「人と人がつながる」ってなんだ?
学生の時に読んだ心理学者の文章に、「人間を『じんかん』と読む」と書いてあった。この方は心理学の中の人間関係が専門の研究分野であったこともあり、人を人と足らしめているのは「その関係性にある」というのが著者の主張であった。文章の細部を忘れてしまったが、この「じんかん」という表現はいまも僕の頭に残っている。
この表現は、インターネットが当たり前の世界になるにつれ、思い出すことが多くなった。「ネットでつながる」と言うように、人が人とつながる機会がネットの登場によって圧倒的に増えたからだ。
「つながる」とは乱暴な言い方に思える。人と人がとういう関係を築いたら「つながる」という状態なのか。定義は人それぞれかもしれないが、人と人の間には実にさまざまな関係が存在している。そもそも関係性とはお互いが一方的に抱くものなではなく、両者が同じような感覚を抱いたその公約数的な部分を指すものである。相手への愛情も、それがどれほど熱量を伴っていたとしても、片思いであれば関係性の深さは変わらない。
ネットの登場以来、「つながる」という言葉は以前より頻繁に使われているのではないだろうか。では人は果たしてどのような「つながり」を求めているのだろう。そして、ネットによって人と人とのつながりは深まったのであろうか。
この「つながり」の深さはいくつもの段階がある。大雑把に言うと、次の5段階の深度に分類できるのではないか。
人と人のつながりの5つの深度
つながりの深度1は、顔は知っているけど名前を知らない関係である。同じマンションに住む人とエレベータで会うと挨拶はするが、何階の何号室に住んでいる人かは知らない。よく行くカフェで働いている人と街で出会うと会釈する。そんな関係である。
これはとても薄いつながりだが、だからといって価値がないわけではない。僕は昨年3ヶ月ベトナムのハノイに住んでいたが、近所を歩いていると、よく行く食堂のおじさんや売店のおばちゃんが手を振ってくれた。基本的にハノイには知り合いがいなかったので、自分のことを認識してくれる人がいることを感じられるだけで、満たされるものがあった。
深度2は、お互いに顔と名前を知っているだけの関係である。学校の時の同級生でお互いに名前と顔は知っているが、ちゃんと話したことはない。直接のやり取りはないが、共通の友達もいてなんとなく知っている。あるいは同じ会社の同僚で名前と顔は知っているけど、仕事で直接のつながりはなく、休日出くわしても会釈するか、見て見ぬふりをするか。そんな間柄である。
こういう関係もそれなりに面白いもので、もしこんな関係の人と海外の空港でばったり会ったとしたら、それはお互いその偶然を楽しんで会話は弾むであろう。
深度3は、顔も名前も知っていて同じグループに所属し普通に会話する関係である。クラスの同級生、あるいは同じ部署の同僚である。同じ組織の一員として、呑み会や会議では同じ場所と時間を共有する。お互いに得意なことや不得手なこと、癖や話し方も知っている。だからといって特に親しい訳ではないので、二人だけで会ったり、休みの日に会ったりはしない。あくまで同じグループに属するメンバー同士としての関係である。
おそらく、多くの人はこの深度の知り合いが一番多いのではないだろうか。「知り合い」ではあるが、友達と呼ぶかどうかはその人次第。社会的な関係性があるが、かといって個人的な関係があるというと人ぞれぞれの次元である。
深度4は、社会的な関係を超えたお互いが個人としての関係を築いたい間柄である。「個人的に親しい」という関係に近く、自主的に会ったりコミュニケーションを取り合う関係ができている。ある雑誌の編集長はフェイスブックでの友達について「一緒にご飯を食べたことのある人」と話していた。この区分けもこの次元に近いかもしれない。
最後の深度5は、気のおけない関係であろう。それを親友と呼ぶ人もいる。多くの友達の中でも掛け替えのない間柄であり、お互いの家に招き合ったり、言葉遣いも気を使わない。言葉にしなくても、お互いが深くつながっていることを認識していて、それが揺るがないであろうこともお互いが感じている。幼馴染であったり、中高の同級生であったり、同じ趣味の仲間であることもあるし、仕事を通した仕事を超えた関係かもしれない。とにかく理由はわからなくても気が合う。仲がいい。とても強い絆である。
人はどの深さでつながりたいのか?
人が「人とのつながり」を求める場合、どの深さのつながりを求めるのであろうか。
このように分類してみると、つながりの深さは、信頼関係の深さではないか。
深度2は意外と厄介なレベルかもしれない。知り合いのようで知り合いでないような。お互いが認識し合っているとはいえ、そこに信頼関係があるのかどうかも定かでなく、また確認する術もない。
深度3は、いわゆるコミュニティとしての関係性である。同じ組織やグループに属するアイデンティティを共有している。
こうやって考えてみると、つながりの深さとは信頼関係の深さではないか。
深度3までの「つながり」であれば、どこに顔を出すか、どこに属するかなど、行動レベルでその多くが満たせるような気がするが、それ以上「深く」つながるには、所属以上の個人としての信頼関係が生まれるかどうかだ。
例えば、一緒に仕事をし、強烈な体験を共有しあいことで関係は深まる。「戦友」と呼ばれるような間柄だ。困難な状況を逃げずに共にくぐり抜けた仲、同じ目標に向かって力を合わせたチームメート。ただ同じ場所と時間を共有するだけではなく、強烈な体験を共有することで生まれる関係性である。強烈な体験とは自分をさらけ出すプロセスを経る。それが関係の深さに起因するのではないだろうか。
2つ目は、価値観の確認し合った関係である。強烈な体験の共有はなくても、お互いの核のような部分を開示し、それを認め合った間柄。深く誰かと語り合う魅力はここにある。
僕はあるブログが好きでそれを書いた人に連絡をしたことがある。この方のブログは文体も素敵だったのだが、書かれている視点や感性がとても魅力的に移った。異性であり年齢も20代の人だったので最初は躊躇したが思い切って連絡して会うことができた。彼女も僕のブログを読んでいてくれていて、人となりを分かっていてくれたのが大きかったようだ。お会いした方は、育った場所も働いてきた環境も共通のものがなかったが、初めて会った距離感を感じさせなかった。お互いに感じたことや考えたことを共有した上での出会いは、つながりの基盤が出来上がっていたのだ。
強烈な経験を共有するか、価値観を確認しあうか。いずれにしろ、それによって信頼関係が生まれる。相手のどんな行動や言動も理解できるであろうという信頼感。その信頼感は、自分が何者であるかを開示することと、相手と正面から向き合う姿勢から生まれる。開示は、言動でもいいし行動であるならさらに説得力を増す。向き合い方は、よくも悪くも相手にすぐに伝わる。目の前の相手を個別の人として見ているかどうかである。
そう考えると、つながりを深めやすいのは、やはり一緒に過ごすことの多い相手ではないか。目の前にいる半径5メートルの人といかに深い関係を築けるか。目の前にいる相手と信頼関係を気づける人なら、ネットを使いこなすことでさらに多くの深い関係性を築くことができるのであろう。
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