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295 ベレンコ中尉亡命事件のwikipediaが凄まじすぎる

小谷けんさんの「日本インテリジェンス史」に載っていたベレンコ中尉亡命事件。調べてみると面白い事件だ。

ベレンコ中尉亡命事件

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ベレンコ中尉亡命事件

ベレンコ中尉が亡命に使ったMiG-25P(同型機)

場所北海道函館空港日付1976年昭和51年)9月6日概要領空侵犯 強行着陸 亡命事件犯人ヴィクトル・ベレンコ動機亡命対処北海道警察が現場を封鎖し、ベレンコの身柄を確保。テンプレートを表示

ベレンコ中尉亡命事件(ベレンコちゅういぼうめいじけん)は、冷戦時代の1976年9月6日ソビエト連邦軍現役将校ヴィクトル・ベレンコが、MiG-25(ミグ25)迎撃戦闘機日本函館空港に強行着陸し、亡命を求めた事件である[1]ミグ25事件とも呼ばれる[1]

経緯[編集]

ミグ25の本土侵入[編集]

航空自衛隊のF-4EJ

1976年9月6日ソ連防空軍所属のMiG-25戦闘機数機がチュグエフカ基地から訓練目的で離陸。そのうちヴィクトル・ベレンコ防空軍中尉が操縦する1機が演習空域に向かう途中で突如コースを外れ急激に飛行高度を下げた。

これを日本レーダーサイトが午後1時10分頃に捉え、領空侵犯の恐れがあるとして、航空自衛隊千歳基地F-4EJが午後1時20分頃にスクランブル発進した[1]

空自は、地上のレーダーと空中のF-4EJの双方で日本へ向かってくるMiG-25を捜索した。しかし、地上のレーダーサイトのレーダーは航空機の超低空飛行には対応できず[注釈 1]、また、F-4EJのレーダーは地表面におけるレーダー波の反射による擾乱に弱く、低空目標を探す能力(ルックダウン能力)が低かった。

F-4戦闘機に付与されたルックダウン能力は、実用に供された戦闘機においては史上初めての試みであり、当時の先進国で一般的に運用されていた戦闘機の技術的な限界であった。それを上回るルックダウン能力を備えるF-14/F-15は当時の最新鋭機であり、開発したアメリカ空軍でも実戦配備が開始された直後で、日本の航空自衛隊にはまだF-15が導入されていなかった。

強行着陸[編集]

函館空港

MiG-25航空自衛隊から発見されないまま北海道函館空港に接近、市街上空を3度旋回したあと午後1時50分頃に滑走路に強行着陸した[1]。このとき着地点を誤って滑走路の中程寄りに接地したために、ドラッグ・シュートを使用したにもかかわらずオーバーランし、前輪をパンクさせて滑走路先の草地にあるILSローカライザーアンテナの手前で停止した。燃料は約30秒分しか残っていなかったという。

着陸時の一部始終は空港敷地内で工事をしていた現場監督が撮影していた。監督は撮影しながら機体に近づいたが、ベレンコ中尉が銃を取り出して空に向けて威嚇発砲[2]したため危険を感じてフィルムを差し出した。のちにベレンコ中尉は、抵抗の意思がないことを示すためだったと証言している。また、当時学生だった航空機ファンの地元民が低空で飛ぶソ連機に気づき、授業を抜け出し滑走路のフェンスを潜り抜け近づいたのが最初の接触だとの証言もあり、こちらも空中への威嚇発砲を受けたという。

警察と自衛隊間の混乱[編集]

MiG-25の着陸後、空港の航空管制官自衛隊にミグの着陸を通報したものの警察に電話するように言われ、警察に電話したところ今度は自衛隊に連絡するように言われてしまう。これを受けて航空管制官がとにかく早く来るように警察に伝えたところ、着陸から20分が経過した午後2時10分頃にようやく北海道警察の警官隊が到着した。その後函館空港周辺は、北海道警察によって完全封鎖された。

「領空侵犯は防衛に関わる事項であるが、日本国内の空港に着陸した場合は警察の管轄に移る」という主張から警察によって封鎖された現場から、陸上自衛隊員は管轄権を盾に締め出され、情報収集の為航空自衛隊千歳基地から来た隊員も函館空港事務所に行くものの門前払いされた[3]

アメリカへの亡命[編集]

6日当日の北海道警察による任意取り調べに、ベレンコ中尉はアメリカ合衆国への亡命を要望[1]し、併せて「当初千歳空港を目指したが、千歳空港の周辺は曇っていたため断念し函館空港に着陸した」と供述した。

ソ連側は当日中にベレンコとの面会と身柄・機体の早期引き渡しを要求したが、翌7日に身柄は東京に移送され、8日にはアメリカが亡命受け入れを通告[1]防衛庁の事情聴収を経て、9日にはソ連大使館員がベレンコに面会し、意思確認をするとともに翻意を促したが果たせず、9日中にベレンコは東京国際空港からノースウェスト航空の定期便でアメリカに向かい出国する。10日には法務省から防衛庁に機体の管轄が移される。

自衛隊の非常態勢[編集]

時代背景的には、米ソデタント崩壊の直前という時期にあたる。緊張は緩和されていたとはいえ、相手陣営の軍用機が領空を侵犯し、また高度な機密情報を抱えたその機体を確保したことは、軽視できる事件ではなかった。また、ソ連軍特殊部隊など)が「機体を取り返しに来る」や「機密保全のため破壊しに来る」との噂が広まり[4]、函館に駐屯する北部方面隊第11師団隷下の第28普通科連隊は作戦準備にかかった。

実際にソビエト連邦外務省からは機体の即時返還要求があり、当時の最大野党である日本社会党もこれに同調したが、アメリカ軍航空自衛隊の協力のもとで、9月24日に外交慣例上認められている機体検査のためにMiG-25を分解し、アメリカ空軍ロッキードC-5Aギャラクシー大型輸送機に搭載して百里基地茨城県)に移送した。主翼を取り外され、ブルーシートでくるまれた状態で輸送機に積み込まれる機体には「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」と書かれた横断幕が貼り付けられていた[5]

移送の際には、ソ連軍による撃墜の可能性を考慮して、空自のF-4EJ戦闘機が函館から百里まで護衛に当たっている。機体検査の後、11月15日に機体はソ連に返還された。

事件終結後、日本国政府は対処に当たった陸自に対して、同事件に関する記録を全て破棄するよう指示したが、これに対し当時の陸上幕僚長三好秀男は自らの辞意をもって抗議した。

事件の影響[編集]

軍事面の対応[編集]

この事件はパイロットの亡命が目的であったことから幸い実害は生じなかったが、仮に侵略や攻撃が目的であった場合、同様に航空自衛隊の防空網を簡単に突破されてしまうおそれがあることが露呈した[1]。このため、日本レーダー網の脆弱性が批判され、日本の防空能力は必要最低限にすら達していないという声が上がった。この事件を契機に日本における防衛論議の流れに変化が生じ、それまでは予算が認められなかった早期警戒機E-2Cの導入もなされた。なお、航空自衛隊のF-4EJのうち、後に行われた近代化改修の対象機(F-4EJ改)は、レーダー換装によるルックダウン能力の改善が図られている。

一方のソビエト側は、レーダーサイトが敵機、味方機を識別するЯСС(Я - свой)暗号を変更せざるを得なかった。また、当事件の調査のためチュグエフカ空軍基地を訪れた委員会は、現地の生活条件の劣悪さに驚愕し、直ちに5階建ての官舎、学校、幼稚園などを建設することが決定された。この事件は、極東地域を始めとする国境部の空軍基地に駐屯しているパイロットの待遇改善の契機ともなった。

また、この事件によって低高度侵入の有効性と、ルックダウン能力の低い戦闘機の問題点が浮き彫りにされてしまったため、当のMiG-25自身を時代遅れにしてしまうという皮肉な結果を招いた。MiG-25は高高度・高速侵入する敵機の迎撃が主目的で、低高度侵入する敵機への対処能力は空自のF-4EJよりさらに劣るからである[注釈 2]。後にソ連は、大幅に改良したMiG-31戦闘機を開発することになる。

アメリカは、それまでMiG-25を超高速戦闘機として恐れており、それを意識する形もあってかF-15を開発していた。しかし、実際にはMiG-25はそれほどの脅威と呼ぶに値しなかったことが判明した。特にそれまで耐熱用のチタニウム合金製と考えられていた主翼や胴体にステンレス鋼板が多用されていたこと[6]真空管などを多用した電子機器が当時の水準としては著しく時代遅れなことに驚愕し、対ソ連軍事戦略にも大きな影響を及ぼした。しかし「真空管を使うのは時代遅れ」との説や「MiG-25をアメリカが脅威視していた」という説には異論もある。

詳細は「MiG-25 (航空機)」を参照

ソ連との二国間関係[編集]

1976年8月29日、色丹島沖合で漁船3隻がソ連側に拿捕、漁船員3人が約1か月間抑留された[7]。また、同年10月1日にはビザの写しが入国管理当局に届いていないという理由で、日本航空の乗員6人の入国が拒否された[8]

Mig-25をモデルとした商品[編集]

プラモデルメーカーの長谷川製作所は、折りしもMiG-25の1/72キットを販売した直後だったが、この事件以降売り上げが爆発的に増加した。このため、数年後に他のメーカーがガンプラなどのキャラクター商品に集中していた時期も、長谷川製作所だけが従来の軍用機シリーズの販売に傾倒していた[9]

亡命後のベレンコ[編集]

詳細は「ヴィクトル・ベレンコ#その後」を参照

関連作品[編集]

ドキュメンタリー[編集]

NHK特集 自衛隊は出動した 秘録・ミグ25事件』1981年放送。アナザーストーリーズ 運命の分岐点「ミグ25亡命事件の衝撃 ~米ソ冷戦 知られざる攻防~」(2022年11月18日初放送)で取り上げた。当時のニュースや「自衛隊は出動した 秘録・ミグ25事件」の映像、事件に関わった当時の自衛官やアメリカ政府関係者、辻仁成のインタビューから構成された[10]

小説[編集]

『クラウディ』物語冒頭、主人公の通う北海道函館西高等学校上空をベレンコ機乗のMiG-25がかすめていった。著者の辻仁成は、事件当時、実際に函館西高等学校に在学していた。『世界は幻なんかじゃない』辻仁成によるエッセイ集。ベレンコ中尉のインタビューを収録。ファイヤーフォックスソ連領内に侵入した米軍のパイロットが、ソ連空軍の最新鋭戦闘機「MiG-31 ファイヤーフォックス」を強奪する。作者のクレイグ・トーマスは、ベレンコ中尉亡命事件にヒントを得て本作を一気に書き上げ、1977年に出版されベストセラーとなった。1982年にはクリント・イーストウッド監督・主演で映画化された。

漫画・アニメ[編集]

FUTURE WAR 198X年事件後に制作されたアニメ映画。ソ連空軍のボリス中尉が、最新鋭戦闘機「ブラック・ドラゴン」で西ドイツの空軍基地に強行着陸して亡命。ソ連はスペツナズを送り込み、ボリス中尉を殺害。機体も爆破するが、これが原因でNATO軍とワルシャワ条約機構軍が全面衝突する。こちら葛飾区亀有公園前派出所単行本20巻収録のエピソード「真夜中のパイロット!」では、ソ連の少佐がMiG-25戦闘機で亀有公園前派出所に不時着し、日本への亡命を希望するものの、「日本はあなたが思っているほど自由な国じゃない」と言う秋本・カトリーヌ・麗子の助言により、結局はソ連へと帰っていく。また、単行本198巻収録のエピソード「わしらの秘密基地」において、飛行場に軍用機(隠密偵察機)が強行着陸。パイロットが亡命を希望するが、やはり亡命しないで帰国する。

ブラック・ジャック事件直後に描かれた第143話「空からきた子ども」は、ウラン連邦の空軍少佐と妻が、一人息子の難病をブラック・ジャックに診せるためVTOL戦闘機「レポール」で日本(ブラック・ジャックの家の前)に着陸する。作品が掲載された『週刊少年チャンピオン』の発売日は9月17日で、事件からわずか11日後だった。のちに『ブラック・ジャック 空からきた子ども』としてOVA化もなされている。『M25やくざ作戦』読み切り作品。『週刊少年マガジン』1976年11月14日号(46号)掲載(原作:史村翔、作画:梅本さちお[11]。ソ連からの亡命者が操縦する「M25」が北海道に着陸。ある自衛官が、ソ連が「M25」の奪還のために実力行使に出ることを危惧するが、政府は本気にしない。その後ソ連が艦船を出動させたことに本気を感じた自衛官は、義兄弟のヤクザの青年に協力を依頼。青年は大量の漁船によるソ連艦船の進路妨害を行うが、その間に米軍が日本を無視してM25を強奪。それに対しソ連は「M25」の機密保持のため北海道への核ミサイルの使用を通告する。青年は米軍の最新鋭機をパイロットごとハイジャックしてソ連へ飛ばさせる。これにより米ソ間で両機の交換が行われるが、青年はシベリアで強制労働をすることとなる。


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 地上配備のレーダーは、地平線の影に隠れるような超低空飛行を行う航空機の捕捉は原理的に不可能であった。

  2. ^ F-4は初めてルックダウン能力を持った戦闘機であり、能力不足は当時の技術限界としてやむをえないものである。MiG-25は元よりルックダウン能力を持っていない。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g第4章 ミグ25事件”. 防衛白書昭和52年版. 防衛庁. 2021年10月17日閲覧。

  2. ^旧ソ連の戦闘機「ミグ」、函館空港強行着陸から40年 混乱と恐怖、不測の事態に教訓」『北海道新聞』、2016年9月7日。

  3. ^ 佐々淳行 『ポリティコ・ミリタリーのすすめ』都市出版、1994年、[要ページ番号]頁。ISBN 4-924831-11-5

  4. ^ 大小田八尋 2001, p. [要ページ番号].

  5. ^NHK放送史 ミグ25 函館に強行着陸”. NHK. 2021年9月6日閲覧。

  6. ^ 「ミグ25はスチール製 重さ、大型馬力でカバー」朝刊、13版、3面、『朝日新聞』、1976年9月21日。

  7. ^ 「ミグ後、初の釈放 坊主頭で三船員帰る」朝刊、13版、23面、『朝日新聞』、1976年10月2日。

  8. ^ 「「ビザの写しが未着」日航乗員の入国拒否」夕刊、3版、9面、『朝日新聞』、1976年10月2日。

  9. ^ 日本プラモデル工業組合 編 『日本プラモデル50年史 1958-2008』文藝春秋社、2008年。ISBN 9784160080638

  10. ^「ミグ25亡命事件の衝撃 ~米ソ冷戦 知られざる攻防~」 - アナザーストーリーズ 運命の分岐点 - NHK”. 2022年11月23日閲覧。

  11. ^M25やくざ作戦 - メディア芸術データベース”. mediaarts-db.bunka.go.jp. 2022年12月15日閲覧。

参考文献[編集]

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