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負の感情も人生の味ということにして

こちらへ来てから、ギターをよく弾いている。
しばらくこの地で暮らすから、なにか趣味があればいいかもしれないと思って、日本から持ってきたものだ。
近ごろは思考が止まらなくて、心がとても疲れている。だけどギターを弾いているときは心が休まる。大切な時間だ。

現地の方とセッション

アメリカ国立科学財団なる調査機関の報告によると、人の脳は、1日1.2万〜6万回の思考を行なっているそうだ。しかもそのうち約80%はネガティブなもの。つまり多いときにはおよそ4.5万回もネガティブなことを考えていることになる。
自分の思考の回数なんて数えたことはないけど、私はよく考えてしまう人だと思う。思考が止まらない。
生活しているだけで入ってきてしまう情報に圧倒されたり、些細なことが気になって、考えすぎて疲れてしまう。

こちらへ来てから、ずっと何かを考えてしまう。新しい環境に来たのだから当たり前のことなのだろう。だけど不安なことを思い浮かべてみれば、キリがない。
まだこの国へ来てから何もできていない。これからどんな活動をしていけばいいのか?食生活が偏りすぎて健康を害していないだろうか?現地の人は私のことをどう思っているのだろうか?
もはやすでに日本に帰った後のことすら心配だ。これからのキャリアをどうしていこうか?帰国したら何歳なんだ。婚期を逃してしまわないだろうか?本当にやりたいことって何だろうか?

悲しい気持ちもする。
ここに来てから強く思うようになった。「生まれ育った環境は選べないけど、それで人生の大部分が決まってしまうんじゃないか?」って。そうだとすれば悲しいことだ。
私はとても恵まれているのだと思ってしまう。誰かの力になりたいという思いも、生活に余裕があるから芽生えているだけだ。
だけど結局ここに来たとしても、自分にできることなんてカケラほどもなくて、そしてそんなことは初めから薄々気づいていたのかもしれない。
「自分の能力や技術を発揮できると思ったからここに来た。」きっとそんなエゴもないわけじゃない。結局私は、"相手のため"と言いながら、"自分のため"という気持ちを持っている。嫌なやつだと思う。
少し生活が落ち着いたからか、そんなことを考えては陰鬱な気分に浸っている。

お昼はブッフェ、お芋がおいしい

思考は巡る。
そんなことはもうどうすることもできないとわかっていながら。自分の力でどうにもできないことは、どうにもできない。
ささやかながら自分にできることは、今に向き合うことだけだ。

歳をかさねるごとに、打算的になっていく自分に息苦しくなることがる。
「うまくことが運んでいくためには、どうふるまえばいいのだろう?」とか、「将来こういう可能性があるから、ここではこの選択をしておこう。」とか、先をことを考えて、したたかになる場面が多くなっている。
もちろん、そうしないといけない場面は生活の中で多くあるはずだ。だけど思惑ばかりめぐらせていても、今に向きあうことはできない。

赤道直下で標高も高いため、花の栽培に適しているそう

できる限りは、目の前のことに向き合いながら生活していきたいと思う。そうすれば、きっと打算も不安も少なくなっていくのだろう。そんな生き方をしてみたい。そんな生き方はできなくても、そんな姿勢を持っていたい。

でも、この陰鬱な気持ちを否定したいとも思わない。いろいろ思考を巡らせることは、世界に対してまだ関わりを持っていたいということだ。
どうにもならないことに対してどうにもならないと嘆くことは、きっと無駄ではない。そう思いたい。

頑張れないことは、頑張ることよりしんどいことだと思う。だとすれば今はしんどい時期なのかもしれないけど、それも必要な過程だ。
とくに焦る気持ちはない。ただただ、心の機微を丁寧にとらえていたいと思う。
つらいことやしんどいことだって、きっと人生の味だ。

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