フリッツ・ライバー未訳短編の面白み

西欧風ファンタジーにおいてはやられ役?な竜と蜘蛛に主人公二人をたとえてみせる、作家フリッツ・ライバーの融通無碍なアイデアに脱帽。

読んだもの

Fritz Leiber, The Curse of the smalls and the Stars, (The Knight and Knaves of Swords, Open Road Media, 2014所収), 初出は1983年3月のジェシカ・アマンダ・サーモンスンによるアンソロジーHeroic Visions (ISDSBによる) 

あらすじ

中年にさしかかり、Rime Isle(霜の島)で中隠めいた暮らしをはじめた主人公、ファファードとグレイ・マウザーのもとに、暗殺者が差し向けられる。しかし、当の本人たちは暗殺者ことなどつゆ知らず。暗殺者たちは、結社の流儀にしたがい役者のごとく標的になりきって、長く辛い旅路を往く。

感想

二人の刺客はそれぞれ、ファファードとグレイ・マウザーのことを竜と蜘蛛にたとえる。

「このファファードというやつは、黄金を守ってる山のほら穴の竜とみた」〈ファファードの死〉は断言した。「おれは奴になりきったし、ものにもした」
「マウザーのほうは、恰幅の良いふとった灰色の蜘蛛みたいだ」〈グレイ・マウザーの死〉が答えた。「銀、琥珀、大海獣の牙を、あちこちにある隅、割れ目、角っこ、要は奴がちょこまかしてるところに貯め込んでるんだ、おれだって奴を演じられるし、共演だってできる。おかしいかもしれんが、こういうのこそ意中の相手への至り方だろう」

The Curse of the smalls and the Stars, 16章より
(Fritz Leiber, The Knight and Knaves of Swords, Open Road Media, 2014, Kindle版、拙訳)

竜(dragon)と蜘蛛(spider)に例えられる主人公、というのは、およそ主人公らしくないような気がして、私はそこに面白みを感じた。竜(とくに財宝もちのやつ)とか蜘蛛(とくに小さな人を押しつぶせそうなくらい肥えたやつ)は、敵役に回ることが多いような…?少なくとも、執筆された1980年代前半時点では。いや、その時代に限っても、例外はいくらでもあるかな?

竜と蜘蛛、というのは、同じくライバーの手になる改変戦争ものにおけるスネークとスパイダーにも通じる気がする。スネークもスパイダーも、物語を進めるためには必要だ。しかし、どちらも、得体がしれないし、互いの目的にどれほどの違いがあるのかもよくわからなかったりする。

得体のしれない組織を連想させる竜と蜘蛛に主人公を例えるという構図は、この小説(The Curse of the smalls and the Stars)では状況を変えようと動き回るのが脇役一同であって主人公二名ではない、という構図と照らしあわせると、なんだか皮肉めいている。

なにもしない主人公がいるからこそ物語がおきるのだけど、物語は主人公がなにもしなくても進むという、逆説と皮肉があるように思えるし、こうしたとらえどころのないところがライバー作品が好きだ。

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