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札幌には【日本初】がいっぱい?!〜札幌解体新書vol.2「1時限目 都市計画・まちづくり」レポート〜

2021年6月10日/収録場所:EZOHUB SAPPORO/札幌解体新書vol.2 「1限目 都市・まちづくり編」
ライブ配信、同時視聴人数100名超え!本編は、動画をご覧ください!▶︎
https://www.facebook.com/watch/live/?v=472209247408255&ref=external

札幌のイマを解き明かす!?札幌解体新書とは?

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札幌の歴史を学んで、これからの再興戦略に繋げていく……!過去から現在を紐解き、未来の札幌への提言を探す、全12回の連続トークライブ企画です。

テーマは、「3度目の日本をつくる」???

令和という、新しい時代が始まりました。明治〜戦前、そして、戦後〜現在。

今こそ、新たな3度めの日本をつくる時代の幕開け!!!……という意気込みで北海道と札幌の未来を一緒に考えていきましょう!

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先生と生徒の紹介

・講師〜都市・まちづくり〜:小林 英嗣(こばやし ひでつぐ)北海道大学名誉教授/日本都市計画家協会・会長 /一般社団法人都市・地域共創研究所・代表理事
・担任:和田 哲(ブラサトル先生)
 街歩き研究家・O.tone編集デスク「古地図と歩く」連載中
・学級委員長;神門 崇晶(かんど たかあき)
小樽商科大学の学生
・生徒/解体新書係:五十嵐 慎一郎(いがらし しんいちろう)
株式会社大人、札幌移住計画代表
・生徒:林 匡宏(はやし まさひろ)
 まちづくりコーディネーター、デザイン学博士
・生徒:三木 奈津美(みき なつみ)
 クリエイター

いきなり!ウォーミングアップクイズ!!!

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北海道の国勢調査において、札幌市の人口が一番になったのはいつ?

答え 昭和15(1940)年

それまでは、札幌は行政の中心地でしたが、経済の中心地は函館と小樽でした。

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こちらは、1920年の人口ランキングです。

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札幌の人口が急増したのは、1920年頃。一体、なにが起きていたのでしょうか?

sec.1 開拓〜戦前、戦時中「どのように札幌の礎ができたのか?」

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明治2 (1869)年 開拓使の設置
明治13(1880)年 札幌ー手宮間鉄道開通、条・丁目を導入
明治14(1882)年 三県一局制
明治19(1886)年 北海道庁の設置
明治25(1892)年 札幌大火
大正7 (1918)年 開道五十年記念博覧会、路面電車・定山渓鉄道が開業
大正11(1922)年 札幌「市」に
大正13(1924)年 21代目豊平橋が完成
昭和15(1940)年 札幌オリンピック中止

・なぜ北海道は、開拓されたの?「庁」の意味とは?

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こちらは、札幌南高校の新築記念の絵葉書。昔は、札幌第一中学校と言いました。「北海道立」ではなく「北海道庁立」と記載があります。今では、都道府県になってますが、当時は「北海道庁」として、文化庁や宮内庁のように、国の「庁」のひとつでした。

北海道は、縄文時代からアイヌやオホーツク文化の人々がたくさん暮らしていました。倭人も、室町時代から道南地方に進出して交易をしていたんです。しかし、江戸時代になるとロシアが南下政策を打ち出します。そこで、徳川幕府が防衛の拠点として、この蝦夷地を位置付けます。

さらに明治維新後は、石炭が発見され資源がたくさんあるということ、明治維新で没落した士族の処遇に、と国家プロジェクトとして位置づけられました。

・どうして札幌が北海道の中心に?

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北海道各地を歩いて探検した松浦武四郎さんは、アイヌの人たちとも積極的に交流し、地形を熟知していました。石狩川の下流・札幌豊平の辺りに都をつくれば、石狩が大阪になり、銭函・小樽が西宮・兵庫・神戸になって、札幌は京都になるんじゃないか?と言いました。

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北海道をよく見ると、この札幌豊平の辺りは、日本海から太平洋に楽に出られます。海に出るために山越えをせず、日本海から平地で太平洋に出られる、日本列島の本土の中でも貴重な場所でした。

石狩川・千歳川を遡って、それから少し歩いて、美々川を下って、苫小牧の方に出るという航路がありました。でも、冬は使えません。

陸路を、ということで松浦武四郎の助言で作られたのが、このサッポロ越新道。豊平川を渡る、豊平橋のあたりは重要なポイントでした。

・豊平川に流され続けた豊平橋

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大正13(1924)年、技師・山口敬助さんと技手・高橋勝衛さんによって設計された「ブレースト・リブ・タイド・アーチ」と呼ばれる型式で、当時の最新技術によって架設された21代目豊平橋。

三連のアーチ橋で、旭川の旭橋・釧路の弊舞橋と共に、北海道三大名橋と呼ばれています。

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サッポロ越新道で豊平川を渡るために、最初は橋ではなく渡し守が置かれ、舟で渡していました。

その後、交通量が増えたため橋をかけたところ、最初の橋は1ヶ月で流されてしまいます。豊平川は暴れ川で、橋をかけるのが難しいとされていたんですね。すぐ流されるので、何度もかけ替えるつもりでつくられていました。かけては壊され、かけては壊されしていたんです。

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日本の橋の技術は、この豊平橋でかなり発展します。日本で初めて西洋式の橋が架けられたのは、豊平橋でした。

大正13(1924)年に、21代目豊平橋がかけられ、永久橋と言われますが、幅が狭く国道36号線として耐えられないということで、昭和41年に新しい現在の橋になりました。

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こちらが、23代目豊平橋です。橋としてのスペックは最高になったようなのですが、デザインはちょっと寂しいという意見もあります。もし今度、橋が新しくなることがあれば、昔のアーチ橋の面影を復活させてほしい!という市民の声もあるようです。

・中島公園と日比谷公園は、日本の公園の第一号

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1918年に開道五十年博覧会が中島公園で行われました。

都市計画を考える時に頭の中に入れておかなきゃいけないのは、都市計画法。

世界で一番最初に都市計画法ができたのが、1909年のイギリスでした。10年後の1919年に、日本で都市計画の法律を作ります。日本は、世界の中でも早かったようですね。

都市計画の法律に基づいて、公園や道路を作りましょうとなるんですが、その法律ができる前に、中島公園はあったそうです。貯木場だったんですけども、民間の人達が作りました。

中島公園をモデルにしながら、日本の公園の法律が作られ、日比谷公園ができました。大通り公園も円山公園も、日本の公園のトップだったのだとか!その中島公園を世界にアピールしよう!と行われたのが、開道五十年博覧会でした。

・路面電車の歴史

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写真右側の富貴堂が現在のPARCO、一条通りの写真です。札幌で最初の公共交通機関である馬車鉄道は、人と石山軟石を運んでいました。

・明治42(1909)年 馬鉄として開業
・大正7 (1918)年 路面電車の導入
・昭和2 (1927)年 札幌市電気局に

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大正5(1916)年▲と大正7(1918)年▼の路線図です。十字路が三越前です。石山軟石を運ぶ必要がなくなったので、都心部の路線だけが残されました。

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この図を見ると、馬車鉄道や路面電車があった場所に人が住んでいるのがわかります。まだ車がない時代なので、路面電車が人々の足でした。

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大正7(1918)年の博覧会に合わせてつくられた路面電車。いろいろあって博覧会に間に合わなかったんですが、博覧会の12日目にようやく開通しました。

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この写真は、現在の4プラ前。まだ車がない時代で、当時は、電車と人がとても近かったようです。
多くの人が自家用車に乗る現代では、人と車が分けられた道が一般的になりました。
この先の未来の話を少しだけ。2035年くらいまでに全ての車が電動車にシフトしていくと、日本でも目標が掲げられています。現在のような「車と人を分ける道路」は、もしかしたら、未来には、再び必要なくなってくるのかもしれません。

sec2. 戦後〜現在「札幌は、どのように発展してきたの?」

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第二次世界大戦後の札幌は、どのように発展してきたのでしょう?
人口グラフを見ると、1960年前後から急激な人口増加が、札幌市で起きています。それとは反対に、炭鉱で栄えた空知や、経済の中心だった小樽や函館は右肩下がりで下がってきます。
全国の政令指定都市の中でも、札幌は、急速な人口の増加率でした。

昭和31(1956)年 さっぽろテレビ塔完成
昭和33(1958)年 ひばりが丘団地造成開始
昭和34(1959)年 札幌急行鉄道構想の中止、最初の姉妹都市にポートランド
昭和44(1969)年 定山渓鉄道の廃止
昭和46(1971)年 地下鉄南北線の開業
昭和47(1972)年 札幌オリンピック、札幌市が政令指定都市に
昭和48(1973)年 新札幌駅開業
昭和49(1974)年 市電縮小完了
昭和63(1988)年 世界・食の祭典
平成9 (1997)年 拓銀破綻

・世界で1番住みやすいまち「ポートランド」と、札幌の密接な関係

2019年にポートランドと札幌の姉妹都市60周年を迎えました。札幌にとっても初めての姉妹都市となるポートランド。

当時はまだ、どちらの都市も、ど田舎でした。

両都市ともパイオニアであり、開拓の拠点。姉妹都市を結んだ昭和34(1959)年頃には、すでに札幌は人口が増えるということが予測されていて「市街地を拡大しない」「環境に配慮する」ということを準備していたようです。当時、ポートランドを訪れた札幌市長が伝えたまちのコンセプトが影響を与えたと言います。

現在、ポートランドは世界でも一番住みやすいと言われる町になりました。

1960年代以降の札幌のいろんな政策は、正しいものも間違ってるものありますが、環境に優しいコンパクトシティとしての構想が、都市計画のベースになっています。

・駅前通りの変化

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当時の駅前通りの幅は、20m。これを36mにすることになりました。
昭和24年に、将来、交通量がもっと増えるだろうということで、建設省からの要請がありましたが、反対意見がたくさん出て計画はなかなか進みません。
昭和30年、40年と、時代が流れていきました。

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「商売ができません」と北海道新聞の見出しがあります。平均店舗の45%、お店によっては店舗まるごと奪われてしまうというところもあったようです。

そこで、昭和36年に市街地改造法と呼ばれる国の法律ができました。大きなビルを作って、その中に地権者たちを入居させることで問題の解決を図ろうという制度ができたんです。これにより一気に解決に向かって進んでいきました。

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この写真は、昭和40年。まだ駅前通りがでこぼこしています。引っ込んだところもあれば出っ張ってるところもあります。さて、この5年後にどうなるでしょう?

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こんなふうに、道路の拡張が無事完了しました。コスモ、エイトビル、4プラも全部この市街地改造法で出来た建物です。※昭和36年に出来た市街地改造法は、昭和44(1969)年に都市再開発法に引き継がれていきました。

ビルが出来てお店がまとまったり、新しいお店が入ったりすることで、以前よりもこのエリアに人がたくさん来るようになりました。

そういう変化を実際に見ることで、反対していた商店街の人たちも「新しいことをやった方がいいな」となりました。

最初は、どんなことも反対意見が出るものだけれど、第一歩め、第二歩め、と地元の官民がどう一体となってやっていくということが、大切なことのようです。

・札幌オリンピック開催で、国際都市サッポロへ

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昭和47(1972)年のオリンピック開催に併せて、札幌は大きく変化しました。

・交通インフラの整備、地下鉄の開業
・地下街の発展
・環境対策(煤煙対策、都心の地域暖房設備)
・都市基盤の強化

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高速道路をはじめ、創成川通り、豊平川幹線といくつかの新しい橋とサイクリングロード、厚生年金会館、真駒内五輪団地や屋内外の競技場など、たくさんの大規模な整備が行われました。市営地下鉄南北線が開通し、地下街ポールタウン・オーロラタウンが出来たのも、このタイミングです。

人口が急増し、周辺地域の合併により、市街地も大きく拡大。国際都市サッポロへ向けて大きな飛躍をしました。

・北海道に想いがあった五島慶太と東急電鉄

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関東の田園都市線や、関西の宝塚線のように、私鉄の駅前には、デパートがあったり、宅地分譲されていたり、遊園地があったりします。

東急電鉄や阪急電鉄に代表される私鉄の会社は、まだ十分に発展していないところに駅をつくり、まちをつくりました。昭和34(1959)年に中止された札幌急行鉄道構想は、そういうまちづくりが、もしかすると札幌近郊でも行われていたかもしれない可能性があった、というものでした。

阪急電鉄・阪急東宝グループを創設した小林一三さんは、宝塚を含む田園都市構造を日本で最初に実現した人物です。東急電鉄の五島慶太さんは、この理論を参考にして様々な事業を展開し、北海道の発展にも大きく貢献しました。

sec.3 札幌のこれから

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令和4(2022)年 パセオ、4プラ営業終了
令和5(2023)年 札幌すすきの駅前複合ビル(仮称)開業
令和5(2023)年 新さっぽろ再開発竣工(予定)
令和5(2023)年 札幌市長選挙
令和5,6(2023,24)年 苗穂再開発竣工(予定)
令和10,11(2028,29)年 都心再開発竣工(予定)
令和12(2030)年 札幌オリンピック開催(???)
令和12(2030)年 北海道新幹線札幌延伸(予定)

・この先の人口推移予測 

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日本全国でもそうですが、今後、札幌の生産人口は減少し、老年人口が増加します。

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2045年には、65歳以上の老年人口が40%になると予想されています。この先、札幌というまちは、どんな未来を描いていけばよいのでしょう?

・そもそもに「都市計画」とは、なんなのか?

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都市計画に必要なのは、社会への深い愛情だと言います。

歴史を振り替えると、イギリスで都市計画の法律が、産業革命の真っ盛りである1909年にできますが、それ以前に、骨組みとなる田園都市法があります。産業革命時代のイギリスでは、心ある若き資本家が、自分たちの労働者を住まわせるための住宅地を工場の側につくりました。虐げられている労働者をどういう風に救済するのか?という、ウェルネスの精神が都市計画の法律の根っこにあります。それをまとめたものが田園都市という概念でした。もうひとつは、国を支えるための公衆衛生という概念。当時の世界では、ペストが大流行し、公衆衛生法ができます。

・公衆衛生
・貧しい人を救う
・働いている人のウェルネスをどう考えるか?

これらが、都市計画の原点。河川や道路を整備することや大きなビルやマンションを建てることだけが都市計画ではなく、貧しい人をどう救い、人々の世代が移り変わっても、市民が健康に暮らしていけるまちをつくっていくということが、本来の都市計画における、もっとも重要な点です。

・資本のためではなく、人と自然が、これからも暮らしていくためのまちづくりを

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(ドローイング提供:林 匡宏 / 11SAPPORO SCENES〜世界一コミュニケーションが誘発されるまちづくり そのための11の「創造的場面」)

都市計画という言葉をなるべく多くの人に共有し、マインドを持ちながら「主体」として参加していくという言葉とシナリオをつくられた田村明先生という方がいました。田村先生は、横浜のまちづくりから法政大学の名誉教授になった、建築と法律の学位を持ち経済もよくわかっていて、多様な視点から都市を考えられる方で、「まちづくり」という言葉を広めました。

まちというものを理解するときに、「ま」と「ち」の間に「・」を入れて理解してみましょう。「ま」=「間」、スペース。建築、土木、経済や社会学でも大切にされている、分野を横断する概念。「ち」=「智」、人の心。

たとえば、マンションを作るときに、一世代が生活をするための僅か30年のために自然を破壊するということをしたりします。まちをつくるということを資本家のためにするのか?それとも、人々が100年健康に生きていくために考えるのか?

「まちをつくる」ということは、ただ建物をつくったり、道路や交通を整備したり、ということではなく、ただ集まって絵を描くだけでもなく、都市計画を学ぶことばかりでもありません。みんなで助け合ったり、新しい価値を集まってつくるということが大切です。

江戸時代の藩には、私塾のように藩や国を育てる場がありました。地域を引っ張るいろんな立場のリーダーがいます。そういうリーダーをつくっていく場が、この札幌解体新書の役割のひとつ。

都市計画は、あくまでも手段です。目的は、なにか?ということを見つめながら、一緒にまちづくりを考えていきたいですね。

【告知】10/16(土)19:00からスタートするNoMaps特別編!!迫る!!

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レポート:Natsumi Miki

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