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ヒロイック・ファンタジー小説「兄弟と魔女の指輪」

(裏表紙カバーのアレ)異国で金もコネもなく途方にくれる北方出身の兄弟は、魔女の塔から蘇生薬を盗み出して一山当てようと企む。薬の真贋を塔内のキバタンの剥製で試したところ効果てきめん。鳥は「泥棒!」と騒ぎたて、塔中を飛び回り、魔女は無論、狂い斧の異名をもつその夫まで目覚めさせた。

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第一部

酒場の兄弟

 <藁床亭>の店主ルゥスは、カウンターにおかれた羊革の大巾着をのぞきこんだ。バーキャルクは商談成立を願ったが、この店の主は袋から立ちのぼる悪臭をくらって顔をしかめると、巾着の紐を引っぱって、口を固くとじた。
 バーキャルクはため息をついた。巾着のなかにふりかけた薔薇水のために八枚の金貨と金貨一枚分の小荳蒄を手放していたのだ。
「ちょっと臭いのつきやすいとこってあるだろ?」
「赤蛆のわいた猪豚の死骸のちょっとそばとか?」
 店主は返事をしながら巾着の紐をぐるぐるまいて、はじめよりもきつくしめあげた。
「くさっても鯛」バーキャルクは言った。
 店主は重いうなり声をかえした。
「俺がどんだけ骨折ったか知ったら、あんたの気も変わるとおもうよ」
 バーキャルクは腰にさげた得物を叩いていった。剣は飾り気のない鞘におさめてある幅広の大段平だった。
「話だけなら聞くよ」
「例の爺さん、最初はフカしてるとおもったんだけどさ、天井からの操り糸なしで動く死体を見たらさ、とても騙りの死霊術師じゃあないって…」
 バーキャルクが死霊と口にするなり、ルゥスは血相をかえて巾着をひったくり、裏口めがけて駆けだし、店の外に飛びだした。バーキャルクは相手の手をつかもうとして果たせず、開けっ放しにされた裏口の木戸がゆれるのを見るでもなく見ていた。
 裏口からはルゥスが黄金像の神々の名を叫ぶ声が聞こえてきて、重いものが水に落ちる音もした。クレアン・カーの都に横たわる熱帯夜の空気が店のなかに流れこみ、バーキャルクのため息とまざった。故郷の大草原の乾いた冷たい風が恋しくなった。ほんのつかのまではあったが。
 バーキャルクは、ふたたびため息をついた。いずれは来るが生きているうちには来ないだろう<大旱魃>のときまで、誰も川底を見通せない<大河>の底で眠りにつく金塊のことをおもえば、ため息がでてあたりまえだった。
 店主が外から戻るにはしばらく時間がかかりそうだった。ルゥスは敬虔な男だった。
 バーキャルクは己の財布をたしかめ、今夜の宿すらあやしいことをたしかめると、店のなかにある賭場へ行った。
 試合はまだだった。夜遊びの悪ガキたちが生け捕りにしたネズミを賭博屋に差し出し、小遣いに替えているところだった。賭けの客らしいのは二、三人だけだった。客たちは未だ空っぽの闘技場の左にずらりと並ぶ犬の檻と、右にあるネズミで一杯の大檻とを見ながら、血と汗の結晶を金剛石にかえる夢にふけっているようだった。
 犬の檻にはどれも名札がついていた。吸血、千切り屋、脳髄すすり、五臓潰し、六腑抉り、七騎殺し、熊殺し、虎殺し、獅子殺し。これだけ名札があっても、檻は一つを除いて空だったし、それはいつものことだった。その一つの中に鼻のつぶれた老犬がねそべっていた。名札には腰砕きとあった。
「他のはどうした」バーキャルクは言った。
「よそに貸してるのさ」
 賭博屋のファスは笑って、いつもと同じ答えをよこした。
「いくら賭けるね?草喰らい」
「七匹に五、赤線で三、白玉は無し」
 バーキャルクは侮辱をうけながし、いつものように賭けたが、
「悪いがね、十二から賭けてくれ」いつもとはちがう返事が来た。
「五からだろ」
「上がったんだ。恨むなら組合を恨め」
「虎の糞にでもなりやがれ」
 バーキャルクの罵りを賭博屋は背中で軽々とうけとめた。賭博屋は回転台に据えた砂時計をゆらしてみたり、時計の胴につけた線が消えてないか改めてみたりと、忙しくもないのに忙しいふりをしているのは明らかだったが、他の客は文句を言いつつも賭け始めたものだから、バーキャルクにはなすすべがなかった。
 バーキャルクが肩を落としてカウンターにもどったときには、店主もかえってきていた。
「不浄の金はお断りなんだ」
「ここは『不浄な』金を洗うとこだろ」
 ルゥスの眉がぴくついた。
「不浄ちがいだ。あんたがたが相手してるようなやつじゃない」
 バーキャルクは複数形をきいてふりかえった。
 兄のダームダルクが店に入ってきたのだった。兄は獣脂のろうそくが吐きだす鼻の曲がるような臭いの煙をかき乱しながらやってきて、嘲笑をバーキャルクによこし、隣りに座った。
「よう、兄者」バーキャルクは言った。
 兄はぞんざいな仕草で挨拶をかえし、
「火酒じゃ」と言った。兄の声は酒やけしていた。
 バーキャルクは兄の顔をのぞきこんだ。兄とは目の色こそちがうが、瞳孔は同じ奈落の黒である。いま兄の瞳の奥底によどんでいるのと同じものが、バーキャルクのなかにもあるにちがいなかった。
「火酒じゃ」店主が応えないので兄はくりかえした。
「先払いで」
「ツケだ」
「だめだ」
「どいつもツケでのんでおろう」
 <藁床亭>はツケがきく。バーキャルクはこの店で銭のやり取りをみたことがない。
 ルゥスは頑として動かない。
「ちょいまて」
 兄は忌々しそうに顔をゆがめ、足のあいだに挟んでいた背負い袋をもちあげ、じゃらじゃらと物の触れあう音をたてた。数える気になれないほどの根付や護符が荷物にとりつけてあった。どれも兄が行く先々の露店や古物屋で、飯代をけちってまで買った「魔法の品」なのだった。
 バーキャルクの見たところでは、どれも三流職人のこしらえた安物で工賃より素材のほうが高そうなものばかりだったが、兄にいわせればどれも真正の芸術士が作り上げた逸品で素材より中にある魔法が大事なのだった。
「これでどうじゃ」
 兄が店主にさしだしたのは、みがきあげた真鍮の円盤だった。直径は桃の実ほどあって中央にある四角い穴に紅白の組紐がとおしてあり、円盤の両面になんらかの図案がついていた。きっと兄は暇さえあれば円盤をみがいていたのだろう、円盤は黄金のようにかがやいていた。
 その真鍮板をみて、バーキャルクは護符ではなく通貨のように感じたが、どこのいくらなのかという問いに答える知識の持ち合わせはなかった。
 店主は円盤にじっと目をこらしてから受け取って、重さをたしかめるように手をうごかしたり、裏返したり、指で弾いたり、ひっかいたり、しまいには噛もうとしたが、本当に噛みはしなかった。店主はうなずいて品物をかくしに突っ込んだ。
「で、旦那は?」
 バーキャルクは店にたちこめる煙をすかして、他の客がかたむけている木のジョッキやしろめの器をながめたり、カウンターの向こうにならぶ樽を品定めするように見たりした。
 兄と同じく火酒をたのみ己の肝っ玉の大きさを示したいという虚栄と、離れ駒同士で意地を張り合うのは馬鹿らしいという冷笑が、胸のうちで鍔迫り合いをはじめたが、勝負の行方ははなから決まっていた。
 金がなかった。
「火酒はやめじゃ。かわりに麦酒二杯。一番大きいやつでな」兄が言った。
 恩の押し売りにバーキャルクは舌打ちした。
 ダームダルクはニヤリとわらった。
「貸しじゃ」
「すぐに返してやるさ、利子で腰を抜かすなよ」
 麦酒が来て、バーキャルクが半分のみ、同じ時間で兄が四分の一ほどのみほしたとき、バーキャルクは<藁床亭>のおんぼろ木戸がきしむ音をきいた。
 ふりむくと、戸口に新しい客がたっていた。
 商機到来だ。
 新参者は毎日たべているような肉付きをしていたが、まるで下男から借りてきたようなつぎはぎだらけのぼろぼろの服は、新参者が瘴気から身を守るかのように鼻にあてがっている絹の手巾を否応なしに目立たせていた。
「予約はないんだが…」手巾男が言った。
 常連客たちは大笑いした。きっと天井にある蜘蛛の巣は大いにゆれたことだろうし、腐りかけの壁だってゆれたことだろう。
 男は場違いなことをいったと気づいたのか、それとも笑われたことに腹を立てたのか、顔を赤らめて口をつぐむと床のしみをよけながら店の奥へあるき出した。
 バーキャルクは新参者に一定の評価を与えた。男は店の汚さに怖れおののいているようだったが、油断ならない手先をもつ給仕や酔漢、女傑たちから財布をまもる用心をしていたからだ。
 男は事案を抱えているにちがいなかったが、だれに任せるか未だ決めていないようだった。
 この新客の気を引こうと、<藁床亭>の常連たちはいっせいに動き始めた。
 シャッ、シャッ、と耳障りな音がバーキャルクの癪にさわった。音のしたほうを注視すると<医学士くずれ>グルムプラードが反りをうった短刀を研いでいて、机上には無数の刃物が陳列してあった。どれもこれも肉を切るにはうってつけの形をしていた。
 事案を抱えているはずの男が医学士くずれを一瞥した。
 そのときバーキャルクは短剣を鞘走らせた。一息のうちに白刃をふるって、片手でにぎっていた白木の鞘を三つに断ち割った。バーキャルクが見せた技の秘訣を知るのはダームダルクだけだ。鞘に仕掛けがある――割れやすくするため内側にみぞを彫ってあるのだ。
 そうとは知らない新客の足がとまった。
 ダンッ、とまたもや耳障りな音がして、バーキャルクをいらだたせた。見れば<鉄腕>トーラが鳳梨パイナップルを机に叩きつけてぺちゃんこにしたところだった。きょうも彼女の肩にいるオウムが「天下無双」と、わめきちらした。
 新客はつぶれた果実を見て目を見開いた。
 兄がうごいた。背負い袋から鰐梨アボガドの種を取りだすなり宙に投げあげて、落ちてきたところを左の親指と人差し指でつまんでつぶしてみせた。ダームダルクが見せた技の秘訣を知るのはバーキャルクだけだ。種にはタネがある――いちど金槌で割ったものを糊でくっつけてあるのだ。
 新客が兄の技に注意をはらったようすはなかった。
 兄の芝居は音響の点で弱かったのかもしれなかったし、新客の気を引けなかった原因は別のところにあるのかもしれなかった。いま新客の目をひきつけているのは、<奇跡の指>ナイが楊枝一本で新式の錠前をあけにかかるさまだった。ナイはバーキャルクにとっても耳心地の良い音をたてながら手をうごかし、涼しい顔で錠前に勝利をおさめた。
 新客はナイのほうを向いて一歩ふみだした。
 バーキャルクは寄木細工の小箱をとりだし、わざと音をたてて机においた。新客の目を惹きつけたのを認めると、バーキャルクは兄をして己自身に目隠しをさせた。バーキャルクは目隠しされたまま寄木細工のうえで手をすべらせ、ナイが錠前をあけるよりも短い時間で細工をといて小箱を開けてみせた。技の秘訣はなんども練習することである。
 そうとはしらない新客の足は向きを変えて、バーキャルクたちのほうへやってきた。
 バーキャルクと兄はたがいに距離を取り、あいだに男が座れる場所をつくった。
「所有権の移動についてご相談がありまして」そう言って男は、名乗ることなく腰を下ろした。
 バーキャルクは続きを促した。
「<国を生かす者>の奥方が作っているという蘇生薬を…」
「薬草商人たちの噂になっとるやつじゃな」兄が客の話にわりこんだ。
 客は話は早いといいたげに微笑した。
「薬は本物なのか?」
 バーキャルクは兄の言葉を苦々しくおもった。相手が本物とおもいこんでいればこそ商談が成立するのだから、兄がしたのは余計な質問というほかなかった。
「安心しろ。俺たちは鑑定人としての心得もあるし、<小切手大路>のお屋敷たちにも慣れてる」
 バーキャルクは、客の注意を己にむけるべく、身振り手振りをまじえて言った。客が兄の背負い袋についているガラクタに気付くことは、なんとしてもさけたかった。
カネの引っ越しはいつかな?」バーキャルクが言った。
「薬と交換です」
「前金は?」
 客は首を横に振った。バーキャルクは交渉の余地なしとみて、首を縦に振った。
「では、明日の夜、この場所で」客が言った。
「三日後だ」
 <狂い斧>の妻から盗むなら万全の備えが必要だ、というのがバーキャルクの考えだったが、客には別の考え、あるいは急ぐ事情があるようだった。
「明日です」
「二日後」
 客はなにごとか考えているようだったが、やがて首を縦に振った。

屋敷の魔女

 ネラは屋敷の廊下が嫌いだった。雨の夜はなおさらだった。水晶のついたシャンデリアの明かりは、血の色の――娘にいわせれば甘いイチゴの色の――じゅうたんと処刑人の斧をかまえた戦士像たちにつきまとう影をはらうには力不足だった。
 突きあたりの大扉が開き、夫の書斎から娘がでてきた。ネラの心臓がはねあがった。
「ママ!」
 娘は笑顔で手をふりながら走ってくる。
 ネラは娘を抱きとめると像のかげに娘をひきこんだ。娘と話しているところを夫に見られたくはなかった。
「あの人と二人きりになっちゃだめ」ネラは娘をしかりつけた。
「お父様はやさしい人だよ」
「とにかく、二人きりになってはだめ」
 ネラは効き目がないことを承知の上で、頬をふくらませている娘に言いきかせた。
「お父様はいい人でしょ。あたしが下町の子と夜遊びしてもいいって」
「あきらめただけ。何度いってもあなたが抜け出すから」
「いいっていったもん」娘はくちびるをとがらせた。
「本当はね、あの人はあなたが家の中にいてほしいとおもってるの」
「でも、お父様はパンイーを買ってくれたし、剥製にもしてくれたよ。よそのうちだったら<大河>にポイだよ」
「目玉に黒真珠はどうかとおもうな」
「あたしはガラスのほうがすき」
 ネラは娘とのあいだに若干ながら意見の一致をみたことに胸をなでおろしたが、娘が忠告にしたがうとはおもえなかった。
 娘は身をひるがえすと、
「おやすみ」と、女部屋へかけていった。血の色のじゅうたんが足音を殺した。
 ネラはため息をついて、廊下の向こうの大扉を見つめた。
 扉はたった一本の黒檀の木をもって作られたものだ。<小切手大路>広しといえども、同じような扉は数えるほどしか無いだろう。扉には両刃ながら左右非対称の斧すなわち<狂い斧>という夫の家系の紋章が彫り込まれていて、金箔までおされている。
 扉の向こうにいる夫は、娘を甘やかすこと甚だしく、ここクレアン・カーの都に流れこむあるいは都から湧きだす贅沢品を、次から次へと娘に買い与えている。香り高く喉がひりつくほどに甘い蜜につけた練り菓子や、鋼鉄の歯車と回転盤を組み込んだからくり仕掛けの玩具はもちろん、色彩の点でも襟ぐりの点でも月役の来ていない子供には派手すぎる衣装や、ネラですらたじろぐほどに派手な宝飾品などを、夫が娘に際限なく与えるおかげで、娘の遊び部屋はちらかり放題だ。
 ネラが武術師範婦人として社交の場にでると、人々は決まって<国を生かす者>こと夫のムムエルダオが血のつながっていない娘ニムエラを溺愛するさまをほめたたえる――田舎女の連れ子、それも女子を可愛がるとは高徳なお方であると。
 夫と反りが合わないとはいえ、ネラは都の贅沢が好きだし、娘もおなじだ。語り継がれる音楽だけではなく新しい音楽もある都が、日が暮れた後に本当の暗闇を得るのが難しい都が、自分ではなく他人が食事の支度をしてくれる都が、太るよりやせるほうが難しい都が。
 決心さえすれば、ネラは娘をつれてどこかの庄に逃げこみ、魔女として生計をたてることもできる。
 だが、魔女をたよるような人々は、魔女を吊るし上げる人々でもあると、ネラは身をもって知っていた。
 本気で生きる魔女は護身と逃亡の術をいつも用意しておくものだし、ネラはそれができる本当の魔女でもあったが、いつも本気で生きるのは大変だ。
 だからこそ、ネラは都の男やもめと契った。隣人への無関心という、決して田舎には取り寄せることのできない都会の贅沢を手に入れるためだった。都の人間は隣人が魔女でも羅刹でも気にとめない。火事だけが例外だ。
 ネラは知っている。夫が娘を溺愛する真意を。それを娘に暴露して夫と別れることは都会ぐらしを諦めることに等しく、ネラは都落ちの決心を未だにつけられなかった。
 ネラはかぶりをふって思考をいまここにひきもどすと、女部屋ではなく渡り廊下に向かい、塔へ入った。
 娘のためにも、自分のためにも、やらなければいけない仕事がある。

§


地固めと根回し

 仕事を受けた翌日、バーキャルクは盗みの軍資金を用意するにあたって、兄から鼻短尾長象の浮彫をゆずりうけた。兄は手放すのを渋って節約を提案したが、バーキャルクは魔女の塔にはもっといいものがあるといって、兄を丸め込んだ。
 バーキャルクには節約にあてる金さえなかったし、兄もまた飲み代で財布をほとんど空にしていた。
 浮彫はどんな河原にもあるような石でつくった手のひら大のものだった。バーキャルクは努力もむなしく、いまだ社交界に縁をもたなかったが、社交場で人々が本質の分からぬままに口にする芸術家の名前を覚えることにかけては熱心だった。都におわす富貴の人々と話す機会がいつ訪れてもいいようにだ。
 そうやって覚えた人名のなかに、彫刻家にして画家の名があった。その芸術家は工房の火事がもとで夭折し、あとに残ったのはいくらかの作品と不完全な目録だけだった。
 バーキャルクは、その芸術家の名を浮彫の裏に刻みこみ、軍資金の見積もりをたてたのち、かねてから目星をつけておいた成金の宅を訪問し、浮彫をみせた。
 カモは浮彫の表面を見て眉根をよせたものの、裏面をみるなり顔をぱあっとかがやかせ、目録にのっているだけの作品名をうろおぼえで口にして、バーキャルクが伝えた通りの額を現金で支払った。名前のみが伝わる作品を見つけた、とバーキャルクが補足してやる必要はなかった。
 この取引を、バーキャルクはカモにとって二倍お得なものだとみなしていた。カモは一回の支払いで、真の芸術を専有する幸福と偽物注意という教訓の両方を得たからである。後者に気付くのがいつか、バーキャルクは知りたいような知りたくないような、そんな気持ちであった。
 そうして得た軍資金を等分し、バーキャルクと兄は別々に準備をはじめた。
 夜が建物どもの下へと昼を追いやったころ、バーキャルクは<小切手大路>南側の隠れ家にはいった。隠れ家の裏口には飾り彫りのついた両開きの扉があって、孔雀を描いたアーチが扉に彩りを添えていた。こんな家でさえ<小切手大路>北側の家に比べれば安普請といえた。
 北側に住まうやんごとなき方々は、露台からの景観を良くするために南側にたつ家を買い上げるのが習いだ。ぽっとでの小金持ちや成金が家の向かいをうろつくのが気に入らないからである。やんごとなき方々は買い上げによって店子不在の借家をつくりあげると、見張り番を雇って借家につけ、だれも近づけるなと命じる。
 昼間、見張りたちは本業にはげみ、誰ひとりとして家に入れない。薄暗くなると、見張りたちは副業をはじめる。見張りはならず者から鼻薬を受けとって家を貸すのだ。
 バーキャルクが手配した隠れ家も、そうした家の一軒であって、<狂い斧>の屋敷を観察するのに都合がよいところにあった。
 兄が来るまでのあいだ、バーキャルクは屋敷をながめてひまをつぶした。
 屋敷は甍葺きの斜め屋根の二階建てで、二階からは渡り廊下が伸びて、三階建ての塔につながる。魔女は塔の三階で薬をつくり、屋上で星を見る。塔の二階は使用人に見せてもかまわないようなものだけを置いた物置で、一階には外からも中からも入れない。
 常に二人の警備がつく門は一つきりで、生け垣がぐるりと屋敷をとりまく。生け垣を破るには、いくつもの切り傷を覚悟する必要がある。
 このような仔細の販売者である使用人たちは、夜には裏手にある離れでぐっすり。家畜小屋には牛十頭と馬三頭。母屋である二階建てに住むのは、<狂い斧>たる父と母、それに娘の三人。娘は女の連れ子で、家族仲はいいらしいが、<狂い斧>は病気のせいで気を失うことがあるという。
 裏口を叩く音がした。
「雨」バーキャルクが言った。
「乳」兄の声が、正しい合言葉をつげた。
「首尾は?」
 バーキャルクは戸口を開けて言った。
 兄は自信ありげな笑いを返してきた。
「魔女の仕掛けは見つかったのか?」
「門に小物が一組。当日にかんたんに始末できるわい」
「俺は今日のうちに門番を始末した」
 兄の笑みは悔しげな顔つきに変わった。
「そういうおぬしとて、塔の一階には手も足もでなかったろう」
「何がある?」
 塔の一階は最古参の使用人ですら事情を知らない場所だった。もしも誰かがバーキャルクに、魔女をたらしめるための何かが、たとえば星と星のあいだを満たす暗黒が隠されているのだと言ったら、バーキャルクは信じるとまではいかなくても、否定はできないような場所だった。
「何か、は問題ではない」
「どれくらい、も問題だな」
「何がどれほどいようと関係ない。札を貼らせて封じたからな」
 兄は胸を張った。
「忍び込んだのか?」
 兄は一瞬、答えるのをためらったようだったが、結局は答えた。
「御用聞きに袖の下を渡して頼んだ」
「俺だって家畜番をして逃げるための車を手配させた。塔の下に四輪の車がある」
「馬は?」
「ちがう。塔の屋上から車に飛び降りるんだ。柔らかいものをたんと積んでおけと、家畜番に言っておいた」
「落ちたらシラミだらけの布団だった、なんて二度と御免じゃぞ」
 兄はバーキャルクをにらみつけた。シラミの布団に飛び込んだのは、獅子ヶ谷に住む恍惚たる紫の魔術師と対峙したときのことだった。昔のことをいまだに持ち出す兄にバーキャルクはうんざりしたが、この異郷でほかに味方はいなかった。
「もう賄賂はケチらないさ」バーキャルクは言った

第二部

<国を生かす者>

 一昨日とおなじ雨の晩、ネラは夫の書斎にいた。今週にはいって二度目の呼び出しで、中日にいたるまえに二度目の呼び出しがきたのは、今日がはじめてだった。
 本物のドクロでつくったランプが、夫の顔に死の影をなげかけていた。
 ネラは自分から話す気にはなれなくて、部屋の隅にあるミニチュアの拷問器具をながめて時間をつぶした。その拷問器具たちは人にとっては精密な模型であり、ネズミにとっては実用の道具だった。
 そうした器具の一つを娘が遊び道具にしていたことをネラは知っている。夫は知っているのだろうか?もし知ったら?夫はネラほどには怒らないだろう。むしろ娘が拷問遊びに三日で飽きたことを残念がるだろう。
「薬はまだか」
 夫は机を指でたたいていた。
「まだ足りない。大の男につかうにはね」
「蒸留器が悪いのか?」
「このところイヴデーの星が隠れる夜ばかりだから」
「星がだめなら鬼や羅刹にでもたのめ」
 ネラは内心でかぶりをふった。
「それじゃ長生きできない。あなたも、私も」
 夫が机を叩く音は大きくなった。
「なら別の手段をとるほかあるまい」
 そう言って夫は、引き出しから開頭手術の用具一式をとりだした。どれもこれも磨き上げてあって鏡のように輝いていた。
 食卓の銀器よりきれい。一瞬でもそう思った自分をネラは呪った。
「あなたが使うのは蘇生薬、娘の松果体じゃない。そういう約束でしょ」
 夫は鼻をならした。
「だったらあの娘を家にとじこめておけ。夜遊びするうちに傷物にされては台無しだからな」
「お目付け役を増やしたら?」
「おまえは私を笑いものにさせたいのか?身分不相応なほどに人を雇ったと」
 夫は拳を机に叩きつけんばかりだったが、夫は自制心を働かせたようだった。
 もしも娘が起き出してきて、立ち聞きでもされたらば全てが崩れさる。ネラと夫のあいだには娘には何も知らせずにおくという暗黙の了解があった。
「早く薬を作れ。われわれの娘のためにな」
 われわれの、という言葉の響きがネラをいらだたせた。
「星が隠れてるっていわなかった?」
 夫の顔が赤くなった。
「墓場に愛人でも囲ってるのか」
 師範婦人は冷たい抱擁がお好き。もしもそんな醜聞が流れたら、夫の面目は丸つぶれになる。ネラは否定する代わりに、
「死体に使うくらいなら、あの子の鳥に使う」
 夫の顔は赤を通りこしてどす黒くなった。夫は詰め物をした革張りの椅子から身を乗り出すように立ち上がって、拳を振り上げた。ネラは息を呑んであとずさって、本能的に身を引いた自分の臆病さがいやになったが、夫の血走った目はもはやネラを見ていなかった。ネラは夫の双眸に迫りくる死への怒りと怖れとを見てとった。もし死神の居城がわかったら、夫は単騎でも乗り込むに違いなかった。
 夫は振り上げた拳をひらくと、薬酒の棚めがけて腕を目一杯のばし、おぼつかない足取りで前のめりにあるいていった。
 ネラが夫に肩を貸すべきかどうか迷っているうちに、夫は床に倒れ込んだ。

夜陰に乗ず

 決行の夜も雨だった。
 バーキャルクと兄ダームダルクが、洗濯したばかりの服を着こんで<小切手大路>に繰り出すと、夜警の一団が角灯の灯りととも街路の角からあらわれ、バーキャルクたちのいるほうへ曲がった。彼らは通りの反対側をあるいており、バーキャルクとしては彼らの足がこちら側に向くことは避けたかった。
 向こうは仲間同士で軽口をたたきあっていて、鎖帷子はおろか胸当てひとつつけておらず、槍はおろか剣もなく棍棒だけだというのに、その足取りは自信ありげだった。
「数の威を借りるねずみよ」
 兄はそう言ったが、バーキャルクからすれば夜警たちの態度はもっともに思えた。もめごとになれば自分たちの分がわるく、戦いとなれば勝ち目はないとバーキャルクはわかっていた。兄も口にだして認めこそしないが、わかっているはずだった。
 バーキャルクは自分の足取りに精一杯の演技力をこめて進んだ。人目を忍ぶ夜盗のそれではなく、雨中の散歩を楽しむ余裕と自信のある紳士にみえるように歩いたつもりだった。となりでは兄も同じようにしていた。
 しだいに夜警たちの話し声と明かりが近づいてきて、とうとうバーキャルクたちとすれちがった。向こうは礼儀をわきまえているらしく、わざわざ通りを横ぎって誰何するような真似はしなかった。
 悪臭をはなつ獣脂のあかりを紳士の顔にちかづけるほど無礼な夜警はいない。
 夜警とすれちがったあと、バーキャルクたちは来た道をもどって<狂い斧>の屋敷の真向かいに来た。
 昨晩とおなじく、夜でも屋敷は明るく門先までぼんやりした光をとどけていたが、明かりを横切る影はなかった。家の者はみな眠っているようだった。そんな屋敷にたいして塔は真っ暗だった。
「早くしろ」バーキャルクは無人の門を指さした。
 予定どおりに守衛たちは腹をこわしたのだろう。
 門もまた忍び込むにはいい具合に開いていたが、二人の背丈より高い二本の門柱の上には、水晶でできた二羽のふくろうがいた。それが問題だった。
「おぬし、賄賂をはずんだようじゃな。礼を言うぞ」
 おもわぬ感謝の言葉にバーキャルクがたじろぐと、兄はバーキャルクに短弓と二本の矢をおしつけてきた。矢尻を生革にくるんだうえに、とりもちをぬりたくったものだ。
「役を代わろう。おぬしが射る。わしが走る」
 バーキャルクが戸惑っているうちに、兄は懐から帽子をぬきだして、門めがけて走り始めた。
 バーキャルクは歯噛みして、弓矢の狙いをさだめた。疾走する兄が大路の真ん中あたりに達したころ、バーキャルクは二本の矢を続けざまに射た。
 兄が門のすきまをくぐり抜けるのと、とりもちの矢がふくろうどもにはりつくのと、どちらが先か、バーキャルクにはほとんど同時と見えた。
「ホ…」と、ふくろうの声がして、途切れた。
 トリモチが見張り鳥の口をふさいだのだろう。
 水晶が砕ける音もしなかった。
 地面におちるよりさきに、兄が滑りこんで帽子で拾い上げたのだろう。
 バーキャルクも門へ走った。
「どうじゃった、わしの走りは」
 門柱の陰から兄が出てきて言った。
「俺の弓あってこそだ」
「まあいいわい。先を急ぐぞ」兄は屋敷を指さした。
「待て。ふくろうはどうした」
「押し込んださ」
 あたりは暗かったが、バーキャルクは兄が目をそらすのがわかった。
「荷物を見せろ」
 バーキャルクは兄の手をはらいのけ、その背負い袋をひらいた。案の定、なかには水晶ふくろうを包みこんだ帽子が詰めこんであった。ふくろうどもは、とりもちを食らってなお、くぐもった声で鳴きつづけていた。
「わしの戦利品じゃ」
 昨日に兄からきいたところでは、ふくろうは敷地に招かれざる客が入ると延々と鳴きつづけ、黙らせる手段は主の命令か叩き割るかのどちらかだという話だった。バーキャルクはいますぐにでもふくろうを壊したかったが、この手の鳴子は割れるときに断末魔の悲鳴をあげるものがおおいと兄は語っていた。
 兄の語る魔法の話には誇張と勘違いがつきものだったが、いまここで真偽を確かめようとはおもわなかった。
「これは置いていく」
 バーキャルクは兄をにらみつけると、近くの灌木の根もとに帽子ごとふくろうをおしこみ、屋敷に小走りでむかった。兄もついてきた。振り向かなくともその顔に不服の色が浮かんでいるのはわかった。
 屋根つき玄関に入りこみ、バーキャルクと兄は足跡をのこさずにすむよう体中の水気をふきとった。バーキャルクは体を拭くあいだ、屋根をささえる柱の彫刻をながめた。どれもこれも斧をもった男が他人の四肢や首をはねとばす図像であり、侵入者の末路を予告しているのは明らかだった。
 バーキャルクは兄と顔を見合わせて肩をすくめると、靴のうえに乾いた麻袋をかさね、蝶番に油をさして、扉を押した。使用人たちは鍵をかけ「わすれ」ていたらしく、扉はなんなく開いた。
 廊下は明るかった。照明からは蜜蝋や精油の芳しい香りがたちのぼっており、獣脂の悪臭はどこにもなかった。
 バーキャルクが値打ちのある小物をもとめて目だけ動かしていると、
「早くしろ」兄が言った。
 兄はもう、上り階段めがけて急いでいたが、バーキャルクは廊下のつきあたりから漏れ聞こえてくる夫婦げんからしい口論が気になっていた。使用人の話では夫婦仲は良好とのことだったが、実際に男の声が「愛人」と叫ぶのを聞きつけると、バーキャルクはいよいよ話の続きが気になった。
 伝聞と実際の齟齬をおろそかにしないのが生存の秘訣であり、また貴顕の者たちの醜聞はバーキャルクにとっては飯の種でもあった。
 残念ながら「愛人」より先の話は聞きとれなかった。夫婦ともに頭を冷やしたのだろうか。バーキャルクはしかたなく、階段で手招きする兄のもとへ急いだ。
 二階には、たったひとつだけ開けっ放しの扉があった。その部屋には明かりが灯っていないようだった。
「覗いてみないか?」バーキャルクは言った。
 塔につながる渡り廊下へいくには、その部屋の前を通る必要があった。
「ふくろうの埋め合わせか?」
「あれは当然のことだ」
「なら急ごう」
 兄は一歩ふみだした。
「待て、麦酒の借りがある。あの部屋で埋め合わせる」
 兄は満足げな笑みでふりかえった。
「ではおぬしは見張りじゃ」
 バーキャルクは鼻を鳴らし、兄のあとについて部屋に入った。
 相当に散らかった部屋で、兄は床に散らばる積み木やら毬やらをふみつけないよう、苦労しているようだった。みたところ子供の遊び部屋らしかったが、散らばっているのは玩具ばかりではなかった。
「外を見張ってろ。宝をあさるのはわしじゃ」
 兄はいやみったらしく笑って、手始めとばかりに床から二連作りの真珠の首飾りを二つ床から拾い上げ、どちらのほうが上等か目利きするようにして、目を細めた。
 そのすきにバーキャルクは貴石の腕輪を一つ、かくしにつっこんだ。
 兄はどちらの首飾りも盗むことなく床にもどし、かわりに天井から床まであるタペストリーと、太陽のようなとさかをもつキバタンの剥製とを見比べはじめた。
 そのすきにバーキャルクはもう一つ、貴石の腕輪をくすねた。
 兄は美術鑑賞に余念がなかった。バーキャルクがあくびをかみころし、次の獲物をもとめて目だけ動かしたとき、廊下で人の気配がした。気配は近づいてきた。
 バーキャルクは兄に指で合図を送ったが、兄は鑑定に夢中で気づいた様子がない。もういちど合図してもだめだった。バーキャルクは心のなかで悪態をつき、兄のもとへかけよった。
「隠れろ」
 バーキャルクが警告するなり、兄は絹地のタペストリーを引っぱった。なかは壁龕であった。バーキャルクと兄は身をよせあって中に入りこみ、布地の端をつまんではためくのをとめた。
 幼い娘の声がきこえてきた。

人生は短いもんよ
おいらの足も短いよ
――逃げても無駄だ
だったらおくれ、お仕事を

 バーキャルクは<小切手大路>には不釣り合いな下町の俗謡を耳にして、おもわず笑いそうになって、兄の首すじに顔をおしつけてこらえた。兄はみじろぎして、手真似でタペストリーをしめした。
 絹地に切れ目がはいっていた。兄が短刀でこしらえたにちがいなかった。
 バーキャルクは、兄はこのタペストリーをつまらない半端ものとみたのだろうかとおもいつつ、好奇心にかられて即席ののぞき窓に目を近づけた。切れ目はもうひとつあって、兄も同じようにしていた。
 娘は声から予想したとおり、どこかあどけないところのある年頃だった。娘は一人で泥棒ごっこに興じているらしく、ものをつまみ上げては放り出し、つまみ上げては放り出し、積み木だろうと真珠の首飾りだろうと、縫い針と竹の投矢だろうと象牙の柄に玉髄をはめた短剣だろうと、娘にとってはひとしなみに遊び道具だった。
 娘はだんだんとバーキャルクたちの隠れ家に近づいてきた。気づかれたらどうごまかすか、バーキャルクは冷や汗をかき、汗が布地を黒くぬらすことをおそれた。
 娘はいかにも子供らしく、遊びに飽きるのもはやかった。
「じゃあね、パンイー」
 と、娘はなにかに呼びかけて、扉を開けっぱなしで出ていった。娘がなにによびかけたのか、バーキャルクの位置から推測するのは難しかった。
 先に兄がタペストリーから出て、
「パンイーとは何じゃ?」部屋の中を見回していった。
 バーキャルクは生返事をしようとしたが、返事はのどの中で凍りついた。兄が大袋にキバタンの剥製を詰めようとしていたからだ。
「でかすぎる」
 バーキャルクは声を押し殺して抗議したが、兄はぴんと指をのばして剥製の頭を示した。
 剥製の目玉は黒真珠だった。
「イムリャの南に、いや北にだって、こんな大粒は二つと、いや三つはない」と、兄は胸を張った。
「なら目玉だけ取れ」
 バーキャルクは真っ当な指摘をしたつもりだったが、兄は蔑むような目をよこしてきたうえに、鼻で笑った。
「この手のは一式そろってこそ価値がある。人語を解する異能の鳥の剥製に、天下無双の黒真珠。きっと魔女がこしらえた特別製にちがいない」
 そういいながら兄はキバタンを袋におさめた。
「そんなに特別なら、なんで子供の遊び部屋にある?」
「木を隠すには森の中じゃ」
 兄は得意げな表情で、部屋の散らかりようを示した。

瓶はどれだ?

 壁いちめんの薬棚。棚いっぱいの薬瓶。バーキャルクはため息とともに角灯を下ろした。魔女の塔の三階はまるで薬屋だった。
「瓶はどれだ?」兄がいった。
 薬棚には、赤い瓶、青い瓶、無色透明な瓶、中身が濁っているもの、澄んでいるもの、火もないのにふつふつ泡立っているもの、寒くもないのに川霧みたいな湯気をたてるもの、角瓶もあれば丸瓶もあり、円錐平底があるとおもえば、支えつきの丸底もあり、壺まがいの大瓶もあり、笛みたいな形のもあれば、琵琶みたいな形のもある。
 兄の言葉に乗っかれば薬を隠すには薬屋の中といったところだったが、薬屋の棚と、ここ魔女の塔の棚のあいだには決定的な違いがあった。どの水薬にも名札が無かった。
 もしも蘇生薬なるものがインチキではなく本物であるとして、どの瓶が蘇生薬なのか、バーキャルクにはまるっきり見当がつかなかったし、兄の大袋にだって全ての瓶は収まりそうになかった。
「どうする」バーキャルクは言った。棚に気を取られていたせいで、なにかにつまづき転びかけた。それは蜘蛛じみた銅の蒸留器の脚だった。
 兄は薄笑いすると、円形の部屋の真ん中に鎮座する蒸留器を迂回してバーキャルクのもとにきて、そこにあった書物机の上にキバタンの剥製を据えおいた。
 バーキャルクは訝しんだ。
 兄は何も言わずに卓上にある籐細工の筆筒から黒貂の筆を抜きとって、薬棚に向きあった。
 バーキャルクは肩をすくめ、筆筒をもちあげた。机と筒とのあいだに妙なすきまがあったからだ。予想通り、筆筒の下に白金らしい指輪が二個、つややかな身を隠していた。バーキャルクは指輪を一つとってはめ、その重みに満足した。
「はした金に気を取られるな」兄の声がした。
 先に財宝を見つけられた悔しさを隠そうともせず、兄はもっていた瓶を机におくと残り一個の指輪をはめて、
「水薬を筆に吸わせて、この鳥のくちばしに含ませる。もし蘇生薬なら…」
「鳥が騒ぎだしたらどうする」
 バーキャルクが割り込むと、兄はますます不機嫌そうな顔になった。
「そのための筆じゃ。ちょっとだけなら死にかけの鳥ですむ」
 兄はもう一本、たぬきの筆をとって突きつけてきた。
 バーキャルクは筆をひったくると、手近な瓶をつかみとり兄の言うようにした。
 次から次へと薬をためすほど筆洗いの水はねずみ色に近づいていき、水は異臭をはなちはじめて鼻の奥を焼いたり頭を痛くさせたりするようになった。バーキャルクたちはときどき窓辺にいって都の夜気をすいこんだ。今晩の風もよどんではいるが部屋の空気にくらべれば心地よく、それでも故郷の草原をなつかしまずにはいられない味がした。
 夜気にあたって人心地つくと、バーキャルクはまた別の水薬をためした。
「ニミー、オハヨ」
 当たりだった。キバタンが耳をつんざくような甲高い声を発した。
 バーキャルクはとびあがって筆を取りおとしたが、瓶はしっかとにぎって栓をしなおすことは忘れなかった。片手を自由にするなりバーキャルクは鳥に鈎手をふるったが、鳥は図体に似合わぬ身のこなしで追手をかわした。
 鳥の目玉は黒真珠のはずなのに、こちらの動きが見えているかのようだった。
 兄がかけつけてきた。鳥は真正面から兄にいどみ、尾羽根で鼻柱をたたいてくしゃみをさせた。
 石の壁がくしゃみの大音声にふるえた。残響の消えないうちに、鳥が兄のくしゃみを真似た。
「静かにしろ」バーキャルクは言った。
「オヤスミ、ニミー、オヤスミ」
 鳥はバーキャルクたちの手をすいすいとかわし、この部屋どころか敷地いっぱいに響きわたるような声でわめきつづけ、下り階段をめがけて滑空した。
 バーキャルクは筆を投げつけたが鳥は急上昇してかわした。筆は回転して飛んで、棚の薬瓶にあたって、ハンドベルのような音をたてた。
「静かにしろ」兄が言った。
 天井近くまで昇った鳥は羽ばたきに羽ばたき、
「カタヅケナサイ、カタヅケナサイ」とわめきちらし、その羽ぼうきでもって棚につもったほこりを部屋中にまいあがらせ、自らの羽根もばらまいた。
 バーキャルクは塵芥の目つぶしをくらいながらも、
「窓だ」と警告した。
 兄は大袋をふるった。鳥はかわした。兄はふたたび袋をふるった。足元がお留守になっていたらしく、兄は蒸留器につまずいた。体を支えようと伸ばした手が、棚にならぶ薬瓶をひっかけた。
 瓶がいくつも落ちて割れた。
 バーキャルクは破砕音に顔をしかめ、こぼれだした水薬が床の上でまざるにつれて、石の床が音を立ててとけていくさまをみて、ふるえあがった。
 鳥は反転して、屋上につづく階段へ向かった。
 バーキャルクは息をつまらせながら走って、やみくもに手を振りまわして、兄も同じようにした。どうにか黒真珠の目玉をもつ鳥は三階にとどまった。
「首だけでも取れ」
「一式そろってじゃ」
 バーキャルクたちの口論を尻目に、鳥は飛びつづけて止まる気配をみせなかった。
「ニミー、ニミー」
 兄といっしょに夢中になって鳥をおいかけるうちに、バーキャルクたちは部屋の一点で合流した。
 鳥はひとつところに集まったバーキャルクたちの手をかわした。バサッと力強く羽ばたき、上昇のかまえを見せたかとおもうと反転、羽を縮めて槍の穂先となって急降下、床すれすれで羽を広げて滑空した。
 バーキャルクはキバタンの噂にたがわぬ賢さに舌を巻いた。
 鳥は蒸留器の下をくぐりぬけることで一直線に丸い部屋を横切って、反対側の窓から逃げ出そうと企んでいたらしかった。鳥はバーキャルクたちをつりあげ、逃げ道の反対側にあつめたのだった。
 蒸留器があるせいで、バーキャルクたちは弧を描くように動くほかなかったし、たとえ追いかけても間に合わないのはわかりきっていた。
 兄は悪態をつくと財布から棘付きの鎖分銅を取りだし、床すれすれに身を沈み込ませた下手投げで得物を放った。
 鳥は蒸留器と床のすきまに入った。鎖分銅がうなりをあげて追った。あいにく、飛び道具がとらえたのは蒸留器の脚だった。鉄鎖が脚にからみ、回転の径がすぼんだ。
 分銅は加速し、蒸留器の腹を打ちすえた。
 翼もつ闘士の勝利を告げるかのごとき金属音が響き渡った。バーキャルクは蒸留器の配管ごしに、鳥が窓をぬけだして夜の都に音もなく滑り出していくさまを垣間見た。
「瓶をよこせ」
 兄が怒鳴った。もはや声を潜める意味はなかった。
 バーキャルクは舌打ちで応じつつも、瓶を兄につきだした。
 兄は瓶をひったくって豚の玉袋にほうりこむと、袋に息をふきこんでふくらませ、適当なところで袋の口をしばりあげた。
 割れ物を盗み出すときにはよくつかう手だ。
「はやくしろ」
 兄は屋上への階段に足をかけ、バーキャルクをせかした。
「下に逃げよう」バーキャルクは言った。
 計画とはちがうことを聞かせると、兄は眉をひそめた。
「気づかれとる」
 兄の言ったとおり、階下からは盗人への呪いを吐きちらす男の声がしていた。
「おぬし、やはり賄賂をケチったのか」
「攻撃は最大の防御っていうだろ?」
 そういいつつもバーキャルクは、兄に続いて階段を駆けあがった。
 頭の屋上に出ると、まだ雨が降っていた。バーキャルクは三階建ての屋上までとどく街明かりをたよりに、飛び降りるための荷車があるはずの方角へ走った。
 すぐ後ろに兄の足音がして、より後ろでは重厚な足音が響いていた。バーキャルクたちは塔のへりにたどりつき、眼下に荷車を見つけた。
「賊め」
 怒気にふくれあがった男の声があたり一面に響きわたった。
 バーキャルクは振り向いた。<狂い斧>にちがいなかった。噂通りの人相で、片手に斧、片手に松明をかまえ、目は血走っていて顔は真っ赤に燃え上がっていた。
「かまうな、逃げるぞ」兄が言った。
 バーキャルクが答えずにいると、階段のほうから女の声がした。聞き取れず、姿も見えなかったが、魔女もやってきたに違いなかった。
「おまえの手は借りん」<狂い斧>は振り返って怒鳴った。
 バーキャルクはそのすきに飛び降りることも、短刀を投げつけることもできたが、かわりに声をかけた。
「金次第では相談にのるぞ」
 バーキャルクは金がほしいのであって、その出どころはどこでもよかった。
 <狂い斧>は申し出を検討するかのように、じっと見つめてきた。
「いい面構えだな」<狂い斧>は笑った。
「よくいわれる」バーキャルクは言った。
「貴様らの頭蓋骨はランプによさそうだ」
 次の瞬間、<狂い斧>の片手がかすんだ。
 首刈り斧が飛んでくるよりはやく、バーキャルクたちは身を後ろに投げ出した。
 落下のさなか、バーキャルクの目には街明かりにきらめく雨粒が地上に立って見るよりもゆっくりと落ちているように見えた。自分とは比べ物にならないほど小さい水滴が落下していくさまをながめていると、物の落下と加速についてこれまで誰も見いだせなかった本質を見いだせそうな気がした。頭の中で普遍の法則が言語の形をとろうとしたが、言葉として出てくることはなかった。
 泥沼に飛び込んだかのような感触がしたかとおもうと、胃の中身をぜんぶ吐き出してしまいそうなほどに猛烈な悪臭が、バーキャルクの鼻腔をつきあげた。
 荷車に敷き詰めてあったのは牛ふんだった。
「やっぱり賄賂をけちったな」
 となりで兄がくそと悪態をいっぺんに吐いた。
「最低水準は守ったんだがな」

第三部

魔女の塔

 ネラは塔の三階を大急ぎでかたづけていた。
 夫はといえば、盗人たちが塔から飛びおりるのをみるなり、塔の階段を駆けおりていった。いまごろは屋敷の庭どころか大路をも血眼になって探しまわっているにちがいないが、じきにあたまを冷やして戻ってくるだろう。
 気持ちをしずめる精油をまぜた香り高いろうそくをもって、ネラはパンイーの羽根を探し求めて床にはいつくばってまわった。
 娘の部屋にあるべき剥製の羽根を、もしも夫が頭の中で見つけたらどう思うか?夫は盗人たちが薬棚のなかから蘇生薬を見つけ出し、剥製でもって真贋をたしかめたのちに薬を盗み出した、と推論するだろう。この件について夫は推論を事実と同じものとして扱うにちがいなかった。
 もしそうなれば、夫は娘を一片のためらいもなく殺す。
 だが、パンイーの羽根さえかくせば、蘇生薬がきえたことをごまかせるはずだった。なにせ盗人たちは派手にやらかしていて、なにが失われたのかひと目見ただけでは分からないほどに困難な状況を作り出していたからだ。
 それでもネラは盗人には呪いを浴びせ、感謝を<幸運>のためにとっておいた。夫が正気づいたのが、あの大きな金属音のあとでよかった。音がしたときにはもう、パンイーの声は聞こえなくなっていたからだ。
 金属音のことをおもいだすと、ネラの背筋にふるえが走った。ネラは蒸留器を検分して容器に穴があいているのをみとめた。穴のそばには盗人が使ったのだろう棘付きの鎖分銅があった。ネラは悪態をつき、羽根の片付けにもどった。
 隠蔽工作がおわったときには、雨も上がっていた。
 夫も塔にもどってきて、もうこの場にはいない盗賊に、ネラでさえおののくような呪詛をあびせかけた。
 夫は部屋の荒れ具合になにひとつ疑いをもっていないようにみえた。部屋を荒らし回ったのは盗賊だけで、一羽のキバタンが一役買っていたとはゆめにも思っていないようだった。
「小間使どもをクビにした」 
 ネラはため息をついた。しまったとおもったが、夫はネラのため息を安堵のしるしと受けとったらしく、微笑んでみせた。
 夫が大法官と処刑人を兼務するさまを、ネラはなんの苦労もなく想像できた。
 盗賊と通じ合う使用人はいらない、という点では夫とも同意見だ。だが、夫についての評判が血なまぐさいものばかりになっては、社交界で肩身が狭くなるというものだ。
 君主の法は、屋敷の主に使用人の生殺与奪件を保証する。一定の条件のもとではあるが、疑わしくば、という条件はあってないようなものだ。田舎とおなじように、都であっても法は上位者の味方だ。君主の成文法がそうなら、家庭の小君主の慣習法はいわずもがなである。
「安心しろ」
 何を安心すればいいのか、というネラの疑問にこたえるかわりに、夫は斧の鞘をはらって刀身をネラにさししめした。斧には刃こぼれ一つなく、使った形跡はまったくなかった。
「よく手入れしてること」
「小間使どもは全員、大路にたたきだした。明日からは新しいのを雇う」
 ネラは、夫がそのまま武器をおさめるのかと思ったが、夫はなんの前触れもなく斧をふるって、石壁から火花を散らせた。その大きな音にネラは歯を食いしばって耐えた。
「星が出たぞ」
 夫が指さした先に雲の切れ間があって、イヴデーの青い星がのぞいていた。ネラは薬づくりとは、そう単純なものではないと伝える代わりに、もっと単純なことを夫に伝えた。
「職人が必要」
 ネラは蒸留器の穴と棘付きの鎖分銅を示した。遅かれ早かれ、伝える必要のあることだった。
 ネラは夫の殺気が部屋いっぱいに膨張するのを感じた。夫はまたたくまに分厚い斧を打ち下ろし、鎖を断ち切った。電光石火の一撃。鎖どころか、鎖のからみついていた蒸留器の脚にまで食い込むほどの一撃だった。怒りを吐きちらしたあと、夫はネラに向き直った。
「あえて聞かずにおいてやったが、私の薬は無事なんだろうな?」
 夫は床に散らばっている瓶のかけらや、へこんだり焼け焦げたりした跡に疑り深げな視線をむけた。
「もちろん」
 ネラは嘘をついた。かんたんなことだった。
 この男は何一つ分かってない。私の薬?ネラにとっても蘇生薬は宝だ。薬は娘を守る剣だ。この男はなにも想像できていない。母と娘のあいだにあるものを。夫は娘の命を脅かす。盗人どもだって同じだ。どっちもクソ野郎だ。
「本当か?」
 夫の視線は床から薬棚へと這いのぼって、瓶をおさめるには十分な隙間にたどりつくたびに、その空間に何があったかあるいは何もなかったのか、あったとすれば何があったのか思い出そうとするかのように、ヒルみたいに湿った眼でじっとねめつけた。
「なんのためにこの棚をつくらせたか、忘れた?」
 ネラは薬棚にむかって両手をいっぱいにひろげた。
「薬の噂はもれた」
「蘇生薬は誰にとっても垂涎の的。噂くらい当然」
「魔女なら始末をつけろ」
 夫は窓から迷いこんできた黄金虫をじろりと見た。
「消せばよかった?取引した薬草商人たち、全員」
 <国を生かす者>は顔を怒りにゆがめ、黄金虫を踏みつぶした。
「せめて無事の証拠をみせろ」
「どの瓶がどの薬か、知っているのは私だけ。それが何よりの盗人対策」
「伴侶にも秘密だったな」
 夫は皮肉めかすように笑った。ネラは唇をゆがめた。
「秘密にすればするほど、あなたは守られる」
 とうとう夫はあきらめたらしく、下へ降りていった。
 一人になると、ネラは盗人の鎖分銅を拾いあげた。もう片方の手で懐からラッパ状になった真鍮の筒をとりだし、管の細いほうを塔の石壁に押しあて、一階の者たちによびかけた。

街路

 バーキャルクとその兄ダームダルクは<狂い斧>の屋敷から逃げ去るにあたって、瓶と財宝こそ固持したが、牛糞まみれになった服と靴は脱ぎ捨ててきていた。南国の夜だから凍える心配はまるでないとはいえ、夜明けまでに新しいものが必要だった。
 追い剥ぎによって服を手に入れようと、バーキャルクたちは迅速に決断した。雨のおかげで糞は洗い流せたから、糞をてがかりに<狂い斧>に追われる心配は少なそうだった。芬芬たる臭気だけはどうしようもなかったが、バーキャルクも兄もどうしようもないことで悩むより、どうにかできることで動くほうが性に合っていた。
 バーキャルクたちが潜む角の左手から、足音と話し声が近づいてきていた。男二人の声だった。「ついてねえ」「ほんとついてねえ」と泣き言を並べ立てていて、それがわけもなくバーキャルクをいらだたせた。
「占い師がきたぞ」兄が言った。
 どうやら、カモたちが知らず知らずのうちに自分たちに降りかかる不運を予言していることをもって占い師だ、と兄は言っているらしかった。
 バーキャルクは相手にせず、静かに剣を抜いた。
「騒ぐな」
 カモたちが現れるなり、バーキャルクは剣をつきつけた。兄は腰に巻きつけていた鎖をゆるめ、おどしつけるようにじゃらりとならしてみせた。
 相手は二人組の丸腰の男だった。体格はおよそバーキャルクたちとおなじくらいで、服と靴は生成りで、どこかの下男のようだった。男たちはとっさのことに声も出ないようだった。
 遠くで馬のいななきがした。まるでそれが合図だったかのように、男の一人が剣をつきだすみたいにして指をバーキャルクたちにつきつけた。
「てめぇらのせいでこちとらクビだ。どうしてくれんだ」
「そうだ。てめぇらのせいだ」もう一人の男も言った。
「こっちこそおぬしらのせいでクソまみれじゃ」兄が言った。
 バーキャルクはカモたちが<狂い斧>の屋敷の使用人だと気づいた。どちらも見覚えのある顔だった。
「クソなんざしったことか。身売りでもしゃあがれ」
 バーキャルクは男たちの身なりではなく顔を観察して、荷車の件とは別の使用人であるとたしかめた。だからといって、しったことではなかった。
「全部とは言わん。服と靴をよこせ」バーキャルクは水平斬首の構えをしてみせた。
「ここで騒いでやってもいいんだぜ。あんたらのなりを見たら、夜警だっておれらの味方になってくれるさ」
 バーキャルクは歯噛みした。
「脅しても無駄じゃ。血を流したら服が使いものにならん」
 兄の言うことはもっともだったが、だからこそ腹がたった。
「金目のもんをよこしな。そうすりゃ服くらいくれてやらぁ」
 カモはいまや牙をむいていた。目のうごきをみれば、雄弁なカモも無口なカモも、白金の指輪を欲しがっているのは明らかだった。
 兄はバーキャルクに向かって指輪を外すよう促してきて、自らのも抜こうとした。
「草喰らいにしちゃ物わかりがいいじゃねえか」
 カモは侮辱の言葉を吐いてにんまりと笑ったが、バーキャルクは笑えなかった。
 指輪が外れなかった。
 幸運なのか不運なのか、バーキャルクはなんともいえなかった。兄も同じらしく、とまどった顔をしていた。
「指がむくんだ」兄が言った。
「馬鹿にしてんのか?」
 カモはいきりたって懐に手を伸ばした。バーキャルクは兄に手首をつかまれて、自分がなかば本能的に剣をふるおうとしていたことに気づいた。
「別のをだせ」兄が言った。
 バーキャルクは鼻を鳴らし、貴石の腕輪を二つ、カモたちにつきつけた。用心として指輪をはめていない方の手でもってさしだした。
「安もんじゃねえだろうな」
「前の雇い主に聞け」
 カモは腕輪をひったくった。逃げるのではとバーキャルクは身構えたが、相手はふたりとも素直に服と靴をぬいだ。どちらも腕輪一つとさえ釣り合わない安物だった。
 無口なカモは出すものを出すと走って夜の闇に消えていった。その後を雄弁なカモが追っていったそのとき、兄が腰の鎖をといて足払いをかけた。
 カモは無様にひっくり返った。兄はカモに駆けよって、その体を抱えあげると道端にある馬糞の小山めがけて放り出した。
「さあ、いくぞ」
 兄は何事もなかったかのように戻ってきて撤退の合図をした。バーキャルクは口にこそ出さなかったが、兄の立ち回りに喝采をおくっていた。
 <小切手大路>南の隠れ家までの道すがら、バーキャルクはふたたび馬のいななきを聞いた。こんどは前より近く、後ろできこえたような気がしたが、バーキャルクたちが歩いているのは馬で入るような幅広の道ではなかった。バーキャルクはいつでも剣を抜けるようにして振り返った。
 路地に黒鹿毛がいた。馬具は一式そろっているが鞍は空だった。
「兄者」バーキャルクは黒鹿毛を見つめたまま言った。
「追っ手か」
 心臓が早鐘をつくように三拍ほど打つと、兄はバーキャルクのもとにきて、路地やその上の屋根に視線をはしらせた。
「なにもおらんじゃないか」
「馬が鳴いただろう」
「馬は鳴くものだ」
「さっきそこに黒鹿毛がいた」
 バーキャルクは路地を指さしたが、そこは空っぽの空間だった。バーキャルクはたしかに黒鹿毛が家の壁をすりぬけるかのようにして消えるのを見たのだが、兄は見そこねたらしい。それとも兄には見えなかったのだろうか。
 バーキャルクは魔法じみたものが、それを求める兄の目には映らず、求めてもいない自分の目には映ったことに忌々しさをおぼえながら、兄を追いかけた。

嘘の露見

 女部屋はもぬけの殻だった。
 ネラの心の半分を暗黒魔術の絵図が占めた。
 娘をかどわかした盗賊どもを油をそそいだ薪の炎で灰になるまで燃やしつくす。死の苦しみは与えるが、死そのものという慈悲は与えてやらぬ。灼熱地獄に悶え狂う賊の影を縛り上げて暗がりに縫い付け、永遠の慰みものにしてくれる。
 残り半分はネラに冷静な行動を取らせた。
 まずは深呼吸。つぎに部屋の入り口に引きかえして、夫の注意を引かないようにそっと扉を閉めてかんぬきをかけた。ついで紐を引いて窓をしめた。
 誘拐などではない。いつもどおり、娘は窓から抜け出したにちがいなかった。いつもとちがうのは、枕元に置き手紙があることだった。「パンイーを探してくる」とまぎれもない娘の筆跡でかいてあった。
 娘がキバタンの鳴き声をききつけて、探しに出かけたのはまちがいなかった。それでもネラは盗賊団を火あぶりにしつづけた。燃え盛る炎もいいが、赤熱する鉄のような炭火も捨てがたかった。
 扉を叩く音がして、ネラの物思いをやぶった。
「娘は無事か?」
「起きたらこまる」
「そこにいるんだな?」
「よく寝てる」
 この場には存在しない娘を起こさないように、ネラは鍵穴に向けてささやいた。
「そうか」夫の声がした。
 ネラが扉からはなれると、またしても夫の声がした。まるで部屋の中がみえているかのような間だった。
「庭にきてくれ。見てほしいものがある」
「時間をちょうだい。羽織るものを探すから」
 ややあってネラが庭に出たところ、夫はなにもないようなところで腕組みして立っていた。
「賊の血でもあった?」
 ネラがたずねると、夫は靴のさきで地面を叩いた。
 鳥の糞だった。キバタンがするような大きいもので、真新しいものだった。
 ネラが口をつぐんでいると、夫は懐から何かを取りだしてネラに突きつけた。
 キバタンの羽根、それもパンイーの羽根と同じ色だった。
「今晩、おまえの塔で見つけたぞ。まさか本当にあの鳥を蘇らせるとはな」
 ネラがパンイーを蘇らせたと、いう夫の誤解をネラはそのままにした。不治の病をわずらう夫のために妻が薬を作っている、という両方にとって都合の良い物語が崩れさったいま、なにをいっても無駄にちがいなかった。
「娘はどこだ?」
 夫はネラの手首をつかみあげ、血走った目でにらみつけた。
「しらを切るか」
 夫は万力のような力を込めてきた。痛めつければ答えを引きだせるとおもっているようだったが、ネラでさえ娘の居場所はしらなかった。ネラが耐えれば耐えるほど、夫の怒りは燃え上がるようだった。
「『力』があれば男などたやすくたぶらかせると思ったか」
 もしそうなら、ネラとニムエラはもっと楽に生きていただろう。
 ふいに、夫は我に返ったかのようになって手の力をゆるめると、ネラには聞きとれない声でなにごとかつぶやき、屋敷に駆けもどった。
 ネラは見逃さなかった。夫の瞳に死への恐怖が浮かんでいたことを。夫が去ったこの好機も逃さなかった。
 ネラは門の外に飛び出していった。門先で子猫が一匹、胴に刃物傷を負って死んでいた。

祝い酒

 バーキャルクたちは隠れ家にもどって、湯浴みをして身なりをととのえた。
 バーキャルクは、薬を盗めとそそのかしてきた取引相手に値切りの口実をあたえたくはなかった。兄は金には興味がないようだったが、<藁床亭>の主ルゥスの心象を悪くすることは望まないようだった。
「もしわしが<藁床亭>を叩き出されるとしたら、それは店中の酒を空にしたときよ」
 そう言って、兄は勢いよく<藁床亭>の戸をあけた。
 すでに案件を持ちかけてきた男はきていた。バーキャルクは兄に余計な口を挟ませることなく、男と言葉をかわすこともなく、ただ薬と金貨の詰まった袋とを交換するだけですませた。
 取引をおえると男は店を出た。頼んだぶどう酒には口をつけていないようだった。
 バーキャルクは拍子抜けした。男は値切ろうともしなかったし、薬の真贋を疑うこともなかったからだ。
 兄はそんなことを気にした様子もなく、カウンターに金貨をたたきつけて、景気よく注文を叫び、男がのこしたぶどう酒を一息で飲み干した。
 店主のルゥスは満面の笑みで金をうけとって、大盛りの珍味と大ジョッキの麦酒を手ずからだしてきた。
 バーキャルクが二杯目、兄が三杯目を空にして、さらに珍味をたのんだとき、また店の扉が開いた。
 どんなやつがきたのかと見てみると、ひと目見ただけで夜遊びの悪ガキと分かる子どもたちだった。百人がみて百人がガキ大将の太鼓判をおすに違いないはなたれ小僧が、男女問わずぞろぞろと子分をひきつれて入ってきたのだった。
 ガキ大将は片手に檻をさげていた。檻のなかはネズミでいっぱいで、駆けずり回る余地がないほどだった。ガキ大将はルゥスと目配せを交わすと、駄賃への期待に顔をかがやかせて、檻をゆらしながら賭博番のファスのもとへかけていった。
 残っていた悪ガキたちのなかから、女の子がひとり顔を出した。バーキャルクの知っている顔――<狂い斧>の屋敷で見た子どもだった。女の子は白金の指輪に注目したようだった。
 バーキャルクは指輪をかくすように杯を持ちなおし、目端のききそうな悪ガキたちに背中をむけた。兄も同じようにしていた。向こうがバーキャルクたちの顔を知っているはずはなかったが、酒を苦くするには十分だった。
 小気味よい足音が近づいてきた。
「その指輪、ママが持ってるのと同じ」女の子の声がした。やはり屋敷で聞いたのと同じだった。バーキャルクは女の子が訳知り顔の笑みを浮かべているような気がして、額に冷や汗が浮かぶのを感じた。
「流行ってるからな」バーキャルクは振り向かずに言った。
「そっちの人の指輪も」
「流行ってるからな」兄もまた振り向かずにいった。
 女の子の笑い声と、立ち去っていく足音がして、<藁床亭>の扉が二度きしんだ。どうやら悪ガキどもと一緒に女の子は出ていったらしい。
 それにしても、兄が辛い珍味ばかり食べることにバーキャルクは閉口した。胡椒で木炭みたいになった肉を、兄は次から次へと平らげている。ひと欠片の肉も残さず食べるのと同じくらいに当然のように、兄は皿にひと欠片の胡椒も残さない。バーキャルクは兄の健啖ぶりにつきあいきれず眺めているだけだったが、それでさえ口の中がひりついてきた。
 炎を鎮めようとバーキャルクが酒を流し込むと、
「それが最後の一口だ」と、男の声がした。
 大ジョッキでよかった。バーキャルクはそう思いながら酒を飲み干し、声のしたほうを振り返った。
「借りを返しに来たぜ」
 バーキャルクが相手の名を思い出すよりも、店主のルゥスが口を挟むほうが早かった。
「表で」
「酒をまずくするな」兄も店主の味方だった。
 バーキャルクがあごで戸口をしゃくると、絡んできた男はニヤリと笑って応じた。
 二人は<藁床亭>前のぬかるんだ路地に出た。開けっ放しにした戸口から、どちらが勝つかで賭ける声が遠慮なく飛び出して、バーキャルクたちの背中にふりかかった。
「作法通りにやれよ」男は言った。
「おまえこそな」
 バーキャルクは用心しながら相手に背中をむけて、大股で一歩、二歩、三歩あるき、ふりかえった。
 男は雄叫びをあげて雄牛のようにつっこんできた。
 バーキャルクが足を刈るつもりで片足を浮かせた刹那、相手が頭突きとともに腰へ組み付いてきた。相手が三歩かぞえるのにインチキしたのでなければ、バーキャルクが間合いを見誤ったのだった。飲み過ぎだった。
 片足でふんばれるはずもなく、バーキャルクはぬかるみに突きたおされた。頭突きの衝撃と天地がひっくり返ったことへの驚愕で、バーキャルクの胃から酸っぱいものが湧き上がって口中を満たした。返し投げどころではなかったし、思い出しかけた男の名も吹き飛んだ。
 拳がふってきた。左目に強烈な一発。青あざまちがいなしの一撃だった。相手はバーキャルクに馬乗りになったまま、片手でバーキャルクの肩関節をおさえつけ、もう片方でもって体重をのせた次の一撃を繰り出してきた。
 そのとき、バーキャルクは吐き出した。相手の顔めがけて。
 男が悲鳴を上げたとき、バーキャルクは男の腕の内側を打って拳を逸らした。
 バーキャルクは身をよじって抜け出し、男の背中に乗って腕を封じ、顔を汚物混じりの泥に突っ込ませた。
 酒場での喧嘩につかえる新たな攻撃術の発見に満足しつつ、バーキャルクは男に郷土の味を堪能させてやっていた。賭けていた客たちが歓喜と落胆の声をもらしはじめたころ、男は苦しそうに降参の合図をした。バーキャルクは最初の合図に気づかなかったふりをして、二回目の合図で男に息を吸わせてやった。
 男は立ち上がった。男は捨て台詞をはこうとしたらしかった、結局は何も言わずに尻尾を巻いて逃げ去った。
 男の名前は思い出せずじまいだった。
 バーキャルクは服にまとわりついた泥でもって<藁床亭>の外壁に補修工事を施すと、勝利者らしく見えるような足取りをつくって中にもどった。
 野次と歓声が半々で出迎えた。
 バーキャルクはこの一件でもうけた誰かが末永く恩にきることを、損をした誰かがいち早く忘れてくれることを期待した。
 席にもどると、兄の左目にも青あざがあった。なかでも一騒動あったのかと周りを見わたしたが、割れた皿も折れた歯も見当たらなかったし、兄はなんの説明もよこさなかった。かわりに、
「わしはもう飲まん。かわりにおぬしが飲め。わしのおごりじゃ」
「借りは作らん」
「これは対等の取引じゃ」
 兄は袋から無造作に金をつかみとって注文した。酒がきた。
「勝利のお祝いじゃ」
 そういわれると悪い気もせず、バーキャルクは飲んだ。さらに飲んだ。おかわりも飲んだ。窓の外で東の空がわずかに明るくなり始めたころには、バーキャルクはしたたかに酔っていた。
 飲むのをとめたはずの兄でさえ、遅れて酔いがまわってきたかのように、体を振り子にしていた。兄は悪童めいた笑みを浮かべていた。
「この指輪はな、わしらを二倍金持ちにする」
「二倍?」
「二倍じゃ。そう、二倍じゃ」
「二倍なのか?」
 兄は咳払いして説明をはじめた。
「この指輪はな、身につけた者のうち一方の感覚を、もう一方に複写するんじゃ。おぬしが酔ったら、わしも酔ったろう」
 バーキャルクは笑いとばしたが、兄は話しつづけた。
「わしが胡椒付きの肉を食ってたときのことをおもいだせ」
「気のせいだ」
「なら、わしの目を見ろ」兄は左目のアザを指さした。
「酔ってころんだんじゃないのか?」
 兄は鼻を鳴らすと、また金を取りだして注文した。
「火酒、指三本」
 バーキャルクは飲み過ぎを心配したが止めはしなかった。焼けるのは兄の腹であって自分のではない。兄が飲み過ぎでくたばるならそれはそれで結構。手間が省ける。
 出てきた火酒を、兄は一息で飲み干した。
 バーキャルクの舌はしびれ、鼻を痛烈な香りが突きぬけ、腹は燃え上がった。
「信じたか?」
 兄はご満悦のようだったが、バーキャルクは震え上がった。もしも酒ではなく毒だったら、拳ではなく槍だったら。
「この指輪は俺たちの命取りになる」
 指輪は外せなかった。にかわで固めたかのように、ぴくりともうごかなかった。兄も指輪を外そうとして同じ現象にでくわしたらしく、首をひねっていた。バーキャルクの額に冷や汗が浮かんだが、兄はあくまでも笑っていた
「いまを楽しめ。一人分の金で二人が酔える、その幸運を噛み締めろ」
 バーキャルクが言い返すより先に、店主のルゥスが口を挟んだ。
「よそでな」
 ルゥスの目はイムリャの氷壁のように冷たかった。
「これ以上飲むなら二人分払え」
 ルゥスは壁にたてかけてあるほうきに手を近づけた。バーキャルクは、そのほうきに血と汚物とゲロがいやというほど染み込んでいることを知っていた。
 店主の手がほうきに触れるより早く、バーキャルクとダームダルクは店を飛び出した。これまで飲んだ分も払えと言われるさきに退散するのが最善だった。
 そうして横丁にまろびでたバーキャルクたちを、二人の女が出迎えた。一人は屋敷にいた娘であり、もう一人は顔つきからして娘の母親にちがいなかった。

第四部

取引

 明け方、バーキャルクたちは魔女とその娘とともに、というよりは魔女たちがバーキャルクたちを従えて、<小切手大路>南の空き家に向かった。先日バーキャルクたちが使ったのとは別の家であったが、ここにも見張りは立っていた。魔女は見張りに対して、一切の詮索を許さなかったし、明るくなってからの賃貸しを見逃させるために十分なだけの鼻薬も嗅がせた。
 バーキャルクは酒のせいで逃げ出す気力もなく、兄も似たようなありさまだった。
 家にはいるなり、魔女は閂をかけてカーテンを閉め切って、必要最低限なだけのろうそくを灯した。いかにも密談にふさわしそうな場をつくりおえると、魔女はネラと名乗った。娘は母に促されるよりも早くニムエラと自ら名乗った。
「ありがとね。指輪泥棒を見つけてくれて」魔女は言った。
「金に目がくらんだマヌケな人たち」
 娘がそう言うと、親子は声を合わせて笑ったが、
「パンイーを生き返らせたのはこの人たち?」
 と、娘がたずねると、魔女の笑いは引きつった。
「きのう騒ぎがあったのはこの人たちのせいでしょ。パンイーが生き返ったのも昨日でしょ」娘は母のほうに身を乗り出して言った。
「偶然じゃない?」魔女は早口で言った。
 娘は唇を尖らせていたが、何を思ったのか急に顔をほころばせた。
「ママ、もしかしてパンイーを生き返らせる薬を作って、あたしをびっくりさせようとしてた?」
 魔女はまばたきを繰り返し、やがてうなずいた。
「バレちゃったか。秘密の贈り物って思ってたんだけど、このマヌケな人たちがね」またしても魔女は早口で言った。
 魔女は娘には笑顔をむけていたが、娘があくびをしたすきをついて、バーキャルクたちに稲妻のように鋭い怒りのこもった視線をむけてきた。
 バーキャルクは魔女の怒りの原因を知りたかった。直接の原因は薬を盗まれたことに違いないが、その奥に何があるのか。
 薬を盗まれたことの復讐か?賠償か?だったらなぜ子連れなのか。もしや、娘はいっぺん死なないと治らないような病を抱えていて、だから母がつきそっているのだろうか。いや、重病人が下町で夜遊びなどできるはずがない。
 バーキャルクは<狂い斧>が病気だという噂を思い出した。それなら筋が通るかとおもったが、屋敷で盗み聞きした夫婦げんからしい口論のことも思い出した。魔女に愛人がいるなら、むしろ<狂い斧>の病気は癒えずじまいのほうが都合がいいのではないか?
 それとも、蘇生薬というのは、あらゆる毒殺者が求めてやまない、またあらゆる人々が求めるものでもある自然な死を人にもたらす致死性の毒薬であり、鳥を生き返らせるのは想定外の用法にすぎないのだろうか?
 頭痛と吐き気のせいでバーキャルクの思考はここまでだった。
 となりの兄はといえば、脂汗をかいてじっと座っているだけだった。
「瓶を取り戻してくれたら、あなたたちの指輪は外す」
「指輪なんてどうにでもなる。あんたを頼らなくても」バーキャルクは言った。
「指輪を外すのが先か、どっちか一人が致命傷を負うのが先か、考えてみた?」
「いっそ指ごと…」兄が独り言のようにいった。
 誰もそれに答えず、沈黙が部屋にたれこめた。
「分かったよ。瓶だな、瓶」バーキャルクは言った。
「瓶が<城を輝かせる者>の屋敷にあることは調べがついてる。おあいにくさま。あの家の坊やを助けるために、あなたたちは利用されたのよ」
「空き瓶がそんなに大事か?」
「まだ半分くらい残ってるはず」
「ねえ」娘が割り込んだ。「ポポの家だったら、あたしがもらいにいけばいいでしょ。ドロボーなんてしなくても。昔よく遊びにいったもの」
「昔の話でしょ。それに、向こうの家の人が、昔みたいにあなたを歓迎するとはかぎらない」
 魔女は眉をひそめて、娘の靴を見つめた。靴は下町の汚泥によごれていて、ある種の瘴気を放っているかのようだった。
「あたしも一緒に行く」
「きのう家を抜け出したあなたをさがすのがどれだけ大変だったと思ってるの?」
「やだ、あたしもドロボーしたい」
「ごっこ遊びじゃないの。こういうときは、この手の盗人を使うのが便利なんだから。あなたはじっとしてなさい」
 バーキャルクは母親の顔になった魔女を見つめて言った。
「そもそも、誰のための、薬だったんだ?」
 魔女は肩をすくめてみせた。
「さっきいったでしょ。この子の鳥、パンイーのため」
「それだけか?」
 魔女はバーキャルクに矢のような視線をとばした。
「わざわざそれを言わせる?私だって、娘の友だちが薬のおかげで助かったのは嬉しい。でもね、薬が欲しいなら頼みに来るのが筋ってものでしょうに、あいつは盗みで手に入れた。こっちは面目丸つぶれ。だからこっちも盗み返してやる。都の外から嫁いできた女だからってなめてかかると痛い目にあう、そう思わせてやるわけ。おわかり?」
 バーキャルクは魔女の怒りは目くらましに過ぎないと見抜いたが、本心が何であるかは一向に見当がつかなかった。
 魔女に詮索させる気はないようだった。魔女は屋敷にある諸々の小道具や衣装で兄弟を変装させ、ひどい味の酔い醒ましを飲ませて仕事に送り出した。

明かされた真意

「薬師なら間に合ってる」
 <城を輝かせる者>の屋敷を固める四人の門番たちは、バーキャルクと兄を邪険な目で見て、槍の石突で地面を打った。
 バーキャルクは自分を呪った。私の変装なら大丈夫と魔女に言いくるめられた自分の愚かさを。
「だいたいその剣はなんだ。よもや…」
 門番たちが槍を握る手に力がこもった。
「護身用ですよ。このごろは都まで上るのも物騒で」
 それでも門番たちは動かなかったし、兄も頼りにならなかった。
「その人たち、ママの知り合い。入れてやって」ニムエラの声がした。
 どうやってここに来たと、聞くひまはなかった。
「しばらくぶりじゃありませんか」
 門番は歯を見せて笑った。
「うん、ひさしぶり」ニムエラも笑った。
「このけしからん奴らと、どういうご関係なので」
「だから、ママの知り合いだって。今年はどこも薬草が豊作で田舎じゃ薬が売れなくて、がんばって都まで来たんだって。考えても見てよ。<城を輝かせる者>が困ってる人を門前払いした、なんて噂がたったら、ねえ?」
 ニムエラがいけしゃあしゃあと言うと、門番たちはお互いに顔を見合わせて、苦笑いした。
「よしよしわかった。ポポ坊っちゃんにあってきな」
「はーい」ニムエラが言った。
 バーキャルクたち三人は屋敷の庭に入った。庭は<狂い斧>の屋敷以上に広く、競馬ができそうなほどだった。
「どうやって母親を丸め込んだ」
 そう兄がたずねると、
「抜け出した」
 と、娘は当然のように言った。
 魔女の娘は盗賊として大成しそうだった。
 玄関の戸を叩くと執事が出迎えにきた。バーキャルクには見覚えのある顔だった。三日目に蘇生薬を盗めとそそのかしてきた男だった。
「ご用件は?」
 バーキャルクは脇に汗がにじむのを感じたが、執事は怪訝な表情こそしたが、客の正体に気づいた様子はなかった。
「おや?」
 執事はニムエラに気づいて、驚いたようだった。
 すかさずニムエラが、門番に聞かせたのと同じ話を執事にもきかせた。
 執事はだまったまま、視線を宙にさまよわせ、結局はバーキャルクたち三人を招きいれた。屋敷の中には壺やら絵やら彫像やら、金目のものがいくらでもあったが、どれもこれも昼間の光が似合うもののであって、<狂い斧>の屋敷の調度とは大ちがいだった。
 廊下が二手に分かれるところで、執事が扉の一つを指して言った。
「あちらが控えの間です」
「客間は?」バーキャルクが言った。
「先客がおりますので」
 バーキャルクは先客というのが気に入らなかったが、執事は押し売りどもに話すことはないというかのように、体の向きをかえた。
「さあ、はやく坊ちゃまのお部屋に」執事はニムエラに向き直って微笑みを浮かべた。
「あたしはこの人たちといたいな」
 執事は困ったような顔になった。
「申し上げにくいのですが、旦那様がニムエラ様を歓迎なさるとは、わたくしめには思えません」
「だったらなおのこと、この人たちといたほうがいいでしょ。あたしがこっそりポポにあってることがバレたらみんな大変なことになるけど、あたしが堂々とお客さんのお付きをつとめるなら問題ないでしょ」
 ニムエラはさらに一歩、執事のまえにふみ出した。
「ママだってこういったもの。『この人たちが都でうまくやれるよう付いててやりなさい』って」
 バーキャルクは娘の言いぐさに顔をしかめそうになったが、なんとかこらえて、朴訥とした田舎者らしい顔を作ろうとした。兄のようすを横目でうかがったが、むこうは演技する必要もなさそうだった。兄は壺やら絵やらに心うばわれているらしく、まさに都慣れしていない田舎の若者であった。
 執事はため息をついた。
「では、みなさんあちらのお部屋にお入りください」
 そう言って、執事はバーキャルクたちに武器をあずけるよう合図した。
 バーキャルクも兄も大人しく従った。重厚な刀剣の重みに執事はよろめきつつ立ち去った。もしも兄が鎖分銅を隠した腰帯や財布まで預けていたら、執事は腰を痛めてくずおれたかもしれなかったが、そうはならなかった。
 控えの間に入るなり、ニムエラがいたずらっぽい笑みを向けてきた。
「盗み聞きとか好きでしょ」
 バーキャルクの返事も待たず、ニムエラは一枚のタペストリーの前に走っていった。タペストリーがかけてあるのは、もしも持ち主に美的感覚が一片でもあればそんな場所にかけないだろう、というところだった。
 ニムエラは壁掛けをめくりあげて、バーキャルクたちを手招きした。
 バーキャルクと兄は忍び足で近よった。
 象牙色に塗られた木の壁にのぞき穴が三つあって、うち一つをニムエラがつかっていた。
「おぬしが開けたのか」兄が言った。
「ポポとポナも開けたよ」
「ポナ?」
「ポポのお姉さん。死んじゃった」
「すまん」兄はそういったが、ニムエラは何もいわず、手で早く早くとうながした。
 兄はのぞき穴に顔を近づけた。バーキャルクも同じようにした。
 のぞきこんだ先は客間のようだった。
「はじめは信じませんでしたよ。よみがえりの薬だなんて」
 穴の向こう側で、白髪の老紳士が白玉の盃を手にして語っていた。壁には絵画にまざって細身の剣や両刃ののもかかっていたが、紳士は武器より絵筆向きの手をしていた。
「あれがサルグルプラオのおじさん」
 ニムエラは屋敷の主すなわち<城を輝かせる者>の名前を得意げに唱えてみせた。天鵞絨ばりの椅子にもたれた<城を輝かせる者>のかたわらに、さきほどの執事が酒瓶を手にして直立不動でひかえていた。
「本当に飲ませたのですか?」
 そう問いかけたのは、<狂い斧>だった。バーキャルクの手が汗で湿った。
「どのくらい飲ませたのですか?」
 <狂い斧>は椅子から身を乗り出していた。
「そんな怪しい薬を世継ぎにのませていいのかどうか、迷いましてね。でも、あれの呼吸はどんどんかぼそくなるばかりで、とうとう薄絹一枚ゆらせなくなって、ようやく決心がつきました」
「どれくらい飲ませたのですか?」
「どれくらいって、ほんのひとくちですよ」
「よかった」
 <狂い斧>が背もたれに体をあずけると、<城を輝かせる者>は意外な顔をした。
「もう息子とお会いになったので?」
「どうしてそんなことを?」
「あなたも息子と同じようなことを言うからです」
「何と言ったのです?」
 <狂い斧>はふたたび身を乗り出した。
「『ほんのひとくちで良かった』と。相当にまずい薬だったのでしょうね」
 <城を輝かせる者>は笑って盃を干すと、<狂い斧>はますます身を乗り出した。
「残りを頂けませんか」
「あなたみたいな元気な人には無用でしょう」
 <城を輝かせる者>は笑ったが、<狂い斧>は笑わなかった。
「人間誰しも死ぬものです」<狂い斧>が言った。
「どのみち薬はもう無いですよ」
「どういうことです」
「薬を飲むなり息子が瓶をはらいのけましてね、割れてしまったのです」
「なんですって」
 <狂い斧>は大声をあげて椅子から飛び上がった。その顔は真っ赤で、彼がかけていく先の壁には斧があった。
 <城を輝かせる者>も執事も、客の様子にあっけにとられらようだった。
 するはずのない血の臭いがバーキャルクの毛を逆立たせた。
 部屋を飛びだし、客間の扉を蹴りあけた。兄も後につづいたが、もう手おくれだった。
 血の海に<城を輝かせる者>が横たわって、ぴくりとも動かなかった。返り血で全身を染め上げた<狂い斧>が、両刃の斧を握りしめ、荒い息を吐きながら血走った目で遺体を見下ろしていた。
 執事は悲鳴を上げて反対側の扉から逃げ去るところだった。
「どうしたの?」ニムエラの声がした。
 しまった、とバーキャルクが思ったときには、ニムエラが部屋をのぞきにきていた。
 兄はニムエラに部屋の中を見せまいと横にうごいたが、ニムエラはすりぬけて部屋のなかを見つめた。
「お父様?」
 娘の声はふるえていた。
「蘇生薬がなければ生きてたんだろうな」
 <狂い斧>は娘ではなく、死体を見つめていった。
「蘇生薬って、毒なの?」娘が言った。
「毒ではない、そう私は信じてるよ」
「だよね、パンイーは生き返ったもの」
「あの鳥がそんなに大事かい」
「鳥じゃないよ、パンイーだよ」
「私にとってはおまえが大事なんだ」
 <狂い斧>の声には娘を憐れむような、あるいは愛おしむような響きがあった。
「お父様だって大事だよ」
 娘の言葉に父は微笑んだ。血まみれの死体をはさんで交わしていい会話ではなかった。バーキャルクの本能は剣が必要だと叫んでいたが、壁の剣をとりに走れば<狂い斧>の注意を引くのとおなじくらい、この場にある見せかけの平穏が終わるのは確実だった。
「じゃあ私の話を聞いておくれ。おまえと同じくらい大事だったお薬がなくなったんだ」
 娘はうなずいた。
「でも代わりになる薬があってね…」
「なぜ殺した?」兄が割りこみ、<狂い斧>の視線から娘を守るかのように動いた。
「ただの腹いせさ。欲しいものが手に入らないと腹が立つだろう」
 <狂い斧>は肩をすくめた。
「ねえ、代わりはどこにあるの?」
 娘が兄の背中から出てたずねた。
 <狂い斧>は笑みを浮かべて娘を見つめた。背筋が凍るような笑みだった。顔は赤黒く染まっていて、鼻息は荒かった。
「おまえの中にあるんだ」
「え?」
「おまえの脳みそをおくれ」
「え?」
「これまでたくさんの贈り物をしてあげただろう、だから、そのおかえしをしてほしいんだよ」
 ニムエラが怯えた声を上げて、兄の後ろにかくれた。
「よこせ、わたしのものだ」
 <狂い斧>は斧をふりかぶり、兄めがけて突進した。
 そのすきにバーキャルクは壁にかけてある剣めがけて走った。杖みたいに細身で金線細工やらなにやら装飾も多く、性に合わないのが残念だった。なお残念なのは剣が一振りだけなことだった。
 バーキャルクは視界の片端でニムエラが廊下へ逃げ出すのを、もう片端で<狂い斧>が突進の向きを変えるのをみとめた。
 バーキャルクが剣をとるより、<狂い斧>がバーキャルクをとらえるほうが早いと思えたが、
「そのまま行け」という兄者の声とともに、棘付きの鎖分銅が宙を切り裂いて飛ぶ音がした。
 バーキャルクは剣を手にとって振り返った。<狂い斧>が飛び退って、空振りの鎖分銅が壁ぎわに並ぶ壺の一つを粉々にしたところだった。
「貴様ら、あの晩の…」
 分銅が<狂い斧>をして自分たちの正体を悟らせたのだろう、とバーキャルクは察した。
 <狂い斧>は雄叫びとともに鋼鉄の塊を兄へ打ちつけようとしたが、バーキャルクは<狂い斧>の脇腹めがけて突きこみ、敵の目論見をくじいた。
「兄者はひっこんでろ」
 例の指輪があるから片方の大怪我は両方の大怪我になりえる。
 バーキャルクの借り物の剣は何度となく前身と後退をくりかえしたが、そのたびに重厚な斧が左右にうごき、切っ先を弾きかえした。
 分銅が売り切れらしく、もう兄からの援護はなかった。
 <狂い斧>もそれに気づいたらしく、歯をむき出しにして笑ってバーキャルクに飛びかかった。右に左に、得物の重さを微塵もかんじさせない動きだった。
 バーキャルクは偽攻と返し突きで時間を稼いだが、戦況は一向に好転しなかった。部屋の隅への後退を強いられ、逃げる余地は一歩、また一歩と失われていった。
「許せよ」と、兄が叫び、壁際にならぶ壺の一つを<狂い斧>の後頭部めがけて投げた。
 兄は壺に、あるいは壺を仕上げた陶工に詫びたのだろうとバーキャルクは推測した。
 <狂い斧>は「許せよ」を見殺しの合図だと勘違いしたらしかったが、すぐ兄の真意に勘付いたようだった。
 敵は斜め後ろに飛び退った。
 バーキャルクが追い打ちをかけようとしたとき、壺が割りこみ、砕けた。
 陶片の雹がバーキャルクの顔面をなぶった。
 <狂い斧>が壺を叩き壊したにちがいないと推測しながら、バーキャルクは悲鳴をあげ、床に転がった。バーキャルクには部屋中が真っ赤にみえた。まぶたをやられたらしかった。
 兄の悲鳴もきこえた。指輪のせいだ。
 裁判ぬきの死刑を執行せんとする斧を、バーキャルクは間一髪でかわした。
 バーキャルクは仰向けにたおれたまま、血の色に染まった視野のなかで、兄が腰帯をとくのをみた。処刑人は床にめりこんだ斧を引き抜いたところで、背後を振りかえったりはしなかった。
 バーキャルクは逆転の役が出来上がったことをさとった。陶片にやられた苦痛のおかげでほくそえむどころではないのが幸いだった。金線細工の剣の切っ先が<狂い斧>の上半身めがけて弧をえがいたが、斧が一閃して剣を弾いた。
 バーキャルクの腕はしびれたが、剣はにぎりしめたままだった。
 <狂い斧>が唇をゆがめて斧をふりかぶったとき、兄の腰帯が処刑人の両足にからみついた。
 兄の腰帯には鎖分銅が仕込んである。
 ダームダルクが気迫の雄叫びをあげて鎖を引くのと、バーキャルクが横に転がるのは同時だった。
 鋼鉄の塊を頭上にかかげていた<狂い斧>はもんどり打って倒れた。
 もしバーキャルクが横に転がっていなければ、倒れてくる刃によって死んでいたことだろう。
 だが、そうはならなかった。
 バーキャルクは立ち上がって、敵を串刺しにしたままの剣を引き抜くか迷って、そのままにした。
「またわしらの評判が上がるぞ」
 兄は部屋に転がる二つの死体を眺めていった。
「処刑台に上がるほうが先さ」
 バーキャルクは口のなかの血を吐き捨て、屋敷の庭を指さした。
 衛兵隊が集まりつつあった。先頭には逃げ出した執事の姿が見えた。ニムエラは見当たらなかった。
「どうせ強盗なんだ」
 バーキャルクは<狂い斧>の手から斧をもぎとると、窓に叩きつけて退路を切りひらいた。
「じゃな」兄は肩をすくめて、転がっていた白玉の盃を拾いあげた。
 バーキャルクたちが飛びだすと、槍をかまえた衛兵たちがざわついた。敵の数が多すぎたし、真っ昼間に徒歩で追手を撒けるはずもなかった。
 馬のいななきがした。騎馬衛兵もきたかとバーキャルクが覚悟を決めたとき、横合いの生け垣を突きやぶって黒い影が飛んでやってきた。
「乗りなさい」
 魔女だった。魔女があの晩に見た黒鹿毛にうちまたがって、駆けつけたのだった。魔女は娘を抱きかかえ、足だけで馬を御しているようだった。後ろにもう一頭、乗り手のいない黒鹿毛がつづいている。
 バーキャルクは後ろの馬に飛びのった。兄も同じようにしたのが、見るまでもなくわかった。
 魔女はいちどだけバーキャルクたちを振りかえると、拍車も鞭もつかうことなく、馬を疾走させた。つられたようにバーキャルクたちの馬も加速した。ごう、と耳元で風がうなって、衛兵たちの姿がかすんでみえた。男を二人乗せているとは思えない速さだった。
 馬たちは反対側の生け垣めがけて突進していた。
「この馬は…」
 壁をすり抜けるのか、とバーキャルクがたずねるより先に、魔女が叫んだ。
「顔を守って」

厄介事は片付かない

 何度やっても、生け垣を突き抜けるというのは不愉快だったし、今回だって不愉快だった。
 バーキャルクは口の中に紛れこんだ葉っぱを吐きすてた。服にくっついた小枝や葉は払うまでもなかった。馬はありえないほど速く走っていて、向かい風が服についたすべての汚れを吹きはらうかのようだった。
 バーキャルクたちが屋敷から走り去って、衛兵たちを振りきるのはあっという間だった。
「あいつは?」疾走する馬の上から魔女が叫んだ。
「もう薬はいらない」バーキャルクは言った。
 魔女はだまって娘を抱きしめた。娘が父の本性を知ったと悟ったかのようだった。
「これ羽織って、顔拭いて」
 魔女は馬をバーキャルクたちによせて、頭巾のついた外套をよこしてきた、季節外れの衣装だが、返り血をかくすには要るものだった。
 馬上で外套を羽織りながら、バーキャルクは行き先が西の門らしいと見当を付けた。
 待ちゆく人々はみな、無関心でいるか、無関心のふりをしているかのどちらかだった。
「<城を輝かせる者>賊の凶刃に倒るる」そんな噂がバーキャルクたちを追いかけているのはまちがいなかったが、魔女の馬は噂よりも速かった。腕自慢の御者が駆る辻馬車を何台も抜き去ったし、街路で競馬に興じる若者の鼻を幾度もあかした。
 やがて見えてきた西の門は平穏そのもので、衛兵こそ立っているが門の鉄格子は上がったままで、鐘楼に人影はなかった。
 魔女が馬の足並みをゆるめ、バーキャルクたちの馬も並足になった。
「余計なことはするなよ」バーキャルクは後ろの兄に言った。兄は鼻を鳴らした。
「ついてきて」魔女は言った。
 バーキャルクが様子をうかがうと、門衛たちは石壁にもたれて談笑しているようだった。馬がすすむにつれ、衛兵たちの顔の見分けがつくようになり、鎖帷子のほつれや顔のしわを数えられるほどの距離になった。
 そんな門衛たちに、魔女は挨拶をするかのように手をふった。娘も母をまねるかのように小さな手をふった。衛兵たちもおなじような仕草を返した。母娘は鉄格子の下をくぐった。バーキャルクが見たところ、袖の下を渡したような様子はなかった。
 バーキャルクたちの番がきた。目だけ動かして門衛の顔色をうかがったが、誰もが平穏無事で暇な仕事を楽しんでいるかのようだった。
「こんど一杯やろうなあ」
 すれちがいざまに、兄が衛兵たちによびかけた。バーキャルクは舌打ちしかけたが、衛兵たちは曖昧な笑みをかえすだけで、何の邪魔もしてこなかった。
 城壁の外に出た。太陽が燦々と輝き、熱帯の草木を緑柱石にかえていたが、その熱をもってしてもバーキャルクたちの経歴の汚点を焼却するのは難しそうだった。
「当分、都には戻れんぞ」バーキャルクは言った。
「私だって」
 魔女は振りかえって、バーキャルクたちを睨みつけた。
「指輪を外してくれよ」
 バーキャルクは話を当初の約束に戻そうとしたが、兄が邪魔をした。
「待て、飲んでから外してもらおう。北に二日いけ。いい酒場がある」
「ママは、また結婚するの?」
 娘は母に向かってたずねた。
「まずは休みましょう、その北に二日いったところで」
 お偉いさん殺しの罪が一つ、濡れ衣が一つ、それより前には…。バーキャルクは片付かない厄介事を数え上げ、ため息を付いた。
「カタヅケナサイ」
 どこからともなくキバタンのパンイーが飛んできて、先をゆく魔女の肩にとまった。
 娘は嬉しそうな声をあげた。

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