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ヒロイック・ファンタジー小説「兄弟が坑道に潜り妖にまみえること」

騎馬遊牧民の兄弟は、空腹を抱えて放浪を続けるうちに、怪しげな旅の男に出会った。相手が、いわゆるぽん引き、人買いであると看破した兄弟は、一芝居うつことにした…。

第一幕

 アーク兄弟は、草原の父王の影から遠ざかるかのように、南へと馬を進めていた。

 北から海岸沿いにアウンタ女王領に入って以来、口にしたのは味気なく薄い粥だけだった。農園には狼煙台と監視の目があり、野鳥の巣の卵は毒蛇に先を越された。毒牙に噛まれる危険を犯してまで、枯れ葉の中の卵に挑む気にはなれなかった。

 国境で占い師の老婆から聞かされた、じきにうまい汁をすすれるという予言が成就する気配はなかった。

 路傍の石に腰掛けている男に出会ったのは、昼前のことである。

 男の目の動きをみた瞬間、兄弟はこの男がぽん引きであると看破した。

「にいさん、にいさん。いい儲け話があるんだがどうだい」

 相手は旅慣れた風体だった。くたびれた靴と古びた帽子を身に着けて、年季の入った背嚢を椅子代わりの石に立てかけている。だが、行商人のように荷馬車を擁しているわけでもなく、旅芸人のように横笛や竪琴を持っているわけでもない。小柄で小太りの男である。

 普段なら無視して通り過ぎるところだが、いまは二人とも金欠であった。

「どのようなご用件でしょうか?」

 弟のバーキャルクは、わざわざ馬から降りて富貴の人らしく聞こえる慇懃な口調で返事をした。貴顕の家に生まれた世間知らずの子供が話しているかのような声音だ。

 兄のダームダルクは馬上で沈黙を保っている。

「うまい話だよ。にいさんたちなら、うんと儲けるに違いない」

「それはそれは、詳しく伺えませんか」

「にいさん、この土地の言葉がうまいねえ」

「そういってもらえて嬉しいです。勉強した甲斐がありました」

「はっはっは。にいさんは、口だけじゃなくて、腕も達者なんだろう」

 からからと笑うと、ぽん引きは弟が提げている新月刀を指さした。飾り気のない鞘に収められた、並の男なら両手で持って振るえるかどうかという大業物である。

「ええ、こいつを片手で振るってみせますよ」

「おいおい、わしだってこの鎖鎌があるぞ。なにせこの分銅は魔法の品なんだ」

 魔法と聞いて、ぽん引きは戸惑ったような表情をしたが、すぐに調子を合わせた。

「そうかい、そいつは頼もしいねえ」

「僕たちはね、弓だってうまいんですよ」

「ああ、夜のコウモリだって仕留められるぞ」

「そりゃたまげた。でまあ、にいさんたち、どっちが強いんだい?」

「わしじゃ」

「いや、僕だ」

「それじゃあ、いまここで果たし合いじゃ」

「望むところさ」

 馬上から見下ろす兄と、見上げる弟の視線が火花を散らし始めた。見えざる剣戟が、本物に変わらないうちに、ぽん引きが仲裁に入った。

「まあまあまあ、こんなところで死んじゃあつまらんよ」

 死ぬのはつまらないという言葉には、いくらかの真剣味があった。兄弟は頷きあい、ひとまず矛をおさめた。

「ここはひとつ、何か腹に入れて話そうじゃないか。ほら、馬に乗ってるにいさんもどうだい?」

 ぽん引きは腰から提げた革袋を揺すってみせる。ちゃぽちゃぽと、のどごしの期待できる音がした。関わり合いになることを拒んでいたような様子の兄ですら、音のほうを振り向かずにはいられなかった。

「うむ」

 返事もそこそこに兄が馬から飛び降りようとすると、弟は慌てて兄の元へ駆け寄った。一人で降りられると言いたげな相手を目で制すると、軽く目配せをしながら手を貸した。

「ありがとうございます。申し遅れましたが、僕の名前は…」

 ぽん引きは弟の名乗りを遮って、荷物の中からあれこれと取り出し始めた。

「なに、どこのだれかなんて大した問題じゃないよ。さあさあ、お上がんなさい。あっしのおごりだよ」

 あっというまに仕度が終わった。兄弟たちの前には、今朝買ったばかりの新鮮な果物、甘い匂いの焼菓子が広げられた。

「助かりました僕はお腹がへっていたんです」

「かたじけない、世話になる」

「ああ、たんとおあがり」

 弟が菓子を一つ口にいれると、兄は二ついっぺんに頬張った。弟は急いで一つ目を飲み下し、今度は三つ鷲掴みにして詰め込んだ。兄はふんと鼻を鳴らして、膨らんだ弟の顔を睨みつけた。

「ほら、にいさん。これもあがんなさい」

 兄が一番大きな果物に手を伸ばしかけたところで、ぽん引きは飲み物の袋を兄の手に押し付けた。ちゃぽんと、期待をそそる音がする。

「ではありがたく」

 弟がそっと脇腹を突いたおかげか、兄は息もつかずに三口も飲んだところで止めた。

「うーむ。時間をかけて付き合いたい味じゃ」

「はあ、兄さんは仕方ないなあ」

 弟は相変わらず芝居を続けていたが、ため息にこめた腹立たしさは演技ではなかった。

「まあそう堅いことを言うな。ミレアの穀物酒みたいでうまいぞ」

「みたい、じゃなくて本当はなんなのさ」

「うまけりゃそれでいいのよ」

 弟はとりあえず兄から革袋を受け取り、一種の礼儀だと思って口にあてがったが、飲み込まずに袋へと戻した。どうにも癖が強く、よく言えば通好みだが、悪く言えばゲテモノであった。

 兄がもう一口を試している間、弟は口の中をさっぱりさせようと果物の品定めにはいった。

 バナナはよく熟している一方で、マンゴーは少し青いところを残している。皮には何かと傷がついているが、王宮で出す食事でないのだから当然である。小粒ながらも甘みを期待できそうな輝きをたたえた赤珠桃のかごもある。口に運ばずとも、香りと色だけで満足してしまいそうだ。麻の袋に詰まっているツリセンジュの種は、丁寧に深煎りにしてあって、一度口にしたらあとを引きそうである。

 ふと気がつくと、馬たちが岩塩の塊を夢中になって舐めていた。この塩もまた、ぽん引きが出したものらしい。

 弟の計算になかったのは、この岩塩であった。最初の計略では、釣り師を憤慨させる魚のように、タダ飯をいただいてすぐに逃げようという魂胆だった。二頭とも塩に夢中である。こうなっては簡単には動いてくれそうにない。計画は台無しだ。

「にいさんたち、ケレスハ金山で坑夫をやらないかい?」

 釣り竿みたいに腕を伸ばして、ぽん引きは北東の方角を指さした。

「坑夫って、あの…」

 弟は言いよどんだ。兄はごくりとつばを飲んだ。

「ああ、山の下に潜り込んで金を掘り出す仕事だよ」

 沈黙が続く。馬は塩をなめ続けている。

 兄弟が育った草原は、四方に遮るものがなく何処にでも行ける土地だった。坑道は上下左右を岩盤に囲まれて進む方向が決まっている。茫々たる原野と闇々たる洞穴の違いを思うと、鉱山に入るという考えは本能的に受け入れがたかったが、兄弟を前にして恐れを露わにするのは、なお一層あり得なかった。

「怖いのかい?」

 釣り針は食い込んだ。

 相手より先に首を横に振ろうという兄弟の競争は同着に終わった。

第二幕

 ぽん引きは、二人がついてくるのを疑わない様子で、道案内をつとめた。兄弟たちは黙ってあとをついていった。他に誰もいない山道だからといって、逃げることは恥であり、斬り捨てるのは論外だった。相手は丸腰で、こちらに背を向けているのである。

 道中で発せられる言葉といえば、ぽん引きが上機嫌に口ずさむ小唄くらいなものだった。

 小腹がすいてくるころ、兄弟は鉱山にたどり着いた。一直線の通りに沿って、どれも同じ形をした長屋が規則正しく並んでいる。見た目だけなら規律の取れた傭兵団の兵営のような場所であった。

 不思議なのは、建物の数の割には人が見えず、閑散としていることだった。秩序だっているが生気のない鉱山の街で、人の営みらしいものはといえば、遠くに立ち上るかすかな煙一本だけであった。

 鉱山だから皆、山の中に入っているのかと思っていると、ひと仕事終えたらしい坑夫たちとすれ違った。彼らは口数も少なく伏し目がちで歩いており、やってきた三人に気付いたそぶりもなかった。

 金が湧き出す山という雰囲気はどこにもなかった。

「にいさんたち、いまから監督にご挨拶に行くよ」

 これ以上の説明を与えられないまま、兄弟はそれらしい建物の前に連れてこられた。

「馬はそのへんの木につないどいてくれ」

 兄弟がだらだらと馬をつないでいるあいだ、ぽん引きは革袋からごくごくとやっている。

「新入りです」

「そんじゃ置いてきな」

 ぽん引きと鉱山監督とのやりとりは、たったこれだけのやり取りだった。名前、年齢、生まれ、文字が読めるか、坑夫の経験はあるか、そんなものは何一つ口にされなかった。

 兄弟は拍子抜けした。文明世界で人の下について働くならば、なにか書いたり話したりの手続きが必要だろうと、考えていたからだ。南方人とはいえ恐ろしい洞窟で働くような荒くれ者が相手だ。習い覚えた言葉のうち、どの言い回しを使えば侮られずにすむかと、悩んでいた。

 なお一層、兄弟を驚かせたのは監督が女で、他の坑夫と同じ服をきて、塵にまみれているという事実だ。坑夫とは男がなるものだと二人は思っていた。鉱山労働の実情を問おうにも、ぽん引きはもういない。

「あなたたち、四つめです」

 目を白黒させている兄弟に、監督のわけの分からぬ言葉が追い討ちをかけた。

 兄も弟も、頭脳の半分を使って、己の名誉を守りつつ坑道に潜らずにすませる策謀を巡らせていた。もう半分は、坑夫の仕事着が美女の魅力を引き立てるという二人にとっては意外な発見を前にして感慨にふけっていた。

「坑夫には大きく分けて二ついますです。代々の坑夫と、あの男が連れてくる奴らです。あの男が連れてくるのは四種類です」

「そうじゃ、あの男じゃ。あいつはどこの誰なんじゃ」

「そうだ、教えてくれ。監督」

 釣られた恨みを蘇らせた二人は、飛びつくように質問を浴びせた。

「知りません。必要以上に関わりたくない、とだけいえば十分な奴です」

 監督は話を続けた。

「破産した商人、没落貴族の子弟、追っ手と戦う度胸のないお尋ね者。この三つは、坑道に入って、例外もないではないですが、どこまでも落ちますです。代々の坑夫みたいに、目を輝かせて働かないです」

「わしはそんな連中とは違うぞ。これでもわしと、そこの弟は、別々の妾腹から生まれこそすれ草原の大王の子じゃ。たとえお尋ね者になっても、尻尾を巻いて逃げはせん」

「兄者の言う通りよ。まあ、つまらん代物に金を使ったおかげで、金には困っているがな」

 いましがた「つまらん代物」という言葉が出たとき、男二人の間に緊張が走るのを監督は感じ取った。

「四つめは、見栄っ張りの若者です。なかには坑夫から坑夫頭に上るのもいるです。落ちるのも多いです。だいぶ前、あなた達みたいな顔した北国の人が来ました。メジャクシを軽々とかかえてエダに入って、落ちました」

「すまん。わしにはあんたの言葉がどうもよく分からん」

「俺にもだ。落ちるというのは、なにかのたとえ話か」

「半分はたとえ話です。死んだ目をした坑夫で、坑夫頭にのぼった者はまずいません。落ちるだけです」

 突然、音を立てて事務所のドアが開いた。

「てえへんだ、てえへんだ。東風部屋でまた喧嘩だ。監督、なんとかしてくだせえ」

 飛び込んできたのは、どこか頼り無さそうな体つきの男だった。

「ばっきゃろう。てめえらの部屋の問題は、てめえらでカタつけろって、何度言わせりゃ分かるんでえ。鼻の穴にノミ突っ込んで脳みそに刻み込まなきゃわかんねえのか」

「ひっ、失礼しやしたあ」

 来たとき同様、終わるのも突然であった。会話が再開するまで、数呼吸の間があった。

「失礼しました。部下の前では、ああした話し方になってしまうです。代々の坑夫なら普通に言って聞くですが、そうじゃない坑夫も大勢います。相手に合わせて話し方を変えれば『えこひいき』、やさしく話せば『女だから』とバカにされますです」

「バカはどこにでもいるものじゃ。そんなことより、さっきの北国人の目はどうだった?」

「輝いていました」

「そのはずじゃ。草原の男に、肝っ玉の小さいやつは、絶対に、一人も、決して、おらんはずじゃ」

 力を込めた兄の言葉に構わず、監督は話をつづけた。

「でも、エダに入ったら駄目でした。ウチが聞いた話では、第四竪穴の北面の梯子から、東面の梯子に乗り換えようとして、足を踏み外したらしいです」

「すまん。さっきも話してたが、エダというのはなんじゃ」

「すみません。坑道のことです。山には、仲間内だけの言葉がたくさんあります」

「わかった」

「北方人が落ちたという竪穴は深いのか。俺の知ってる梯子というのは、乗り換えも何もなく一本だけで済むものなんだが」

「はい。深いです。底が見えない、筒抜けの竪穴は沢山あるです」

「いま第四といったな、この金山が、地面深くにのびる塔みたいなものだとして、第四というのは、四階から五階にいく穴なのか」

 早口で尋ねた弟の手は、先程から汗でべとついている。

「いいえ。第二層から三層に下りる穴です。山を塔に例えるのも間違いです。帆船の索具、いや蟻の巣穴のほうが近いです」

「なあ、もしも、もしもじゃ、わしが坑道に入ったとして、竪穴を梯子で降りなくても金は見つかるんじゃろ?ゆるい下り坂とかもあるんじゃろ?」

 兄もまた早口で尋ねる。手だけでなく額にも汗が浮かんでいる。

「いいえ、竪穴に潜らないと金はとれないはずです。まず、第三層かそれより上で、最後に金を採ったのは一年前です。次に、第三層と第四層をつなぐのは竪穴だけです」

「俺にも教えてくれ。竪穴以外には何があるんだ。山にはよく登ったが、掘ったことはないんだ」

「はい。這わないと進めない場所、足から先に入れなかったらば、頭から落ちてしまう横穴、大人の男の肩幅より狭い通路、それに筒抜けの竪穴です」

 兄弟がすっかり参ったところで、監督は取引を兼ねた助け舟を出した。

「実はいま困ってるです。化け物が出ました。将軍の命令書をもった騎兵隊が来て、返り討ちに合いました。女王様は化け物を可視の瘴気と呼んでますです」

 彼女の見たところ、坑道内の様子を聞いただけで怯えてしまうこの兄弟は、坑夫としてはものになりそうになかった。瘴気や地下水のせいで採掘の効率が落ちているいま、無駄飯食いを手元に置きたくはなかった。

 実利に加えて親切の点から、坑夫はやめて下山しろとか、子供や病人と一緒になって掘り出した金鉱石を砕く仕事を充てがうことも考えた。だが、兄弟は互いに意地を張っているから、どうしても坑夫職を志望するだろう。見栄っ張りの若者が忠告を素直に聞かないことを、コマは過去の経験から知っていた。

 兄弟はプライドを守りたい、自分は成果を上げたい、この二点を満たすためにうってつけなのが、化け物であった。

「よしわかった。将軍の騎兵隊とやらが仕留めそこねた瘴気を、この俺が討ち取ってやろう」

「まてまて、わしもやるぞ。怪物退治の始まりじゃ」

 弟の目には、兄が鎖鎌の分銅を握りしめるのが見えた。兄は魔法の品を試したくてたまらないのだ。国境で占い師の老婆から、金貨で購った品である。

「話はまだありますです」

「なんじゃ。まだあるのか」

「はい。悪いですが、あなた達の馬、ゆずってください」

「理由を聞かせてくれ」

「化け物が出てから、脱走が沢山ありますです。逃げ出さないように、部下たちにご馳走を出すから予算が厳しいです。馬を譲ってくれたら、出入りの行商人に買い取ってもらいます」

「わかった。わしは異存なしじゃ」

「俺には条件がある」

「なんですか?」

「瘴気退治が成功の暁には、あんたの直筆で将軍への推薦状を書いてくれ」

 監督はあからさまに顔をしかめた。

「お断りです」

「なぜ?将軍だって俺みたいに腕の立つのが侍ってれば、鼻が高いだろうよ」

「女王様への推薦状なら書きますです。きっと、黄金で報いてくれるです。女王様は立派なお方です」

「まあ、それならそれでいい」

「では、エダに案内しますです。まずはメジャクシです」

 監督はさっと立ち上がり、道具一式のところへ向かった。

 メジャクシとはノミ、金槌、カンテラの総称であった。ノミや金槌には様々な重さと形がある。坑道に対する恐怖のせいで、兄弟たちに道具の種類にまで関心を払う余裕はなかった。

 兄弟たちに渡されたのは、親指一本だけで提げられるカンテラと、肘当てや鉄帽などの保護具だけである。各々の武器をもっている兄弟にとって、ノミと金槌は余計だからだ。

「わかった、監督。出発前に、自己紹介をどうじゃ。おかげさまで落ちずにすみそうじゃし、互いの名前くらい知ってもいいだろう」

「失礼しました。私はコマです」

「わしはダームダルクじゃ。短く呼びきゃ、ダークと読んでくれ」

「俺はバーキャルク。バークでもいい。ああ、それと、二人いっぺんに呼ぶときは、アーク兄弟と呼んでくれ」

「そうじゃ。わしらはどちらも、草原の大王の息子にして北国随一の戦士、対等の身分じゃからな」

「わかりました。あなたがたアーク兄弟の助力に感謝するです。それと、人前では監督と呼んで下さい。部下への示しというのがありますです」

「わかったよ、監督。それはそうと、俺が美男子であることは認めるが、そうやたらと堅苦しい言葉を使わないでくれよ。恥ずかしがってるのかい」

「わしもなかなかの男前じゃろ?」

「別に、恥ずかしがってないです。丁寧な言葉に慣れてない、それだけです」

 コマは視線をそらして答えた。顔が赤くなったかどうかは、塵汚れでわからなかった。

 エダへの道すがら、兄弟たちが思い出していたのは、坑夫という生き物についての種々雑多な噂であった。

「噂はしょせん噂じゃったの」

「ああ。それに、俺の聞いた話に、女の坑夫は出てこなかった」

 兄弟は先導するコマの背中をみつめる。尊敬の眼差しであった。

「まあ、生まれも育ちも違うが、こっちもむこうも同じ人間じゃ」

「向こうがそう思ってくれてるかは分からん」

「というと?」

「俺たち草原の人間は、古い本では人馬一体の化け物扱いだぞ」

「いまは同じ二本足じゃ」

「たしかに」

 金山の入り口は、大人の男が一人やっと通れるくらいの幅しかなかった。木組みで補強された入り口の直ぐ側には、槍を携えた二人の衛兵が向かい合っている。少し離れた場所に傍らには小屋があり、煙突からはいくらか煙がでていた。肉の煮える匂いが漂ってくる。

 近づいてきたコマに衛兵たちが気持ちの良い礼をした。そのあと間もなく、坑夫が二人、入り口の暗がりから出てきた。

 衛兵たちは何か短く言葉を発すると、槍を片手にもったまま空いている手でもって、鉱山から出てきた坑夫たちを服の上から叩いたりさすったりしはじめた。

「あれは、服のホコリをはたいているのか?」

「いいえ。身体検査です。規則です。たまに、金の持ち出しを企むのがいるです」

「なるほど」

 兄は微かな落胆の表情を浮かべた。

「それはそうと監督、入り口があんなに狭くては、弓だの新月刀だのとても持ち込めそうにはないが、どうしたものかな」

「衛兵の詰所に預ければいいです。ダークさんの鎌は持ち込めるでしょうが、バークさんの武器は自分でなんとかしてください」

「残念じゃったの」

 ダームダルクは、弟が腰の後ろに吊っている新月刀を見て、ニヤニヤと笑った。二人がコマの案内で詰所まで行く途中、弟は適当な木の枝を二本刈り取ると、枝の一本と短剣を綱で手際よく結びつけて即席の槍を作った。残りの枝は腰帯にさしている。

「粗末な代物じゃの。突いた勢いで簡単に折れてしまうぞ」

「忘れているようだが、敵は瘴気だ。虎や狼を狩るわけじゃない」

「そうはいうが、やはり美しさというものがだな…」

「さあ、衛兵とは話をつけたです。かさばるものを預けて下さい」

 二人は口論を切り上げて、言われたとおりにした。

「いいですか、はぐれたら自力では地上に戻れないと思って下さい」

 厳粛な面持ちで警告するコマを先頭に、二人は太陽の光を吸い込む暗黒へと踏み出した。今日は自分が先頭になる日であることを、弟は恨めしく思った。

 木材で補強された坑道は早くも枝分かれした。片方は平らな道で、もう片方はいくらか下り坂になっていた。コマは黙って後者の道を歩いていく。兄弟もしばらくはコマの後についていったが、とうとう弟が口を開いた。

「なあ、監督。いったい瘴気は、どこに出てくるんだ?」

「分かりません」

 えっ、という兄弟の声が和して響いた。

「おそらくは第五層です。化け物がどういう理屈で動いているのかは分かりませんが、最初のうちは第八層にしか出ませんでした。五日前には第七層、二日前には第六層に出ました」

「だんだん上がってきているんじゃの」

「要するに、第五層あたりまでは降りれば出くわすだろうと」

「はい」

 兄弟たちの脳裏をよぎったのは、第三層に降りようとして死んだ北国人の話であった。二人には墜落した北国人の持っていた二倍以上の胆力が求められていた。

「監督、そろそろ怪物がどんなやつなのか、教えてくれてもいいじゃろ」

「はい。歩きながら話しますです。最初の竪穴につくまでには終わる話です」

 なるべく長い話であってくれと、兄も弟も無言のうちに思った。

 コマの語る化け物の特徴は以下のものであった。

 見た目は渦巻く塵埃のようである。雲や霧のようにも見えるし、人によっては、もやといったり、かすみといったりする。色相は甲虫の腹のような虹色で、見る角度によって変化する。決して強い輝きではないが、瘴気は自ら発光しているため、カンテラの灯を当てなくても視認できる。おかげで道さえまっすぐならば、遠くからでも気がつく。

 瘴気が近づくと、鉱山のなかでさえ異常と思えるような、湿気と寒気を感じる。触れられたものはみな悪寒に襲われる。屈強な大男でさえ、煙のように伸びてきた霧に触られた時は、急に力が抜けてしまい、両手で振りかぶった大金槌を取り落とした。坑夫見習いの子供が、霧の端に軽くかすっただけで、唇を真っ青にして事切れたこともある。

 一切の物音をたてずに動く。怪物の動きには緩急あるいは静と動があり、安全な間合いを測り難い。坑夫たちは強い湿気と冷気を感じるとすぐ、持ち場を離れるようになった。目撃する前に逃げることを、コマも公に認めている。

 不定形で坑道の幅や高さに合わせて形を変える。子供しか潜れないような狭いところから現れては、坑夫をひと撫でして去っていくこともあった。だが、壁や支柱といった固体そのものに入りこむことはない。大体は坑道の天井いっぱいに広がるが、広間に入ったからといって全体を満たすことはない。

「大きさを変えるにも限りがあるんじゃの」

「霧みたいに広がるとはいえ、限界があるということだな」

「はい」

「ああ、故郷の短弓があればなあ」

「なに、わしに任せておけ」

 分銅つきの鎖を兄が揺すると、魔除けの鈴のような音が坑道に響いた。漆黒の闇の向こうから、幽かなこだまが帰ってきた。

「ところで、敵は一匹なのか?」

「分かりません」

 兄はもう一度鎖を揺すった。

 曲がりくねった息苦しい小道を歩いていくと、三人は行き止まりにあたった。眼の前には井戸のような穴があるが囲いは無い。釣瓶のかわりに角材で作った梯子がかけてある。

「第三層から第四層に下りる竪穴の一つです」

「おや、もうそんなに下ったのか」

「てっきり、第二から第三にいくときに、竪穴を下りるんじゃと思ってたが」

「いいえ、説明が長くなったので、竪穴ではなく下り道を使う道を選びました」

 親指からぶら下がっているカンテラの灯が、下からコマの顔を照らしている。

 熟練の職人らしい表情から、兄弟は何も読み取れなかった。

「梯子は一本だけです。安心して下さい」

 コマは手を伸ばすと、竪穴の上にカンテラをかざしてみせた。

 段木の縁は、ところどころすり減って丸みを帯びている。横棒の真ん中と端には、まだなんとなく角が残っている。どの段にも乾きかけの泥がついていた。

 兄弟が登山のときに見かけた梯子にも泥がついていることはあった。山の下の泥が、山の上の泥とは違った形相に見えるのはなぜか。人工の光だけで見るせいか、それとも組成そのものが異なるのか、あるいは両方か。怪物退治に向かう英雄らしからぬ、分析的思考を二人は巡らせていた。

 こうした考えが押し留めていたのは、底が見えないという事実を受容することである。人々のなかには、科学的関心を狂気の域にまで高めることにより、対象がもたらす恐怖から精神を守れるようになる者もいる。幸か不幸か、兄弟の探究心はさほどのものではなかった。

 底は見えない。梯子は暗闇へと消えている。落ちればただでは済まない穴だ。

「兄者、例の占いババアから、羽毛のお守りも買っておけばよかったな。『たとえ岩場から足を滑らせようとも、鳩の羽根がふわりふわりと舞い落ちるがごとく、そろりそろりと落ちるだけ』だったろう?」

「あんなインチキに騙されるわしではないわ」

「なぜそういい切れる?」

「それはだな…」

「あなたたち、声が大きいです。反射してうるさいです」

 コマは顔をしかめると、さっさと一人で降りていった。灰色猿を駆らんと木登りをする女豹のフィルムを巻き戻したかのような素早さだった。

 兄弟が二人とも第四層に降り立ったとき、コマの姿はなかった。

 竪穴を下ってすぐのところで道が左右に分かれている。二人はそれぞれ、長くゆるやかに曲がって伸びている左右の通路に目を凝らした。カンテラの黄色い光は見えなかった。七色の霧もなければ、異常な湿気と寒気もなかった。

 月も星も太陽も見えない、知らない道に二人はいた。兄弟が恐慌をきたさなかった理由の一つは単純な計算である。案内人が自分たちを見捨てても利益が無い。

「兄者、そっちに妙な光は見えるか」

「いや、虹もなければ金もない」

「瘴気の気配が無いのは結構だが、金山に潜って金を見ないというのもなあ」

「ああ、豆粒程度でもいい」

「俺は桃の種くらいのは欲しい」

「よしきた、競争じゃ」

「望むところよ」

 金銭欲もまた、兄弟が恐怖から逃れた理由である。二人は金鉱石というものがいたって地味で、雌鳥の羽根のように控えめな色合いだという事実を知らなかった。かつて兄弟が砂金を見た経験もまた、金山に関する誤解を深めていた。

 二人が壁とにらめっこしていると、弟が貼り付いている通路の先から、カンテラを提げたコマがやってきた。

「すみません。遅くなったです」

「なに、山の中というのは意外と面白いと思っていたところさ」

「そうじゃ、気にせんでいいぞ。監督こそ、どうしてたんじゃ」

「作業場に行って、話が長引いたです」

「なんじゃ、その作業場というのは」

「金を掘る場所です」

「俺達が立ってるようなところでは掘らないのか?」

「はい。ここに金脈があれば、もっと幅を広げて作業場にしているです」

 相手が鉱山の監督であることも忘れて、密掘を企んでいた二人はため息を付いた。

「まあ、ついでに聞くが、掘り出した金はどうするんじゃ」

「ツベに放り込んで取り出します」

 そっけない早口の答えであった。

「ほう、つまりまあ、さっきの竪穴みたいなところに金塊を放り込んでいって、横から掻き出すって感じかい」

「別に、搬出口の存在は公のことです。場所は秘密ですが」

「その場所というのを、教えてはもらえんか?」

 兄弟はどちらも作り笑顔である。

「いいですよ」

「おお、ひと目見たときから話の分かる人だと思っていたよ」

「生きて坑道から出られなくても良ければ、です」

 さきほど言及された金鉱石の搬出口は、つい最近まで不明であった。操業の停止した鉱山の絵図が丁寧に保管されるはずもなく、人々の記憶もまた同じであった。一七七〇年における、西域からの探検団による搬出口の再発見は、読者諸氏にも記憶に新しいことであろう。

(この一段落は新本Bにのみ見られ、他の新本には欠けている。ゆえに、瘴気退治の逸話の成立年代を一八世紀末とすることは疑問がある。成立年代は、他の逸話同様に旧本の成立年代にまで遡る、あるいは新本群が成立した十五世紀末頃の模作というのが妥当であろう。)

 第四層で、一行は通路というよりむしろ、古寺の柱に生まれた亀裂のような狭い穴に行き当たった。コマにならって、兄弟は仰向きになり、べたつく地面に手と尻をつける羽目になった。岩肌の冷たさを感じつつ、足をそろそろと前方のすきまにさし入れる。足の裏に地面の感触はない。飛び出た先に地面があると信じて背中を滑らせる。ふっと浮遊感を味わってすぐ膝に衝撃が走り、着地したことに胸をなでおろす。

 振り返ってはじめて、兄弟は自分たちの頭より高いところに、通ってきた亀裂があることに気付いた。

「なあ監督、もっと楽な道はないのか?坑夫とて、毎日こんな膝に悪い道を通るわけでもないじゃろう」

「いまのは一方通行の近道です。同じのがあと二つです。急いでるです」

 同じ目に三回も遭うと、背中はすっかり泥だらけになった。

 いつの間にか壁面の色が、濡れた岩のものに変わっていた。

「俺の目で見た限り、壁も床も湿っぽくなってきているようだが」

「はい。このあたりから地下水が目立つです」

「瘴気はまだ遠いのか」

「さっきその話をするところでした」

「話の腰を折って悪かった。監督の話をわしらに聞かせてくれ」

「坑夫たちから聞きました。もう化け物は第五と第六層の境まで来てますです」

 兄弟たちは傾聴した。

「『象の耳』、すみません、要するに第五層の作業場の一つで迎え撃つです」

「迎え撃つというが、怪物がそこにやってくる保証はあるのか?」

「ウチが引きつけるです」

 兄弟は感心したように目を見開いた。

「部下へのケジメです。『よそ者に化け物退治を任せて何もしなかった』と思われたら終わりです」

 兄弟たちは、ただ監督の案に従い、後に続くだけであった。坑内地理に疎いから作戦が妥当かどうか分からないのだ。

 たどり着いた「象の耳」は、その名の通り広大な空間であった。手に提げたカンテラの黄色い灯が、規則的に配列された支柱を照らしているが、反対側の壁は見えなかった。ただ暗闇があるだけである。

「この広間には東西南北、四本の通路が通じてます。いま来たのは北の通路で、一方通行です。上に戻る時は、東の通路を使ってください」

 コマは指ではっきりと一点を指したが、その先は全くの暗闇であった。

「ああ、上に戻る時は…、おい、縁起でもないことを…」

「いいから、道を覚えて下さい」

 天体の見えない場所で方角のわかるコマに驚きつつ、兄弟は指差された方向を覚えようと努めた。

 しばらくの間をおいて、コマは再び歩き始めた。コマに比べれば大柄な兄弟にとっての面倒は、天井が低いことであった。鉄帽が天井の岩にこすることしばしばで、ときには大きな音を響かせることもあった。床には多かれ少なかれ、掘り出した岩の欠片が散らばっている。地面の石は河原や礫砂漠と違い尖ったままであった。坑内では浸食作用が緩やかだからである。

 兄弟はカンテラが壁を照らすことのない、暗黒に囲まれる場所へと案内された。

「このあたりが広間の中央です。あなたたちはここで待機して下さい。化け物を釣り出すついでに、まだ戻ってない連中を探しますです」

 返事をする間を与えず、コマは駆け出していた。

 邪魔な壁がなくなったので、弟のバーキャルクは腰に付けていた枝を即席の槍に継ぎ足して長槍に変えた。作業を終えたあとは、二人とも無言であった。

 静寂を破るのは、長い間隔をおいて落ちる地下水の滴りだけだった。

 兄弟は鉱山に潜ってはじめて、四方に壁が見えない空間に立っていた。柱たちの存在と、鉄帽越しに感じる天井の圧力が、荒野で迎えた曇天の夜だと思って心の平穏を保つことを妨げていた。

 暗黒が二人を取り囲み、せせら笑うようだった。石弓の太矢が心臓めがけて飛んでくるのではないか、背後からツルハシを脳天に打ち込まれるのではないか、猛犬が飛び出して太腿に食いついてくるのではないか、いるはずのない敵への恐怖が二人を苛んだ。

 二人は終始無言で背中合わせに立っていた。

「おいてめえら、この金に目の眩んだ業突く張り共が、グズグズすんじゃねえ」

 コマの檄が坑道に響き、四つのカンテラの灯が通路の先に現れた。

 こけた頬と落ち窪んだ目の男三人が、コマに急き立てられて走っていた。男たちは胴回りがだぶだぶの作業服を着ていることから、鉱山にくるまでは富裕な暮らしをしていたと見える。

「監督ぅ、おれたちはもうだめだぁ」

「んなこたあ、知ったこっちゃねえ。ここでくたばられちゃあ、死体を引っ張り上げるのが手間なんだよ。蛆虫の餌になるなら、お天道様の下に出てからにしやがれ。さあ、東だ、走れ、走れ」

 四人の足音と、女棟梁の張り上げる怒声は、兄弟にとっては戦の雄叫びにして太鼓であった。広間を満たす空気の振動が、二人の心を奮い立たせた。瘴気の接近を告げる寒気ですら、どうということはなかった。

第三幕

 双雄が莞爾とした笑みを浮かべるのと時同じくして、泣き言をいいながら逃げてきた連中を追うようにして、虹色の光が現れた。

「この魔法の分銅で仕留めてくれる」

「はっ、支柱に鎖を絡めんようにな」

「おぬしこそ、槍をひっかけるなよ」

「分かってるよ」

 アーク兄弟は二手に分かれた。

 死をもたらす虹色の雲は未だ遠いながらも、少しずつ近づいてくる。幻惑の光を煌めかせて、胡蝶のように揺らめいている。

 もしもこの妖異を描くのであれば、輪郭線を用いるべきではない。後世の画家のように、濃淡だけで事物の区別をつけるほうがよい。色彩については、虹という字面に囚われることはない。怪異のうちに秘められた荒々しさと狡猾さを表すためには、画家もまた野獣のように色を選び、絵筆を運ぶこととなるだろう。この瘴気から受けた印象の先を想像するのだ。

 弟は腰を落として槍を中段に構える。兄も同じようにして、分銅の回転を早めていく。

 一滴の水が天井からカンテラの一つに飛び込み、ジュッと音を立てて蒸発した。

 兄ダームダルクが強靭な手首を振るって鎖分銅を放つ。

 金属塊は熊の頭蓋をも砕く勢いで飛び、異様なまでに冷湿となった広間の空気を音を立てて擾乱する。熱帯の蝶の羽根を思わせる瘴気を分銅が貫き、腕一本分の鎖が反対側に飛び出した。金属塊が飛び込んだところにには拳大の風穴が生まれたが、分銅を引き戻すと同時に、蠢く濃密な虹が空洞を埋めた。自然は真空を嫌うという説を体現するような現象だが、自ら動く虹というものは現世に存在しうるのだろうか。

 兄にとっては期待はずれの結果だった。

 樽くらいの穴が空いて、気味の悪い入道雲みたいな怪物が消えてしまうことを想像していたが違っていた。理想と現実の溝が狐罠のように兄を捕らえたほんの一瞬のうちに、瘴気は蝶から蜻蛉へと変わった。

 化け物が一直線に向かってくる。

 半ば無意識に兄は壁のほうへ飛びすさった。

 凍てつく死の突撃を間一髪で逃れたものの、肺腑に入り込んだ冷気が悪寒となって体中を駆け巡った。氷霧や吹雪の日に吸う空気と同じようでいて違う、自然の厳しさとは異なる、明確な意識らしいものを感じとった。相手にしているのは空を風まかせに漂う雲ではない。彼方から流れてきた幾つもの思念の重なりが、変化し続ける色彩という形で現し世に顕れているかのようだった。

 弟バーキャルクに、横槍を入れて前身を阻もうとするが、敵の速さに狙いを外した。

 東の通路から黄色い光が漏れてきた。兄は分銅を引き戻しつつ光のほうへ動くと、灯の主はコマであった。

「坑夫達の避難完了です」

「こっちはまだじゃ」

「じゃあ終わらせますですよ」

 瘴気はコマたちのもとを離れて弟の方へ向かった。

 地面に散らばる石塊は、虹色の粒子の動きをなんら妨げてはいない。霧が支柱を抱き込むようにして方向を転じ始めたとき、竹が爆ぜるような鋭い破裂音が響いた。

「兄者か。このやかましいのは」

「わしじゃない」

「柱が割れたです。木に染み込んだ水が凍って膨らんだです」

 天井を支える柱に異常があると聞かされた兄弟の顔は、もう寒波にやられたかのように青ざめた。三者の叫び声と爆竹のような音が殷々と広間に響く。坑道よりは広いながらも、この広間は依然として山の下なのだと、兄弟は改めて実感した。

 霧が弟のもとへ迫っていく。

 霧の中から貝の舌みたいに細長い虹色の筋が伸びてきた。陰鬱な螺鈿細工を思わせる虹色の瘴気は、カンテラの光を浴びたからといって、黄色がかって見えることはなかった。手元の灯のために生まれる影法師もまた、対象の明度に何の変化ももたらさなかった。玉虫色の触手が伸びてくるさまは、昆虫が触覚で探りを入れる様子を思わせたが、害意のない探査として片付けることは無理な注文であった。

 弟は槍を下段にして待ち構えた。

 ゆるやかに動いていた腕が、突如として貝の吐く海水さながらの勢いで迫る。

 槍を跳ね上げて触腕を切り落とす。

 穂先より手前の側で虹が薄れて消えた。人間相手ならば会心の一撃だが、弟は手応えを感じなかった。

 槍を叩きつけるようにして中段に戻すと、刀身に霜が降りていた。一瞬ではあるが、敵が放つ寒気のために穂先が凍りついたのだ。

 コマが走り出て男顔負けの腕力で大金槌を振るい地面を薙ぎ払った。床に転がる尖った石を瘴気に浴びせかけたのだ。数個の飛礫が霧に空洞を作り出すものの、すぐにまた塞がってしまう。

 飛んでいった石の一つが柱に跳ね、バーキャルクの鉄帽に当たった。

「おおい、監督。気をつけてくれよ」

「この程度でグズグズ言うな、です」

「そうじゃそうじゃ」

 コマの叱責に便乗したダームダルクが、ふたたび分銅を敵にぶつけるが、やはり拳大の穴が開くだけであった。

 兄もまた、形のある敵を相手にしているときならば必ず伝わってくる、手応えというものを感じられなかった。

 瘴気が飛び道具を気にかけた様子はない。聴覚や触覚といった、生物であれば持ち合わせているだろう感覚を持ち合わせているのか、全く検討をつけられない相手だ。ぎらぎらとした金属色のもやが、縦横に伸び上がった。目の前に立つ弟の視野の半分は埋め尽くされた。

 瘴気が弟めがけ怒涛の勢いでなだれ込んだ。

 弟の脳裏をよぎったのは、あらゆる船を粉々に砕き流木へと変えてしまう、外洋の三角波であった。かつてガレー船に乗り組み、横暴な船長への反乱を煽動したときのことだ。自由への意志は船長の棍棒ではなく、海神あるいはその子孫たちの気まぐれによって打ち砕かれたのだった。

 いくつもの破裂音が響く。音の激烈さといったら、反響と本来の音との区別がつかないほどである。

 弟は槍を振って、右前方から迫る敵を薙ごうとするが、支柱が邪魔をした。

 極寒の波に飲まれまいと、三歩四歩と低く跳んで後退せざるを得ない。

 もや越しにコマが見えた。ノミを片手に走っている。町の職人では使わないような、まるで投槍のような逸物である。

 兄は弟の援護に走った。

 兄の位置からも弟の窮地は見て取れた。分銅を引き寄せつつ駆けていたが、足元に散らばる石に気を取られて、頭上の注意が疎かになった。天井から岩がせり出している。灰色で黒い縞が入っている。

 鉄帽が岩に激突した。

 岩を基準点に、兄の体が曲がっていく。急制動をかけられたのは額の高さであって、腰から下は懸命に駆け足をしていたのだ。丈夫な帽子と首の筋肉を反射的に固めたおかげで大事は免れたものの、鍛え上げられた両足が宙を掻く。

 兄は尻もちをついた。

 カンテラの灯は無事についているはずなのに目の前が暗くなる。頭をひどく打ったからだと気付くと同時に、休むことなく頭脳を駆け巡る電気信号が、頭蓋の中の天球儀に火をいれた。見慣れた夜空のものとは大きさも並びも異なる星々が、瞼の裏に灯り始める。

 あれだけの打撃を受けてなお、兄は昏倒せずにすんだ。

 袖口を濡らす血液の温かさのおかげである。転んで手をついたとき、小指の付け根から掌底にかけてざっくりと切っていた。散らばっている石も、取り落とした鎌も紅に染まっているから、何で切ったのかは分からない。吐息が白くなるほどに冷えているこの広間でも、血潮は簡単には凍りつかなかった。これだけで十分である。

 再び瘴気が動き始めた。

 一挙に広がった七色の波は、複雑な渦流を見せつつ再びまとまり始めた。甲虫の腹のようにぎらつく金属色の輝きが、柱を盾にしながら弟へとにじり寄る。いまは槍の穂先である短剣の鋒に霜が降りる。またしても柱が爆ぜた。

 破裂音が弟に、ある種の天啓を与えた。敵は槍の使い手を悩ませる位置取りを知っているのだ。まさか山の下でこのような好敵手に会おうとは、夢にも思わなかった。獲物を仕留めそこなって口惜しいという人間的な感情を、相手が持っているか否かは分からない。だが、少なくとも戦いの技術という点では、ある種の意思の疎通を図れる相手である。相手にしているのは人智を超越した魔法の存在ではなく、あくまでも戦巧者にすぎないと、弟は奇妙な理屈付けをして恐怖心に立ち向かった

 瘴気の中央では、夏雲のように濃密な色彩が沸き立っている。辺縁では、筋雲のように薄くムカデの足めいてか細い虹色の糸がうごめいている。雲母を散らしたようにもみえるもやは、獲物を抱きかかえんとする蟷螂のごとく、いまにも飛びかかってきそうだ。

 弟が素早く後退しつつ槍を引くと柄が壁につかえた。

 手のうちで嫌な音をたてて枝がたわむ。前ばかり見て後を忘れた不覚を呪った。利き手が腰に向かうが、目当てのものがなく空振りを繰り返す。いつもなら腰に付けている短剣は、いまは槍の穂先となって手の届かぬところにある。

「伏せてろ、です」

 弟が槍を捨ててかがみ込むと、助走をつけたコマが巨大なノミを投げつけた。

 回転する鉄棒が瘴気の中心に飛び込み、食い入って引っかき回した。

 霜を帯びて輝くノミが岩壁に衝突すると、折れた鋼が鼻先に突き立って、弟は肝を冷やした。金属を覆う霜が蝋燭の熱で溶けて、黒光りする鋼が表れるさまは美しかったが、弟には鑑賞しているだけの余裕はなかった。氷が出来るくらいに冷やされた鋼は衝撃に脆いものだが、冶金学にかまけている余裕を持つものもいなかった。

 兄も視界にまとわりつく闇と光を振り払って救援に来た。手元で金属の旋風を起こして鎖を放つと、ふたたび分銅がもやを穿ったが、前と同じく穴はふさがってしまう。

 いま弟の眼前で、瘴気が視野いっぱいに広がって、一枚の薄紗のような姿に化けた。前は瘴気の壁、後は岩の壁。弧を描くようにして、左右の隙間も塞がれつつある。帳の向こう側は意外と透けており、分銅を引き戻す兄や手頃な石をかき集めるコマの姿が見えた。

 玉虫色の幕が包み込むように迫ってくると、弟は左手に提げたカンテラを投げつけた。一気に油が燃えて、炎が瘴気を舐めたかと思うと、虹色のかすみは消えていた。雲散霧消である。

「さて監督、女王への推薦状を頼むぞ」

「そうじゃ、このとおり、敵は影も形もない」

 兄弟たちは手応えの無かったことを伏せて、当初の要求を繰り返した。

 コマは無表情に頷いた。

Photo over the title by Devon van Rensburg on Unsplash
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