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■本と私/「猫を棄てる」 村上春樹

こんな風に沈静な文体で文章、小説が書きたいと思った。
書けそうかも、との淡い光明も得た。

村上春樹がもう70歳を越えているなんて不思議な感覚だ。
私にとっては大学生時代に読んだ頃の、村上さんのままだから。

スノッブでキザな文体が鼻について苦手だった。ウィスキーの銘柄がなんだとか、その時ジャズバーのカウンターには誰何某のレコードがかかっていたとか。なんだかディテールの描写がねっとりと絡みつくようで、
「若さ故なのか男性故なのか、そういうものなのかわからないけれど、私には合わない」と思った。
それでも「納屋を焼く」以降、複数冊を繰り返して読んでいる筈だ。実家の本棚で今もぼろぼろになって保管されているのだから。
その割にストーリーよりも特有の文体が印象に残っていて、とにかく20代当時の私にはあまり分かり易い影響はしなかったのかもしれない。

或いは、なにがしかへの恐れや劣等感からくる嫌悪、拒否だったか。今振り返れば、それらも含めて、よく分からない、名状化出来ぬもやもやこそが、多大なる「影響」の産物かとも思うが。
結果ネガティブなリアクションであろうと、それに出会う前の私にはもう戻れないことに変わりは無い。ただ、当座の私は、村上作品から特段の影響を受けていないと理解していた。むしろ春樹アレルギーのような感覚。とにかくそこから今日まで、長らく村上作品を手に取ることはなかった。

生年を敢えて調べたり認識したりはせず、私は勝手に、作中の登場人物の年齢を村上さんの年齢として記憶してしまったようだ。
今回、「猫を捨てる」を読んで、彼の父が戦争経験者であることを知り驚いた。同世代どころか寧ろ自分の両親に近い世代の方と知った。
そして自分も随分歳を経たのだなと思い知る。いつまでも青くさくてはかどらず、少しの事で動揺する存在のままであるのに、やれやれという気持ちにもなった。

作中で印象に残ったのは、父から捕虜の処刑を打ち明けられたシーンだ。
寺の次男として生まれ、僧侶としての資格も得、勉学を愛するも戦争に召集されることで引き裂かれたものがある筈の父、しかし息子にはその多くを語らなかった。
ただ、その一体験は息子である村上さんに語られ、「引き継がれる」ことになる。


YouTubeで、千原せいじの語るヒトコワ体験なるものを視聴した。心霊等のオカルトではなく、生身の人間から得た恐怖エピソードを語る趣旨だ。

氏はアフリカ・シオラレオネにてとある廃墟とも思える建造物を訪問した。その際、案内してくれた現地のコーディネーターから、この場所が損傷している理由やコーディネーター自身の経験を語られることになる。
詳しくは当該の動画をみていただきたいけれど、
せいじ氏の「人間て、自分の中の重く黒いものを吐露しないと生きていけないと思うねん」という言葉が、耳に眼に残った。

読後に偶然視聴した動画だったが、ふたつがリンクした。自分の命、抗えない状況、極限の中で得た、黒い経験、黒いくさび。

それを独り抱えること、弔い続けることが贖いか。
また引き継がれる者にとってこれはどう影響するか。

しかしネガティブな、もやもやしたものとしてであっても、吐露し引き継ぐことには意味があると私は感じる。
それを受けた後では、二度と聴く前の人物に戻ることは出来ない、それでも。いや、だからこそ。
でなければ「それ」は、ずるずると繰り返されてしまうだろうから。


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01:20 千原せいじ/アフリカの話


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