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手間と面倒。余白と余分。

ポエティックな余白のない世界に真の豊かさは存在しない。

手間はポエティックな余白であり
面倒はシステマティックな余分だ。

今に生きる私たちはどうやらここが混同しやすいようで、この辺を再考しないと結構まずい道が見えてくる。
両者の違いは質感の違いだとは思うが、質感を捉えられない限りは違いも見えてこないだろう。

時間感覚のパラドックス

現代社会では効率化や最適化が進んでいる。というより必死に進めてる、という方が正しいか。
そこの根底にあるものはなんだ?時間がもったいないからだろう。無駄は省き、働く時間を減らし、その余暇で幸せな暮らしを…。なんて考えがあるのだろう。

しかし現実を見てみると、ある人は効率化によって無駄を省いた結果で生まれた時間を使い、さらなる効率化を進めることに必死だ。またある人は余暇を利用してSNSや動画コンテンツを消費するのに可処分時間を費やしている。資本合理性から生まれるマトリックスに自らを投じるように。

ここに時間感覚のパラドックスが生まれる。

何のために無駄を省いてるか忘却してしまうのだ。それによって人間性を拡張するはずが、むしろ人間性は溶けていく。これは手間と面倒を包含した「無駄」を定義して減らしてるところに問題がある。

いまの市場では人間の可処分時間の奪い合いが行われている。SNSも映画も音楽も動画コンテンツも。優秀な脳みそをかき集めていかに人々を二次元インタフェースの枠内にとどまらせて置くか、に重点が置かれる。1人当たりの時間は有限であるから、どう「持続」させるかが結果的に経済的価値を生むからだ。

我々は余暇を使ってソレに加担してるわけだ。そのために働く人間と消費する人間と。実際のコンテンツはパーソナルに最適化されたものが提示されている。裏で必死こいて計算した結果、「君はどうせこれが好きなんだろ?」という具合に。

別に否定しているわけではないが、それらを認識した上でゲームとして過ごした方がいいと思ってる。
もっとも、面倒ごとは嫌いだ。だから効率化には賛成する。ただ、手間を無くしてしまっては人間性も失われていく。

手間

「手間」とは何かの対象に時間をかけることであり、それによってできた物質から感じる人間味のことだ。
ここでは最終的な物質のみに「価値」があるというより、そのプロセスに「意味」が染み出ている。

工芸や、お茶、祭り、料理、音楽、コミュニケーション。あらゆる行為に手間が潜んでいる。例えば料理なんかはイメージしやすくて、手間をかけて美味しくしたり、母の味から少年時代を想起することもある。
コミュニケーションでは遠くに住む友人に会いに行ったり、手紙を書いてみたりすることで、相手を想う時間を作ったり関係性を深めるやり取りを行う。

こういう手間を面倒ごとと一緒にしてしまうのは悲しいことだ。

コーヒーやお茶を入れる時の音や匂い、夜道を歩く時の虫の声や月の光、そういった時間には人の感性が詰まっている。

詩的に言うならそういう「余白」にはかなり複雑性があって、余白がそれ自体を作り出していると言っても過言ではない。時間的でも物質的でもどちらでも同じだ。

手紙なんて複雑性の極みというか。紙の質感と文字の大きさ、筆圧、インクのかすれや間違い、言葉尻、書いた場所と時間まで保存される。それを受け取る人は完璧に再現せずとも感覚的にその複雑さを受け、情感に変換したり信頼に変換したりする。わざわざ紙を選んで書くペンを選び、文章を選び、その人を想う時間を作る。そういった手間によって醸成される複雑性はシンプルに記述する必要性が全くない。

これらが削がれた社会ではUber eatsでご飯を食べ、ストリーミングで音楽を聴き、コーヒーメーカーで作ったコーヒーを飲みながらLINEで友人とやり取りしつつ、YouTubeで動画を見る。

これを否定するわけではないのだが、余白と余分の違いを明確に理解した上で進んでかないと、自動運転やスマートシティ化されいく社会の上の人間像がつまらなくなってくる。

余白と余分とテックの使い道

さて、余白と余分についてはだいぶ理解した。(つもりだ)
余白はポエティックな手間で、余分はシステマティックな面倒ということ。現代ではどちらも「無駄」として包含し、最適化に向かおうとしていること。
つまり、両者の混同と、時間感覚のパラドックスを考えれば、
現代の "最適化" は "最適化" ではないことは明確だ。

ここで重要なのは目的論的に行動するのではなく、無目的的にどれだけ価値が置けるか。
そもそも人間は本質より実存が先行していると思ってるので(個人的に)、何か目的に向かって走るよりは、無目的なものから情感を汲み取ってく方向に「生」を感じていたい。

面倒は効率化して行こう。そのためには今まで通りテクノロジーをふんだんに使って余分を消していけばいい。機械やAIには統計分析を任せよう。
"ただ"何かをすることがとても苦手なのはよく分かる。
だから、そこで生まれた時間で、手紙のひとつでも書いて欲しいもんだ。ただ、空を眺めたり、ただ座ってみて欲しいもんだ。
そういう余白に豊かさを磨き出していく作業に時間を使ってもらいたい。

また、その余白や人間の情感を引き出すような「表現」にテクノロジーが使われて欲しい。目的を達成するためというより、子供時代に描いた魔法世界を実現させるように。

5Gのネットワーク、AI、XR、デジタルファブリケーションやディスプレイの解像度など、表現の幅は広いし、物質世界との親和性も高まってきた。
それらを使って超無目的な世界観が形成されることを祈っている。

井戸を探そう

最後に星の王子さまのシーンを引用して終わるとしよう。

砂漠の上で喉が渇いたなら、泉に向かってのんびり歩いていけばいい。渇きを潤す薬を飲めば、水を飲む必要は無くなるし、泉まで歩く時間も省けるだろう。でももし、自由に使える時間があるなら、井戸を探すことに使えばいい。
だって砂漠が美しいのはそのどこかにひとつの井戸が隠されているからだ。

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