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「本」がなくならないと思う理由、そして進化の方向

出版社を離れて2年。編集の仕事も最小限に抑えるようにしてきた。それまでの30年はどっぷり出版業界に浸かっていたが、いまは少し距離をおいて見るようになってきた。

立ち位置は変わったが、本など活字を読む量は減っていない。ネットでこれほど情報が溢れる時代、紙の本の未来はどうなるか。出版社にいた頃から散々考えてきた。当時、客観性に欠けていたかもしれず、楽観的だったかもしれないが、本はなくなることはないと思っていた。そして主に読者として「本」と接するいま、その考えはより強いものになっている。本の未来は明るいと思っている。

なぜ本はネットで代替されにくいのか

本の特徴として以前は、時間軸が長く「残る媒体」という側面が強かった。しかし、いまや「本は残るもの」と言えない。絶版にする出版社も多いし、何より売れなかった本は残らない。ロングセラーとなっている一部の本が、売れ続けているから「残っている」のである。むしろ、ネット記事の方が「残る」可能性は圧倒的に高い。活字ベースのコンテンツの場合、サーバーに残しておくコストは限りなくゼロに近づいており、物質である「本」を倉庫や書店の店頭においておくコスト、それに流通コストを考えると、そのコストは比較にならない。

本がこれからもなくならないと思う理由は別のところにある。それは、作者の代表性を示すコンテンツだからである。

たとえば仮に、来週何かの分野で活躍されている人に会う機会があるとする。その場合、その人のことを事前に知ろうと様々な情報をインプットする。SNSをやっていればそれぞれチェックし、最近どのような活動をされているか、どのようなことに関心があるのかを探る。雑誌やオンラインの記事、あるいはイベントの登壇レポートがあれば、それらも読む。そして著書があればそれも読むだろう。

以前であれば、雑誌や書籍を見るだけですんだのが、情報が爆増している現在、SNSまで含めると、限りなくこのような人の情報は存在する。それら点在する情報をインプットするのは大変である。
こんな時、僕はその人の著書を読むことを最優先する。なぜなら、その人がさまざまなことを発信し、表現しているとしても、本が最もその人の思想、経験、表現、あるいは人となりを表していると思うからだ。

コンテンツを世に出す人にとっても、いまだ本は特別なもののようだ。ネットの記事や雑誌の記事以上に、自著の執筆にはより神経を使う。いつ誰に読まれるかもわからない。その特性はいまやネット記事の方が強くなっているにも関わらず、「本を書く」という行為は、多くの人にとって最も真摯に取り組む行動になるのではないか。ネット記事、雑誌記事、著書があれば、ほとんどの人がプロフィールに著書を優先的に書いているであろう。

久しぶりに現在、書籍の編集を手伝っている。書き下ろしの単著であり、ネットに毎週のように記事が出るような人が書かれているが、そんな方にとっても本は特別なもののようで、自分の知を全て出し切ろうとしているかのように時間を割き、調べて考え、表現を磨こうとされる。はたから見ていて、まさに寿命を削る作業だ。
書き手がこのような意識で書くからか、本がその人の思考の代表性があるからなのか。何れにしても、他の活字媒体との明確な違いがある。

なぜ、本にはその人を代表するものになりえるのか

では、なぜ本が、書き手の代表性を伴うものになっているのだろうか。

まずはいい意味でコストがかかることである。部数や頁数によっても変わるが、本を出版するコストは数百万円。印刷代、製本代、用紙代がかさんでくる。ましてや出版したからといって売れる保証はない。このようなリスクがある中、本の企画が決まるわけなので、出版社が精査したものが市場に並ぶことになる。必然的に変なものは出る可能性は低くなる。もちろん機会主義的に狙って出される本もあるのが、慎重な判断は、その軸を問わずどこかで行われている。

二つ目は文字量だ。ネットの記事は、2000字前後のものが多い。新聞の記事になると数百字のものもあり、雑誌の記事でも長いもので5000字ともなれば、立派なエッセイになる。それに対して、書籍は少なくとも7〜8万字、分厚い本になると20万字、30万字にもなる(上下巻で発売された『サピエンス全史』で大体35万字程度と思われる)。つまり圧倒的に本の文字数は多く、デジタルなどでも近似のものはない。文字数が多いことがいいという意味ではなく、特徴である。

なお、本は文字数が多いことから、本の原稿は、雑誌の記事のようなものより「薄めて書く」という言い方をする編集者がいるが、どうも賛同できない。丁寧にわかりやすく書くという意味では納得できるが、その人の思想をより深く掘り下げるから文字数が多くなるのが本質的な理由であり、むしろ著者の思想を凝縮するようなものだと思う。この記事は、約5000字だが2000字に収めようと思えばどこかを端折るが、仮に1万字書こうと思えば、さらに深く考えなけれならない。こういう延長に、本という媒体が成立する。

3つ目は、歴史を伴った権威からではないか。本は新聞や雑誌より歴史が古く、古典と言われるものに通じるからではないか。アダム・スミスの『国富論』、ダーウィンの『進化論』などと、書店の新刊台に置かれる最近の本とを並べるのはおこがましいが、そのような偉人の思想を表した系譜であることの恩恵は大きい。「本は残る」という神話も、これら古典的名著の存在から生まれた。時代を超えて読まれる魅力、そして人類が知を積み重ねてきた証しとしての「本」の存在感。それゆえの信頼感がいまも根づいている側面は見逃せない。

このような理由から本が著者の代表性を体現するメディアになっていると思われる。そして、いまのところ、この代替になるものが見つからない。

本を代替するものは生まれるか

少し先を考えてみよう。本が持つ「書き手の思想の代表性」という性格は、違った形で担保されないであろうか。ようは、他の機能で補完できる仕組みがあれば、紙媒体でなくなってもその代表性という性質は残る。たとえば、アカデミックの世界では学術誌に論文が掲載されるプロセスが参考になる。同じ分野の研究者によるフェアなレビューを経るというプロセスが、掲載された論文に対する信頼性を担保している。論文の書き手も、自分の知的生産物として最高のものに仕上げようとする。本に関しても紙媒体でなくとも、この手のプロセスがあれば、別格の気合の入った書き物として存在し続けるだろう。

またスピーチの世界ではTedが参考になる。話し手にあのような最高の舞台を用意することが、良いコンテンツを引き出す装置として機能している。ノーベル賞受賞の記念スピーチもその機能を果たしている。大学の先生の退官記念講義は、専門外の人にとっても感動するものである。共通しているのは、二度とないライブという舞台である。このように書き手に「一丁、やってやろう」と思わせる舞台づくりができれば、代表性は生まれる仕組みができるかもしれない。

本の存在感は変わらないが、形は変わる

とは言え、本がいまのまま残るとも思っていない。基本的に今でもキンドルなどで普通に読んでいる人は多いし、その傾向に変わりはない。それでは紙の本は、どのように進化するだろうか。いくつか考えられる。

1つ目は点数が減っていくだろう。その傾向はすでに始まっている。戦後から右肩上がりに増加した書籍の出版点数は、2013年に8万2589点をピークに下がり続け、2016年は7万8133点で、2017年は7万5412点(総務省統計局データ)。今後はもっと減ってもおかしくない。ウェブで調べたらわかるようなTipsを集めたような本など、その優位性は失っていく。「すぐにわかる」的な本もどうなんだろう。

そもそも著者の思想の代表性という特徴から考えると、今現在、本というメディアにしなくてもいいと思えるコンテンツのものが書店に並んでいる例が多いと思う。書き手にとっての「作品」と言えるものかどうかだ。

2つ目は価格が高くなると思われる。これは紙が相対的に希少なものになるからだ。これだけスマホなど電子媒体で情報を読める時代になると、「紙に印刷して読む」という行為が相対的に贅沢なものになる。読み終わって捨てられるようであれば、わざわざ紙に刷るのは資源の無駄遣いの何物でもない。多くのコンテンツが電子化され、その中の一部が「紙」に刷られるのではないか。

そのため電子書籍と紙の本の値段の差は、今以上に開いてもおかしくない。電子で読んだら1500円。それを自ら「物理的なもの」として所有したい。そうした欲求に応えるのが「紙の本」の役割に変わるとすれば、造本などのデザインも見直され、家に置かれ愛好者が「おいて置きたい」と思わせる造本に根本的に変わるだろう。今の紙の本のデザインは、書店で目立つことが重視されるが、これからは店頭効果ではなく、インテリアとして、そして好きな人の所有欲を満たす「質感」まで組み込んだデザインになる。逆にいうとそれだけのコストをかけた造本ができるということでもあり、3000円、4000円という価格になっても不思議ではない。事実、愛読書であれば1500円は安すぎる。少し豪華にしてもらってそれらの値段でも十分、所有欲を満たす質感が重視されると思う。

本はシェアされる時代に

最後に、本はシェアされるものになると予想される。今でも古本市場はあるが、よりダイナミックに古本が流通するのではないだろうか。

僕はある時期から読んだ本を手元に置くことを諦めた。10年ほど前、引越しを機会に1000冊並べられる書棚を作ったにも関わらず、お気に入りの本を全て並べられなかったことに唖然とした。以来、手元に残すことを断念し、読んだ本は人にあげたり、古本屋に持って行ったりしている。自分で編集した本でさえ、売れなくて著者に申し訳なかったと思うもの以外、手元にない。読んでよかった本もすぐに売り、再び読みたくなったらまた買う。なので、同じ本を4回買ったこともある。

最近、メルカリで本を売ることが多いのだが、これが新鮮な経験である。送る手間はあるのだが、比較的高く売れる。1500円の新刊だったら、1200円でも売れる。そして気がついたのだが、自分が気に入った本ほど売れると嬉しい。なんだか自分の価値観を認めてくれたような心境になるのだ。

このメルカリ体験から思ったのだが、本のリユース市場はもっと発展するのではないか。先に価格が高くなると書いた。従来の1500円の本が3000円になってもおかしくないと。その3000円の本はリユース市場で2500円で売られることになる。売った人は500円で読めたことになる(実際はプラットフォームの手数料、そして送料もあるが)。2500円で買った人は2000円で売る。そうして、最後は100円で取引されるかもしれない。この市場が育てば、本の価格が上がっても学生などでも買える機会が残る。

このようなリユースの市場に、著者や出版社に対価が回る仕組みが整うことが、これが機能する条件かもしれない。所有者が変わる情報が電子的に記録されれば、「自分が買った本のかつての所有者が村上春樹さんだった」なんてことでテンションが上がることもある。子供の頃の学校の図書館で、それまでに借りた人の名前と時期がわかる仕組みと同じだ。

最大のメリットは、紙資源の無駄がないこと。「5000部しか刷っていないけど10万部を超えたベストセラー!」という世界は魅力的ではないだろうか。そして、本当に自分にとってかけがえのない愛蔵書が自宅の本棚に並ぶ。

本を書き手が魂を込めてつくった「作品」だとみなせば、いまの価格は安すぎるし、モノとしての質感はもっと表現されてしかるべきだ。多くの人が安価に読むだけならデジタルが優れているが、著者の思考の代表性を示すメディアとして、まだ紙の力は絶大である。

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フリーランス/編集者。ダイヤモンド社にてビジネス書編集者、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集長などを歴任し2017年に独立。2018年3月からハノイに3か月在住し、6月よりラオスのビエンチャンに3か月滞在。現在は東京。

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コメント (2)
楽しく読ませていただきました。ぼくは本を読むときの空気感も買っているところがあります。向き合うというか、本を持って家でも外でも手にとると情報に物質感を感じるのと、情報の粒度がなんとなくデジタルと違う点として好きです(もちろんデジタルも好きです)
何を言っても、将来、本は無くなります。出版業界の人は紙媒体の神話みたいな物を信じているけど、時代の流れを変える事は無理ですよ。
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