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嘆きの宿命

コロナ禍が収束したと思われていた時期のこと、家の近所にある、2席だけの小さな立ち飲み屋さんに初めて入った。

常連とおぼしき男性がひたすら喋っている。私はそれを無言で聞きながら頼んだお酒をチビチビ飲んでいた。

「一度でいいから、自分で決めた相手と結婚したいんだあ」

つぶやきシローみたいな、なんだか聞き慣れない訛りで男性がポツリ。

年の頃は50前後であろう。ほとんど白髪で染まっていながら整髪料でスタイリングされ清潔感のある短髪、浅黒く焼けた肌、がっしりと太い首や腕、総柄のシャツ。

口数の多さと軽妙さ、風貌からして、スナックとかでモテそうだなと思って見ていたのでその言葉は意外だった。

「俺さあバツイチなんだけどさ、二十歳の頃に両親から結婚相手決められちゃったのよ」

Likeつぶやきシロースタイルで話を続ける。

「俺、当時遊び歩いててさ、家帰ったら、田舎だから玄関開けると広い土間になってんだけどさ、そこにズラーっと靴が並んでるわけ。

なんだなんだと思って上がったらさ、知らねえ人たちがいて『お前の結婚相手だ』つってさ。えーー、て思ったけどさ、まあ俺もブラブラしてたからそのまま結婚することになったんだけどさ」

聞けば福井の山奥にある集落で生まれ育ったのだそうだ。

「でさ、結婚するにあたって風習があったのよ。嫁さんの家族が、ウチの評判を近所の家に聞いて回るっていうのがあってさ」

「それを『嘆きを入れる』って言ってね、嫁さんの両親がウチの近所に嘆き入れに来たのよ」

「そしたら、ウチの母はけっこう地域でリーダー的な立場の人だったからさ、周りに悪く言う人誰もいなくて向こうの両親もOKしてくれてさ、嘆き入れも無事に終わったんだよね」

「あれから子どもが育つまでン十年一緒にいたけど別れてね。今は彼女がいる」

という話をとめどなくしてくれたのだけど、私は即座に嘆き入れるをスマホにメモした。「嘆きを入れる」――初めて聞く未知なる地方の慣習に心を奪われてしまい、あとの話は記憶に残っていない。

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