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暇の力で小説を書こう

 かなり暇を持て余している(挨拶)。



35歳になって約1週間が過ぎようとしている

暇が生み出す文化的で思想的なパワー

 一般的な意味で「普通に働いている」人間なので、朝9時から午後6時まで、約8時間の労働に加え、通勤時間や業務外での作業などを考慮すると、ぼくの生活は決して全部が「暇」とは言えないのだけれども、やりたくないことは極力やらずに生きているため、空いた時間は「暇」であると言える。間違っても「隙間を縫って捻出した時間」ではない。
 たとえば「SNS」でコミュニケーションを取るとか、誰かと一緒に暮らして会話をするとか、誰かと一緒に暮らす前段階として誰かと付き合うとか、付き合わないにせよメッセージツールで交流をするとか、そういうことを一切していない。つまりぼくの人生には、現在、ほとんど他者との交流がない。元々頻繁にする方でもなかったのだけれど、35歳の誕生日を迎え、「雑なSNSをしない」というルールを開始してからというもの、本当に孤独の極みみたいになった。
 これが、暇で暇で仕方がない。
 寂しくはないのだが、かなりやることがなくて暇だ。
「おいおい、この人はまた天邪鬼なことを言ってるぞ……」
 と思われるかもしれないし、実際、自分でもそう思っている。ただ、この手の「暇」は意識的に生み出されているものなので、かなり前向きな意味での「暇」である。どういうことかというと、「暇だからなんか作」ったり、「暇だからなんか見」たりする時間が増えるのだ。
 人生をシンプルに考えると、「労働」「食事」「睡眠」で事足りる。労働はまあ、ある程度毎日すべきだろう。食事もするべきで、睡眠はしないことには人生が上手く回らない。となると、それ以外の要素というのはオマケである。「いやいや、もっと人生において大切なことはたくさんあるのだ」という意見にはすべて賛成だけれども、一個体がとりあえず人生を全うするためには、その辺があれば充分だろう。もちろん、お金がたくさんある人は「食って寝る」だけでいい。
 さて、そうなってくると他のことは「暇だからしている」になる。無論、「労働」に対して、最低限の身嗜みに気を配るとか、早起きするとか、コミュニケーションを円滑に進めるために飲み会に行くとか、そういう付随する行動はある。「食事」にしても、料理をするとか、買い物に行くとか、そういうのはある。が、そうしたことをまるっと引っくるめても、人生は意外と暇である。一度、他者との交流から離れてみると実感する。マジでやることがないのだ。マジでやることがない時に「マジでやることがない」とSNSに投稿すれば、何らかの空白を埋められる。時間だったり、孤独だったり、寂しさみたいなものだ。それを埋められるのだけれども、埋めるだけなので、翌日には何も残らない。いや、その「埋めるだけの行為」が積み重なって、交友関係の構築などに繋がっていくのかもしれないが、ぼくはもう、新規の人間関係は自然発生的に増えればいいなと思っているくらいなので、積極的な交流はもう諦めている節がある。ただ生きているだけでも人間関係は発生するので、インターネットを利用してまで増やそう、という気にはならなくなってきたわけだ。
 となると、暇なのだ。
 裏を返せば、大半の娯楽は「交流」によって成り立っているんだろう。
 ともあれ、何もない時間を「本当に暇だ、やることがない」と思えるようになったのは、結構、学生時代以来、くらいな気がする。意識的な問題なので正確なところは微妙だが、大人になってからの暇は、「やることもねえけど金がねえ」とか「やることもねえけどやる気がねえ」とか「やることねえし体を休めるか」とか、そういう感じだった。しかしながら、ここ1週間でとみに感じるのは「マジでやることねえ」である。
 仕事して、飯食って……あと寝るだけなのに、寝るにはまだ早い。
 が、やることがない。
 以前までであれば、「やることねえ!」と言いながらSNSを見て、YouTubeで適当に動画を見て、気付いたら午前1時を過ぎていたのだが、今は「あと2時間どうするか……」みたいな気持ちに苛まれる。暇なんだけど、暇が故に、2時間ぼーっと天井や壁を見つめていると流石に発狂しそうになる。抑うつ状態であればそれもまた良しだが、やる気がある時に暇だと気が狂う。かといって、最近は「酒」による人生の浄化をせずとも平気になったので、晩酌というわけにもいかない。
 仕方がないので、何かやることを探そうとするのだ。
 ここ1週間、その繰り返しである。
 とは言え、苦痛というわけでもない。
 お夕飯を食べ終え、お風呂に入り、明日の登校までの時間何をして遊ぼうか? と考える、学生時代と同じ精神状態だ。
 このリセット感は結構大切であるし、ぼくはこちらの方が向いている気はする。
 充分に「労働」をして、「食事」をして、「睡眠」をすると、空いた時間に何をしたらいいのかわからなくなる。意識的に「何をしよう」と次の行動を考えるというのは「暇」の特権と言える。
 しかしながら「暇」という言葉には悪いイメージがあるので、なんとも天邪鬼なことを言っているように聞こえてしまう。これは意識的に作り出した「時間」なわけだけれど、だからと言って「有意義な時間を生み出した!」とか意識すると、何かしないといけない焦燥感に襲われてしまう。あくまでも「時間が空いてしまった」から、「せっかくだし何かやるか」という体で居たいのだ。
 その体裁こそが、過去の自分が陥っていた「創作ゾーン」であったり「インプット・ハイ」の源なのだろう、ということに気付き始めている。歳を取ると、無限に小説を書いたり、無限に映画を観たりというのが出来なくなってきたな……という感覚が、30歳過ぎくらいからあったのだけれど、逆に変わったのは自分ではなく環境なのではないか、当時のように「暇」があれば、自分という人間は過去と同様の(あるいは技術的には質の良い)「創作」や「インプット」や「鍛錬」が出来るのではないか、ということである。
 で、今のところ、それはかなり功を奏しているように思える。

ここ最近の生活

 平日は、起きて、働いて、食べて、寝る。
 休日は、起きて、食べて、寝る。
 それだけである。
 が、それだけでは時間が埋まらないので、仕方なく映画を観たり、ゲームをしたり、小説を書いている。楽器を弾いたりもしている。本も読んだりしている(気持ち的には仕方なくだけど、楽しんでやっている)。
 あと、とにかく睡眠時間を長くとっている。少しでも「眠い」という感覚が発生したら、即座に寝ている。22時に寝ることも少なくない。少しでも眠くなったら即座に寝て、夜中に中途覚醒をしても時間の確認以外でスマートフォンを見ることがないので、そのまま起き出したりはしない。2分ほど「起きてしまったか……」とは思うけれど、脳が睡眠態勢なのですぐ眠れる。よっぽど眠れなければ雑誌などを読むが、雑誌を読むのも結構体力がいるので、結果的にすぐ寝る。
 健康的かどうかはわからないが、とにかく寝るようになった。
 食事は今のところ安定しているとは言いがたい。誕生日付近は色々あるので、色々やったのだけれど……まあ、そろそろ落ち着いてきて、基パン(BASE BREADのこと)を食べる生活に戻るんじゃないだろうか。あとキャベツ。
 やることがないついでに、電子ピアノを椅子の近くに置いた。暇で暇で狂いそうになると、映画を観ながらピアノを手慰みで弾いたりする。が、集中しているからなのかどうなのか、意外と時間の経過が遅い。少なくとも、SNSをだらーっと見たり、短い動画をスワイプしまくるよりは、ゆっくり時間が流れている感覚がある。
 だからと言って、「SNSは悪い文明だ! 粉砕する!」という方向に宗旨替えしたわけでもない。ソシャゲもしなくなって久しいけれど、別にやれる人は続けた方がいいと思う。ただなんというか、ようやくぼくも「自分のやりたいこと」が明確になってきて、そのために意識的に自分の人生をコントロール出来るようになってきたなぁ、みたいな感じなのだ。少なくとも誕生日から今日に至るまで、「無理してやってる感」は一度たりとも覚えずに済んでいる。
 早い人は、こういう感覚をそれこそ10代とかで身に付けるのだろうけれど。
 ぼくは時間が掛かってしまっている。とは言え、このままなんとか推し進めたいところだ。将来の安寧のためにも、安定した人生を構築したい。


小説の投稿をしています

インクリネイションの錯角

 久しぶりに続きを投稿した気がする。

 あと、「暇」なのでタイトルロゴっぽいものも作ってみた。なんか、デッドバイデイライトみたいになった。錯角である。
 この小説は「裏社会で生きる無意志人間の主人公がひょんなことから他人の意志を操れる超能力者の少女と出会うが、無意志人間なので超能力が効かず、少女の思惑通りには動かなかった。だが、無意志が故に意志の強い女子高生に流されてしまい、彼女の母親を殺した組織への復讐に巻き込まれてしまうのであった」というような小説である。ジャンルはなんだろう……多分、ミステリーなんだろう。そういうオチのある小説なんですが、まだ書き途中である。
 常日頃から「最近小説なんか全然書いていない」と感じているのだけれど、この小説を連載し始めたのは、2022年の9月26日のことらしい。なんやかんや書いてる。で、それから11月3日までほぼ2日とか3日とかに1話のペースで公開していたようだけれど、12話で止まっていた。
 今年の3月に入って再会し、13話目から17話目までをこれまた3日に1回くらいのペースで投稿していたようだけれど、それもまた止まっていた。4月から5月に掛けて仕事が忙しくなったせいだろうと思う。
 で、最近また「暇」になったので、続きを投稿することにした。ストーリーは全部出来ているから「あと書くだけ」という状態なので、やる気さえあれば書ける。で、やる気があった休日に、5時間くらいで28,000字ほど生成した。この小説は「ウェブ連載向きに書こう」という意識があるので、1話あたり約5,000字程度で区切るようにしている。ので、ストックがあと4話くらいある。やる気があるときに連載を続けたい気持ちである。
 この小説は、物語の仕掛けでもないのだけれど、主要登場人物の名前に趣向を凝らしている。

 赤坂 亜矢(あかさか あや)
 伊地知 響(いじち ひびき)
 閏流 雨竜(うるうる うりゅう)
 麗々瀬 寧々(れれせ ねね)
 音園 大小心(おとぞの こころ)

 というように、各キャラクターの名前を、同じ母音で構成するようにしている。で、冒頭で名前こそ出していたけれど、断片的な情報しかなかった「音園」の輪郭がようやくわかるところまで書いた。書いてみて「こんなキャラクターだったんだ」という感じを味わっている。ぼくはストーリーは練るけれど、キャラクターは台詞を書き出すまで名前くらいしか考えないので、書いてみて初めて「お前こんなやつだったんだ」となることが多い。「麗々瀬」もようやく喋るのだが、「お前こんなやつだったんだ」となった。
 今、大体112,000文字書いている。このままだらだらと書き続けることも出来るのだけれど、一旦ここらで折り返して、全40話から50話くらいで完結させようかな、と考えている。ワン・トリックで書き進めている小説なので、そこまで長い構成には耐えられないだろうという気はしている。まあでも、ぼくが好きな「ちょっと非現実的だけど現実っぽい、でも現実っぽくないキャラクターがたくさん出てくる小説」が書けているので、このまま書き切りたいところだ。

林檎森の忌子

 こちらは打って変わって、1話あたりの文字制限を考えず、「物語的にキリの良いところまで」で書いている。いわゆる普通の小説の書き方で書いている。ので、1話が本当に長い。自分でも読みたくない。
 この小説もあらすじっぽく書くと「法で裁けない類の人間を〝怪異〟という名目で殺す退魔師という職に就いている主人公が、本物の〝怪異〟になろうとしている忌子と出会い、こいつは本当に〝怪異〟なのか? 殺すべきなのか? とか考えているうちに別の殺人事件が起きちゃっててんやわんや」というものである。ジャンルは何だろう。いやぼくはミステリーしか書けないんだろうな。ミステリーです。大正ロマンのミステリー。
 とりあえず第1章が終わるくらいまで書いたのだけれど、まあ、元々の予定通り、1週間に1話くらいのペースで投稿したいところである。クソ長くなりそうだけど、あんまり長い小説を書きたくないので、不要なところはカットしながらうまみ成分を抽出したい。
 20話くらいかなぁ。まあ、そんな感じで進めたいところである。
 上記したように「暇」なので、あまりに暇すぎて過去作の整理をしたり、放置していた小説の続きを書き始めたり、そういうことをしている。「暇」じゃないと、人は物事に「優先順位」とかを付けたがる習性があるように思われる。その「優先順位」とやらを考えると、小説を書いたりする作業は後回しになってしまうのだ。が、「暇」だとそんなこと考えず、今やれること、今やりたいことを最優先で出来るので、結果としてめちゃくちゃ色々な作業が進んでいる気がする。
 とにかく他にやることもないので、精力的に小説を書いて、丁度よさそうなコンテストがあれば応募しまくり、という生活を続けたいところだ。本が出したいわけでもなければ、作家になって印税生活をしたいわけでもない。普通に暮らしたい。が、普通に暮らすにもぼくは創作をしないと死んでしまう側の人間なので、多少の目的というか、刺激が欲しい。故に、文学賞なりコンテストに応募していこう、というものである。
 35歳にもなると「新人賞」という感じでもないし、将来性を考えても採用される可能性は低いように思われるが——まあ、年齢制限がない限り規約違反でもないのだから、怒られはしないだろう。
 あとは少しでも読んでもらえるように、様々な工夫を凝らしたいところだ。モチベーション自体は「書きたい」という欲で賄えているが、それを書いた先に何かあるとやる気も出るので、頑張りたい。反応を下さっている方々、いつもありがとうございます。



最近見た映画

『ジョー・ブラックをよろしく/Meet Joe Black』

 ブラッド・ピット主演。1998年の映画。
「死」とか「死神」とかそんな概念的な存在が、人間界を観察するために、大企業の社長にまとわりついて色々案内させたり、住処を用意させたりする。普通に考えれば断れそうなもんだけど、その社長は持病のせいで死が近く、「案内役をやっている間は死なない」という制限を付けられたから仕方なく「死神」の言うことを聞いてやる、という筋書きである。
 テーマは「愛」である。この映画の名シーンは、映画冒頭でブラッド・ピット演じる「コーヒーショップで出会う青年」と、上記した大企業の社長の娘がばったり出会ってお互いに「いいな」と思うんだけど、大した約束も取り付けずに別れて、でもお互いなんとなく名残惜しくて振り返り——相手は背中を向けているから諦めて歩き始めると今度はもう片方が振り返り——相手は背中を向けているから——また振り返って——相手は背中を——とやきもきするシーンである。別の映画のラストシーンだと言ってもいいくらい、美しいシーンである。
 まあそんな青年が「死神」に身体を乗っ取られてしまって、社長の娘と再会した時に「あんた前と違うくない?」みたいに疑いを掛けられつつも——やっぱりその娘に恋をして、人間界を離れるのが辛くなっていく……みたいな映画である。
 過去にも観たことがあったのだけれど、最近「20年近く前に観て内容がうろ覚えな映画は、もはや初見と言っても過言ではないのでは?」という意識の元、名作であったり、自分が気に入っている映画を見直す期間に入っている。
 昔は旧作5作で1週間レンタル1,000円、みたいなのを毎週借りていたので、1ヶ月で約20本、4,000円掛けて映画を観ていた。それが今じゃ、1ヶ月に20本観ても2,000円程度である。ネトフリ様々だ。レンタルショップや、ソフト販売会社は辛いんだろうけれど……。

『ショーシャンクの空に/The Shawshank Redemption』

 ティム・ロビンス主演。1994年の映画。
 原作はスティーブン・キング。
 言わずとしれた名作である。テーマは「希望」の映画。
「無実の罪で終身刑となった主人公が刑務所に入ることになったが、元々がやり手の銀行員だったので頭が良く、色々あって刑務所内で経理を担当したりして成り上がっていき、人柄も良いから友達も増えて行って……最後はどんでん返し」的な映画構成になっている。古くから続く「俺TUEEE」の文脈でありながら「どんでん返し」要素もありつつ、さらにヒューマンドラマまで入っている。お得3点セット。
 ナレーター的ポジションを務める、モーガン・フリーマン演じる「レッド」というキャラクターがまた良い。この映画を観ると、とてつもなく「生きるとは」みたいなことを考えさせられる。特に今、ぼくは「暇」を意識的に生み出しているわけだけれども、映画の中で囚人たちも「暇」を持て余している。人間の本質というのは、この「暇」を潰すためにあるんじゃないかとさえ思える。「暇」は様々な問題をクリアにしてくれる。あとは「環境」は大事という話か。
 まあとにかく、とんでもない傑作である。
 映画史に残る映画だろうから、「暇」がある人にはオススメである。「物語のお手本」クラスによく出来ているので、趣味で創作をする人にも良さそう。

『戦場のピアニスト/The Pianist』

 エイドリアン・ブロディ主演。2002年の映画。
 割と鬱映画として認知されているらしい。人がよく死ぬ。ナチスドイツによってユダヤ人が可哀想な目に遭う、事実に基づいた映画である。事実に基づいているだけあって、テーマがどうこうではないと思う。
 話の筋としては、「ラジオでピアノ演奏をする職業音楽家だった主人公とその一家が、戦争によって様々な不幸に見舞われながらなんとか生き延びていくが、後半、色々あって主人公はひとりきりになって潜伏生活を余儀なくされる。潜伏中は音も立てられないのでピアノも弾けない。彼は生き延びられるのか……」というような感じの話。全編通して、あんまりピアノは弾かない映画である。
 が、これは上記「ショーシャンク」の作中でも触れられることなんだけれど、音楽というのは必ずしも楽器がある必要はなくて、実際に音が鳴っていなくても、心の中で自分に対して鳴り、それは誰にも奪えないというような描写がある。それは文学も同じだろうと思う。いわゆる芸術というものは、そのようにして、人々の人生を豊かにし、希望として機能するんだね、みたいなことを考えさせられる。
 ストーリーとは関係ないが、ぼくはこの「エイドリアン・ブロディ」という役者が好きである。今風に言えば「顔がいい」のだ。彫りが深く、下がり眉、高い鼻、面長な顔。どれをとっても理想的な「キャラクターが立った顔」である。面白そうな映画は結構雑食的に観るけれど、それとは別に割と俳優メインで映画を観がちなので、イケメン俳優が出ている映画が結構好きかもしれない。ブラピ然り、ブロディ然り。まあ、それも映画を楽しむ要素のひとつだから、当然と言えば当然だろうが。

『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン/Catch Me If You Can』

 レオナルド・ディカプリオ主演。2002年の映画。
 これも事実に基づいた映画である。「めっちゃ頭のいい詐欺師が小切手偽造して金引き出したり、パイロットを騙ったり、医者になってみたり、色々なことで悪事を働くよ! それを銭形警部的なポジションのFBI捜査官が追い続けるよ!」みたいな映画。題名通り、「鬼ごっこ」である。
 まあこれもテーマもクソもないとは思うけれども、とにかく「レオナルド・ディカプリオ」と「トム・ハンクス」が追いかけっこしているだけで面白い。実際には対面で追いかけっこするシーンはほぼないんだけれど、まあ割と観てるだけで楽しい。主人公の父親役の「クリストファー・ウォーケン」もべらぼうに格好いい。まあとにかく、絵的に面白い。
 公開してすぐの頃、何故かかなり流行った記憶がある。「タイタニック」後、「レオナルド・ディカプリオ」主演で当たりの映画というと、次作がこれだったんだろうか。「ギャング・オブ・ニューヨーク」とか「ザ・ビーチ」とか「仮面の男」とかもあるけど、一般受けしそうな映画だと本作だったのかもしれない。
 余談だけど、個人的な見解では、2010年に「シャッターアイランド」という映画の主演を努めて以降、レオ様は成功が約束されたような映画にばかり出演している印象がある。「インセプション」「J・エドガー」「ジャンゴ 繋がれざる者」「華麗なるギャツビー」「ウルフ・オブ・ウォールストリート」などなど……とにかく人気出て当然っしょ! みたいな作品の常連だ。最近だと「ドント・ルック・アップ」でNetflix公開系の作品にも出ているけれど、これも散々に宣伝をしていて、話題になった記憶がある。
 良くも悪くも、「タイタニック」で美青年として一世を風靡してしまったレオ様が、近年の「渋めのおっさん役でも最高に格好いい」になるまでの間の作品であるので、「昔のレオ様」と「今のレオ様」の丁度中間という感じ。見所満載である。10代のまだあどけない少年のようでもあるし、理知的な大人のようでもある。作中もかなりの年月が流れるので、レオ様の年齢別の雰囲気の変化が見られたりして面白い。ちなみに「トム・ハンクス」は一定しておっさん役である。


終わりに

 まあとにかく小説を書きまくっている。
 性懲りもなく、上記した連載以外にも適当に書いている。
 飽きないのか、ぼくは。
 小説を書けるのはいいことだが、唯一の問題点は、「小説を書きまくって小説を推敲しまくっているので、小説が読めない」という点にある。これは結構由々しき問題だ。自分の文章を読み返すことで文章を読みたい欲が満足してしまうので、ついつい映画ばかり観てしまっているし、ついつい目を休めるために楽器に触れてしまう。由々しき問題だ。
 これを解決するためには、やはり本を持って散歩などに出向き、意味もなく海や山など人里離れた場所まで電車に乗り、その車中で読書をするというような遊びをするべきかもしれない。往復の時間と、旅先の喫茶店などでぼんやり本を読むのも一興であろう。本を読むためだけに実家に帰省する、という手も考えられる。そうした行動がまた、小説を書く際の一助になる気もするので、せっかく小銭もあるのだし、お出かけをたくさんしたいところである。
 まあとにかく、35歳ルールの適用から大体1週間が経過したわけで、その間に3連休などもあったのでゆっくり過ごしてみたが——なんか1ヶ月くらい経過したんじゃないかというくらい、自分本位の時間が流れていて良い傾向である。デジタルデトックスではないんだけれども、体感的にはそんな感じだ。
 ちなみに余談だが、つい先日、昔ぼくが住んでいた町で殺人事件があったようだ。これを書いている現在は既に犯人は捕まっているようなのだけれど、事件が起きた当初、一時的に「犯人が逃走中」という状態だった。興味がある方は調べてもらいたいが、神奈川県横浜市にある、上大岡という土地での出来事だ。
 ぼくは現在も横浜市に住んでいるのだが、場所的には「横浜駅」に近いので、「上大岡」からは少し離れている。電車で10分程度、歩いて1時間程度の距離だ。これが全国的に放送されていたのか、先日の休みに母親から突然「大丈夫? 外を出歩かないように」というような連絡が来た。なんのこっちゃと思った。
 ぼくは自分本位の生活をしていて、リアルタイムな情報を全く仕入れず、10年も20年も前の映画を観ていた。とは言え「何が?」と言い返すわけにもいかないのでネットでニュースを見て、その事件の顛末を知った。感覚的に、「上大岡」からぼくの現在の住所まではそこそこ離れているし、とは言え犯人が潜伏するには近すぎるし都会すぎるとも思ったのだけれど、家族に噛み付く反抗期でもないのでお礼を言っておいた。
 横浜に来てかれこれ5年以上経つが、母親からすると色々心配なのだろう。自分ごとながら、「ネットニュースくらいは見た方がいいのかもな」という気はした。これを機にiPadでも買って、新聞の購読でもしようかな……。
 ともあれ、「暇」に明かして日記などを書いた。これ、書かないと書かないで、本当に俗世との関わりがなくなってしまいそうだから書いているんだけれども、その時間を小説などに回したらもっと書けるんじゃないの? という気もするので、いつまで続くかわからない。しかしまあ、日記というのは孤独人間にとってはライフログとして、あるいは健康管理用の記録として実用的なので、なるべき続けていきたいところだ。noteの使い方も上手くなりたいし。
 そんなわけで、35歳1週間日記であった。
 最近、本腰を入れて椅子を買おうとしているので、近いうちに椅子の購入に関する報告が出来れば良いなと思っている。椅子だけに本腰を入れたいのだ。アーロンチェアにするか、エルゴヒューマンにするか、ゲーミングチェアにするか……悩ましいところだが、後悔のない選択をしたい。
 というわけでまた次回、「やっぱりアーロンチェアっしょ!」でお会いしましょう。さようなら。

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