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わざわざ自分で魚を捌く。それがどう面白いのか?

もともと無趣味で飽きっぽい性格なのですが、いま
「趣味はなんですか」と聞かれたら、
「魚を捌くことです」と答えるでしょう。
そう、最近、家で魚を捌くのにハマっています。

魚を捌くのは、はっきり言って面倒!

きっかけは新型コロナによる外出制限でした。家で料理をする機会が増え、その時間がとてもいい気分転換です。すると段々、料理も手の込んだことをやり始める。そんな中で魚料理を作るにも、切り身を買ってくるのではなく、丸ごと買ってきて捌いていたら、これが面白くなってきたのです。今は大体、週1のペースで魚を捌いています。 ちなみに捌き方はすべてYouTubeで見よう見まねで覚えました。

正直に言って、魚を捌くのは面倒です。実際に家で捌くと、鱗が飛んだりと台所が汚れるし、魚の匂いも部屋に広がります。後片付けも面倒です。冬は水が冷たい(笑)。しかも自分で捌いたからと言って、美味しいとは限りません。プロの魚屋さんが捌いたものは綺麗だし、実に美味しいです。なので切り身を買ってくればすみますし、仮に魚屋さんでまるものの魚を買っても、だいたい頼めば捌いてくれます。値段もまるものの魚も切り身も、ほとんど同じです。自分でやる実用的なメリットはほぼほぼありません。

それでも僕は魚を捌く。それは楽しいことがいくつもあるからです。

「魚を捌く」という行為は、日常に異次元の体験

まずクラフトワークとしての魅力です。

オフィスワーカーの仕事といえば、誰かとミーティングをするか、パソコンで作業するかがほとんどです。何かをつくる仕事だとしても、実際にやっているのはパスコンなどのデスクワーク。そんな日常で魚を捌くというのは、文字通り「手を動かす」作業です。頭だけで考えるのではなく、手を動かしながら考える。これが新鮮なんです。日常生活の中で、クラフトワークができる。それはあたかもプラモデルを作っている感覚に近いです。しかもそれが食事の用意に直結するので、遊びのようなクラフトワークが生活の必要なことにつながるので、一石二鳥です。

2つ目はプロの職人さんの凄さを実感できることです。捌くのは、慣れないとなかなか綺麗にできません。本来食べられる部分もうまく取り出せないし、切り口もブサイクです。何気なくスーパーで売っている切り身やお刺身も、店の裏にいる職人さんが捌いています。魚から切り身にするプロセスがいかに難しいか! 居酒屋で何げなく出てくるお刺身も、あんなに綺麗に切るのは、素人には相当困難です。こんなことは以前気づきませんでしたが、自分で捌くようになって、職人さんの偉大さを日々実感していいます。なのでカウンターの店に行くと、料理人の所作をガン見してます。

 3つ目の魅力は、生きる力を感じられることです。当たり前ですが、人間って生き物を食べて生きている。このことが、スーパーで食材を購入していると忘れがちになる。捌くという行為をしていると、この当たり前がリアリティを持って感じられます。切り身の魚は食べ物にしか見えません。しかし、丸ものの魚には目があり口がある。僕らと同じ生き物だったことが伝わってきます。そして、この魚はついさっきまで海の中を泳いでいた。生きようとして生きていた。そんな魚が人間の都合で捕獲され、命を絶って今ここに僕の目の前のまな板にいる。その生き物を「捌く」という行為を通して、自分たちの食べ物に変えるのです。この食べ物に変える技術とは、人間にとってプリミティブな技術であり、捌いていると、そんな根源的な「生きる力」が育まれている自分を感じるのです。

 4つ目は関心が広がることです。当然ながら魚を捌いていると食糧問題も考えさせられます。漁師さんが獲って市場で売られ、トラックで運ばれて近所の魚屋に並んで、そして我が家まできた一匹のお魚。多くの人の手がかかっていることは容易に想像できる。そんな海洋資源も脅かされている。漁獲量は減り、獲れる魚も違ってきたという課題に対する意識は、魚を捌き出してから鋭敏になっている。魚を切り身にするだけだと、捨てる部分がこんなに多いんだとも驚きます。アラと呼ばれる頭の部分、そして内臓や皮、そして骨やその周り。魚の種類にもよりますが、重さでいうと、半分くらいしか食べないで捨てているのではないでしょうか。生き物を殺しているのに、これではあまりに成仏させられないない。そんなことを考えつつ、時間のある時はアラや皮なども料理していますが、魚を捌くことを通して関心ごとが広がっているのは間違い無いです。

つまり、「魚を捌く」とは野性との接触!

 これは最近気づいたのですが、魚を捌く魅力を一言で言うと、自分の中にいある「野性」との接触です。都市で生活していると、「野性」という感覚とは無縁になります。人間の築いた社会とはそもそも、人が野性を発揮させない装置なのかもしれない。人間の根源的な欲求を満たすことがオブラートに包まれるのが社会。自然の欲求を暴露させることは、社会という規格化された中での生活。そんな日常において、魚を捌くというのは、異次元の野性的行為です。死んでいる魚とは言え、頭を切り落とす。内臓もえぐりだす。骨を断つ。血も出てくるし異臭も漂う。「地球に優しい」という言葉も嘘っぽく、人はお腹が空くと生き物を殺して引き裂くのです。それは野蛮でありグロテスクな行為でもあり、どこかエロスでもあります。それは食欲という欲求とダイレクトにつながった行為だからではないでしょうか。このグロテスクでもあり、エロくもある「捌く」ことをしていると、野性、つまり自分が人間であることを感じられるのです。

 空調の整った家にいて、ネットで動画をみる自分も、人間としての「野性」が眠っている。マンモスを追いかけていた先祖のDNAを受け継いでいることを実感するのです。キャンプにでもいかないと感じられない野性を、日常の台所で感じることができる。これが魚を捌く醍醐味です。大袈裟でしょうか?

では、自分で捌いた魚は美味しいか?はい、僕は美味しいです。厳密にいうと、味は分かりませんが、自分で捌いた達成感のある料理は格別です。お店で出てくるように綺麗な形をしていないくても、自分でやった「愛おしさ」が勝ります。どれだけ失敗しても食べられないということはないです。なので食材を無駄にする罪悪感はありません。うまくいかなくても、次はもっとこうしようという課題を見つけながら食べるのですが、これこそが日常の遊びかもしれません。鯵(アジ )などの小ぶりの魚だと100円程度で買えますし、捌く時間は慣れてなくても30分ほど。平日の仕事の息抜きにぴったりですし、休日の新しい遊びとして時間を忘れて没頭できます。

 少しでも興味を持たれた方は、まずは魚屋さんに行ってみてください!

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(昨年の今頃は出刃包丁1本だったのに、この一年でこんなに増えました。)

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