手を温めておけば、切っ先のほうから刺さったはず。間合いだってちゃんと測らなかった気がするし、投げなくたってあんなの。ごめん、ほんとにごめん。ちゃんと…」

 まだウチが起き上がれないでいると、アヤメちゃんは次から次へと謝罪と後悔を口にした。アヤメちゃんは膝をついていて、話しながら両手を地面に擦り付けている。なぜ手をこすっているのか気取られまいとするかのような勢いで、必死に言葉を継いでいる。

「ありがとう。助けてくれて」
 アヤメちゃんの手は、土と血が混ざったものにまみれている。それでもウチは構わずに手を握りしめた。振り払われそうになったけど、離さなかった。
「だめ、汚れちゃう」
「いいんだよ。たまにはウチの番がないと」
 アヤメちゃんを染めている返り血を全て吸い取ってしまいたくて、ウチは肋の痛みにも構わず力いっぱい抱きしめた。寒い夜なのにアヤメちゃんの体は熱かった。

 夜討ちは失敗した。
 もう一本の九寸五分は見つからなかった。
 アヤメちゃんは熱病をこじらせて三日に死んだ。
 埋葬をするのは、ウチ一人だけだった。

***

第二幕第四場(睦月)

 お正月のごちそうも、七草がゆもおしまい。タッちゃんたちが畑仕事をてつだうようになったから、はねつきの相手もいなくなった。たこあげは何回もやっているうちに、糸がきれて飛んでいった。年明けは楽しいことがたくさんあるけれど、門松が片付けられるころには全部おしまいになって、つまらなくなる。

 つまらないからといって家でごろごろしていると、読み書きをならえとお父さんがうるさい。つかまえられるより先に、ぼくはお屋敷をぬけだして丘にかけていった。

 どの木もすっかりはだかんぼで、林の中からでも青いお空がよくみえた。危ないからやめなさいと言われている木登りでもしようかな。ごつごつしている木だとかんたんでつまらないから、すべすべしている木にしようかな。あちこちみて歩いているうちに、丘の上のおむすびさまがみえた。

 おむすびさまにはコケがもさもさとはえている。のりみたいだ。こっそりと岡南にまわって見たこともあるけれど、向こう側はあんまりコケがはえていなかった。

 いまはどうだろうか。気になったから丘のてっぺんまで登ることにした。ばさばさと、わざと落ち葉をかきあげながら走るとすごくたのしい。虫や鳥もいないし、蛇も猪も見えない。丘をひとりじめしているような気分だ。

「イテッ」

 半分よりちょっと上にのぼったところで、なにかにつまづいた。でっぱった岩かな、それとも木の根っこかな。もどってみると、ぼくがひっかかったのは竹筒だった。のぞきこんだけど、暗くてなにも見えない。

 竹筒のまわりには枯れた笹っぱが散らばっている。タケノコみたいにかくれていたんだ。こんな罠を仕掛けるなんてあぶないなあ。ケガはしていないけれども、なんだか腹がたってきた。

 どうしようかと思っていると、さむい風が吹いてブルっときた。
 いいことをおもいついた。

 じょーーーっ。

「ウギャアァッ!」

 びっくりした。土のなかから人の声がした。バタバタいう音もした気がする。

 じょーーっ。

 おどろいたからといって、すぐには止められない。

 じょーっ。

 おしまいになったところで、ぼくはお屋敷に引きかえした。

***

「可愛い息子や」
 夕飯のとき、お父さんはおちゃわんをおいて、ぼくに話しかけた。
「今日も黙って丘に登ったね」
 ぼくも食べるのをやめて、だまってうなずく。

「木登りとかしてないだろうね」
「してないよ」
「キノコの拾い食いは?蛇の巣穴堀りは?蜂の巣突きは?」
 とっても心配そうな顔をして、つぎからつぎへときいてくる。
「どれもしてないよ」

「それじゃ、何をしていたんだい。正直にいいなさい」
「巨像様を見にいった」
 お父さんは、まゆげをちょっとだけ上にうごかした。
「まさかとは思うけど、いたずらしたんじゃないだろうね」
 ぼくの目をじっと見ている。

「しないよ」
 胸を張って正直にこたえた。
「もしかして巨像様の様子を見に行ってくれたのかい?岡南の牡丹家の連中がなにか悪さをしてないか、一人で調べようとしたのかい?」
 お父さんは、話しているうちに声がたかく早口になった。どう答えれば、怒られずにすんで、お父さんの話も早くおわって、冷めないうちにご飯をたべられるだろうか。

「お前も見たはずだけど、牡丹家の当主は酒飲みでやたらと声が大きくて、喧嘩っ早い極めつけの悪党だよ。一人で巨像様のとこまでいって、一人息子のお前が岡北の連中に見つかりでもしたら。ああ、どうなるか分かるかい?あいつら、お前を引っ捕らえて荒縄でふんじばって、玉のようなほっぺが真っ赤になるまで引っ叩くに決まってるんだよ。巨像様のそばに行くなんて、危ないことをしちゃいけない」

「行ってないよ」
 話しているうちに前かがみになったお父さんの、ぴかぴか頭に向けて返事をした。
「丘には登ったんだろう?いったい何をしていたんだい?可愛い息子や、正直に話しておくれよ」
 お父さんは涙目になっている。

「竹筒を見つけたんだ」
 つまづいたといえば大さわぎされるし、本当のことをいえば品がないと怒られるから、答えはちょっとだけにした。
「竹筒?」
 お父さんは、まゆげの間にシワをよせた。

「うん。巨像様よりも手前のところに植わってた」
 ますますシワが深くなった。
「ほかには?」
「中から人の声がしたよ」

 正直にこたえると、お父さんは短く頷いた。
「わかった。食べ終わったら早く寝なさい」
「うん」
 ご飯はまだあたたかい。よかった。

「今晩は絶対に、家の外に出ちゃいけないよ」
 ぼくは口いっぱいに白いお米を頬張ったまま、うなずいた。

***

「御免下さい」
 いやにかしこまった入道の声が響いたのは、おれが飯をかきこみ終えたときだった。みそ汁の味をかき消すように、嫌な唾が口の中に広がってくる。
「お前たちは早く寝とけ」
 かかあと子どもの返事も聞くよりはやく、おれは戸口へ向かった。

 やってきたのは入道と子分、それに乙次郎だった。子分はニヤニヤしていて、入道の表情は読めない。乙次郎はといえば、まだ何もされてはいないようだが、ブルブルと震えながら冷や汗を流し、鼻水も出ている。

「幸兵衛さん。ちょっとご足労願えますか」
 おれは黙って頷いてやった。
「こっちです」
 乙次郎もおれも素直に従った。

「親分、今日は何にするので?」
 子分は片手で提げた荷物袋を揺すってみせた。何かが触れ合う音がする。
「こら、六郎。目的と手段を取り違えてはいけないよ」
 答える入道の声は、やんちゃな子どもをたしなめるような響きがあった。
「へい、親分」

 連れてこられたのは松林だ。入道はおれたちの見張りを子分にまかせて、提灯片手に一人で歩き出した。木の幹をさすっては、何事かつぶやいている。聞こえそうで聞こえない声の大きさだ。乙次郎は相変わらず震えていて、くしゃみもした。

「六郎、いい場所が見つかったよ」
 奥から入道が呼びかけると、子分がおれたちの背中を小突いた。
「それじゃ、お二人さんをここにね」
 手始めに子分は、おれたちの着物を剥いで、荒縄で木に縛り付けた。おれと乙次郎が向かい合うような格好だ。

 子分のニヤニヤ笑いが癪にさわったから、わざと唾が飛ぶように咳をしてやる。相手は顔を歪めるとおれの後ろにまわり、縄をきつく締め直しやがった。硬くひび割れた樹皮が背中に食い込む。縛めと寒さとの両方で腕がしびれてきた。
 乙次郎は二回続けてくしゃみをした。

「あなたたち百姓にはね。感謝してますよ。田畑の世話をするだけじゃなくて、築山までこさえてくれているんだからね。晴れた日はせっせと掘って積み上げて、雨がふったら穴の水をかき出して、ちゃんということを聞いてくれて感心してます」
 入道が乙次郎の傍らにたって手をのばすと、子分が何かを渡した。竹筒だ。
「この竹筒ね、あなたたちが地面を掘るときの、空気穴に使ってるやつですね。これが、丘の上の巨像様までの道中にあったんですよ」

 おれは冷や汗が出るのを感じた。乙次郎は首を動かして竹筒を見つめた。
「一つ教えてもらいたいんですよ。なんで、巨像様の近くまで行って築山に使う土を取ってくるのか。地面の下の土は、馬糞とかにまみれてない清浄な土だからと、いうのはわかります。でもね、もっと近所で掘れば楽じゃありませんか?」

 乙次郎は黙っている。
 おれが思い出したのは、尋問されたときのために、正太郎さんから教えられていた言い訳だ。田んぼに穴を開けてしまわないように、穴をあけた道を入道様たちの馬が踏み抜いてお怪我をしないようにといった類だ。

 言い訳を使うかどうか迷っているうちに、入道は再び口を開いた。
「でも、別にどこで土を掘ったっていいんです。大切なのはね、竹筒があったせいでね、うちの鹿太郎がつまづいたんですよ。怪我がなかったからいいようなものの、首の骨でも折ったらどうしてくれるんですか?ねえ。近所で土を掘らない理由はなんなんですか、この竹筒はなんなんですか、一体?」

 入道は話しながら指を妙な具合に動かす。仕草を見た子分は、袋から何か見たこともない道具を取り出して、乙次郎の体に押し付けた。悲鳴は林の静けさに吸い込まれた。
「幸兵衛さん。あなたはご存知ですか?」
「生臭坊主に話すようなことは何も」
 ニヤついた面の子分が近づいてくる。

「こらこら、六郎や。いくら取るに足らない百姓だからといって、やたらにいじめてはいけません。相手はまだ若いんだから、働けるような体にしておきなさい。百姓が働いているからこそ、可愛い鹿太郎はたらふくご飯を食べられるんですよ」

 つまらなそうな顔をした子分に、入道は首を振ってみせる。
「あなたにも、子どものいる親の気持ちが分かるでしょう。子どもの遊び場に竹筒なんて植えてたら、つまづいて危ない。いったいなぜ、そんな危ないことをしたのか?知りたいだけなんです」

 おれが黙っていると、親ばか入道は再び子分に合図をした。乙次郎は冷や汗でぐっしょりぬれている。子分が道具をあてがうと、乙次郎は悲鳴をあげた。大工道具のようにも見えるが、名前のわからない道具だ。
「ねえ、説明してくださいよ」
 もう一度悲鳴が上がり、途中でぷっつりと途絶えた。入道は大きくため息をついた。
「親分、次はこいつですね」
 子分がニヤニヤしながら見つめてきた。口元にはよだれが見えている。

 おれも乙次郎と同じように口を割ることなく気を失った。

***

 目を覚ますと、いつもとは違う屋根が見えた。天井の煤け具合が違う。布団も少しばかり厚い気がする。
「気づいたかい」
 痛みを堪えながら起き上がると、正太郎さんが半紙を載せた卓の前に座っていた。
「もうお昼だよ」

「畜生。あのツル野郎」
「こらこら、幸兵衛。入道様のことを悪く言っちゃいけない、怪我の手当をするようにと運び込んでくれたのは、入道様なんだよ」
「でも…」
 おれの口に指を当てると、正太郎さんは壁や障子を指差して首を横にふってから、手元の半紙を指差した。

「穴掘りを中断せよと仰られた」
 と、言いながらさらさらと細筆で何かを書きつける。
『まだバレてない』
「乙次郎は?」

「亡くなったよ」
『早まるな』
 怒りが全身を駆け巡り布団から跳ね起きると、あちこちに猛烈な痛みが走った。
「昨日は寒かったからねえ」
『仇はとる』

 墨の匂いをかぐと少し怒りが引いた。
「風邪をこじらせたんだ」
『こらえてくれ』
 正太郎さんが首を向けた先で、乙次郎が仰向けに寝ている。胸は上下していない。
 おれは歯を食いしばった。

「さあ、幸兵衛。養生したら畑仕事に戻るんだ。百姓の本分は働くことだからね」
 あたかも親が子に言い含めるような調子で言うとまた、半紙に文字を書いた。
『私に考えがある』
 おれが読み終えるとすぐ、正太郎さんは膝をかばいながら立ち上がり、あたりを用心深く見回してから、先程の紙を囲炉裏にくべて始末した。

***

第二幕第五場(如月)

「すまんねえ、幸兵衛。私と家内だけでは間に合わないんだ。まだ如月なのにこれじゃあ、先が思いやられるね」
 正太郎さんは、朝日が眩しそうに目を細めている。
「いえ、膝が悪いのに草むしりは大変でしょう」
 返事をしながら、おれは麦の隙間に生えてきている、まだ小さい雑草を抜き取った。まだ若いつもりだが、屈んだ姿勢は結構つらい。

「目まで悪いからね、どれが麦だか分からないよ」
 いかにも大変そうな声を上げつつも、正太郎さんは雑草をつまんで抜いた。指であたりをつけているようだ。
「おれよりよっぽど器用じゃありませんか」
 口を動かしながらも手も動かす。
 さきほどから入道の子分が一人、暇を持て余したようにうろうろしているが、難癖をつける口実を見つけられなかったらしく去っていった。

「私は岡南の御館様に会うよ」
 一歩前へ踏み出して草を抜きながら、正太郎さんがそっとささやいた。
「入道様を討ち取ってくれないかと、頼み込むつもりだ」
 おれは思わず手を止めた。
「ほら、若いもんが年寄りに負けちゃいかんよ」
 正太郎さんは、固まったおれを急き立てるように大声を出す。慌てたあまり、おれは間違って麦を引き抜きそうになった。

「あ、くそっ。すみません。一体何ですか、急に」
「入道様の立場で考えてごらん。丘で何かを企んでいる百姓が、岡南をたずねて、岡北への討ち入りを頼み込んだら、どうする?」
 話しながらも、手真似で草むしりを急き立ててくる。おれは手元をよく見て、今度は間違いなく雑草を抜いた。

「丘のことを忘れて怒り出す、ですか」
「正解だ。多分な。私はこのあと岡南にいくよ」
「はい」
「もしも、なにか聞かれたら、素直に話しなさい」
 正太郎さんは有無を言わさぬ迫力を目にたたえながらも、手は先程と変わらない拍子で草を抜いている。

「あの、奥さんは?」
「まだ若いからと、しかいえないね。恥ずかしがり屋なのに申し訳ないとは思うよ」
 おれには返す言葉がない。
「天測の方法は、家内にも教えてある」
 正太郎さんは小声で付け加えた。

 まだ雑草も少ないから、草むしりは早く終わった。正太郎さんは宣言通り、岡南へ続く道を歩いていった。一番いい羽織を着て、膝が悪いながらも堂々とした歩きぶりに、入道の子分たちですら何も言えなかったほどだ。

***

 皮肉なことに、アヤメちゃんが死んでからの日々は、夜討ちのない穏やかな日々だった。お兄ちゃんは、妹ひとりだけでは見張りの始末は無理だと考えている。年が明けてからひと月以上、討ち入りはない。
 でも、ウチがこうした穏やかな日々を、良い思い出として思い返す日は永遠にこないに違いない。

「ごめんください」
 嫌になるくらい澄んだ空をした冬のある日、庭の手入れをしていると、門先に思わぬ客人が現れた。
 正太郎さんだ。前に会ったときよりも上等な服を着ている。ウチが残している着物と同じか、下手したらもっと良い服だ。別に向こうが贅沢なのではなく、牡丹家が貧しいだけなのだが。

 正太郎さんもウチに気づいた。
「お久しぶりです、お蝶さん」
 一瞬だけあたりを探るように目を動かしたが、すぐに視線を戻して用件を話す。
「すまないが御館様に取り次いでいただけませんか。岡北の一番百姓が、大事な要件で来たと伝えてください」
 冬だと言うのに正太郎さんは、じっとりと汗をかいている。
「はい」
 ウチは竹箒を放り出して、屋敷に駆け込んだ。

「早く連れてこい」
 当主の部屋の前で用件を告げると、お兄ちゃんはお百姓を屋敷に入れることを快諾した。
「酒を徳利で二つ出せ。猪口は一つだ。分かってると思うが、客に出すほうは、うんと薄めておけよ」
 お兄ちゃんは昼間から酒を飲む口実ができて機嫌が良さそうだ。きっかけなどなくても酒を飲むくせに、酒を飲む理由を探す、嫌なお兄ちゃんだ。

 正太郎さんを案内して、いわれたとおりに酒を薄めてから運び入れると、ウチは庭にもどった。仕事をつづけるふりをして、当主の部屋からは見えない位置で聞き耳をたてる。

「わたくしども岡北の百姓と、岡南の御館様には共通の敵がおります」
「ほう、言ってみろ」
 お兄ちゃんの声は、しっかりと聞こえるが、正太郎さんの声はどこかくぐもっている。低頭して畳に話しかけるような格好をしているのだろう。
「岡北の入道です」
「何を当たり前なことを言ってやがる。年貢をとりたてる人間を歓迎する百姓はいねえ。入道とは親父の代からの敵同士ってのを、知らねえ奴もいねえ」
 部屋の中の様子は見えないが、お兄ちゃんがじれったそうにしている様子は簡単に想像できた。

「左様でございます。ですから、岡北の百姓は一揆をします」
「お前たちに、地頭に歯向かう肝っ玉があるのか?」
「お疑いになるのも道理です。しかし、わたくしめが直々にやってきたということで、どうか信じては頂けないでしょうか?」
「よし」
「助けていただけるのですか?」
 不意に正太郎さんの声が聞きやすくなった。

「おい、誰が面を上げろといった」
 膳に徳利を叩きつける音がする。
「申し訳ございません」
「謝ってる暇があるなら、何を企んでるのか、さっさと聞かせろ」
「はい。時が至れば、岡北の百姓は一揆をして、丘に合図をだします」
 お兄ちゃんは返事をしない。正太郎さんが続ける。
「昼でも夜でも分かるような合図です。どうかご覧になったら、岡南から岡北へ討ち入りをかけていただきたいのです。何卒、何卒お願い致します」
 額を畳にこすりつける音が聞こえるかのような懇願ぶりだ。
 冷たいからっ風が、庭を吹き渡った。

「気に入らねえ」
 お兄ちゃんはどすの利いた声で答えた。
「申し訳ございません。浅知恵とお笑いになるのも、もっともです。なにぶん百姓の考えたことですから…」
 正太郎さんの言葉を、お兄ちゃんが遮った。
「お前の提案じゃあ、まるで俺様が百姓に手引されて、入道を討ち取るみたいじゃねえか…」
 ああ、逆鱗に触れたのだ。お兄ちゃんに何かを願うなんて、無理な話だったのだ。

「俺様は百姓の手助けがいるほど、落ちぶれちゃいねえ。俺様をなめるな!」
 徳利の割れる音と、家が吹き飛びそうな剣幕の怒鳴り声が聞こえてきた。

「分かったら二度と牡丹家の敷居をまたぐんじゃねえ」
 ふたたび徳利の割れる音がした。追い立てられるようにして、正太郎さんが玄関から飛び出す。膝が痛むはずなのに必死の勢いで走って、一度も振り返らずに門をくぐり抜けた。

***

「鹿太郎や、すまないけど、今晩はさきにご飯を食べてなさい。夜遊びに出歩いちゃいけないよ」
 一番星をみつけようと、ぼくが庭でお空を見ていると、お父さんがはなしかけてきた。
「どうして?」

 お父さんは困ったような顔をした。
「そうしてすぐ質問するのは、まあ、勉強熱心だと思っておこう。実はね、百姓が悪戯をしたんだよ」
「イタズラ?」
「そう、悪戯は悪いこと。お前もよく分かっているだろう?」
「いたずらしても、ぼくは、すぐ許してもらってるよ。だから、お父さんも早く帰ってきて、いっしょにご飯食べようよ」
 とっくりにカエルを入れたり、はきものにナメクジをしかけたり、おふとんにアオダイショウを寝かせたりしても、お父さんはいつも笑って許してくれている。

「世の中にはね、してはいけない悪戯もあるんだ」
「ふーん」
 どんな悪戯か教えてと、いったらきっと怒られるんだろう。
「さあ、分かったら屋敷にお入り。風邪を引いてしまいますよ」
 お父さんは、ぼくがお膳のまえにすわるのを見てからやっと、門のほうへむかった。

「今晩は絶対に、家の外に出ちゃいけないよ」
 門を出るまえに、お父さんは大きな声でいってきた。

***

「御免下さい」
 飯を食い終えたとき、いやにかしこまった入道の声が響いた。かかあと子どもは、先に寝かせてある。
「はい、ただいま参ります」
 おれは平静を装って返事をした。

 戸口に現れたのは、入道と子分の二人だけだった。子分は前のときと同じやつだ。気味の悪いニヤつき顔で、鉄を被せた樫の棒を手のひらに打ち付けている。
「一番百姓の家まで、いいですよね」

 選択肢はない。子分と入道は、おれを先にして歩かせる。縛り上げもしなければ、腕を掴みもしない。逃げ出すなんて考えてもいないらしい。自分が頼めば従うのが当然といった態度だ。
 癪にさわるが、おれが逃げ出すことを正太郎さんは望んでいないはずだ。おれも、穴掘りが再開して成就する日がくるのをこの目で確かめるまで、逃げるつもりはない。

 夜にも関わらず、正太郎さんの家の門は開け放たれていた。玄関の木戸は破られている。中にはいると大黒柱に正太郎さんが縛られていた。服は脱がされていないが、ところどころ破られて、血で染まっている。気を失っているのか、俯いたままおれに気づいた様子はない。奥さんも縛られて床に転がされているが、手荒にされた様子はない。

「幸兵衛さん、あなたは今朝方、正太郎さんと麦畑で話していたみたいですね?」
 おれは素直にうなずいた。
「今日、正太郎さんが、どこに向かったか知ってますね?」
 もう一回頷く。
「なぜ、お出かけしたのかも?」
 また頷く。

 入道はため息を付いて、子分を呼びつけた。
「六郎、着物を剥いでから手足を縛り上げて、お前の好きなようにしていいよ。ただし一回だけだ」
 前と同じように、子分の縄さばきは鮮やかなものだった。硬い結び目を作ると、袋から得体のしれない道具を取り出した。よだれを垂らさんばかりにして、おれを見つめてくる。よく油をさしているらしい、黒光りする鉄の道具をおれにあてがい、力を込めた。

 おれが悲鳴を上げると、正太郎さんが身じろぎした。目を覚ましたらしい。入道は正太郎さんのもとへ歩み寄る。
「お休みのところすみません。幸兵衛さんにも聞いたのですが、あなたと同じことを言ってます。本当ですか?」
「本当です」

 入道は子分に手真似をした。おれに再び激痛が走る。
「『岡南の御館をたずねて、岡北への討ち入りを頼み込む』本当にそんな大それた話をしたんですか?」
 おれも正太郎さんも頷いた。
 ふたたび入道は子分に手真似をした。今度は二回だ。
 どちらも悲鳴を上げたが、余計なことは喋らなかった。
「まさか、あなたたち百姓が、こんなにも愚かだったとは」
 入道は、手に負えない子どもを見るような目で、おれたちを見てきた。

「親分、この女もやりましょう。あっしも相棒も、うずうずしてるんでさあ」
 子分が、正太郎さんの奥さんの着物に手をかけると、入道は子分の手を蹴り飛ばした。
「駄目です。その者は喋りません。無駄な血を流してはいけませんよ」
「ひっ、失礼いたしやした」

 入道はおれたちに向き直った。
「要するに、あなたたち百姓は、わたしと鹿太郎の地頭一族を追い出したい。だから、岡南のロクでなしと手を組もうなんて、バカげたことを考えたんですね。いけません。この土地も、あなたがたも、わたしたちのものです。岡南の所領になったりしません」
 おれたちがもっとバカげたことを企んでいるとは想像できなかったらしい。今日、誰かが死ぬかも知れないが、おれたちはまだ負けてない。

「ほら、子分の六郎を見なさい。わたしが叱りつけたら、大人しくなったでしょう。あなたたちも見習ったらどうですか」
 おれたちが黙っていると、入道はため息をついた。

「仕方ないですね。あなたたち百姓が余計なことを考えないように、中断させていた穴掘りを再開してもらいましょう。築山をもっと大きくするのですよ」
 おれも正太郎さんも、喜びの表情を消すのに苦労はいらなかった。痛みのせいで喜ぶどころではない。

「まったく『小人閑居して不善を為す』という言葉のとおりです。竹筒の件は、鹿太郎によく言って聞かせれば済む話ですから、不問に付しましょう」
 ふたたび、入道はため息を付いた。

「六郎、さっきは済まなかったね。お前はよく働いてくれたよ。褒美をあげよう」
 棒を持った子分が、期待に顔を輝かせた。
「一番百姓の足を砕いてしまいなさい。どうせ膝が悪くて、大して働けないんだ。殺してはいけないけど、歩けなくしても構わないよ」

 おれではなくて良かったと、感じたのは本当だが、おれの感じた怒りもまた本物だ。

***

第三幕(弥生)

 桜のつぼみが開きかけてきたころ、おれたち岡北の百姓はからくり人形さながらに、無心で腕を動かしていた。坑道掘りでも畑仕事でも同じことだ。ノミでもクワでも一心不乱に振り続けた。おかげで入道は、百姓どもが従順になって結構、築山も大きくなって結構と、呑気に喜んでいる。

 実際には、みなの心に埋火のように赤い反抗精神が残っていた。おれも乙次郎を殺された恨みを忘れたわけではない。むしろ逆だ。感情の激しさゆえに感情が欠落したようになったのだ。おれたちは掘って掘って掘りまくった。

 朝の百姓仕事を終えたあと、昼当番でおれと組む堀子は、丁兵衛だった。殺された乙次郎の従兄弟だ。計算では、今日には巨像の真下に着くはずだった。もうすぐ仕事が終わるわけだが、不思議と感慨は湧かなかった。坑道掘りに終りがあると、いうことへの実感が持てない。半年以上同じことの繰り返しだった仕事が完了すると言われても、にわかには信じられなかった。

 坑道に入り込むと四つん這いになって、最後に掘り進めた場所まですすむ。肘や膝にはムシロをあてているが、ときには擦りむいてしまうことがある。こさえた傷が膿んで熱をだして、うわ言をいいながら死んだ奴は何人もいる。そろそろおれの番かもしれないし、まだかもしれない。

 おれはただひたすらに掘るだけだ。ノミをふるい、すこしずつ坑道を進めていく。小石が膝に食い込む痛みは無視する。膝当ても肘当ても磨り減って役に立たない。一振りしてはまた一振り。丁兵衛は掘り出した土をあつめて捨て場までもっていき、支柱にする松やら竹やらを持って戻ってくる。ただひたすらに同じことの繰り返しだ。

 まるで坊さんがお経をとなえるみたいにして無心に掘り続けていると、ふっと妙な手応えを感じた。分厚い土の壁を掘ろうとしているような感触が、百姓の家の板壁をたたいているような、虚ろなものへと変わった。巨像の下ではなく地上へとむかっているのだろうか。正太郎さんにかぎって間違えるはずはない。

 疑念にかられながらも、おれの腕は自分とは別の生き物であるかのように動き続けた。虚ろな手応えが二度三度と繰り返されて、やがてノミが向こう側にすっぽ抜けた。そう、すっぽ抜けたのだ。

「こんばんは」

 男の声が向こう側から聞こえてきた。小さくて遠慮がちな響きだ。

「こんばんは」

 おれも挨拶を返した。蝋燭の灯どころか、星の明かりすらない暗闇だから相手の顔はみえない。声からして、おれと同じくらいの年だろうか。挨拶をかわすと、おれは自分がからくり仕掛けではなく、人間にもどったような気がした。

「岡南の五郎と申します。私の後ろにいるのは、二郎です」
「どうも、岡北の幸兵衛と申します。後ろにいるのは丁兵衛です」
 地面の下で初対面の人間と会って、自己紹介をするというのは、計画の完成以上に現実味のないことだった。自分の後ろに人間がいることは当然のことだったが、掘り進んださきに人間がいるとは考えたこともなかった。

「私達、おなじことをやっていたんですね」
「ええ、アレをころりんさせるためにね」
 相手には見えないと分かっているけど、つい人差し指で天井を指してしまう。
「おむすびころりんですか」
「そうそう、それそれ」

 忘れていた笑いが戻ってきた。人間とは言葉をつかって怒ったり喜んだりする生き物だった。おれたちが、地頭に足蹴にされつづけたおれたち百姓が、とうとうやってやったのだ。感情を押し留めていた堤が切って落とされて、涙がぼろぼろとこぼれてきた。

 自然と、ここからの作業は岡北と岡南の共同という流れになった。板材や角材で支えながら、天井が崩れてくるぎりぎりまでノミをいれていく。真っ暗でお互いに手探りの作業だったが、どちらも経験豊富だから困ることはなかった。

 あとは支柱を焼き払って、巨像の下で坑道を崩すだけだ。おれが火打ち石をあつかって、岡南の五郎がささえる火口へと火花をうつすことになった。二度三度と石を火打金にうちつけるが、なかなか火がつかない。

 真っ暗闇だからお互いの表情はわからないはずだが、きっと相手もおれも、じれったい表情をしているはずだ。ここまで半年かかったのだから、いまさら急ぐことはないのだが、どうしても焦ってしまう。人間らしいなと、おもわず苦笑する。

 三度目でようやく火がついた。男二人してフーフーと息を吹きかけて火を大きくしていると、暖かみが坑道の中に広がっていった。心に貼り付いていた氷が溶けていく。緊張がほぐれていって、いよいよ終わりが近づいてきたのだと、実感できるようになった。

「もう春なんですね」
 おれは五郎になんとはなく声をかけた。
「ええ、もう咲いてるのがあります」
「花見で一杯といきましょう」
「はい」

 小さな火を見つめて、他愛のない話をするだけで幸せな気持ちになれた。後ろで稲わらを抱えて控えている丁兵衛も同じような気分だろうと、顔は見えなくてもなんとなくわかった。岡南のほうも同じに違いない。もぐらみたいにして真っ暗な地面の下で湿った土に肘や膝をこすりつける日々とは、もうおさらばなのだ。

 待望の瞬間が近づけば近づくほど、地突の計を実現させるのが惜しくなってきた。ばあさまの予言にあった「郷を分かつものも崩れ去」るというのは、岡北と岡南が百姓たちの掘った穴でつながることかとも思えた。

 崩すために穴を掘ってきたことは承知しているが、火口の火を消してしまいたいという誘惑に襲われた。あとちょっと、強く息を吹けばいい、吹いてしまえ。

「もういいですよね」
「え、ああ、そうですね」

 五郎の声で、おれは我に返った。丁兵衛が、おれの手に稲わらを差し出してくる。別に示し合わせたわけではないのだが、稲わらは岡南と岡北とで半分ずつだした。巨像の直下に当たるところにあてがって、いよいよ点火。支柱を焼き払うのだ。おれと五郎の二人で火口をもち、冬の風にさらされて乾ききった稲わらに、そっと火を近づける。あっという間に燃えだした。

「それじゃ、こんどは地上で」
「ええ、それじゃ」

 短い別れの言葉をかわして、おれと丁兵衛は急いで坑道をもどった。支柱の松材がぱちぱちと爆ぜはじめ、松脂のすっとする匂いが暗闇に流れ始めた。お天道様の光を拝んだちょうどその時、丘の上で木の倒れる音と地響きが聞こえてきた。おむすびころりんだ。

***

 硬く閉じた桜のつぼみを開かせる春の風も、ウチの心をときほぐしてはくれない。あの日に比べれば暖かくはなっている。百姓たちも蓑を着ること無く仕事をしている。間違いなく春の風は来ているのだけれど、ウチにはひんやりとした風としか感じ取れなかった。襖を閉めて部屋にこもっても、隙間風は止められない。

 アヤメちゃんの四十九日からひと月としばらくたった。沈んだ面持ちでいるのはウチだけだ。お兄ちゃんは法要の前でも後でも変わらない様子で酒と博打にふけっている。今日も昨日と同じように、男たちのどら声が座敷から聞こえてくる。

「畜生!もってけドロボー」
 負けたお兄ちゃんは、手にしていたカス札数枚を床に叩きつけた。
「へへっ、親分、悪いですねえ」
 相手は郎党の一人らしい。聞き覚えのある声だ。

 襖の隙間からちらっと覗いてみると、髭面の小男がニヤニヤしながら銭をかき集めていた。動いている銭の量の多さといったら、両の手のひらどころか腕までつかって集めるくらいだ。男の名前は知らないが、しばらく前に鮫皮の柄がついた脇差を賭け金にして、お兄ちゃんに取り上げられた男だと思う。

「次だ、次!」
 お兄ちゃんが再戦を挑む。徳利から直に酒をあおっている。頬は真っ赤だ。
「それじゃ、あっしが親で」
 対戦相手は手際よく札を切っている。

「おい、お蝶!いるんだろ!」
 お兄ちゃんは振り返ると、空になった徳利を襖に投げつけて大声を出した。
 家にはいたくないのだけれど、家の中にとどまらざるを得ないのは、こういう呼び出しがあるからだ。すぐに返事がこないと、お兄ちゃんはものすごい不機嫌になる。

「はい」
 作法通りに襖を開けて、用事が言いつけられるのを待った。
「つまみとってこい」
 なんの肴も無しで飲んでいたらしい。座敷には徳利とお猪口しかない。

「何がいい?」
 質問したウチがバカだった。
「お前が考えろ!」
 仁王様みたいな形相のお兄ちゃんが、口角泡を飛ばして怒鳴りつけてきた。徳利が飛んできて肩に当たる。
「ごめん。わかった」
 慌てて襖を閉めると、また何か物が当たる音がした。

 女部屋に駆け込んで、真っ先に手にとったのは九寸五分だ。いまならお兄ちゃんを殺せるかもしれない。でも、殺していいのだろうか。

 いつもここにもどってくる。誰の武器で誰が殺すのかと、いう方法のことは大した問題じゃない。同じ腹から生まれた兄を殺していいのかどうか、ウチにはわからないのだ。

 相談できる相手はもういない。ウチは一人ぼっちだ。

***

 丘の木々は、まだ新緑には程遠かった。春の日が射し込む林のなかでも、ウチの心は晴れなかった。雉でも仕留めてセリといっしょに煮た鍋でも出せばいいだろう。肉さえ出せばお兄ちゃんも文句を言わないはずだ。

 なんとなく巨像を真正面に見ながら丘を登っていく。ある程度いったところで周囲の様子をさぐる。藪の繁り具合や木の密度、土の湿り気を見て、雉が潜んでいそうな場所にじっと目を凝らす。冷たい風が二度三度と吹き抜けるうちに、アヤメちゃんならもっと早く見つけるとか、そもそも別の場所で探すんじゃないかとか、狩りの役には立たないことばかりが思い浮かんだ。

 いくらか離れたところで藪が揺れた。音の拍子は、猪や熊みたいな四足が藪をかき分けている感じではなく、鳥が歩いているたような軽い感じだ。九寸五分を投げて仕留めるにはまだ遠い。カマキリのように軽くかつ慎重な足取りで間合いを詰めていく。前も見て、横も見て、下も見る。枯れ枝を踏んづけたり、笹の小枝を揺らしたりしないように、獲物に気取られないように静かに寄せていく。

「ケーーーンッ」

 ひときわ高い声で雉が鳴いて、藪から飛び出した。ウチから離れる方向へ、赤い頭が飛んでいくのが見える。枯れ枝を踏んだわけでもないし、顔にかかる小枝を払ったわけでもないのに、どうして逃げられたのだろう。

「あっ、ちょっ、待て!」

 ダメでもともと。もう音のことは気にせずに、走って追いかけた。バキッと大きな音を立てて枯れ枝を踏んづけもするし、顔に笹が当たりそうになったら遠慮なく払いのける。もしかしたら、疲れて飛ぶのを止めてくれるかも知れない。とにかく走った。

 おかげでウチは助かった。

 ミシッ、バキッ、ザザザッ、ドシン。左後方で木の倒れる大きな音がして、地面が震えた。炭焼きや木地師が来たとは聞いていない。振り返ると、さっきまでウチがいたところめがけて、大岩が転がり込んで、跳ねて、藪を押しつぶした。巨石は麓へと一気に下っていく。

 岡北の逆襲かと背筋に寒気が走った。稜線を見上げるが、人影は見当たらない。もう一つ見当たらないものがあった。巨像だ。ということは、昔話のおむすびみたいに転がってきた岩は、生まれてこのかた毎日仰ぎ見ていた巨像なのだ。
 前に正太郎さんがお兄ちゃんに話した「合図」なのだろうか。

 麓からは様子がよく見えたのだろう。いつもなら田畑で仕事をしているはずのお百姓たちは、農具は放り出して逃げている。畑を耕す馬がスキをつけたまま、人間に混じって懸命に駆けている。あまりにも力の入った走りぶりで、硬く踏みしめてあるはずのあぜ道が、スキでもって二つ三つと砕かれたほどだ。

 人馬の悲鳴が、丘の上まで聞こえてきた。騒ぎを聞きつけたのか、牡丹家の屋敷から子分たちが飛び出して、事情を察すると一目散に逃げ始めた。後を追うようにしてお兄ちゃんも出てきて、丘を見上げると慌てて駆け始めた。
 お兄ちゃんの向かう先は築山だ。

 酔っているにしては素早い足どりで、造成中ながらもなかなかの高さになった築山を登り詰めた。逃げ回っている人たちを見下ろすと、手を振り回して顔を真赤にして喚き始めた。なんと言っているのか聞き取れないくらいの勢いだ。仕事を放り出したお百姓たちに怒り心頭なのか、それとも岡北の入道に怒っているのだろうか。

 斜面を下りきっても巨像の勢いはちっとも揺るがない。ゴロゴロゴロッ、ダッ。畦の一つに掛って大きく跳ねた。着地点にはお兄ちゃん。昔話のお猿みたいにぺちゃんこ。築山はお墓になった。

 途端に、丘にたちこめるまだ寒い空気が美味しく感じられた。
「タケノコたべほうだいだー」
「好きなだけ食べるぞ―」

 風にのって子どもの歓声が聞こえてきた。そうだよな、タケノコ食べたいよな。もう、タケノコを献上しろとか言い出す奴はいなくなったんだ。好きなことが出来るのだ。体の中に澱んでいたものが思いっきり外に噴き出したような感触がした瞬間、一つの疑問が浮かんだ。

 岡北はどうなった?鹿太郎の顔を思い浮かべて、ウチは稜線へと駆け上がった。

***

 お父さんのおひざで、おべんきょうをしていると、おそとで大きな音がして、急にさわがしくなった。
「こら、鹿太郎。気にせず続けなさい」
 しかたなく、ふでをにぎりなおして、れんしゅうをつづけた。
「父さんがお前くらいの年のときにはね、それくらいの字は簡単に書けたものだよ」
 お説教がはじまった。

 おそとはうるさいままだ。お父さんも「そんなに墨をつけるんじゃない」とか「棒が一本多い」とか「少ない」とか、うるさいままだ。そのうち、おにわから怒鳴り声がきこえてきた。
「ねえ、お父さん。討ち入りじゃないの?」
 手を止めてきくと、お父さんはバカなことを言うんじゃないという顔をした。
「いいかい、岡南の連中は、夜討ちしかできない臆病者だよ。せいぜい、百姓の家がどこか火事になったくらいさ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、うちには塀もあるし、広い庭もあるから、ここまで火事はこないよ」
「そうじゃなくて…」

 お父さんはため息をついた。ぼくがすっかり手を止めて、口ばかりうごかしているからだろう。
「仕方ない。ちょっと様子を見てくるから、ちゃんと勉強してなさい」

 立ち上がると、お父さんは何も持たずにろうかに出た。すぐあとで、玄関で木が折れるような音がした。耳が痛くなるような叫び声がいくつも聞こえてきた。
「百姓たちッ。わたしは地頭だよ。分かって…」
 答えるお父さんの声がとぎれて、戦みたいな物音や叫び声がきこえた。なにか大きなものがたおれる音がしたかとおもうと、たくさんのあしおとが近づいてきた。

 ぼくもろうかに出ようとおもって立ちあがると、真っ赤な服をきてはだしのひとたちが、へやに入りこんできた。男のひともいれば、女のひともいる。先が赤くなったスキを持っている人もいる。歩くたびにたたみに赤いあしあとがつく。
「見つけた。入道のガキだ!」
 男のひとが叫んで、真っ赤な手をぼくにちかづけてきた。

「とっ捕まえろ」
「蹴飛ばしてやれ」
「地頭がなんだ」
「思い知れ」
 ふりはらおうとしたけど、何本も手がのびてきて、らんぼうなことばが何回も飛んできた。平手打ちにされたり、かみの毛をひっぱられたり、両うでを痛くなるくらいにつかまれたりして、最後には、たたみの上を引きずられて、冷たいろうかに出された。

「ああなりたくなければ、大人しくしてな」
 ぼくをつかまえた大人たちが話しかけてきた。
 ろうかにお父さんが倒れている。白かった服が、真っ赤になっている。
 鉄くさい。血のにおいだ。討ち入りじゃないとおもったけど、やっぱり討ち入りで、お父さんたちは負けちゃったんだ。

「正太郎さんのところに預けろって話だ。ありがたく思え」
 ゲタもはかせてもらえずに、おそとへと引きずりだされた。
 負けたからといって、ぼくはすぐには死なないらしい。お仕置きをされるんだろうか。読み書きのお勉強だったらいやだな。
 玄関の戸はこわされていて、門は大丈夫だけど、塀にはハシゴがかかっていた。塀の外には、ほかにも死んだ人がいた。カタナをもっていたり、クワをもっていたりした。

 あとでタっちゃんに聞いたら、この日はどこのお百姓も子どもたちに「絶対に、家の外に出ちゃいけないよ」と話していたらしい。

***

 稜線に上がった瞬間、岡北で何が起こっているか分かった。百姓一揆だ。火の手こそ上がっていないが、人の動きを見れば畑仕事ではなく殺し合いがおきているのは分かった。百姓たちは入道の一族と子分を皆殺しにしてしまうはずだ。早くしないと、鹿太郎の身も危ない。

 普段なら、斜めに降りていくような斜面でも構わず、まっすぐ突っ切っていく。小枝や笹の葉であちこち切ったり、一度などは木の根につまづいて肘を思いっきり擦ってしまった。足の爪も二つほど死んだらしい。
 傷には構わず、ひたすらに進んでいく。間に合うかどうか分からないけど、じっとしているよりいい。

 段になったところを飛び降りた瞬間、横から竹の棒がにゅっと現れた。棒の持ち主は、去年に出会ったお婆さんだった。棒を持たない方の手には、汚らしい湯呑を持っている。

「巨像は落ちるよ」
 相変わらずの調子だ。瞼が閉じているのも前と同じ。
 受け取れと言わんばかりに、お婆さんは重そうな長い棒を、震える手で揺すった。わけのわからないまま、ウチは揺れている竹を手に取った。
 持ちやすい位置で握り直すと、なぜか知らないが片方の端に大釘が植えてある。

 急に体から力が抜けた。あちこちの傷や打ち身が痛みだす。
「何のよう?」
 もたもたしている暇はないのだけど、気持ちに体がついてこない。

「郷を分かつものも崩れ去った」
 そう言うと、お婆さんは湯呑を差し出した。
 器は汚れている。中の液体は、前に小屋で嗅いだのと同じ臭いを放っている。真昼の明りで見てもやはり、口をつけたいとは思えない代物だ。
 ためらっていると、一歩二歩と近づいてくる。得体のしれない迫力がある。飲まないという選択肢はないらしい。

 ウチは、やむをえず湯呑を手にとった。目をつぶって、鼻をつまんでと、いきたかったが片方の手が竹でふさがっている。仕方がない。
 息を殺して一息で飲み干した。体の中で何かが弾けた。湯呑をお婆さんに返すと、ウチは斜面を一気に駆け下りた。

 無我夢中で走るうちに岡北に入った。
 スキやクワをかかげている人の群れのおかげで、鹿太郎がどこにいるのかは簡単に検討がつく。去年の暮に鹿太郎と出会った場所、正太郎さんの家だ。人垣目掛けて全力疾走だ。からっ風より速く走ったに違いない。

 五感も冬の朝みたいに張り詰めていて、群がっているお百姓たちの声が聞こえてきた。
「このガキもやるか?」
「やっちまえ」
「誰がやるんだ」
「お前がやれ」
「いやお前だろ」
 まだ間に合う。間に合わなきゃ嘘だ。

「だあぁっ!」
 怒りの叫びとともに、お婆さんからもらった竹を地面に打ち込む。食い込んだ釘を支えに、棒はしなりながら半円を描くようにうごいた。ウチの体はうんと高く跳び上がった。眼下では、お百姓たちがクワやスキをかかげて熱狂している。どういうわけだか荷車まで持ち出している。暴徒たちの上に、一瞬だけ影がおちる。叫び声に振り向いたお百姓たちがぽかんと口を開けて、太陽を背負うウチを見上げていた。

 棒につかまったまま、無様に地面に叩きつけられるウチじゃない。かといって垣根から跳び下りる猫みたいに、四本脚でなんなく着地というわけにもいかない。竹が地面にむけて下がり始めたころを見計らって身をひねる。背中から叩きつけられるより先に手を離し、後ろへとトンボを切った。

 庭土をザザッとこすって、ウチは見事に着地した。膨らみかけた蕾をつけた、牡丹の木のすぐそばだ。背中に鹿太郎を庇い、左手は可愛いこの子の頭の上にそっと置く。右手はいつでも短刀を抜ける位置だ。
 お百姓たちが我を失っている隙に畳み掛ける。
「鹿太郎が何をした?袋叩きにするなら、あのクソ入道だけにしな!」
 短刀を抜こうかと思ったけど、ぐっとこらえて眼力で押す。

「ちょっとだけこらえて」
 鹿太郎にも小声でささやいておく。

「う、うるせえ!」
 一人が裏返った声で叫んで、スキを突き出してきた。両腕しか使わない、へなちょこの動きだ。身をかわしながら、ウチは短刀を一閃させた。
 切り取ったスキの先を左手に、短刀を右手に持って男に一歩近づく。
「うわあぁ」
 男は尻もちをついて、群衆の中に隠れ込んだ。

 ウチはスキを捨てて、短刀も収めた。
「なんだお前!」
「あっ、岡南の娘だ!」
「そいつもやっちまえ!」
「やっちまえよ!」
 勇ましいのは口だけだ。わざと音を立てたすり足で一歩出ると、向こうはみな一歩下がった。

「さあ、この子に、岡北の紅葉鹿太郎に、何の罪がある?答えな」
 にらみ合ったまま、どれほどの時が流れただろうか。
 みな無言でいるなか、人の群れをかき分けて一人の男が出てきた。ほかのお百姓たちよりも一段上の怒気を放っている。全身土まみれであることが、血走った白目を際立たせている。クワやスキも持っていないが、手にはノミと大きな石を持っている。

「そいつは入道の息子だ。入道はおれの相棒を殺した。これで十分だろう」
 さっきまでの相手が、かまどに放り込む枯れ枝みたいなものだとすれば、いま目の前にいる男は、火のついた木炭だ。
「子どもに罪はない。殺したのは入道だ」

「そんな綺麗事じゃ、おれの気が収まらないんだよ。お高く止まってる領主様の妹には、わからないだろうがな」
 男は唾まで吐いてみせた。
「分かる。といったら?」
「ほお」
 相手の目が少し動いた。

「岡南の梅助は、ウチの乳母子、アヤメを殺したも同然だ。年の瀬の寒い日に、討ち入りだってんで、丘に送り込まれた挙げ句、熱出して死んだんだから。葬式もあげさせてくれなかったし、正月は子分どもと酒盛りをやっていたよ」
 男は動かない。代わりに、人垣が割れた。女の人が一台の荷車を押し出してきて、荷台を揺らさないように、ゆっくりと止めた。荷台に乗っているのは、髪の毛のすっかり白くなった男で、両足は包帯でぐるぐる巻きにされている。

 間違いない。乗っているのは正太郎さんで、押してきたのは奥さんだ。
「無理しちゃいけない」
 土まみれの男が慌てて近寄る。
「おいおい、あまり怪我人扱いしてくれるな」
 正太郎さんは、歯を見せて笑う。

「だってまだ怪我人だろう」
「まだ一番百姓でもある。私の言うことが聞けないかな?」
 おだやかながらも威厳のある声を聞くと、もう一人の男はおとなしく引き下がった。手にはノミと石をもったままだが、振り上げる様子はない。

「座ったままで、失礼するよ」
 正太郎さんが口を開く。
「あなた、お蝶さんといったね。アヤメさんのことは、お悔やみ申し上げる。このあいだお邪魔したときには、線香もあげられずに申し訳ない」
 相手はいったん、言葉を区切って項垂れた。

「あれこれと詮索してすまないが、兄の梅助さんはどうなさった。お蝶さん、あなたは短刀を持って、入道の息子のそばにいるが、人さらいや殺しにきた風ではない。きょうは、討ち入りではないのかな?」
「岡南の牡丹家当主、梅助は死にました」

 人波にざわめきが広がる。訝しむ声や押し殺した喜びの声が幾つも上がるが、荷車の上の一番百姓が右手をあげると静かになった。
「どのようにして?」
「巨像に潰されて」

「そうか」
 荷車の男は特におどろいた様子もないが、土まみれの男の方は目を見開いた。
「本当か?証拠を見せろ」
「石の下から、引っ張り出せっての?」
 やるとしたら大仕事だし、いまの岡南に領主の妹が戻って、ただで済むとは思えない。話し合いの余地もなく殺されてしまうかもしれない。

「自分だけ助かろうとして、嘘を言ってないだろうな」
 ノミを持った男が、再び口を開く。再びにらみ合いが始まった。いま、鹿太郎の後ろ盾になれるのはウチだけだ。岡南に引き返すわけにはいかない。どうすればいい。

「だいたい、この女だって、岡南の領主の身内だ。おれたちを襲った奴らの仲間だ。ここにいていいやつか?違うだろう」
 男は後ろを振り返り、賛同を求めるように問いかける。同意する声がいくらか上がった。

 痛いところをつかれた。人垣のなかにいる誰かの知り合いをウチは殺しているのかもしれない。たとえ直に殺していなくても、お兄ちゃんたちが殺していることは十分にありえる。
「でも、だからって、鹿太郎を殺す理由にはならないでしょう」
 なんとか返事を絞り出すが、相手も引き下がってはくれない。
 正太郎さんは口をつぐんだきり動かないが、まわりの百姓を穏やかながらも力のこもった視線で見渡している。誰も動こうとしないし、話そうともしない。

「おーい、おーい」
 沈黙を破る声は、南西のほうからやってきた。
「おーい、岡北も百姓一揆ですかあ」
 呼びかける声は段々と近づいてくる。人垣のせいで姿は見えないが、きっと岡南の百姓なのだろう。

「こっちは、領主が死んで、子分も散り散りになって片付きました。妹のほうは…」
 新しく来た男が人垣をかき分けて出てきた。土と汗にまみれてどろどろだ。ウチの姿を見て驚いた様子をしている。

「おい、その声は、五郎さんか」
 さっきまでウチとにらみ合ってた土まみれの男が、新しく来た男に呼びかけた。
「おお、幸兵衛さんか」
「本当に岡南の領主は死んだのか?」
「本当ですよ。こっちはいったいどうなってるんです?」
 ウチと鹿太郎を指差して、五郎という男が尋ねる。
「どうなってると、いわれてもなあ」
 幸兵衛と呼ばれた男は弱った様子だ。

 緊張の糸が緩んだところで、正太郎さんが口を開いた。
「なあ、幸兵衛、お蝶さん、鹿太郎くん。丸く収まる方法は一つ。縁組だよ。岡北も岡南も当主の生き残りは一人だけ、しかも二人は両想い、だろう?」
「うん」
 鹿太郎が出てきて即答した。
「あ、はい」
 顔が赤くなるのを感じながら、ウチも返事をする。

 正太郎さんは、左右をゆっくりと見渡して、再び口を開いた。
「地頭の一族が絶えたら次の地頭がやって来る。次の方が、入道よりも良心のある人とはかぎらない。
 かといって、他所からやってくる荒くれ者を追い払うには、わるいけど鹿太郎くんだけでは、力不足だ。
 だからこそ、お蝶さんとの縁組だよ。岡北と岡南で、手を結ぶんだ。とんぼ返り、スキの柄を切った業前、大勢にもひるまない気迫。
 これなら安心じゃないか?」

 正太郎さんが、幸兵衛と五郎を始め、一同を見渡す。

***

 春の日差しが降り注ぐ丘の上で、旅のお坊さんの念仏が殷々と響き渡る。
 丘の上には、大きな穴が空いている。巨像を落とすために坑道を崩したときに出来た穴だ。中には次から次へと薪がくべられる。周りには筵に包まれた亡骸がある。

 今日、丘の上で焚かれる炎は、夜討ちを見張るための篝火ではない。一揆で死んだお百姓たちの亡骸を、荼毘に付すためのものだ。元当主たちと、子分たちの死体は、麓で焼かれた。誰もろくでなしたちの死体を、丘のてっぺんまで運び上げようと思うものはいなかった。死体は棺に収められることなく直に燃やされ、遺灰は墓に納められることなく肥やしとして田畑にすき込まれた。

 岡北と岡南、両方のお百姓たちが穴を取り囲んでいる。百姓頭の丙三郎さんもきている。一番百姓の正太郎さんは、幸兵衛さんの親戚の丁兵衛におんぶされてきた。岡南の領主として出席するウチは、岡北の地頭となった鹿太郎の手を握っている。興味津々のあまり、穴に落ちないようにするためだ。

 準備が整うまでのあいだ、幸兵衛さんと五郎さんが地突の計について、ウチに語って聞かせてくれた。
 短くまとめれば、領主のために築山を作るという名目で穴を掘り始め、巨像の下まで進めたらば天井の土を支える柱を焼き払って巨像を落とす。混乱に乗じて百姓一揆を起こすと、いうのが計画の要点だ。両方の土地で同じ計画が進められていたのは、全くの偶然だという。

 お話のなかでも、月と星と巨像の位置を頼りにして、夜の丘の正確な位置に空気穴を掘る話は驚きだった。
 なぜかといえば、空気穴をほるために、岡南のお百姓たちが見張りを丘においていたからだ。領主の味方が丘に入り込んで、穴を掘って竹筒を植えるお百姓と鉢合わせするのを防ぐためである。

 当然ながら、夜討ちがないと分かるまで、見張りは夜寒のなかじっと待つ。寒い中での見張りで風邪をひき、こじらせて死んだものもいる。亡くなったものたちのうち一人が、今日この場で荼毘に付されるのだという。
 要するに、直にではないにせよ、ウチの手はお百姓の血で汚れているのだ。

 お経が終わり、薪が十分に揃うと、死者が穴におろされた。火をつけるのは、幸兵衛さんと五郎さんだった。まもなく煙が上がり、空高くに上っていく。煙と炎を捧げる相手は、一揆で亡くなった者たちだけではない。地突の計に関するすべての死者に捧げるものだ。
 その中にアヤメちゃんが入るのかは分からない。聞いてみる気にはなれなくて、そっと胸にしまっておくことにした。

 炎が大きくなってくると、正太郎さんがウチと鹿太郎に合図を送った。
 薪が爆ぜる音に負けじと、正太郎さんが声を張り上げる。
「お集まりの皆さん。これより、岡郷の百姓を代表して、正太郎が神水の儀を執り行います。誓いの杯を交わしていただくのは、岡郷の牡丹家のお蝶と、同じく岡郷の紅葉家の鹿太郎です。異議のあるものは申し出るように」

 一同が頷く。丙三郎さんが文書を正太郎さんに渡す。受け取った正太郎さんは、おんぶされたまま、文書を両手で高く掲げた。たどたどしい字が衆目にさらされて、たとえ文字の読めないものが多いとはいえ恥ずかしい。
 掲げられているのは、ウチと鹿太郎の二人が、正太郎さんに教わりながら苦労して書き上げた誓いの言葉だ。
「ではお二人、証文を読み上げて下さい」

 半紙がウチと鹿太郎に向けられた。
「お百姓にやさしい領主ならびに地頭となることを、お蝶と鹿太郎はちかいます。もしも約束をやぶったときには、百叩きにされ、丘の上の炎でやかれ、灰を肥だめに放りこまれることをもって、お百姓にお詫び申しあげることをちかいます」

 ウチと鹿太郎が文書を読み終えると、正太郎さんの奥さんが文書を受け取り、水を張った鉢の上に差し出した。幸兵衛さんと五郎さんが、二人で一本の長い薪をもって、燃え盛っている炎を採った。

「火をつけなさい」
 正太郎さんが頷くと、証文に火がつけられた。灰が鉢の中の水に落ちていく。
「杯を」
 ウチと鹿太郎は、幸兵衛さんと五郎さんから素焼きの杯を受け取ると、灰混じりの水をすくい、杯を交わした。

***

付記

 岡郷は、大名や幕府代官による統治ののち、廃藩置県や昭和、平成の大合併を経て、みどり市岡となった。岡南、岡北という地名はバス停と学区割のみに残されている。年に一度、三月二九日に、丘の稜線にある窪地で篝火を焚く祭りの発祥は、本稿に記された百姓一揆に遡る。

 お蝶と鹿太郎は天寿を全うし、アヤメと同じ場所に葬られたとされるが、墓所の位置は不明である。一説によれば、岡南に現存する巨石(巨像に同定されるもの)の下に埋葬されたとされるが、必然性がなく疑わしい。

Photo at header by Marc Hastenteufel on Unsplash

ここから先は

0字

¥ 300

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?