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福隅家

初めまして。
福隅家の“弥”です。

今日からぼちぼち記事を更新していこうと思います。

今日は、私(弥)のことについて。

私は現在、
双極性障害,多重人格障害(解離性同一性障害)
と正式に診断され、口頭では、解離性運動障害、
とも診断されています。

何故そういう経緯に至ったのか、
そのことをお話ししていこうかなと思います。


多重人格障害、になったきっかけ。


私は、幼少期(5歳)のときに両親が離婚し、
それからは母親(以下,純子さん)に引き取られました。

両親が離婚してから、
純子さんは堕ちに堕ちまくって、
呑みにばっかり行く、そんな毎日でした。

純子さん1人で呑みに行くときもあったし、
私も行って連れ回されるときも。

その頃には、児童相談所が介入していたそうです。

児童相談所がもう介入は必要ない、と
意見がまとまり、そこからは地獄の毎日でした。

小学1年生の頃はまだ呑みに着いていったり
置き去りにされたりで、マシだったのですが…。

小学2年生になると、父親(以下元父)と
暮らしたお家からお引っ越しし、
新しいお家に居ました。

新しいお家に引っ越して、
2ヶ月が経った頃にはもうゴミ屋敷。

それから、夜は、
ミニスカートを履かされ、
街に連れ回されるようになりました。

夜の街で、
ミニスカートを履いている私に対し、
おじさんたちから脚を触る代わりに、と
お金を受け取っていました。

お金を受け取っても、私の収入にはなりません。
全て純子さんに取られていました。

呑みに連れ回され日付が変わり、早朝を迎えた頃、
このお金でお家に戻り小学校に通いなさい、と

知り合いのタクシーに乗って
1人戻って学校に行ったりしていました。

呑みに連れ回されるのもきついし、
ゴミ屋敷に置いてけぼりにされるのもきつい。

そんな日々でした。

それからの日々は正直覚えていません。

古参組の人格さんが現れたのもその頃。

今となっては、
よっぽどつらかったんだと思います。

小5になり、隣町へ引っ越しました。

けれど、ネグレクトは変わりませんでした。

ゴミ屋敷の中で生活、
おトイレはダンボールの中、
夜は置いてけぼりか連れ回されるかのどちらか。

学校では、
登校する度に、「臭い」、「キモい」、「汚い」、「クソ」、
等と言われていました。

仲良かったと一方的に思っていた子たちからも、
仲間外れにされ、忌み嫌われていました。

小6になった頃。
軟禁状態にされることになって、
扉はガムテープで塞がれ、小窓からは出れない、

冬の寒いときも
体操服の半袖短パンでゴミ屋敷の中。

純子さんはいつ帰ってくるか分からない。

という感じでした。

その頃から、
軟禁と放置を繰り返されてきました。


放置の時期だけは学校に通わせてもらえました。


けど、小学校にいざ通ってみると、
男子からはからかわれ、女子からは仲間外れ、

仲良いと一方的に思っていた子たちからは

わざと肩にぶつかる、足を踏んでくる、
あることないことを男子に言う、
掃除のあと、私の机だけ動かしてない、
ノートには暴言が沢山書いてある、

などをされ、
軽いイジメを受けました。

そして小6の終わりに差し掛かる
2月23日、私は初めて一時保護されました。

保護所は、私にとって楽園でした。

中学生~高校生の
4人のお姉ちゃん的存在からは可愛がられ、

担当さんも、心理担当さんも、
たまに様子を見に来てくれる、

大好きな先生にはべったりくっついていられる。

ごはんがちゃんとある、
お風呂もちゃんと入れる、
寝るところもちゃんとある。

本当に、楽園みたいでした。

そんな中、
3月末に児童養護施設に連行されることに。

最初から期待はしていなかったけど、
それよりももっと酷かった、印象を受けます。

ごはんは与えられる、
お風呂も共同だけど一緒に入れる、
寝るところも一応ちゃんとある。

けど、同じホームの子から
4人分のお皿洗いを命じられる。

それから、
敷地外に出れる子が多数で、
羨ましかった。

一時保護されるまであんな環境に居たのに、
それでも私は純子さんのことを想っていた。

でも、
特別外出のときは、男性を連れてくる、
酔った状態で来る、などでした。

児相の先生は来ない。
施設の職員さんたちは頼れない。
施設の心理職員も怖くて近寄れない。

その生活も3月末~4月後半で終わりました。

有難いことに、
入学式も出れて純子さんには参列してもらい、
中学に必要なものは施設出しで購入してもらい、

無事に中学のスタートダッシュを決めれました。

そう、
中学のスタートダッシュを決めたはずなんです。

中学に通うようになり、

4月は
小学から同じの男子からからかわれるぐらいで
私からしたら無事にスタートダッシュを決めれた。

そう思っていたけれど…。

5月になってからは、からかいに対して
無反応の私がつまらなかったのでしょう。

男子、そしてクラスの一部女子から
イジメを受けることになりました。

菌扱いは勿論毎日、
私の机と椅子だけが廊下にポツンと置いてある、
上靴は隠されたりゴミ箱に入れられたり。
ノートには暴言を書かれたり、教科書は隠されたり。

そんな5月~6月前半、でした。

6月前半には、
集団合宿があり、その場でも
イジメられながらも、無事に越しました。

けど、それと同時に、
我慢の糸がプツンと切れました。

集団合宿(6月前半)が終わってからは、


学校が怖くて怖くて、
朝になると消えたくなり、

純子さんから「学校行かんと!?」と聞かれては、
布団に潜り込み、そのまま1日を終える、
そんな感じでした。

中学3年間の思い出はそれくらいで、
ほとんど覚えていません。

この記憶はきっと、
人格さんが受け持ってくれていると思います。
人格さん、本当にごめんなさい。ごめんね。

高校生は、通信制に入学し、
入退院を繰り返しながらも、つらいけど
沢山楽しいこともあって、無事卒業出来ました。

そしてその高校生の中で、ネットで知り合い、
恋人、今となってはパートナーになってくれた人、
その人には感謝でいっぱいです。

卒業出来たのは、先生たちは勿論、
児相の心理担当さんのお陰です。ありがとう。

進学先は、
高校1年生の頃から決めていた、
医療事務の専門学校。

ドキドキした面接もクリアし、入学。

入学してからは、小規模クラスながらも、
仲の良いお友達も出来、お勉強も捗り、

お家に帰って軽く家事を熟していたら
パートナーが帰って来てくれる、

それはそれは楽しい毎日でした。

5月には調剤事務管理士の試験を受け、
6月半ばには合否通知が届き、

見事に、
調剤事務管理士の資格取得。


これから医療事務の
お勉強を頑張るぞ、そんなときに、

専門学校で倒れ、救急車で運ばれることに。

倒れた理由は、手脚の脱力、意識の低下。

手脚の脱力に関しては、
実は小6の一時保護されたとき、
その頃からありました。

けど、あくまで一時的なもので、
本当に一時的だったし、

自分の中でも無かったことにしていました。

救急車で運ばれた日は
初めて“早退”扱いになり、
そこから頑張る気力を失いつつありました。

搬送事件の翌日には、気力を失いつつも、
いつも通り通学していました。

けれど、人格交代が起き、
お勉強どころじゃなく、
別室で1~2時間休むことに。

それから人格交代は頻繁に起こり、

とても他者に会える状態では無く、
別室で休もうとしても交代し休めず、早退。

といった専門学校生活を送り、

限界を感じた私は、
調剤事務管理士、Word3級だけを取得し、
自らの意思で、退学することになりました。

応援してくれた人たち、支えてくれた人たちには、
すごく申し訳無いことをしたな、と思っています。

でも、退学して半年以上経った今、
退学ことに対して後悔はしていません。

退学前の手脚の脱力は酷く、基本人格である私(弥)
で過ごす限りは杖が手放せない生活だし、

パートナーもお仕事を辞めたことにより、

暫くは2人で病んでいたけれど、
それはそれで想い出だし、

今は少しずつ前に進めているし、

後悔はしていません、していないはず、です。

専門学校を中退し、

調剤事務管理士として、医療事務員として、

派遣で何ヶ所か働かせてもらったけれど、
体調が優れず、どこもギブアップ。


それでも、
一昨年の9月末に退院して以来、
入院せずに済んでいるし、
薬物療法も続けているし、

書ききれないこと、沢山あるけれど

少しずつ前に進めている、
そんな気がします。

専門学校を鬱状態のまま辞め、
それから躁と鬱を繰り返す日々。

そんな中、通院を続ける中で

元々あった、“うつ病(持続性気分障害)”は
覆され、新たに、“双極性障害”、と
診断を受けました。


じっくりお話を聞いて
しっかりと診断をしてくださった、
メンタルクリニックのせんせには
感謝でいっぱいです。

そして現在は、
双極性障害・多重人格障害(DID)
と正式に診断を受け、
解離性運動障害
と新しく口頭診断を受けました。

以前の病院だったら、
きっときちんと向き合ってもらえず、
適当な診断、適当な治療、
をされていたことでしょう。


今は、通院療法・薬物療法に励み、
1日1日を大切を大切に生きています。


人格さんとパートナーと、
これからも生きていきます。


長々とすみません。

皆さん、どんなことがあってもお身体は大切に。
以上、福隅家の基本人格、“弥”、でした。

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