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映画『君たちはどう生きるか』の感想文

 ネタバレしかないので今すぐ劇場に行け(挨拶)。

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 どうでもいいことですが、映画公開日のことを「封切り」と表現するのが好きです。「初日」でも意味的には正しいんですけれども、「封切り」と言った場合に指す事象が、現代では映画の公開日に限定される気がしています。古くは本が袋に入って売られていた時もこれを販売する際に「封切り」という言葉を使ったそうですが、本の場合は「新刊」という言葉がありますので、それを使いたいところですよね。CDなら「新譜」とか。「フラゲ」とかも、割と独自な語感があって、ノスタルジーを感じていいですよね。そういう、ある事象しか指さないような言葉って割と好きなんです。専門用語とは違う、日本語の美しさみたいな。
 どーーーーーでもいいわ!
 お前の日本語に対する感想とかどーでもいいわ。
 映画の感想の話でしたね。映画の感想の話をします。
 まあ封切り日のレイトショーで『君たちはどう生きるか』を観てきまして。僕は……どうだろう、多分、映画館でジブリ映画を観るようになったのは『ハウルの動く城』からだったかと思います。最初に「映画館でジブリに触れた」という意味では、1997年に公開された『もののけ姫』なんですけれども。確か家族4人で映画館に行って、両親が『もののけ姫』を観たがったからなんですが、僕と兄は「ちょっと怖そうだから」という理由で、同じ時間帯にやっていたゴジラ映画を観ていた気がします。それより前の作品はVHSとかDVDとか金曜ロードショーで見ていましたし、『千と千尋の神隠し』については、「もののけ姫より怖そうだから」という理由で、映画館では見ませんでした。予告がすごい怖かったんですよ、『千と千尋の神隠し』って。当時まだ映画館慣れしてない子どもが劇場のスクリーンで見るにしてはあまりに恐怖を煽る予告だった。あまりに怖くて、その時見ていた映画の記憶はほとんどないのに、『千と千尋の神隠し』の予告だけはよく覚えています。
 映画の感想は!?
 はい、すみません。話を進めます。まあその後、『ハウルの動く城』『崖の上のポニョ』『風立ちぬ』は劇場に観に行きました。もちろん『ゲド戦記』とか『コクリコ坂から』とかも見ているし、好きなんですけれども、「宮﨑駿監督作品」として話しますので除外します。なんでかって言うと、今回はそういう感想になるからです。

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 やりやがったな、と。
 今回の映画の感想を集約するとそうなります。
「てめえやりやがったな」と。
 もちろん、敬意と愛情を抱いた上での「てめえこの野郎、やりやがったな。俺がやりたくても出来ねえことを、やりやがったな。くそ! くそーっ!! 悔しい! てめえ!!!」なので、罵倒でもなく、酷評でもないです。絶賛の「てめえいい加減にしろ」です。
 僕も創作する側の人間の端くれなので、多少なり「創作する人間の原動力」みたいなものには共感するところがあります。「恋愛物が書きたい」となった時に、その「恋愛物を書くに至った動機」みたいなものって、自分の実体験の中にヒントがある。「ファンタジーが書きたい」となった時も、それを書くに至る原風景みたいなものがあるし、思い出の世界があるわけなんですね。
 だけどまあ、その全部をひとつの作品に盛り込むことって出来ないわけで。やってやれないことはないんでしょうけれども、「それやったら終わりじゃん」みたいな感覚があるんですね。初恋の子に対する想い、少年時代の暗い思い出、初めて物語に触れたときの感動、ただただ憧れる格好良さへの憧憬。そういうものは、まあ物語の随所に手癖として、手垢として出てしまうことはあるんだと思いますけれども、それをじゃあ、全てをメインテーマとして扱うのは無理なんです。
 テーマがとっちらかっちゃうし。
 そもそも、全部出し切ったら、在庫も切れちゃうし。
 やった結果、「意外とまだ書けるな」ではあるんですが、普通は怖いですよ。自分の全部を注ぎ込んで作品を創るなんて。だから、普通出来ません。
 だからまあ、例えば前作である『風立ちぬ』は、「ああ、飛行機が好きなんだ。飛行機が好きで、あの時代に生きていて、宮﨑駿監督はこういう人生だったんだ」みたいな……自叙伝的なことを感じる作品でしたし、『もののけ姫』に見る冒険活劇というか、ひとりの勇者の伝説みたいな、空想の全てをここに置いてきたって感じが正当なファンタジーを作り上げていたり、あるいは『紅の豚』みたいに、自分の考え得る自分を表現したい、ある種の自己投影というか、それは『風立ちぬ』に見られるような自分の歴史を投影しているのとは違う、幻想的な、希望的観測に基づく、「俺は今と違う人生を送っていたら、こうなっていたかもしれない。多分こういうことをしていただろう」みたいな憧れめいたものだったり。
 そういう、それぞれの作品には、テーマがあるわけですよ。
 テーマ……テーマとは違うか。物語が内包する、舞台が持つメインテーマとは別の、「作り手」がその作品に勝手に滲ませてしまった「作家の祈り」みたいなものを感じることが多かったのです。それがあるから、数多くの作品を見ることで、我々受け手は勝手に「宮﨑駿監督」がどういう人間かを観測するわけです。多面的に。
 まあ、ジョークで言えば、「あいつはロリコンだ!」みたいなことを思うわけです。多くの作品で共通する点を見つけて、「こいつはこういう人間だ!」みたいなことを、まあ言うわけですね。そういうものは今までの作品の中で散文的に散りばめられていたし、効果的に我々視聴者に影響を与えてきた。「メカ好きなんだなぁ」とか「絵画的な世界好きなんだなぁ」とか「田舎の緑好きなんだなぁ」とか。
 だからそういうのは、1個ずつ、ないしは薄めた要素を散りばめながら2,3個、ひとつの作品に込めて、作品というのは創られるわけです。

 ◆

 なのにぜーーーんぶやった。
 今回の映画は、ぜーんぶやっちゃった。
 やりたいことぜーんぶ入れてきた。
 あーあ。
 俺もう怖いよ。
 引退しないでくれよマジで。
 今作はなんなんだよ。「宮﨑駿監督最新作」じゃないじゃん。
 遺作じゃねーか。
 勘弁してくれよ。
 もっと作ってくれよ。
 見るから。頼むよ。終わらないでくれよ。
 今年、82歳でしょ? じゃああと1作くらい行けるよ。頼むよ。マジで。10年! 10年で作ろう! 次! ね! ほんとお願いします。やめないでくれよ。1億回「引退する」って言っていいから1億回撤回してくれ。頼む。お願いします。待つから。頼む。死なないでくれ。全部出し切るなって。お前……なんでだよ。こんな怖い映画創るなよその歳で。怖いよ。ギラギラしすぎだよ。

 ◆

 あのー……ですね。
 映画の冒頭でサイレンが鳴りまして。まーこれがすごく良いんですけれども。いやその前から話しましょう。映画館で色々予告とか見て、まあ否応なしに期待が高まっていく。で、「東宝」のロゴが来て、「きたきたきたきた!」ってなるわけですよ。僕はもう東宝のロゴというかあの光の映像を見ると「きたきたきたきた!」ってなるんですよ。本を読む時、特に推理小説において、最初の登場人物紹介を見ると「はい始まりましたよー」という気持ちになるのと同じで、「来た!」ってなる。
 いやもっと前から話そう。
 どんだけ話す気なんだ。
 まずね、今作はそもそも、予告とかがなかったじゃないですか。なんかよくわからん鳥のイラストと、『君たちはどう生きるか』のタイトルだけが告知されている。で、僕は封切りと同時に観に行ったし、その日はインターネットから情報を仕入れていなかったので、本当の本当に、何も分からない状態で足を運んだんです。
 曰く、『千と千尋の神隠し』は怖そうだ、とか。
 曰く、『もののけ姫』ってちょっとグロテスクなシーンがあるらしい、とか。
 曰く、『崖の上のポニョ』って、かわいいテーマソングがあって、ポップな感じらしいよ、とか。
 曰く、『風立ちぬ』の主人公の声優が庵野秀明!? 見るしかねえじゃん! とか。
 そういうのが一切ない。
 なんにもなかった。なーんにもない。唯一のネタバレとして事前に知っていたのは、「主題歌が米津玄師」らしいということくらい。でもそんなのは別にネタバレでもなんでもなくて、何というか「表紙しか知らなかった本の裏表紙が公開された」くらいのものだったから、大きなダメージではなかった。
 むしろ安心したくらいだ。
 この映画、ちゃんと「マジ」なんだ、と。
 いやもちろん、この世界に、情熱を持った作家が作った作品に、「マジじゃない」ものなんてない。特に、商業的な展開をされている作品なら尚更。なんだけど、やっぱりどこか……まあ多くの本や映画に触れている人間からすると、「力を抜いて作った作品」っていうくらいの温度差ってのはあるわけなんですよ。サボってるわけじゃないけど、「肩の力抜いて作った」みたいな。そういうのも味があって良いんですが、うーん、数年前から希代の売れっ子作曲家に主題歌を依頼しているんだから、ちゃんとマジでやってんだと。
 逆に期待が高まった。
 で、やっと映画の話に戻りますが……冒頭でサイレンが鳴って、火事が起こる。戦時中が舞台らしい。主人公めいた子がサイレンの音で目を覚まして、火事が起きている方を見て……母親が入院している病院が火事になってることが分かる。
 ちょっとだけですよ。
 ちょっとだけ思いました。『となりのトトロ』か、と。
『風立ちぬ』なのか『となりのトトロ』なのか。いや、そうじゃない。俺は新しい映画を観てる。火事で燃え盛る病院に走り出す主人公。その疾走感なり、アニメーションにだけ許される、映像と心理描写の妙みたいなものがある。主人公以外の人間は黒い靄が掛かったように見えづらい。群衆に塗れているのに、我々視聴者は主人公をすぐに見つけられる。アニメ映画だ! 冒頭で僕の興奮は最高潮に達しつつ、『風立ちぬ』でやりきれなかった映画が始まったんじゃないかと。

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 場面変わって、主人公は疎開することになる。東京を離れて、田舎に向かいます。多分宇都宮でしょうね。宮﨑駿監督が疎開された場所がモチーフだろうと。ただまあ……そこはいいですわ。そこは作家性ですからね。で、そこでお母さんによく似た美しい女性が出迎えてくれる。実の母親は火事で死んでしまって、新しいお母さんが出来る。
 ここで。
 ここで1回打ち震えるんですけれども、あのー……あれなんて言うんですかね? 人力車かな? 自転車が後ろにある台座を引くタイプの乗り物に乗って、その美しい女性は現れるんですよ。で、その台座から降りる時、運転手が女性の手を取って降りてくる。着物を着ていて足下の自由は利かないし、画面を見ているだけでも、全く安定していない乗り物であることが分かる。その人力車から女性が降りると、台座は大きく揺れる。揺り返すとでも言うか。その自然さが素晴らしいんですけれども、まあそれはそれ、流石はスタジオジブリだな、って感じです。
 主人公は父親と一緒に疎開したんですが、父親は仕事の都合でひとり職場に向かうんですね。で、主人公は新しいお母さんと一緒に、人力車に乗り込む。その時、めちゃくちゃ重そうな荷物も一緒に台座に乗せるんですね。いや当たり前の描写です。当たり前の描写が当たり前に続きます。
 新しく住むことになるお屋敷に向かっている途中、その新しいお母さんは妊婦であることが分かります。結構、どぎつい描写ではあるんですよ。私はあなたの新しいお母さんになりますよ。お腹には赤ちゃんがいますよ。後に正式に描写されますが、新しいお母さんは、主人公の実のお母さんの妹です。つまり、自分の父親は、姉妹を手籠めにしたらしい。子どもは大人よりも繊細で敏感ですから、嫌な気持ちになったことと思います。でも主人公は別に感情を表に出さない。むしろ、ここで妊婦であることが分かったから、運転手が手を貸していたのだという数分前のシーンに説得力が出る。ただ揺れるからじゃない。この人は身体を大切にしないといけない人なのだと。当たり前の描写が当たり前に続きます。
 さらに道を進んでいくと、戦争に出向くことになった人たちを、家族や町の人が盛大に送り出しているのに遭遇する。新しいお母さんは車を駐めさせ、台座から降りて、その一行に深々と頭を下げるんです。これもよくある、戦争時代の作法というか、奥ゆかしさというか、歯がゆさというか。自分の代わりに、国のために戦いに出る人間に対し、せめてもの礼儀として頭を下げる。自分の進行を遅らせてでも、礼を持って接する。そういう描写があるんです。当たり前の描写です。何もない。何の違和感もない。そこには、昭和の或る時代の描写がある。
 あるんですが。
 が!
 その時に!
 台座から降りる時に!
 台座が揺れない!!!
 運転手も、新しいお母さんの手を取ったりしない!!!
 妊婦なのに、手を取って降ろさない!
 なんで!?
 さっきはあんなに気を遣ってたのに、どうして!?
 なんでなのか??
 そう、クソ重い荷物が乗っているから。
 主人公が乗り込む際に、お土産として持って来た鞄を入れますが、「重いぞ?」みたいなやりとりをするんです。で、実際に重そうにして、運転手はそれを台座側——つまり、主人公の足下に置きます。
 その荷物がいかに重いかを!!!
 降りる時にさっきあんなに揺れてた台座が揺れないことで!!!
 表現していた!!!
 これ、そのー……実写映画よりリアルなんですよ。なんでかって、実写映画はリアルじゃないからです。何を言ってるんだって感じなんですが……実写映画で使われるのって、ほとんどは「嘘の小道具」ですよ。だって危ないから。殺陣の演技で、本物の日本刀を使うか? 絶対使わないですよね。ガンアクションで本当に銃弾を発砲するか? しないですよね。
 じゃあ、重そうな荷物を台座に載せるシーンで、本当に重い荷物を使うか?
 使わないですよね。少なくとも一般的には。
 だから多分、実写映画だったら、揺れるんです。あのシーンの台座は。というか、そんなこと誰も気にしないと思う。小説を書いていてもそう思う。もし台座から降りるシーンを書くなら、「出兵する兵隊を見送るために、慌てるでもなく、気品を保ちながら、しかし素早く台座から降りた。すぐに通りの中央に向かって並び立ち、深々とお辞儀をする」とか書くでしょう。台座については書きません。書かなくていいところだからです。小説では、台座が揺れたか揺れないかなんて書かなくていい。でもアニメは描かなくちゃいけない。二択ですよ。揺れるか揺れないか。で、じゃあ本当はどっちなのか? 揺れないんです。『君たちはどう生きるか』では、二回目の降車時、台座は揺れない。何故なら、台座には重い荷物が乗っているから。考えりゃ分かることなんですが、ていうか考える必要もないような小さな描写なんですが、そこに僕はアニメーションの妙を見た。
 そこにあるのは、物理現象としての「リアル」とは別の、宮﨑駿監督作品にある、一種の「生々しさ」です。

 ◆

 あ、注釈的に書いておきますが……これは映画の感想とは別なので余談なんですけれど、今回の映画、「宮﨑駿監督作品」なんですよね。
 何が? って感じかもしれませんが、今までって、「宮崎駿監督作品」だったはずなんです。
 宮崎じゃなくて、宮﨑。
 環境依存文字だから今までは崎の字を使っていたんだろうとは思いますが、今回のポスターには﨑の字が使われている。なので敬意を表して、この感想文内では「宮﨑駿監督」と表記を統一しています。悪しからず。

 ◆

 まあそういう……なんでしょう、本当にどうでもいい「生々しさ」を見て、僕はすっかり虜になっていました。「この映画はもう勝った」とすら思った。映画の評価をしているわけじゃありません。「この映画を観に来た自分の選択は、勝ちだ」と思ったんですね。
 今回は宮﨑駿監督作品では初のIMAX上映ということもあって、僕は封切り当日のレイトショーで、「IMAX」且つ「プレミアムシート」で鑑賞しました。
 最近、大人になったこともあって、映画を観る時にいちいち値段を気にしていなくて。クレカで事前清算するのと、レイトショーを利用することが多いので、日中の価格ってちゃんと理解してなかったんですが……2,000円するんですね。ビビりますね。僕が一番映画を観ていた時は、確か1,800円だったかな……。まあとにかく、プレミアムシートの値段が1,000円、IMAX料金が500円、レイトショーが1,500円なので、合計3,000円。ポップコーンとコーラも買ったので、都合4,000円くらいで映画体験をしたわけです。が、こりゃもう勝ったなと。
 元が取れるどころの話じゃない。
 勝ったと。たった4,000円で、人生に変化が起きたぞと。
 小説でもそうなんですけど、人生に影響を与える値段って大抵安いです。高い金を出して銀座だかで美味い飯を食って、綺麗なお姉様とお話するより、今流行りのコストパフォーマンス的考え方で言えば、お得です(無論、高い遊びを経験した上で判断すべきですが)。
 だからまあ今回はもう、その人力車の荷台のシーンを見た時点で勝ったと。
 僕は割と、宮﨑駿監督作品には「不思議なジュブナイルノベル的なファンタジー要素」を求めている節があるので、「あー、現実的な映画なのね」というちょっとしたがっかり感はありました。でも『風立ちぬ』は好きだし、スタジオジブリ作品で言えば『耳をすませば』や『コクリコ坂から』もかなり好きなので、そちら側の作品として楽しむ覚悟を決めたのですね。ていうかもう勝ってるし。どんな映画であれ、どんな結末であれ、もう勝ってしまったから、あとは消化試合みたいなもんです。

 ◆

 主人公と新しいお母さんがお屋敷に着いて、ふたりは家の中に入ります。その行程でやっと、ポスターのメインビジュアルとなった、「謎の鳥」が出てきます。こいつはどうやらアオサギらしい。こいつが物語に関わってくるようだぞと。でもポスターとは形状が違う。果たしてどうなるのか……期待に胸を躍らせつつ、物語の進行を眺めていると——屋敷の中にはお手伝いさんというか女中というか、主たちの身の回りの世話をする「婆や」が現れます。全部で7人の「婆や」。その見た目が……なんでしょう? ビビるんですよ。
 上述したように、この映画はかなり「生々しい」描写をしていました。冒頭に鳴るサイレンの、暗闇の中で輪郭だけが朧気に見える金属製のサイレンの、その生々しさ。日本家屋の古めかしさと、階段を駆け上がるシーンの野生性。建物や風景の美しさ。揺れる荷台と揺れない荷台。そういう「生々しさ」が当たり前に描写されてきたのに、7人の「婆や」たちは、コミカルそのものなんです。二等身くらいしかないの。
 話が違うじゃん。
 そういう話じゃなかったじゃん。
 否、そういう話じゃなかったんですが、そういう作家が創った映画だった。言ってみれば『千と千尋の神隠し』です。引っ越しで車移動をしている最中の千尋、両親、田舎の風景、お地蔵さん。トンネルを越えて、不思議な世界に迷い混む。豚になる両親。恐ろしい世界に迷い混んでしまった。そこから急に出てくる「湯婆婆」というギャグ。
 お……お前!
 僕はここで確信してしまった。
 お前やったな!
 パヤオてめえやりやがったな!
 7人の「婆や」が出た瞬間に、「お前これ、やっただろ!」と思いました。何をやったのかって言われると説明に困りますけれども、やったんですよ。
 で、まあ映画を観た人はそっからどんどん「やりやがった」が続いたことは承知していると思いますが、もうやりたい放題ですよ。やって、やって、やりまくってる。「あー、ここラピュタ。あー、ここナウシカ。ここがもののけ姫。ここポニョ。あー……やってるわこれ。完全にやってる」もうね、途中から怖くなってきました。「宮﨑駿監督は、本当に全部やったんだ」みたいな、「この作品で終わりです」みたいなメッセージを勝手に受け取ってしまって、怖くて泣いてしまった。比喩表現でもギャグでもなく、本当に怖くて泣いてしまいました。映像があまりに美しいというのも、内容があまりに宮﨑駿監督作品であるというのもありますが、切なくて、怖くて、悲しくて泣いてしまった。
 創ってくださってありがとうございます、でもあるし。
 そんなこと言わないで、まだ続けてくれよ、でもあるし。
 こんなに好き放題やりやがって、でもあるし。
 物語のストーリー性とかじゃなくて、なんかただ、急に来る感情を避けることも出来ず、生身で受け止めて、受け止めきれずに涙が溢れるみたいな感じだった。かと思えばちゃんと楽しい。笑えるシーンがあって、急に怖くなって、急に意味が分からなくなって、それの意味が分かったり、分からなかったり。そういうのを繰り返しながら、僕は心の中で笑ったり、ワクワクしたり、かっけーって思ったり、だっせー! って思ったり、めちゃくちゃ笑いを堪えたり、やっぱりこれで最後とか言わないでくれよって泣いたりしていました。
 この、物語が始まって、アオサギが出てから物語が幕を閉じるまでの時間は、語るのも野暮だと思うのであんまり感想らしい感想は言いませんが、まー……なんだろう、俺が子どもの時に見てたら、絶対ハマってるなと思いました。「結局これ、どういう話なの?」とかじゃないんですよ、アニメ映画って。否、物語ってそもそもそういうもんでもない。だって僕は、『もののけ姫』が深いテーマを持っていて、人間ともののけの共存だの、自然と破壊だの、そういうものが楽しくて見てたわけじゃないですから。『魔女の宅急便』を、少女が魔女になって何かを失って、それでも奮闘するみたいなメッセージに感銘を受けて見ていたわけじゃないですから。『となりのトトロ』に、子どもの頃の夏休みに感じていた魔法みたいな日々を思い出してノスタルジーに浸って見ていたわけじゃないですから。
 ちょっとグロくて怖い『もののけ姫』の、サンかわいい! ジコ坊が味噌入れるとこ好き! とか、『魔女の宅急便』のジジかわいい! とか、『となりのトトロ』の猫バス乗りたい! もふもふだ! とか、そんなもんですから。
 だから今作のVHSを子どもの頃に持っていたら、僕は絶対、クソデカインコたちが皿持ってフンスフンスしてるシーンを繰り返し見ると思います。あとはクソデカインコたちが現世に戻って、ちっちゃいインコになるところとか。カラフルで綺麗なんだあれが。
 それがじゃあどういうストーリーなのか、結局どういう話だったのか、『君たちはどう生きるか』っていう映画は、どういう物語だったのか?
 どーーーーーでもいいわ。
 別に興味ねえし。
 いいんだよ勝ったんだから。この映画は。勝ったの。
 どんでん返しでもないし、感動でもない。
 ただ勝った。面白かった。
 俺はこれを面白いと思える側の人間で良かった。人生に勝った! 良かったー!! 最高! マジで! 傑作だったよパヤオ! 次もよろしくな! 初回鑑賞で2万円までなら払う!

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 まあ半分冗談ですけれども、あんまりストーリーを追うべき映画でないことは確かです。
 そもそも、この映画のキモの部分は、映画後半に出てくる「いしの積み木」だと僕は捉えました。
 まあよく分からないんですよ。主人公の先祖である「大おじ」とやらが空想世界の管理人みたいなことをしていて、その「大おじ」が「いしの積み木」とやらを積んで世界の均衡を確かめている。けど、どうやらそれももう終わりが近い。だから、主人公にその空想の世界の管理を託そうとする。空想の世界には、たくさんの「いしの積み木」がある。そのほとんどに、邪悪な意志を感じるんだけれど、管理人である「大おじ」は、13個の純粋な「いしの積み木」があるから、これを使って世界を作り直して欲しいと、主人公に告げる。
 意味分かんないじゃん。
 普通は。
 13個の純粋な「いしの積み木」って何だよと。
 宮﨑駿監督が、個人で(共同ではないという意味で)監督を務めた作品って、過去に13作品あるんですね。『On Your Mark』をどう扱うかが微妙なところなのですが(実験作品でありMVという側面があるため)、それを除いても、今作『君たちはどう生きるか』を合わせると13作品になる。
 物語の中で、「大おじ」は言うんですよ。「俺はもうダメだからお前が後を継げ」みたいな。「時間がない!」って。この世界は壊れちゃうから、お前が後を継げって。で、「13個のいしの積み木」を渡そうとするんですよ。
 めちゃくちゃ怖くないですか?
 めちゃくちゃ怖いんです。
 すごい抉って考えると、「俺もう作品が創れなくなったから、これ観た誰かのうち、誰かが俺の後継いでくれ」って言ってるわけですよ。「13作品あるから、それ観て、あと頼むわ」って。
 怖すぎでしょ。
 なんだよそのメッセージは。
 やりたい放題やった映画の中で、そんなメッセージを、自分を投影した主人公に語りかけるんじゃねえと。
 どこまでやりたい放題なんだと。
 ぞわぞわしちゃって。もう泣いてるんですけど僕は。美しさにやられて泣いていたはずなんですけど、今度は怖くて泣いちゃったんですね。ワッ……ワァ……ってなっちゃって。「綺麗ないしの積み木がある」みたいなこと言うんですよ。セリフは定かではないですが、「そこら辺に転がってる積み木じゃなくて、純度の高い、綺麗ないしの積み木が13個ある」んですよ。なんだよ。怖いよ。
 でも主人公はそれを拒んで、まあ結局世界は崩壊しちゃって……みんな現実に戻って来て、不思議な現象は終わりました。めでたしめでたし。カラフルインコたちも現実世界ではちっちゃなインコに戻りますと。インコというか鳥はフンを我慢するという機構がないですから、びっくりするとフンが出ちゃうんですよね。飛んだ勢いとか。だから新しいお母さんも主人公もフンまみれ。でもなんだかハッピー。めでたしめでたし。お父さんもフンまみれ。婆やたちもみんな元気。良かったね。

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 なんも良くないんですけど。
 まあその、最後の13個の積み木の下りがキモだろうと。現実世界に戻ったあと、主人公は異世界での出来事を覚えてる。それは要は、「アニメ映画観た俺たち」のことであって。異世界で拾った積み木を持って帰ってきちゃったから、なんとなく覚えてる。お前はこの先、「大おじ」のように新しい世界を創っちゃってもいいし、小さい頃に連れて行かれて観た映画が面白かったんだよな、っていう思い出として終わらせてもいいし。「でも俺13個つくっちゃったから!」っていう映画だった気がします。「お前らも観ちゃったから! だから……なんか、好きにしたらいいんじゃないですか! 俺は継いで欲しかったけどね!」みたいな叫びみたいなものを直に浴びてしまって、終盤震えておりました。
 さらに踏み込んだ見方をすると、主人公が異世界から持ち帰ったお土産が「いしの積み木」と「婆やの人形」の2個だったんですけど、うーん……ご子息の劇場監督作品が2作品なのは、流石に穿ちすぎだと思うので、まあそういう可能性もあるのかなくらいの感想を抱きました。片方が婆やの人形という、見守ってくれる存在であることも考えると……その婆やの人形が最終的には婆やに戻って手元に残らなかったことを考えると……うーん、まあ、ね。そういう見方も出来るかもな。

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 まあそういう映画でしたよ、『君たちはどう生きるか』ってのは。
 振り返ってみると、それ以外に付けようがないなっていうタイトルではあるんですよね。タイトルは物語を表していないんですが、物語を表すならそのタイトルしかねえなというか。翻って「俺はこう生きた」ということですからね。その集大成が、美しい13個の積み木だと。そうですかと。じゃあ俺はどうしようかな、どう生きようかな。そらあんたに言われたら俺も考えざるを得ないよ。「俺はこんだけ創ってきたが?」ってマウント取られたら、「はて、俺はどうしようかな」って。

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 別にそれは商業的に成功したとかそういうことじゃないと思うんですよ。
 ただ分かりやすく13個でしたけれども、自分が人生の中で、純度高く行った行為がどれだけあったか。多分僕、1個か2個なんですよね。1個は小説の出版ですけれども、それくらいです。そろそろ35歳になりますけれども、純度高く、これでもかと打ち込んで、時間のほとんどを費やした経験ってそれくらいしかない。もちろん小説それぞれに思い入れはあるけれども、本当に打ち込んだ小説ってそれくらいで、だからなのか運が良かったからなのか、出版された。まあ情熱に結果が付いてきた好例でしたけれども、本当、そんくらいしかない。
 そう考えると、「俺は82歳で13個もあるぞ」って言われると、もう震えちゃいますよね。暫定的に1個としますが、俺35歳で1個しかないし。積めないし。1個しかないから置くことしか出来ない。で、2個以上持ってる人はまた違った捉え方が出来ると思うんですよ。「この積み木とこの積み木は、ちゃんと積めるのか」って。安定するほど純度が高かったのか? 要は、「俺はちゃんと、俺のやりたいことをやって積み木を獲得してきたのか?」って。一貫性があったのか? その積み木たちは、全部積めるのか? そこに恥じらいはないのか?
 そういうことを(勝手に)説教されてるみたいで、マジで後半怖くて泣いていました。やめてくれよと。もうそんな脅迫めいたこと言わないでくれと。でもまあ、そんなに強い口調でもないんですよ。むしろ必死だった。「俺はもう無理だから! お前が積めって!」っていう、自分勝手な主張でした。だけど僕が勝手に怖くなってしまった。そういう、まあ、観る人にとっては封切り前の与太話みたいな「宮﨑駿に生き方を説教される映画」で間違いない映画でした。マジで説教されるとは思わなかったですからね。本人は説教してる気は微塵もないんでしょうけれど、あんたは作家としてデカすぎるんだから少しは考えろって感じでした。

 ◆

 そんな映画でした。どんな映画!?
 まあそのー……結構キモの部分が弩級だったので僕は撃ち抜かれちゃったし、傑作と手放しで褒めたい気持ちなんですけれども、世間一般的には評価が割れそうだなと。むしろ酷評なんじゃないかなと個人的には思っています。「お前の人生観なんか聞いてねえよ」って視聴者がほとんどだと思いますし、そもそも「積み木なんて1個も持ってない」って人の方が、人類の中では多いはずなんですよ。作家は少数派ですから。だけど絵が美しいから、キャラクターがコミカルだから、音楽が素晴らしいから、風景が澄んでいるから、幻想舞台が極めて独自だから、表現が生々しいから、鳥とわらわらがかわいいから、アオサギがいい奴だから、好きになる人も多いと思います。その辺色々総合して、「問題作」ではあるのでしょうけれども、少なくとも創作に人生を捧げたつもりになっている僕みたいな人間からしてみると、「怖いこと言うなよジジイ。あと引退すんな」っていう感想でした。

 ◆

 思うままに感想書いてたら13,000字近くになっちゃったな……まあこの辺で締めておきますか。
 単純に絵が綺麗で観ていて楽しかったのと、自分の記憶が本当に正しいかの確認もしたいのであと1回は最低でも観に行こうと思っていますが、うーん、果たしてどのタイミングで観に行くべきか……パンフレットの一般販売が始まったくらいのタイミングで行こうかなぁ、どうしようかなぁ、なんて考えているところです。
 わらわらかインコのグッズが出たら、買おうかな。
「光」(だったかな?)の煙草が出たら速攻買うんですけど。宮さん煙草好きだよねえ、っていうところが現れてて、ここも良かったですね。俺好きポイントでした。
 まあともあれ、第一次感想としてはこんな感じでした。あと最後に、個人的にいいなあって思った本筋とは関係ないポイントなんですが、宮﨑監督作品は「ワッ!」と始まって、「おわり」つって終わって、エンドロールが主題歌分回って、それで終わるからすごくいいんですよね。最近こう、エンドロール後に特典映像あるとか、主題歌用のエンドロールと、関係者を乗せたスタッフロールの二種類流すやつとかあるじゃないですか。たるいんですよね……見ますけど。だから今作も「はいおわりー!」となってから緩やかに終わって行ったので、本当良かった。そういう映画好きです。気が楽で。

 ◆

 そんなこんなで、『君たちはどう生きるか』の感想文でした!
 んまー、少なくとも、俺の持ってる積み木は自信を持って綺麗な積み木だと言える! という確信が持てて、個人的に良かった! 1個しかねえけど!
 出来れば2個目の積み木も積み上げたいところです。
 それでは以上、感想文でした。また来世!

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