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Howの蓄積。 2021.5.1

近ごろ改めて、常識の功罪を考えている。大阪のプロデューサーとやっているYOU TUBEのテーマを「常識と非常識」にしたこともあって、常識を自分なりに解析してみたりしている。すると、また少し鮮明になったことがある。実は常識は役に立つ。いや本当だ。

但し、平穏無事な時代では。そんな注釈が付く。常識とはHow的な知恵の集合体。僕らが日々を生きていて、衣食住、冠婚葬祭といった暮らしの折々で、いかに振る舞うべきかを教えてくれる便利な知識の体系。常識を、退屈で鬱陶しいものとして生理的に嫌っていた10代終わりから20代半ばまで。それから随分経ったある日、その効用に気づいた。なるほど。
それを教えてくれたのは、コラムニストの山本夏彦翁だった。流行の意味や虚礼廃止の短絡に言及して、僕を驚かせた。一方で、その限界も公私に亘って思い知った。常識は世の中の変化には途端に無力になる。前提の更新が解決の鉄則だが、そこにはWhyの蓄積が欠かせない。問わなければ前提には踏み込めない。常識は、非常時にはからきし弱いのである。