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徳島→スタンフォードで炎上している子から考える文化的盗用・自己責任論。あと消されたアマゾン長編レビューについてもなんとなく突っ込む。

社会的弱者の支援を携わっているものであるので、彼らの憤怒については理解できる。彼女の一番の罪は、弱者から弱者であるというアイデンティティさえも剥奪したことだ。強者が弱者という地位を盗用して、その利益をかすめ取るということに怒りを覚える。もともと私達のものだったのに、と。
アイヌ民族等以外で文化的盗用を我が国で声高に上げるのは、社会的弱者なのかもしれない。陽キャで超美人の彼女持ちのインフルエンサーが、「いや俺もアニメ見るから俺たち同類」というのを聞いて、嫌悪感を抱くオタクたちが文化的盗用について騒ぎ立てると想定していたが、金持ちが「ファッション貧乏」することによって生まれる軋轢が我々に文化的盗用の問題を思い起こさせるのではないだろうか。

彼女の「社会的弱者でもスタンフォード大学に行ける」という言説は、弱者側に「努力不足」や「自己責任」の風土を醸成しないだろうかという危惧もある。彼女の例を出して社会的弱者に努力不足のレッテルを貼るのは、偽りの前提で命題を数学的帰納法で証明するような無意味な行為だ。これが新自由主義者が望んだ世界なのか。施政者にはさぞ楽な世論だろう。

ザ・ブルーハーツが「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」と真理を歌ってそろそろ25年。一方で現在は、社会的弱者オークションでも呼ばれる、自分のほうが惨めな人生を送ってきたとインターネット上でさえずる者もいる。そして「より弱者ではない弱者」に対してその状況に耐えろと説教する。みんなが貧しくなれば、相対的貧困は減っていく。2012年に16.3%であった世帯の1人当たり可処分所得の中央値以下の子供は、13.5%まで2018年は減少。貧乏人、みんなでなれば怖くない。そして貧困は我々から希望さえも奪っていく。

持たざるものは、おおよそにして希望も持ち合わせていない。アマルティア・センが「不平等の再検討」で言っているように、無茶な希望を抱いて夢が敗れるよりもささやかな幸せを願うほうがよっぽどか合理的である、と論じているように、持たざるものは希望すらない。希望がないと、そこに行くまでの情報を手に入れようとすらしない。そういった「貧乏人の文化」を彼女は理解していなかった。さらに貧困は我々から知性さえも鈍らせる。サイエンス誌に掲載された研究によると、貧困状態は人の認識機能に影響を与え、正しい判断を下す能力を妨げるばかりかさらなる貧困を招く可能性があるという。

社会の批判者であるはずのマスメディアは何をしていたのだろうか。彼女の父親に注目せずに彼女の虚像に付き合った。メディアの劣化が叫ばれるが、裏取りをまったくしなかったか、資本主義に迎合し、耳目を集めるためだけに皆が求める「底辺から勝ち上がったシンデレラストーリー」形成の一助を担ったなんて真実を追い求めるメディアの風上にも置けない。

実体験から言って、彼女のような県下一の進学校ではなく、片田舎の普通の高校に通うと海外どころか国内のトップ大学にいくのも難しい。
2年時に文系と理系に分かれ、そして志望校別に分かれる。そこで文系クラスはほぼ英語と国語を勉強し、国立向けのクラスは生物・数学も勉強し、さらに世界史・日本史の中から一科目選ぶ。この時点で、地理歴史のうち二科目受験を課す東京大学の進学は難しくなる。
日本史・世界史は学習指導要領上、両方必修のハズだろとツッコミがあるでしょうが、公立高校の約8%、私立高校の約20%で単位不足が発覚しており私が高校生のときはそこまで珍しいことでもなかった。(現在は旧来の陋習となっていることでしょう。)
また受験勉強に関しても、論述問題などは先生側が対応したことがないので、論述問題の対策ができなかった苦い思い出がある。塾に行くお金もなかったので、ネットで対策しました。(つかはらの日本史工房は神。)
第4権力とも言われるエリート層で形成されるマスメディアは普通の高校の実態なんて知らないのか。

畢竟、18歳の思い上がった少女が悲劇のヒロインぶってるだけじゃん?とは思う。大学生、特に名門大学に合格した学生にありがちな万能感の亜種。自身の能力のみで大学に受かったと痛々しくも若さあふれる幻想に囚われたに過ぎない。スタンフォード大学はソーシャルイノベーションレビューを発刊している素晴らしいところ。ぜひ社会の不公平に取り組んでほしい。

○消えたアマゾンレビューに関して

消えたレビューに書いてあった「父がスタンフォード大学教員の招聘を毎年行うスタンフォード・ジャパンプログラムに尽力されている」ってのが事実だったら、もう本人のエッセイ技術などではなく、この部分で合格してるのでは?と思った。アメリカの大学なんてそんなもん。
「日本人留学生だから通りやすい」ってあんまりないと思う。同じアジア人同士で米国側はカウントしているし、なんなら米国にいる日系アジア人と日本人留学生が同じ競争フィールドにいる世界だし。
「日本人の中で地方色・不遇環境を猛烈にアピールする候補者も稀」は事実だろうけど、アジア人で不遇アピールは5万といるしなぁ。。。
「スタンフォード教育政策研究所が去年4月に発表した分析結果では、エッセーの得点高と家庭の裕福度は相関関係にあるので、経済的機会の平等を考慮するなら、今後エッセー審査にウェイトを置き過ぎないように警鐘を鳴らしていた。」とも書いてあるが、「スタンフォード教育政策研究所が去年4月に発表した分析結果では、エッセーの得点高と家庭の裕福度は相関関係にある」のと発表したの事実だが、「今後エッセー審査にウェイトを置き過ぎないように警鐘を鳴らしていた。」というように論文は読めなかった。というか元論文はかなりのクソ論文だった。エッセイを機械学習したらSATスコアが高い人は「人間の本質」「答えの探求」をテーマにつつ文章にaやtheが多く、低い人は「人間関係」をテーマにしてIやyouを使ってました。この傾向は、SATスコヤよりも家庭の裕福度により強い関連性があります。みたいなもので、エッセイの点数については何も書いてなかった。ジョン・ホプキンス大学の大学入試担当が、「富裕層はゴーストライティングしてるから、かっこいい文章になるだけ。」とこの研究結果をバッサリ切ってたのが印象的。

「松本さんはTwitterで、進学先大学のステータスが上がるような記事ばかり掲載しているように見える。」18歳の子供に求めすぎだろ、とは思う。ちょっと前の本屋は「日本が最高だ」という本ばかりならび、テレビ番組もそのような趣旨ばっかり。分別がつくはずの大人でさえ、日本=すごい、俺=日本人、俺=すごい。という感傷に浸るのだから、18歳の子供がスタンフォード大学=すごい、私=スタンフォード大学生、私=すごい。なんてやるのは当然のように思える。まだ18歳やぞ。

色々書いたけど、エリート大学生18歳ってこんなもんだよね笑

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