見えない人は世界をどう見ているのか

書評『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 著者の講演を聞く機会があり、それがあまりにも面白く、その勢いで買った本『目の見えない人は世界をどう見ていのるか』
 著者の伊藤亜紗さんの経緯からユニークです。生物大好き少女だった子どもの頃から、生物学者になった。当時から「自分が昆虫や他の動物だったら、どういう世界が見えるのだろう」という一貫した妄想の持ち主。大学で生物学を学ぶも細分化されすぎた学問領域に馴染めず文転。文学部で美学を学び学者となったいまも、「自分と異なる存在への想像力を啓発する」を研究の柱にしておられる。
 そんな著者が注目したのが、「目の見えない人」。視覚障害者と言い換えてもおおむね問題がない。人は視覚をつかって世界の8割から9割を認識していると言われる。その視覚をもたない人は、どのように世界を認識しているのか。これが本書のテーマだが、この切り口から本書は、知覚、多様性などへと話しが広がるから面白い。
 ある視覚障害者が、著者の勤務先である東京工業大学にやってきた。そう、「大岡山」である。この方は、駅から大学の研究室に向かう道を歩き「大岡山は、やっぱり山なんですね」と言ったという。駅から研究室までは緩やかな下り坂だそうで、目の見えない人は、歩きながらこういう気づきがあるのだ。言われてみれば、東工大のキャンパスから見ると大岡山の駅は山の頂のような場所になるのだ。
 著者は、本書で情報と意味の違いをモチーフにする。視覚障害者は健常者に比べ、視覚からの情報収取ができないため、得られる情報量は少なくなる。しかし、得ている「意味」としては、健常者と量の比較や優劣とは無関係に、まったく異なるもののだ。
 僕がこの同じ道を歩いたとしたら、違いことを感じていただろう。大学キャンパス独特の騒々しさ、理工系大学にある実験器具に目がいったり、道の広さを感じたり、女子学生の少なさを感じたり。同じ道を歩いても、人によってそこから得る「意味」はまったく異なるのである。
 まさに「情報」と「意味」は似て非なるのである。情報はコピーが容易で流布しやすいので、逆にコモディティである。「意味」はそれをつくりだす人によって無数に生まれる。クリエイティビティと言っても大袈裟ではないと思うが、つくりだされるものである。そして、同じ情報から異なる意味が生み出されるのであり、それは個々の人なのだ。
 多様性とは、人はそれぞれ個別の意味を生み出すという前提から話しを広げるべきではないだろうか。
 そして最後に本書を読みながら考えたのは、人工知能についてである。大量の情報をインプットすることに関して、人間はキカイにもはや敵わない。そして、それらを最適のタイミングで、最適の情報を瞬時に取り出すこともAIには敵わないだろう。こと情報の取り扱いにおいて、AIは人間に勝るのではないか。しかし、こと「意味」の扱いは人間の知性に関わる部分に思えてしょうがない。新しい意味の抽出から、異なる意味をつなげて新しい世界観とつくる構想力などである。つまり、人は得られた情報からどのような意味を見出すことができるか。これこそが、AI時代に問われる人間の知性であろう。
 この点、本書の構成も示唆的である。総論である序章から始まり、1章から5章までが各論となっている。その各論のタイトルが、「空間」「感覚」「運動」「言葉」そして最後が「ユーモア」である。このユーモアこそ、人間が生み出す知性の賜物ではないか。
 最後は本書のテーマから大きく外れた論評になってしまったが、本書は見えない人の世界観の紹介から、人それぞれの違い、そして知性とは何かを考えさせてくれる本である。

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