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就労面談と、引き続き地獄ではない場所の模索

就労支援の面談が始まったのだけど、その面談のおかげで実はかなり調子が悪い。

フリーランスの業務委託は就労への努力に含まれないらしく、
「スーパーのレジとか、アルバイトをやってみましょう」
と勧められて、かなりショックを受けている。
一旦ゼロになってしまった実績を新たに積んでいるところなので、それは加味してほしいし、できればフリーライターをメインの仕事として考えたい、と伝えてみたが、ケースワーカーはマスクの下で渋い表情だった。
「個人で業務委託するフリーライターは、仕事とは見なされないってことですか?」
と訊くと、渋い顔のまま曖昧にうなずいた。
「じゃあ、アルバイトは探したほうがいいんですね…」
「そうですね、区民感情を考慮して…」

区民感情。

なんだろう、それ。
誰のことだろう。
そんな曖昧な概念を考慮しながら生活する必要があるのなら、はじめから言っておいてほしい。

もっと端的に、2か月やってこの程度の数しか受注できてないのだから実績なんて言ってたら何年かかるか分からない、とでも言われたほうがまだマシだった(それでもショックは受けただろうけど)。


もう性風俗に戻ろうかな。

よく知った地獄のことを、役所を出てバスを待つ10分ほどの間で、懐かしく思い出していた。

もうこのまま潔く出戻って、60歳くらいまで頑張って風俗嬢やればいいんじゃないかな。

バスに乗ってからも、頭の中で性風俗に戻るために必要なものを、驚くくらい素早くリスト化し、それらを揃えるために必要なお金を計算していた。

脚が細く見える丈のフレアスカート
清潔な感じのスクエアネックのブラウス、カットソー
8センチくらいのヒールで歩きやすい靴
化粧品諸々
髪もまた伸ばそうかな

まるでピクニックの算段だ。
バスに揺られて夢中でそれを考えている間、不安はなにもなかった。
むしろわたしは安心していた。

もういいじゃん。
もう、戻ったらいいじゃん。
それが一番ラクだよ。
あんなことをもう言われたくない。
あんなことを言われてなお自分のしたいことを説明して理解してもらうような気力、わたしにはない。
さっさと働けというなら、自分が最大限に稼げる方法で働く。
それが若い世代に搾取と暴力を継承していくことで、女性への搾取に加担する行為で、自分を痛めつけることであっても、わたしには関係ない。
あの場所で穴として生きるのが、わたしには一番向いているんだ。

こんなことを福祉課の相談室で話そうものなら、治療を勧められるだろうし、そうでなくても分析的で「この反応にはどう対処しようか」という眼差しで見つめられるだろう。叱られるかもしれない。
そんなに戻りたいなら、もう戻ればいいんじゃない?と思われるかもしれない。だから言わない。

わたしの担当ケースワーカーも相談員も善良で仕事熱心なひと達だ。職業倫理に忠実で、朗らかで、思いやりがある。
でも当たり前だけど、なにもかもを分かってもらうことはできないので、こんなことは話さない。

そこまで考えて、こんな風に生き続ける人生に、意味なんてあるのかな?と思い至って、心の底からうんざりした。
もう全部、なにもかも、やめてしまえたらいいのに。


午後から少し仕事をした後noteを開いたら、まや川さんの記事がアップされているのに気づいた。

……
そしてまたトラウマは、人格の全体性を崩壊させ、その人を特定のパーツとしてしまう。この強制的で侵襲的なパーツ化によって、PTSDや複雑性PTSDとして概念化された症状が生じる。つまり、トラウマを受けたパーツが活性化した時、それはフラッシュバックなどの症状を発生させ、抑うつや不安などの陰性症状の継続的な発生源となり、解離症状として記憶や思考の断絶を生み、そしてそれに基づいた断片化された自己認識や対人関係のパターンを形成するのである。

いわば、トラウマによってわれわれは人間であることをやめ、単なる物体としてパーツとなった存在とされてしまうのである。


トラウマによる基本的価値観の変化

基本的人権と基本的信頼感がある人間であるならば、一切の理由なく、それだけで他者から尊重され生きることを肯定する根拠を持つことができる。しかし人間であることをやめてしまったのであれば、そのように考えることは不可能となる。物体として生きる方法を模索するために、基本的価値観を変化させなくてはならないのである。

物体として生きるためには、どうしたら良いか?ここにはいくつか典型的なパターンが存在すると考えられるが、その中の一つとして「物体化した自己の価値を最大化させること」を挙げることができる。すなわち、他者にとって自分が有益なモノとなることによって、生き残ろうとする試みである。つまり、自己の物体化を自ら推し進めることになるのである。

つまり、人間である時はそれを脅かす力学であった自己の物体化は、トラウマによって人間であることをやめてしまった人にとっては、正反対に自らを生存させる方向を指し示すものとなってしまうのである。

トラウマ体験によって人間としての基盤が喪失され、そしてそこで十分のケアを受けられなかった場合、生き残るために自己の物体化の力学に積極的に自ら参与してしまうということは珍しくない。これを最も顕著に指し示す例が、虐待や性被害のサバイバーがその後に性売買の当事者となってしまうことであろう。
……

まや川「トラウマの本質とは何か:自己の物体化と基本的価値観の変化」より引用

とても身近なことが書いてあった。


わたしは、直接自分に関わりのある誰にも、自分のトラウマについて知られたくない。可哀想とも思われたくないし、症例のひとつとして見られたくもないと思う。例外は同じような経験をした女性達だけだ。

本当なら根本的な治療に取り組んだほうがいいのだろうと思うけど、正直わたしは、社会活動家も治療者も支援者も福祉課のひと達も、心の底からは信用していない。
彼らはあの場でなにが起きたかを直接知ることはないけれど、知っているようにふるまう。それは職務のためであり、支援のためであり、社会正義のためだ。分かっている。それによってわたしが助けられた事実も歴然とある。
でも時々、その態度が耐えられない。
これは、ごく個人的な怨嗟だ。
なにも知らないくせに。
という、ただの逆恨みだ。

noteに書くことができるのは、実在のわたしを知るひとがいないからだ。
わたしは誰にも自分を知られたくないし、触らないでほしい。
二度と肉の穴として扱われたくない。
けれど、この先社会の中で生き続けなければならなくて、そのために経済活動が必要で、もっとも効率的かつ余計な世話を焼かれず生きたいのなら、やはり性風俗に戻るのが一番手っ取り早いのかもしれないと思う。

わたしには関係ないと書いたが、少なくともわたしにはまだ性風俗・性売買への憎悪があり、社会正義への希求がある。
この世に生きる女性の誰にも性風俗・性売買に搾取されてほしくない。それはわたし自身を含めたすべての女性だ。
性風俗業者も、管理売春者も、買春者も、性売買を見て見ぬふりする公権力も、みんなこの世から消え去ってほしいと思っている。
だから、こんな愚痴を吐き散らしていても、性風俗に戻ることはない。少なくとも、今のところは。

でも、自分がどこに行けばいいのか分からない。
どうしたらいいのか、全然分からないのだ。



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