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ひとりの好奇心が、多くの人を魅了するものを生み出す。――『四角六面』を読んで

以前、「麻婆豆腐を最初に作った人って偉大だな」と思ったことがある。挽肉と豆腐を一緒に炒めるという発想はどこから出てきたんだろう。今では、定番の料理として定着しているものだけに、それを「生み出した人」がいるとしたら、それはルンバやiPhone、あるいはウーバーなどのような製品やサービスと同じように偉大だと思う。生み出されたモノの偉大さは、それが社会の中で、当然のように存在しているその「当たり前度」によって測られるのではないか。

そんな偉大なモノの一つに、ルービック・キューブがある。1980年代に日本でも大流行したが、いまや世界中の7人に一人が遊んだ経験があるおもちゃだという。誰もが知っている当たり前のもの。それでいて、よくよく考えてみると、その開発者の存在について何も知らない。

『四角六面』はそのルービック・キューブの生みの親である、エルノー・ルービック氏による初の著書である。知り合いに紹介されて読んだのだが、久しぶりに興奮する面白さだった。

この本を読むアングルは2つある。一つは、ルービックキューブを開発したエルノー氏がどんな人でどんなきっかけでこのキューブを生み出しのか。そして、二つ目は、そのエルノー氏がルービックキューブとは一体何だと考えているのか、そしてどうしてここまで世界中で愛されたのか?である。このどちらもが興味深い。

著者は、元々学校の先生であり、数学やデザイン、建築などを専門にしていた。ルービック・キューブを生み出した動機も、新しいおもちゃを作ろうとか、人々を喜ばそうというものともは無縁だった。ただ単に、自分の頭にある幾何学の問題があり、それをどう表現しようかと考えていたら、立体のキューブになったそうだ。そのキューブは、遊ぶ目的でもなく、競うものでもなかったのだが、それが出来上がると無限の遊び方ができることに気づいたようだ。ちなみに、生みの親であるルービック氏もバラバラのルービックキューブ をきれいに色を揃えるのに最初は1ヶ月かかったという。

このキューブの誕生秘話の面白いところは、玩具業界の人でもなく、工業デザイナーでもなく、まったくのアマチュアがたまたまた生み出したものであるということだ。ひょっとしたらビギナーズラックなのかもしれないが、著者は、プロとアマチュアの違いを次のように言う。

プロは私情を排し、目的を動機とし、実績のある方法で明確な目標に向かわなければならない。一方、アマチュアはほぼ完全な自由を楽しむ。プロでは不可能なことだ。アマチュアは自由で独立していて開放的だ。(中略)アマチュアは好奇心と発見に没頭しやすい。

pp.55-56

つまりルービックキューブの成功は、開発者がアマチュアだったからだと著者本人は言う。しかし、著者はこのアマチュアであることの価値の尊さを限りなく信じている。

アマチュアが持つ絶対的な優位性、それは「遊び」である。著者は、キューブの開発を始め自分のアイデンティティになっているものは「遊び」だという。それは、ヨハン・ホイジンガのいう「ホモ・ルーデンス」であり、次のように記す。

大人のわたしたちは、遊びを単なる気晴らしや職場の外での形を変えた競争だと捉えるがちだ。しかし遊びは真剣な取り組みだ。わたしたちは遊び心を持って取り組んだ時だけ、すこぶる良い結果を出せることが多い。(中略)課題が重荷や試験でなく、自由に表現する機会となる。

p.31

素人が遊びとして取り組み生まれたのが、ルービックキューブなのだ。一方で、著者も遊び心を大人になっても持ち続けることの困難さは認めている。「大人になる頃には、のびのびと遊ぶ本能は消え、自分の行動を制約し定義するルールを欲するようだ」と語り、「競争や結果を出すことが遊びにとって変わられてしまう」という。

では遊び心を持ったプロになるのは不可能なのだろうか。金銭的価値を生み出すこと、期待される成果を出すこと、アマチュアには出せないクオリティを出すこと。これらプロに求められることを実現しようとする際、アマチュアとして持ちうる遊び心が果たしてどこまで機能するのか?これに対するエルノー氏のポジティブだ。彼はアマチュアとプロフェッショナルという言葉は矛盾しないと考える。望みうる最高の状態は、「永遠のアマチュアプロ」。カギは初めて達成したときの楽しい気持ちを忘れないことであり、常に新しい課題をアマチュアのような熱意と喜びを持って臨むことだという。そして、

逆説的に、プロの頂点にいる人は、仕事に無条件の心血を注ぐ点で、非常にアマチュアに近い。

p.55

という。僕はこの言葉が本書の中で一番好きかもしれない。

それにしてもルービックキューブというおもちゃは不思議である。年齢や性別を問わず、世界中の人に愛された。ルールは極めて単純で、六面の色を揃えること。立方体という形も、6色の色使いも、動き方もシンプル。隠れ技や秘密の扉があるわけではなく、情報は全てがオープンになっている。なのに、六面揃えるのは難しい。これだけ難しいのに、多くの人を引き付けているのである。

著者は、ルービックキューブが世界を席巻する様を、まさにその渦のど真ん中で見ていた人だ。この現象は予想もしなかったし、目指してもいなかった。なんせ、おもちゃを作ろうとしたわけでも、人を喜ばそうとしたわけでもなく、純粋は自分の頭にある概念をどう表現するかから生まれたものだからだ。その本人が解説する、ルービックキューブの特性が本書の2つ目のアングルとなるのだが、生み出した自分の功績に一言も触れず、あたかも「ルービックキューブ」という存在を身近にいた第三者の視点で描かれているのが面白い。

なぜこの6色の立方体がここまで多くの人を熱狂させたのか。詳細は本書に譲るとして、人はこのキューブを目の前にして、眠っていた好奇心や門会解決欲求が目覚めたようである。そこには多くの大会が開かれ、映画でも何度も登場し、雑誌の表紙を飾り、アート作品にも使われるようになった。バラバラの色が揃う達成感とともに、なかなか完成しない絶望感。それらを含め、なぜこのシンプルなルールのおもちゃに人が熱狂した。だが、これらは全て著者が意図したものではない。ルービックキューブが人歩きし、多くの人が様々な意図と意味を付け加えたのだ。

たった一人の人が生み出したものが、時代を超えて世界中に広がる。それが製作者の意図を超えて。ルービックキューブはまるで一冊のベストセラー本のような存在に思えてくる。著者の思考が書籍という形で世に出て、ベストセラーになる。すると、その本は著書の考えや存在を超えて社会の中で新たな生命を宿る。多くの人に読まれれば読まれるほど、本も著者の意図を超えるものである。

ルービックキューブは、消費者調査やユーザーニーズの把握などを経ないで生まれたものではない。なんせプロの仕事ではなく、エルノー氏個人の好奇心と遊びから生まれたのだから。それが多くの人を虜にしたという現象は偶然の賜物なのか。本書を読んで僕はそうは思えない。多くの人のニーズを知ることのでなく、自分一人の好奇心を突き詰めること。遊こと、熱中の渦の中に自分の身を置くこと。そんな一人の好奇心の結晶から、新しいものが生まれるのではないか。一人の「面白い」を突き詰め抽象化されたものは、かたちは違えど、多くの人の「面白い」と共感するのではないか。

本書には、キューブの仕組みに潜む抽象性と似たのもの感じる。数々の印象的な言葉も出てくるが、体系だっていない。本文は全6章、おそらく六面体にひっかけてのことだろう。ただし、全ての章にタイトルがない。数字だけだ。そして著者は「どこから読んでもいい」と書いているように、流れるストーリーもなければ構造もない。体系化されていないからと言って決して著者の考えが支離滅裂に読めるわけではない。むしろ僕自身、たくさんの刺激的な言葉と共に、著者の思考の世界観を十二分に味わうことができた。こういう掟破りの本を知ると、体系的に章立てを考えていく従来の本の作り方も、決して一つの型に過ぎないと思えてくる。人の思考とは、本来、「文字の流れ」というきれいな構造に収まるものではない。思考とはその断片を含め雑多なものであり、本で表現できることはむしろその一部であることを再認識させられた。人の知性とは、学びとは何か、問いとは何か、そして創造とは何か。知的生物体として人間の本質に関わるような言葉に埋め尽くされた本である。


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