【メモ】それで、誰がつけを払うんだ?

※久々のメモ書きである。つまりこの前書きを書くのも久々であるからしてこの記事はメモ書きであり、断りなく記事を撤回したり翻心したり無かったことにしたり、あるいはちゃんとした記事に書き直したり、はたまた何もしなかったりするということをあらかじめ申し上げておく。あしからず。

信仰の話をしよう。一体人間というものは何かしらの信仰に加入しなければ生存を維持するのが極めて難しい生き物だという事実について今更事細かく申し上げる必要もあるまい。つまり我らは否が応でも生きなければならないやむに已まれぬ乗っ匹ならぬ事情に縛り付けられることによってのみ生存などという不可解で面倒くさい営みを続けることができる。でなければどうしてこれほどまでに広範囲、同時代において「死後救済」などという発想がまかり通るであろう。我々は善く生きた結果死後救済されるのではなく、死後救済されるために善く生きるのである。何故か。我々はある時点より獣の理を外れた(これも色々と並べ立てる向きもあるが私に言わせば一言、埋葬を始めたからに他ならない)その結果我々は単なる生存本能や生殖本能では説明がつかぬほどの繁栄を続けてきた。そしてその然るべき代償として一つの問いが絶えず浮上することとなった。宗教の話を始めると長くなるのでここらで割愛、要するに有史以来人類の歴史は「何故生きるのか」という問いへの答え探しの時間であり、そして言うまでもないがこの問いに答えなど最初から無い。よって最初に人類は匙を投げた、つまり「死んだ後になんか良いことがあるらしいよ」という口約束でお茶を濁すことにしたわけである。さて時は流れ、「なんのために生きるのか」という問いに対し人類が一生懸命頭を絞って考えた口約束も色々と変遷してきた。宗教、ナショナリズム、それが下火になると今度は「結婚」し「子供を育てる」こと(正確に言えば、それを何か「善いこと」「正しいこと」だと見做す向きだが、もちろん「家族」というのも「宗教」と同様に実態の存在しないものであり、家族を所謂「生き甲斐」として生きることは「家族制度」「家族という概念存在」への信仰に他ならないし、そしてそれを生存の口実として機能させてきたわけだ)がそれに代わってきたんだが、これもいい加減流行らなくなってきた。

ところが最近、そう、ほんのこの十数年ほどの話だ。最近、これに代わる新しい信仰が現れたかと思うと、これが瞬く間に世界中を席巻し、一躍同時代において最もメジャーな信仰へと成り上がった。実のところここまでの話は全部前置きであり全部読み飛ばしていただいて構わなくて、今回話したい事というのはこの最新鋭の信仰、「推し」についてである。この信仰は結婚もせず国家や共同体、仕事への帰属意識も低い人間でもソロで始められるという点が現代の個人主義人に人気を博し瞬く間に広まっていった。伝播の主力を担ったのは、そう。SNSである。この点でも時代の追い風があった。かくして我々はあくまで個人主義スタイルでの信仰体系、つまりQ何故生きるのか、に対抗的に機能するA推し、というのを手に入れた。諸君これは大いに喜ばしいことであろう。いずれにせよ、こういった類のものは何かしら必要なのだ。であれば君らの生存のために必須な「張り」となり、あるいは鬱病を治したり癌を治したりするらしいこの作用については大いに歓迎すべきであろう。ところでさっきこの「推し」信仰の伝播がSNSによって行われていると述べたが、SNSの性質について諸君はご存じだろうか。SNSというのは膨大な情報の奔流があるように見えてその実態は全て一対一の情報的つながりである。つまり自分と相手が情報的に線で結ばれているという端的事実が(無数に)あるに過ぎない。そしてこの線の結びつきによって生じた一定領域内の情報網、所謂「界隈」と呼ばれるコミュニティが生じ、そして情報はその「界隈」内部”だけ”で猛烈な勢いで行き来している(言うまでもないがSNSにおいて情報の流通はそれ自体が金銭の流通とほぼ同一である)というのがSNSの構造である。そしてこの性質を鑑みるに、私はこの「推し」信仰というものについて、これが重篤なカルティズムであることは指摘せざるを得ない。断っておくが私はカルティズムそれ自体については悪いだなんてこれっぽちも思っちゃいないしそんなことをここで言うつもりもない。ただ「推し」がカルトであることは明白であろう。一体ある事物、殊更に人物を「推す」行為それ自体によって精神的見返りを得ることを、否、ここではっきり言おう。そういった精神的作用を最初からあてにして作り上げられた価値体系を「カルティズム」と呼ばずして何と呼ぼう。

この10年でエンタメ筆頭に産業の大部分においてその収益機構が、ユーザーを囲い込んでのパトロン型へと転換されていった。しかもそれは旧来の意味での「patron」とは似て非なるものだ。「推し活」と呼ばれる行為において人々は時間と金銭、あるいは精神そのものを費やすことで「推し」に対する支払いをするのであるが、さてこれは何の支払いであるか。無論具体的成果物にではない。社会的(コミュニティ内での)地位や名声、立場でもない。であるならばこれらの支払いは支払者自身の精神的充足、つまりは「推し活をしている」という事実それ自体を得るためのものである。否、これももっと的確な言がある。彼らは「推し」を推しているという事象によって自らの在り様を規定するため、つまるところ「推し事」によって彼ら自身のアイデンティティを確立せんがためにこれらの支払いをするのである。となると必定、本当に質に入れられているものは果たして何かという問題にもどうやら答えが見えてくる。

例えば金銭的推し活として課金なるものがあるが、これと射幸心とを取り違えるのはとんだ藪のすることであって、これも結局は「推しに課金する」という事象を確立させることによって一つの確実なる答えを得んがためである、つまり何のために生存し、生活を営み、仕事に行って金を稼ぐのかの答えを。この答え無きまま無為に生存をただ続けるというのは多くの人間にとって慢性的苦痛である。だからこそこの種の課金は生活費(あるいは医療費と言ってもいいかもしれない)に組み込まれ、そして慢性的に続けられる。また鬱病者、元鬱病者、あるいはメンヘラがより金銭流動の激しい界隈に流れ着く理屈もこれで必然分かるであろう。あるいはこうも言われるであろうか、「支援は無理のない範囲で」それとも「推し事は自己責任」か。さてさて、これは幸い成る哉、終わりのない取り立てにどうやら猶予が生まれたらしい。ところでこの場合債務者は誰だろう。そう、債務者も彼ら自身だ。何度も言うが彼らの支払っている借金は品物の対価そのものではないし、むろん「推し」そのものの代金でもない(流石にそれはおぞましすぎるし、そう解釈するのも短絡的が過ぎる)。彼らはただ彼ら自身の生存の在り様、その意味付けとして「推し事」を自らに課しているに過ぎない。そしてその精神的作用――時間、金銭、あるいは彼ら自身の精神――その流通が金銭的価値を生むような仕組み、それが今我々が首までどっぷりと浸かっているカルティズムの絡繰である。となれば、支払いが滞ったとして、果たして困るのは誰だろうか。金銭的支払いについては流石にみんなデリケートになるが、時間的支払いに関しては相対的に軽んじられることが多く、精神的支払い――つまり、疲弊――に到っては全く省みられることがない。でなければどうしてあのような口にするのも汚らわしい言説が何やら格言のようにまかり通るであろうか(あまりに汚らわしいのでこの場でも言いたくないがつまり、時間・精神リソースの損耗を全く度外視した、甚だしく不愉快な言説である)話が逸れたな。さてさて、賢明なる諸君はこう仰られるかもしれない。つまり「依存するのがよくない」と。然して賢明なる諸君は最初の方の話をお忘れかも知れない。つまり――”何かしらの”信仰なくして我々はそもそも生存が困難であると!全く無為に生きるというのは多くの人間にとって困難である。では有為に生きよう――どうやって?さて、私の言ってることがそろそろ少し理解いただけたかもしれない。あるいは私が信仰という語を用いているのがかえって混乱を招くのか?よし、ではこう言い換えて見よう。「意味を与えるもの」だ。さあ、これでどうだろう。意味を委ねる――依存する――それを剥奪された場合、残るものは何か。そしてもう一つお尋ねしたい。これは信仰者の罪か、それともご本尊の罪か。

メモ書きのくせに話が長くなった。再度断わっておくが私は「推し」カルティズムそれ自体が悪いとも言わないし、これ以上に良い信仰体系を提案するわけでもない――そんなものがあったらその時こそ私がほんとうのカルティズム、正真正銘のカルティズムをお目にかけて差し上げよう!甚だ無責任ではあるが言いたいだけ言ってここらで筆を置くことにする。しかしその前にもう一つだけ、このカルティズムに於いて今のうちによく確認しておいたほうがいいことを申し上げる。それは次のようなことである。つまり――

いずれ来るべき時が来るのだがその時、地獄へ堕ちることになっているのは、果たして誰なのか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?