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今年読んだ2022年の新刊ベスト5

先日、今年読んだ2022年発行の「新書のベスト5」をブログに書いた。新書を豊富に読んだ一年だったが、単行本の中にもとても心に残る新刊がいくつもあった。

そこで今回は、今年読んだ「2022年の新刊ベスト5」を紹介したい。僕は小説はあまり読まないので、必然的にノンフィクションが中心である。選定基準は、とにかく読んで面白かったかどうかでジャンルは問わない。なお紹介順はランダムであり、順番はランキングではない。

語学書を超えた、学びの面白さを伝える冒険的ノンフィクション

最初に紹介するのは、辺境ノンフィクションライターの高野秀行さんの新刊『語学の天才まで1億光年』(集英社インターナショナル)である。

またまたふざけたタイトル。なんせ高野さんのモットーは「誰も行かないところに行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」である。これまでにアフリカの奥地に恐竜を探しに行ったり、南米やアジアの僻地などを訪れ現地の納豆を探したりなどやりたい放題。奇想天外な旅行記はどれも大好きだ。

そんな高野さんの新刊は、それら現地に訪れるに際にどのように言葉を学んだか、その学習記である。学んだ外国語は20を超えるという。それらは英語、中国語、フランス語などのメジャーな言語もあるが、むしろビルマ語、リンガラ語、シャン語、ワ語など極めてマイナーな言語が多い。教科書や辞書のない言葉は珍しくなく、中には文字を持たない言語もある。それらを現地で使いこなすレベルまでどう習得したのか。ここに高野さんの「冒険家」としての真骨頂が現れる。

高野さんの語学学習は記憶ではない。むしろ、構造がどうなっているかを「発見」するプロセスなのだ。言いたいことを現地の人に喋ってもらって、それらを一つひとつノートに書き込む。そして、それらが集まってくると自ずと文法や法則が見えてくるようになるという。これは効率が悪い学習法のではないかと思われがちだが、自分で見つけた法則は頭に叩き込まれるので、これが最適だと高野さんは言う。

まるで教わる勉強ではなく、自分で発見する学習なのだ。昨今、学校教育では「探究学習」の重要性が叫ばれているが、まさにその手本が高野さんではないか。さらに言うと、グローバル化された世界でイノベーションが求められる企業社会において、世界を相手に「誰もやらないことをやる」をモットーにする高野さんは、今や日本企業が求める人事要件を遥かに高いレベルで兼ね備えた人でもあるのだ。

この本は、高野さんのあの筆力もあり、とことん面白く読ませる。失敗談あり、奇跡の出会いあり、そしてまさかの展開の連続。そんな中で現地の人と仲良くしようと語学を学び続ける高野さんのその学習プロセスに、高野さんという人の魅力が凝縮されていると思う。ダイバーシティとかインクルージョンという前に高野さんの本を読むべきだ。

好きなことに正直な人はバカになれる

人の魅力という点で高野さんに匹敵するのは、『魚食え、コノヤロー!』(時事通信社)の著者、森田釣竿さんである。


森田さんは浦安でお魚屋さん「泉銀」を営む。そればかりか、ロックバンド「漁港」のヴォーカルでもある。そして、この書名からわかるように、魚の魅力の伝道師として様々な活動をされている人だ。書名とはい「魚食え、コノヤロー」と言ってしまう魚屋さんがいるだろうか?この物言いがまさに森田さんの個性であり、ロックの精神あふれる人だ。本書は、さかなクンとの対談から始まり、魚の魅力をとにかく伝えようとその一心で構成されている。美味しい魚の料理の仕方などもちろん参考になるが、それなら他の本でもいい。とにかく、森田さんの一人で多くの人に魚を食べてもらいたい、魚食文化を日本に残したいという思いに溢れているのだ。小細工なし。自分が好きなものを伝えるには、自分がどれだけ好きかを表現するのが最強である。その見本のようなのが本書であり、そこにロッカー的な反骨心が加わっていてそれがまたいい。

この本に感化され、浦安の森田さんのお店に通うようになった。お店での森田さんは本のイメージそのままの人で、置いてある魚がいかに美味しいかを熱く語ってくれる。素人の僕が「捌くのが好きなんです」と言うと「俺も一緒!!そうだよねー」と返してくれる、この対等に接する人への向き合い方。カリスマ的なオーラを纏いながら、目の前の人を好きにさせる人たらし。

ちなみに現在公開中の映画「浦安魚市場のこと」は2018年に幕を閉じた浦安の魚市場の軌跡を森田さんを中心に描いたドキュメンタリーである。この映画の中では、お店の店頭でプチ水族館を作ってみたり、地元のお祭りで会場中を動き回って歌う森田さんの姿が描かれている。魚の魅力を伝えるためには、どこまでもバカになるのだが、それでも消えてしまう人情味あふれる魚市場。それはまるで巨大な経済システムに丸腰で対抗しようとする勇者の姿そのものだ。

魚屋さんだから魚が好きで当然だろうが、それだけで説明がつかない。魚の魅力とともに、好きなことを突き詰める人の魅力が詰まった一冊なのである。

世界的巨匠と魂の触れ合いをした二人の日本人

人を惹きつけるのは、その人の魅力だけでなく、地位や名誉、あるいはお金であることも珍しくない。指揮者として、そして作曲家として世界的名声を得たレナード・バーンスタインには、あらゆる人が近寄ってきたであろう。世界はこれだけの成功者を放っておくはずがない。そんなバーンスタインの資料を調べていた著者は、見慣れる2人の日本人の名前を見つける。さらに調べてみると、この二人からの膨大な量の手紙がやりとりされていたのだ。紹介する3冊目、『親愛なるレニー』(吉原真里著、アルテスパブリッシング刊)はこの2人の日本人を通しバーンスタインの生涯とその時代を描いたものである。

一人は、カズコさん。幼少期は戦中パリで過ごし音楽を習っていたが、日本に戻り戦後は専業主婦となる。たまたままだ無名だったバースタインの音楽と言葉に魅了され、いわばファンレターを出したことから交流が続く。やがて世界的指揮者となるのだが、日本へ公演に訪れる際には面会して交流を温め合うと言う関係を築いていた。カズコさんは手紙で、あふれるバーンスタインへの思いと同時に彼の立場を想像し、その想いを選び抜いた言葉と表現で伝え続ける。もちろん多忙なバーンスタインもそれに応えるのだ。

もう一人、保険会社に勤務するクニさんは、バーンスタインが来日した際、たまたま知り合い、数日間、彼と一緒に過ごすこととなる。離日後も交流は続き、クニさんは有給休暇を使ってバーンスタインに会いにヨーロッパなどを巡る。クニさんの手紙はよりストレートに自分の純粋な気持ちを明かす。その言葉の純度たるや、感情と理性が高次元で交差するのだ。クニさんは、自分の気持ちに正直なだけでなく、バーンスタインへの想像力が深く、どこまでも彼を慮る。

僕はバーンスタインについて格別知っていることはなかったのだが、音楽の才能だけでなくそもそもの人間性で多くの人を魅了した人であることが本書からわかる。そしてカズコさんとクニさん!お二人とも、バーンスタインを単に著名な音楽家として見るのではなく、一人の人としてその魅力に感化されたのだ。きっとお二人とも、人をきちんと見る感性が育まれた人だったのだろう。そこで生まれた愛。そして、その愛情の表現方法がまた素晴らしい。自分の置かれている状況と折り合いをつけながらなおかつ自分に正直であったカズコさん。湧き上がる不思議な情熱の正体に真正面から向き合い、それを吐露しつつも相手に依存しないクニさん。純粋な情熱と理知的な思考のどちらも妥協しないお二人の姿が美しい。

この物語を実現させた著者の吉原さんは、お二人の手紙や数々の資料を読み込み、粘り強い探索と選び抜かれた言葉を紡ぐ。丹念に仕上げた作品としてただただ感銘を受けるのだ。

本書は篠田真貴子さんにお勧めいただき、何の予備知識もなく読んだ。人からの紹介は、自分の知らない扉を開けてくれる。偶然の出会いに本書は、今年の僕のハイライトとなった。

組織や集団への帰属意識は、人を凶暴にするのか?

これも人の紹介で知った本である。失礼ながら著者名も出版社の名前も初見だった。『暴力と紛争の“集団心理”』(縄田健悟著、ちとせプレス)という本だ。著者の縄田さんは社会心理学者であり、いわば「人はなぜ集団になると暴力的になるのか」をテーマにした本である。集団が個人の心理に与える影響は、僕自身大きな関心テーマでもあり、書名を見て、即購入したのが、これが読み応え十分なのだ。

本書の中で印象的だったのは、人が集団モードに入る動機が2つあるという話である。一つは、自分の属する集団や組織へのアイデンティティが引き起こす。これは、「組織のために」「チームのために」という動機につながり、また自分と組織を同一視することから生まれる。この同一視も、組織や社会の問題を自分ごとのように考えるという意味ではむしろいいことの方も多いのが、人を暴力的にさせることもあるとはなんとも皮肉である。

もう一つは、集団での評価に関わるものだ。自分の集団が何かの危機に陥ったり、他集団から脅かさされたりする時に、誰が立ち上がるか。ここで力を発揮しない人は「頼りない人」「弱虫」などのレッテルが貼られる。逆にここで頑張れば「さすが!」「頼りになる人」と信頼される。つまり、集団内で悪い評価をされたくない、いい評価を得たという心理から集団モードが発令されるというのだ。これはとても実感できる。仲間内でよく思われたいという欲求は、子供の頃もそうだし、今も捨てがたくどこかに潜んでいる。

本書を読むと、人はそれぞれ自立した存在といえどもなんとも脆いものだと感じる。奇しくも読み終えた頃、サッカーのワールドカップの開催された。W杯になると、日本戦後に渋谷で大騒ぎして街を汚す人も現れる一方で、現地で観戦しゴミを片付けて世界中から称賛される人もいる。同じ日本人で同じようにサッカーを愛する人が、なぜこんな真逆の行動になるのか。渋谷に集う人と現地で観戦する人との間に、人としての倫理観の違いや民度の違いがあるのか。むしろ、その場の力、その場で生じる集団の一員としての行動規範がいとも簡単に変わる結果ではないかと考える方が自然な気がする。

戦争という巨大な暴力もあれば、排斥的なヘイトスピーチもあれば、組織ぐるみの隠蔽工作、集団内のいじめ、そしてネットでの集団バッシングもある。これらに同じ原理が働いているのだ。もちろん集団心理は社会を前進させる働きもする。その上で、僕らはもっと集団心理が働くことに敏感にならなければならない。でないと、良かれと思って英雄気取りでの行動が、誰かを傷つける暴力性を生んでしまうのだ。

人を笑わせることにかける純情と狂気

お終わりよければ全てよし。つい最近読んだ本がとても刺激的で、いい年の瀬となりそうだと思ったものだ。最後にご紹介するのは、『笑い神』(中村計著、文藝春秋刊)である。

きっかけは、雑誌『Number』のM-1特集号で見た広告だった。脱線するかもしれないが、スポーツ誌『Number』が漫才の大会であるM-1を特集したことに拍手を送りたい。スポーツ観戦の魅力という文脈からM-1にたどり着く発想は慧眼そのものだ。

本書『笑い神』は、M-1 初期2001年から2010年にこの大会に挑んだ芸人さんたちの物語である。登場するのは、千鳥、ますだおかだ、フットボールアワー 、ブラックマヨネーズ、NON STYLEなどであり、主役は当然ながらこの10年、M-1で最も存在感を見せた笑い飯だ。

この本を読むと芸人の凄さが嫌というほど言語化できる。そもそも「人を笑わす」という仕事において、何を鍛えればスキルアップするのか、そのスペックがまるでわからない。滑舌よく話すことは必要条件だろうが、それで必ずしも「うける」訳ではない。同じ話でも、別の人が語れば受けないこともあるし、口調一つで面白くもなりつまらなくもなる。一流になるために、何をしたらいいいのかわからないのがこの世界の凄さではないだろうか。

さらに、お笑いほど過酷な世界はないと思う。仕事の評価がこれほどダイレクトに、その人本人の評価に結びつくものはないのでないだろうか。僕は書籍を作るが、著者は自分の書いた本が売れないと、あたかも自分が否定されたかのように感じる。自分の中から編み出した言葉が評価されなかったからだ。書籍や活字という媒介を通してでもこれほどダメージを受けるのだ。お笑い芸人の場合、目の前に笑を求める観客がいる。彼らは、知り合いでもないので容赦せず「お金を払って笑わせてもらう」ことを期待する人たちだ。なので、面白くないと反応しないだろう。これを目の前でされたら、人はどうなるだろう?ちょっとやそっとの勇気や覚悟では舞台に立てないのではないだろうか。本書でも、コントと漫才の違いが書かれていて、コントはうけなかった原因を役柄や設定のせいにすることができるが、漫才の場合、その逃げ道がないという。つまり全身を人前にさらけ出し、その場で烙印を押されるような心境ではないか。ある芸人さんは「自分のネタを人に見せるのて、肛門を見せるくらい恥ずかしいこと」と語ったと書かれている。

本書の中でよく出てくるのが、「受けるネタ」と「面白いネタ」の違いである。受けるとは観客の反応がいいネタであり、面白いとは、演じる芸人さんが面白いと思うネタである。劇場で漫才を繰り返すことで、客の反応がわかり受けるネタがわかってくる。それに調整していくとますます受けるようになるが、いつしか自分たちが面白いと思うネタから離れていく。そこで、自分たちは自分で面白いネタをやりたいのか、それとも受けるネタをやりたいのか。多くの芸人はこんな迷うで葛藤する。

ここで笑い飯がこの10年を駆け抜けた理由が浮かび上がってくる。お客に受けるかどう以前に、徹底して自分たちの「面白い」を突き詰める。だから彼らはお客の反応をまるで気にしないかのように、自分らが面白いと思った話を延々続けることができるのだろう。そこに、多くの芸人が憧れたようだ。ある芸人は、どれだけお客さんの前で受けても、笑い飯に笑ってもらえる方が嬉しいと語る。

どうやったら人を笑わせることができるのか、自分は何が面白いと思うのか。これらを考え続け、日々舞台に自らを晒すお笑い芸人。本書のサブタイトル「M-1 その純情と狂気」が全てを物語っている。


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