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プロデューサーはペテン師か?

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九州、大分、日田。田舎に暮らしつつ、全国で多様な分野のプロデュース。そんな日々の問わず語りを13年、1300話以上のブログを書いてきた。noteにも徐々に新旧記事を転載中。htt…
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2019年7月の記事一覧

noteを開く。 2019.7.17

現代はパーソナルメディアの時代と言えるかも知れない。ホームページやブログに次いで、Facebookやinstagramなどに代表されるSNSの登場は、それらをさらに身近なものにした。僕はいま、HP、ブログ、FB、instagramを使っている。そして、この度もうひとつ。 SNS、あるいはwebの進化速度は凄まじい。テクノロジーはいつも、特別な技術として登場し、ユーザーとマーケットに磨かれて、あっと言う間に日常化する。PCやスマホの変容ぶりがその真理を強烈に物語っている。no

梅雨に籠もる。 2019.7.11

五月の陽光が熱を強めて行き、初夏の陽射しが勢力を高める頃、出鼻をくじく梅雨が訪れる。ヤマメ釣りを存分に楽しんでのち、夏最大のエンターテイメント、鮎の友釣りが5月下旬に解禁になる。満を持して、長竿を担ぎ、流れに立ち込み始めると、嗚呼入梅の知らせ。 降り続く強く大量の雨で、川は一気にカフェオレ色の奔流となり、釣りも何も、川に近づけなくなる。まさに去年の今ごろは、日田や隣接する福岡県朝倉エリアは、悲惨な水害が全国ニュースとなっていた。折しも、その降り始めの日、僕は渦中の川に鮎釣り

誰が言う? 2019.7.5

粋に生きたい。野暮はご免被りたい。遊びでも仕事でもそれは変わらない。仕事なら誰も解けない難問を鮮やかに解決したいと思う。でもそれは、願っているだけで実現するわけではない。そびえる壁をいかに超えるか。横たわる谷をどう渡るか。猫に鈴、火中の栗。 仕事では、たくさんの会議や打合せを行う。計画やイメージを共有するのは当然だが、試されるのは必ず訪れる難局打開の仕方。そしてその多くは、人が絡んでいるので、現場には感情と欲望が混ざった渦が巻いている。保守、誤解、拒絶、保身、嫉妬、悪意など

鮎、福島へ。 2019.6.30

東日本大震災から5年が過ぎた頃、福島県のブランド推進課の皆さんが、日田を訪ねて来られた。曰く、ようやく本来の仕事に戻れますと。この未曾有の災いに関しては、日本中が胸を痛めたが、かと言って何をすればいいのか、途方に暮れた方が大半だったに違いない。 かく言う僕もそのひとりだった。それがこの3月についに現地へ赴き、ブランディングについてお話しする機会をいただいた。テーマは、栽培に成功したばかりのホンシメジで、農家の方や飲食業の方が参加してくれた。その中に、お隣郡山でイタリアンレス

そこは大原山。 2019.6.24

毎日のことなので、礼拝することもなく本殿の前を通り過ぎる。掃除のおじさんと目が合えば、朝の挨拶を交わす。他に人がいることは希だ。今なら、ビーサンで石畳や砂利を踏みしめながら境内を抜ける。ここ大原八幡宮が建つ場所は、小高い山の上。本殿の裏を1本の車道が横切っており、ここが僕の散歩道であり、ジョギングコースでもある。日常の道。 神社の東側には、小さな山寺がある。その横にも細い山道のような参道があって、ジョグの時はここを上がってスタート地点に向かうことにしている。ある日、その道沿

生活習慣病。

先日、アンチエイジングについて、研究者の方と話をする機会があった。お話を伺えば伺うほど、詰まるところ生き方の問題を突きつけられる感じがした。健康寿命が延び、定年年齢が徐々に引き上げられていくと、従来のライフデザインでは、間尺に合わなくなるのだ。 また、共著書「アルツハイマーは脳の糖尿病だった」は、刺激的なタイトルもさることながら、あるタイプの認知症は、日常のあり方が病根となる生活習慣病だとのご指摘だ。食生活の乱れ、運動不足、さらに思考の怠慢。さまざまな日常の習慣が、重篤な心

雑味が残る。

珈琲とか、ワインとか、その領域では特に使われる表現。ボンヤリとした、なにか別の味が混ざっている感じ。味覚的異物感。望みの一色に染めきれないおぼろげな不満。あるいは、狙っている純度を保てないことを割り切れない薄いストレス。そんなニュアンスだろうか。 実は、仕事の自己評価でも類似の感慨に包まれることがある。クライアントやその先では、それなりのリアクションがあったとしても、自分の中ではあるひっかかりが残ることがままある。プロデュースはもちろん、コピーでも、クリエイティブディレクシ

詩情の喪失。

限られた人生、できるだけたくさんの感動を重ねて過ごしたいと常々思っている。自然、美術、文学、音楽、スポーツ、さまざまなジャンルで、数多くの感動を貰う。根が感激屋だからか、毎日のように大小の感動に満たされているような気がする。この不思議な情動。 先頃、AIに関する書物を読んでいるとき、ふと思った。AIを成り立たせるのは、際立った進化をした多様なセンサー群だ。そこから、高精度の分析・演算が行われて、人間の能力を遙かに超えた速度密度で結果が出る。一方、僕らが前述のような感動をする

解けぬ宿題。

物心ついた頃から、僕らは考えている。思考の対象は、都度変わりながらも、壮大も微細も、高尚も下卑も、具象も抽象も、何もかもアタマのあちこちで転がしたり寝かせたりして、時にココロとも往来させつつ、あーでもないこーでもないと日々を過ごしている。 すぐに見つかる答もあれば、いまだ答のずっと手前で、延々迷走を続ける事柄もある。しかし、60年以上生きていると、膨大な思考と答が繋がってきて、系統だった曼荼羅のような全体の絵が見えてくる。その解像度には高低があるが、子供の時と比べれば随分と

森でケーキを。

5月某日。今年も男池へ行った。今回は、幽霊会員になりかけていたここのえ低山部の部活として。勾配もほとんど無く、登山と言うより、森のハイキングの趣。「標高と志が低い」低山部のコンセプトにピッタリの場所。平日の昼前、行きつけの蕎麦屋に集まった。 本当のことを言うと、僕は時間を勘違いして、大遅刻の末に合流したんだけれど、蕎麦を後回しにして、みんなと森へ急いだ。今日はメンバーのパン屋から、イチゴのロールケーキの差し入れがある。この運搬には掟があって、ボックスごと運ばなければならず、

脱線教室。

20年程前から福岡のデザイン専門学校で、数年前からは大阪の芸術系の大学でも教壇に立っている。一度も習ったことがないことを、他人様に教えているという不思議はともかく、例によって、王道からは外れたちょっと変わった授業をやっている。白熱ならぬ脱線教室。 そもそも専門学校では、生徒のアタマの中を掻き回して欲しいとのオーダーだったし、大学はデザインプロデュースという造型から若干距離を置いたレクチャーだし。教科書で読めるような内容を授業で話すのはもったいなさ過ぎる。また、純粋なデザイン

販路の幻想。

これまで、かなりの数の商品開発に携わってきた。食品から、家具、住宅、コスメ、ルアーまで、たくさんの分子との協働で、領域を超えた仕事を続けている。特に機会が増えたのは、10年程前から地域系のプロジェクトが比重が高まったことがきっかけだった。 僕が関わる地域系プロジェクトは、ローカルで展開することがほとんどで、勢い農業など第一次産業や伝統工芸が多く、自ずと食品や手仕事系の商品開発が頻発する。また、地域系プロジェクトはほぼ行政との連携なのだが、ここで意識のズレが露見する。商品やサ

なんとなく。 2019.4.20

理性が感性を凌駕することなんてない。あり得ない。いきなり結論を言うとそういうことになる。どこか気が乗らない。気分がよろしくない。雰囲気が悪い。仕事の現場では、ときおりそんなことが起こる。テーマは最先端。事業規模は大きい。でもなにかがヘン。 会議などでは発言しづらい感情の動き。あれ、なんか違う。おや、おかしいな。なんだか楽しくない、等。言葉以前の生理的反応。アタマと言うより、ココロの奥底に芽生える茫洋たる違和感。言わば魂の叫び。理性的に振る舞い過ぎると、それは現れない。聞こえ

一日の終わりに。 2019.4.14

オンとオフの僕なりの解釈については、少し前に書いた。僕の時間の使い方は、決して一般的ではない。カレンダーは見てはいるが、ことオフの取り方に至ってはもう好き勝手。世間の都合とは関係なく仕事をする反面、自由気ままに仕事を切り上げることは日常茶飯事。 早朝からデスクに向かうので、外出がなければ、午後遅くにはとっくに終業時間を迎える。と言っても、その概念すらないのだが、それはともかく。ヤマメ解禁後の今の季節なら、エサとなる水生昆虫たちの羽化が集中する夕方は釣りには絶好の時間。一通り