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ピュシスの魅力を伝えるロゴスの筆力――『生命海流』。

コロナ禍による得体のしれない閉塞感。人に会えない、旅行に行けない。行動を制限されるとこれほど人間とは脆いものなのか。この閉塞感の正体はなんなんだろう。本書『生命海流』を読んで、その正体が見えたような気がする。そうだ、ピュシスの体験に飢えているのだ。

本書を一言で言えば、生物学者である福岡伸一さんによるガラパゴス紀行である。チャールズ・ダーウィンが訪れ、彼の進化論のきっかけとなったと言われる孤高の島々。誰しも興味のある場所だが、とりわけ生物学者なら一度は訪れてみたいであろう。そんな聖地巡礼のような旅を福岡さんが実現された。時は2020年3月上旬。コロナが世界を席巻する直前だったという幸運もありこの旅は実現し、同時にこの本も誕生したことになる。

もちろんただの観光旅行ではない。船をチャーターし、現地のネイチャーガイドと通訳もつけ、フォトグラファーと共に約1週間に渡りガラパゴス諸島を回る。しかも順路はかつてビーグル号でダーウィンが訪れたコースをトレースしながら回るのだ。

同じ光景でも、著者でしか表現できないもの

航海記である本書は、まずこの旅が実現した経緯から始まるが、それがなんと約70頁におよぶ。全体で250頁強の本なので、前半の4分の1以上を読み進めても、まだ旅は始まらない。著者にとってガラパゴスはどういう場所なのか。その憧れの地を訪れる機会はこれまで何度かニアミスがあった。そんな中で、思いもよらない出会いから今回の旅は実現する。読者はこの経緯を延々と読まされるのだが、旅行記はすでに始まっていると言ってもいい。なぜなら、本書はガラパゴスを知れることに意味があるのではなく、著者である福岡さんがガラパゴスをどう見たかに価値があるからだ。生物学者であり、あれだけの筆力のある人が描くガラパゴスの世界。初めて『生物と無生物のあいだ』を読んだ時、まるで小説家のような綺麗に流れる文章に驚いたのを忘れない。

本書を読んで著者が羨ましいと心底思った。それは取材という名目で船をチャーターしたような待遇ではない。著者がガラパゴスで見たことを意味づけする莫大の知識と感性を持っていることにだ。
例えば、ヨウガントカゲと遭遇したシーンを次のように書いている。

小石のあいだからは絶えずヨウガントカゲがチョロチョロ見え隠れしている。ヨウガントカゲは体長10センチほどの小型のトカゲだ。かわいらしい。なぜか小石の上など、見晴らしの良いところに乗っかって、あたりをキョロキョロしている。だから私の目にもよく止まる。どれもよく太っており、餌には不自由はないようだ。(P.144)

描写が絶妙なだけでなく、トカゲの体躯を観察し「餌には不自由がないようだ」というこのトカゲの過ごす生態にまで想像力が働く。何気ない一言だが、そこにはこれまでの観察の量が膨大でっることが裏づけされている。

イサベラ島に上陸した際には次のように書かれている。

あたりは一面、ひび割れた褐色の岩盤だった。歩きにくい。ぐらつく浮き石も多い。ところどころには、大きなクレパスのような割れ目が口を開けているので注意が必要だ。目の前のシエラ・ネグラ火山もしくはセロ・アスール火山の噴火によって流れ出した溶岩が固まってできたものだ。溶岩の流れそのままの形を残したバウムクーヘン状の褶曲(しゅうきょく)曲線があちこちにある。(p.155)

ガラパゴスを象徴するような海岸沿いの無骨な風景を、読者の目に映るように描く筆力にもため息が出る。仮に同じ旅で同じ光景を見たとしても、このような気づきや表現ができるわけではない。

なぜガラパゴスの動物は人間を恐れないのか

本書には多くの動物も登場する。リクガメ、イグアナ、アシカなど。それも頭に「ガラパゴス」とつく名前だ。それらの動物がことごとく人間を恐れないことに著者は驚く。そればかりか、あたかも人に興味があるように人懐っこく接近してくるという。本書で描かれいている威風堂々としたゾウガメの佇まいや好奇心の塊のようなアシカの行動は、野生動物という印象をはるかに超える。なぜガラパゴスの動物は人間を恐れないのか。それは人との関わりのない生態系に生きてきたので、人間の怖さを知らないからなのか。そんな一般論に対し、著者は1週間のガラパゴス探検を通じて、「余裕があるから」という仮説を立てる。

「ガラパゴス化」という言葉が代表するように、ガラパゴスは進化の止まった場所と思われがちである。著者はむしろこの地を「新世界」だと言う。それは海底火山の噴火によって突然できあがった新天地であり、そこにたどり着いた生命体がいまなお進化を続けているからだ。ここにたどり着き、そしてこの環境に適した生命はわずかだったこともあり、生存環境としては「がらがら」なのがガラパゴスである。奪い合う、競い合う環境下ではなく、生命が本来もっていた側面を伸び伸びと表している。そこに余裕や遊びがあるのではないかと著者は述べる。

人間でも出会ったことのない生命体に出会うと、それがどれだけ小さな相手であっても、まずは警戒するのではないだろうか。いまや生態系の頂点に君臨する人間なのに、ガラパゴスの動物の方がはるかに自由ではないか。新しいものに警戒するのか、好奇心を持つか。僕らは、失いたくない何か、しかも生命の本質から離れた何かを抱え込みすぎているのではないだろうか。

ピュシスの不自由さ。それでもピュシスに飢えている

著者はこの旅のテーマとして「ピュシスとロゴス」と言う言葉を掲げている。ピュシスとは自然そのもののことであり、世界のそのままの様相を意味する。一方で、ロゴスは人間の脳が世界を切り取り、線分を引き、論理を抽出して、都合よく構築した、整った人工物のことである。その代表は言語であり、インターネットの世界もロゴスの世界と言える。
いまやあらゆる情報がウェブ上から得られることができる。対面でなくてもオンラインでの会議で仕事の多くが可能になった。だからこそ、コロナ禍でも多くのホワイトカラーは会社に行かなくても仕事ができ、欲しいものにすぐに自宅に届く、そんな便利な世界を生きている。しかし、これらは全てロゴスの世界である。「世界のそのまま」のピュシスの世界ではなく、切り取ってデジタルに置き換えた世界で日々、僕らは過ごしている。

旅行に行きたい。この欲求は、生のピュシスに触れたい欲求なのではない。ピュシスの世界は人間に最適化されていないので不自由は多い。しかし、それらを含め平坦な最適化された世界にはない、生の実感に満ちた世界。それがピュシスではないだろうか。

チャーター船とは言え、都会の生活に慣れた人間にとってこの旅行は相当困難があったようだ。船内トイレの話など、読んでいて五感でそのストレスが伝わってくる。自分だったらどこまで耐えることができるだろうか。そんな想像もしながらも、本書にはピュシスに触れる圧倒的な魅力が描かれている。しかも、それは言葉の力、ロゴスの力を伴って描かれているのだ。

最後に最も印象的だった箇所を引用させていただきたい。それは深夜に著者が、船上でひとり満天の星空を見上げていた時の話である。

星空を見上げながら、ピュシスの実相を感じた。
生きものはすべて、時期が来れば生まれ、季節がめぐれば交わり、そのときが至れば去る。
去ることによって次のものに場所を譲る。
なぜなら私もまた誰かに譲られた場所にいたのだから。
生と死。それは利他的なもの。
有限性。それは相補的なもの。
これが本来の生命のありかた。
ガラパゴスのすべてのいのちはこの原則にしたがって、今を生きている。
今だけを生きている。(P.148)



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