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短編小説|遠くへ行きたい

 りんご箱が網棚に置かれているのが目に留まる。満員電車に揺られる私は右手にあった柔らかな感触のことを忘れ、箱に書かれた「青森県産」という文言に思いを馳せる。広大な土地に規則正しく植えられた木々と、たわわに実る真っ赤なりんご。その合間から覗く澄み切った青空と雄大な岩木山。そうだ、休みを取って青森に行こう。どうせ取れやしない休暇の予定を夢想していると、誰かが私の腕を力強く掴んだ。

 電車が駅に着くと、車内から引き摺り出された私は成すすべもなく通勤途中のサラリーマンたちに取り押さえられる。同胞であるはずの私に彼らは容赦がなく、一様に死んだ魚のような目をしている。間もなくやって来た駅員たちに傍らで泣きじゃくる女性が何かを言うと、身動きの取れない私に手錠をかけ、そのまま引き摺られるようにホームから構内にある簡易裁判所へと連行された。

「被告は車内にて女性に痴漢をはたらいたことを認めますか?」

 即座に始められた裁判。私は裁判長からの問いかけに黙秘を貫く。断固として痴漢などはたらいていない。いや、ちょっとは触ったかもしれない。しかしそれは不可抗力だ。朝の通勤ラッシュですし詰め状態の車内。目の前にいい匂いのする若くかわいらしい女性がいたとして、押しては寄せる情欲の波に抗えなくてもそれは私の責任ではない。生物として、雄としての本能だ。だから黙秘する。

「被告は黙秘していますが、被害者、目撃者の証言からしても痴漢が行われたことは事実です。よって判決、死刑」

 弁護士もつけてはもらえず、流れ作業のような裁判は5分で結審した。どうせこんなものは茶番。駅構内で起訴されれば99.9%は有罪となってしまうのだから、もう好きにすればよい。どうにでもなれ。

「被告を東京発、東北新幹線による引き回しの刑に処す」

 すぐに裁判所から東京駅へと護送され、ふんどし姿となった私は線路の上に横たわり、足首を縄で新幹線の車両最後尾に繋がれる。東北新幹線の終点は新青森駅。そう、私は遠くに行きたい。ここではない遠くに行きたかったんだ。無情にも鳴り響く発車のブザー音と共に目を瞑れば、うららかな日差しに照らされるりんご畑の風景が瞼に浮かんだ。

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